演劇と「家」と「生活」
東日本大震災にまつわるお話から始めます。2011年3月11日以降、創作物において何かとテーマになりがちで、猫も杓子も震災のことを取り上げていた(取り上げている)ような気がして、僕は正直いい思いを抱いていません。みんな本当に震災のことを思って創作しているんだろうか、本当にそれがつくりたいものなんだろうか、流行りにのっているだけなんじゃないだろうか、と思ってしまった(しまう)のです。ただ、これは僕自身がそういう創作を好んでいないという話なだけで、本当にそれをつくりたい人もいた(いる)でしょうから、僕以外のひとの創作をなんら妨げたり貶めたりするものではないのですが。
かくいう僕も、2011年の当時就職活動をしていて、企業の集団面接を終えた後、バイト先の塾に向かう道中の、赤羽駅のホームで地震に遭いました。結局その日は埼玉の実家には帰れず、近くの小学校の体育館で夜を明かしたわけですが、東北のみなさんに比べれば、大した被害を受けたわけでもないのに、ただその日、「家に帰れなかった」という経験をしてしまったせいで、なんだか被害者ぶってしまっているように感じています。
また、僕の父の実家は福島県いわき市にありました。「ありました」と過去形で書いたのは、今はもう無いからです。その家に住んでいた祖母は僕が生まれる前にすでに鬼籍に入っており、祖父は2005年に他界しているというのもありますが、すぐ目の前に砂浜が広がっているという立地にあったその家は、震災のときの津波の被害に遭ってしまったのです。津波があったときは幸い、その家には誰もいませんでした。(僕の従兄弟が住んでいましたが、仕事に行っていたので家にはいませんでした。)まだ建物が残っていたときに、いろいろな片付けのために家族でそこへ行ったことがありますが、二階まで浸水した跡があり、こんな高さまで波が押し寄せていたのかと驚きました。僕が幼少の頃遊んだ砂浜も跡形も無くなっていて、地形が変わってしまったのでしょうか、ゴツゴツした岩場になっており、とても海水浴ができるような場所ではなくなっていました。
父の実家があったその場所は、今は防波堤になっており、砂浜も整備されています。以前東京から一人でバイクで訪れたときに、「ここにおじいちゃん家があったのになぁ」と感慨にふけっていました。(余談ですが、僕が生まれたときには祖母はすでに他界していたので、父の実家は僕にとっては「おばあちゃん家」ではなく「おじいちゃん家」です。)毎年、盆と正月に行っていたとはいえ、おじいちゃん家に行ったのは、記憶にある限り、20回程度でしょう。それでも何か郷愁を感じてしまうのは、そこが遠からず「家」のように感じられたからでしょうか。
結婚し、戸籍上からも実家から抜けた僕の、住まいとしての「家」は東京にありますが、先日劇を見にきてくれた両親から「これは修二の家にお土産だよ」と差し入れをもらった際、「家にお土産? 何のことだ?」と思ってしまいました。両親は、僕と妻が暮らす家を「修二の家」と言ったのに対し、僕はまだまだ、埼玉県の実家を「自分の家」だと無意識に思っているようです。今の家で、今の家族と暮らしはじめて2年と少しですが、これは時間が経てば変わっていくのでしょうか。そこで過ごした(あるいはその人と過ごした)時間が、「家」と「生活」を作っていくのでしょうか。
とすれば、大学で演劇を始め、卒業後も断続的に続けて13年目の僕が、演劇のことを「家」や「生活」と感じられるようになるには、まだまだ時間がかかりそうです。僕にとって「家」はまだ埼玉県の実家であり、「生活」は妻と過ごしながら会社勤めをしている毎日であり、演劇はまだまだ「非日常」の中に居続けています。これはひとえに、年に一度くらいしか演劇をやっていないからかもしれません。それこそ祭のように、年に一度のハレの日なのです。
さて、「生活」と演劇についてですが、上で述べたように、僕にとって「生活」は毎日の妻との時間と会社勤めです。朝6時前に起き、夫婦で朝食を食べ、電車に揺られてオフィスに行き、定時まで働き、時には残業をし、また電車に揺られて帰ってきて、お風呂に入って夫婦で会話をして寝る、そんな毎日です。こんな「生活」の演劇との関わりですが、これらは確実に、僕が何かの役作りをする際に役立っています。夫婦での経験も、会社での経験も、役作りをするうえで、「想像の域を出ないもの」と「経験を想起できるもの」とでは、演技のしやすさに雲泥の差があります。
僕は、大学を卒業して会社勤めを始めたら、もう演劇はできないと思っていました。しかし、そんなことはなく、意外とできました。流石にしょっちゅうやってはいませんが、年一回程度ならできるな、と確信しています。世の中にはもっと短いスパンでやっている人も居ますし、決して無理なことはないんだな、と実感しています。
ここで話は変わります、最近読んだ本、ジャンプコミックスの『アクタージュ act-age』です。演技業界を題材にした漫画ですが、3〜6巻で舞台編があり、蜷川幸雄をモデルにしたキャラクターが出てきたりします。舞台編では「役作り」の話と、想像力(想像させ力)の話が好きです。役に没頭するあまり、現実世界に帰ってこれなくなってしまいそうな役者が出てくるのですが、僕もそういう演技をしてみたい、そこまで役に没頭してみたい、と感じてしまいました。
最近いわゆる「エンタメ芝居」を見た後に不満を感じるようになってしまいました。いろいろと考えた結果、僕は演劇に「すばらしい物語」を期待しているようだ、と思い至りました。それは秀逸な伏線であったり、美しいセリフであったりするのですが、思い起こせば僕はこれをテレビドラマにも映画にもテレビアニメにも漫画にも小説にも期待している節があります。(なので僕は推している役者は居らずとも、推している脚本家はいます。)
みなさんは、演劇を見るときに何を期待しているでしょうか。
脚本
演出
演技
美術
衣装
身体表現
音声表現
音響効果
照明効果
テーマ
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いろいろとあるでしょうが、みなさんにとっては何でしょうか。