消費構造の変遷と音楽消費(粗っぽい仮説) (2010年1~2月、Blogにアップ)
1.まずは草食系から
昨年末あたりから、書店のマーケティングコーナーを賑わせている「草食系」の本に凝っております。
まずは、こちらです(↓)。
「リア充」ねぇ(笑)。
先日も電車の中で聞こえた若い人達の会話に出てきましたが。
三浦:リア充は全体の何割?
草男:八割、七割。
鉄子:立教だったらたぶん九割ぐらいです(笑)。
立教は今でも変わらないのかな?
僕の学生時代、「R」のスタジャン着てた人達ですね。
海外旅行に行かないのは、一人でも「仲間はずれ」がでないような配慮から。結構、驚きですね。もの凄い同調圧力。
「あとがき」で三浦氏がまとめています。
「現代の若者は、物を消費するのではなく、人間関係の消費に時間とお金を費やしている。(中略) いわば『空気』を消費しているのである。空気を消費しているのだから、消費が見えないのは当然であろう。」(236ページ)
時代観のキーワードは「同調型のコミュニケーション」。
それは「女性的」であるということ。(191ページ)
あと「インフラ整備としての消費」ですかね。
本当は“趣味”のジャンルである音楽でさえ、定番=決まり事が多い。
こういうのは僕らの世代でもあったけど(ユーミンとか。世代内マイノリティの僕は違ったけど)、それは“隠れ肉食系”の“モテアイテム”という点で、“草食系”の「定番=決まり事」とは異なると考えます。
このあたりを、消費・マーケティング視点ではなく、社会学的に切り込んだのがこの本です(↓)。
「おわりに」で著者の土井隆義氏は、Mr.Chirdrenの「名もなき詩」を引用されてます。
♪あるがままの心で生きようと願うから
人はまた傷ついてゆく
知らぬ間に築いていた自分らしさの檻の中で
もがいているなら誰だってそう
僕だってそうなんだ
“個性重視”なんていう実に倒錯した教育をですね、批判したところでなんにもならんでしょうね。
「私は生きづらさそのものから彼らが解放されるべきだとは、実は思っていない。生きづらさからの解放が、真のユートピアへの道になるとはとうてい思えないからである。生きづらさのない人生など、まさに現実らしからぬ現実だからである。」(226ページ)
「生きづらさの放棄は、人間であることの放棄でもある」(227ページ)
僕もそれしかない、かなぁ・・・と思ってまし。
2.嫌消費、までいきますか?
前章では社会学的な視点の2書籍を取り上げましたが、今回は、だんだん消費とかマーケティング寄りの話になります。
今回はこの本からです(↓)。
著者の山岡拓氏は、2009年10月にご逝去されたそうです(本書の刊行は2009年12月)。優秀な山岡氏のご逝去は残念なことです。
ご冥福お祈りいたします。
少し長いですけど、自分のメモを列挙しておきます。
◆記号としてのモノが欲望を喚起するような消費社会はBRIC'Sへ
◆国内・・・家族などの共感・共振型消費へ=「成長・成熟の帰結」
◆車・・・大きく低下しているのは車の必要性ではなく、
消費財としての魅力=差異的記号としての車の役割
(最後は00年代の「プリウス」)
◆違いを読み解くキーワード
①親の世代、②サブカル、③上昇志向、④物語、⑤情報化
*サブカルもメインカルチャーが健在でなければね・・・
◆最も高度なレベルの消費者=「モノを買うこと」の意味を見失う
⇒ 超「消費社会」の到来
◆20代男性の甘党比率40%(「大人の菓子消費動向調査」07年より)
◆満足の源泉=流れる時間や気分、誰かとのつながり(体験&共感)
モノは「主」ではなく「従」=「満足の素材」
◆近代の産業社会の大きな原動力としての「恋愛」
⇒ 「面倒、わずらわしい」(20代後半独身)
⇒ パッケージ化されたイベント消費とデートを切り離す
(「脱恋愛消費」)
◆「男前オンナ」・・・機能と直線(「社会的性差調査」08年3月)
⇒ 28年周期で検証しよう
◆男性向け化粧品・・・基礎化粧品はともかく、
メーキャップ商品普及は???
◆「平成新成人」(2009年に成人)
若い頃から大人びた価値観。
情報処理能力・商品選別能力高い(大人目線)
<上の世代との相違点>
・百貨店ブランドに魅力を感じていない
・ネット・ゲーム・音楽への関与:「休日に音楽を聴く人」は29歳の倍
◆安定を求めながらも、安定を信じていない
◆消費の効用から「かかわりが生み出す満足の総量」への測り直しが必要
◆あらゆるモノが一年中手に入る便利さよりも、昔ながらの季節感・伝統
「伝統」といっても、「江戸」より「京」(王朝文化)
結構、人間的かな? とも思いますね。私的には。
但し、「伝統回帰」とかは、経済・社会的な "前提" "基礎" "土台" があるからこそ、ということを忘れてはなりません。
少子高齢化の進行で、"前提" "基礎" "土台"が崩れたらですね、どうなるのか?
京風の王朝文化は、貴族文化。
生産の担い手である農民たちの存在があってこそ。
著者も仰せですが、生産と消費の仕組みが大きく変わって、「経済が成長しなくても、みんなが幸福に暮らせる」社会でも到来しない限りはね・・・。
終章で著者が強調されているのは、アジア向けのトレンドだけではなく、
やはり国内向けの対策(の方向性)。
東京への一極集中から、ブドウの房のような「クラスター型社会」。
ここまでくると政策の話ですが、興味深いグランドデザインだと考えます。
米国発の世界不況の中、先進国で最も大きなマイナス成長のわが国。
バブル崩壊以降、そして00年代、国内市場の縮小の中、輸出依存度を高め、国内市場、日本市場への深耕をせず、国内の顧客から逃げてきた ツケ なんです!
と、いかにもマーケター的な痛快な視点から著されたのがこの書籍(↓)。
著者の松田久一氏は、JMR生活総合研究所の代表取締役社長。
豊富な一次データを駆使し(しかも有意差検定まで)、説得力の高い内容となっています。
「コーホート分析」の項は少々歯切れがよくはありませんが、ディルタイ、マンハイム、オルテガの世代論を取り上げ、世代論の有効性も考察されています。(三木清の名をこういった本で見るなんて嬉しい想定外ですね)
また、「バンドワゴン消費」「みせびらかし消費」が、消費を抑制しているというロジックもお見事。
「関心と購入経験による商品カテゴリーの分類」(各世代別)のマトリクスは、ほぼ同業の私には馴染みがありすぎです(笑)。
消費のキーワードは "コンパクト" "フロー" "フュージョン"。
一般的に、どの世代でも自分よりも若い世代のことは理解しがたいものでしょう。
物欲に振り回されてアクセクしていた同世代のマジョリティ達を斜に構えて見ていた私自身、「新人類」にあたるらしい同世代と同一の価値観が組み込まれていることは否めません。世代つーのは馬鹿にはできんもんです。
職業的、個人的に関わらず必要なのは想像力でしょうけど。
「嫌消費」世代が、"インフレを知らない子供たち"であるという事実。
「そりゃ、そうなるわな・・・」。
他には、宣伝会議さんの出された、いかにも宣伝会議(そして伊藤忠FSさん)らしいこんな本(↓)。
読み物として面白いこんな本(↓)。
(私、"隠れ三浦ファン"です)
私らの世代必読かも(?)。
息抜きにでも(↓)。
生活者・消費者視点ではありませんが、ファストファッションを押さえとかないと、ということでこんな本も(↓)。
3.音楽ユーザーの“三層構造”にみる生活者分類
若年層の消費をテーマにした書籍の概要をかいつまんできました。
今回は、タイトルにもある「音楽消費」について書きます。
小泉恭子氏の『音楽をまとう若者』という書籍を取り上げます。
東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程を修了された著者は、兵庫教育大学助手、愛教育大学助教授を経られて後、2003年、ロンドン大学教育研究所博士号(Ph D.)を取得。本書刊行時(2007年)は、愛知教育大学助教授という肩書です。
*そういえば4年前に読んだ『メディア時代の広告と音楽』でも、小泉先生は共著で書かれておりました。
本書は、小泉氏のロンドン大学での博士論文を基にされているようです(「あとがき」より)。
よって、とても読み応えのある学際的な内容です。
本書の目的は、「質的研究の手法により高校生のポピュラー音楽実践を実地調査することで、学校内外の音楽文化を比較し、アイデンティティ構築とポピュラー音楽の関わりについても解明」すること(「はじめに」より)。
先行研究もわかりやすく整理されておられますし。
とりわけプルデューの、文化的能力の獲得様式「相続資本」「獲得資本」などは、明確な分析軸を提供してくれます。
*「相続資本」:家庭で親などから受け継いだ文化資本
*「獲得資本」:学校やメディアから得られた文化資本
そして何よりも小泉氏がカテゴライズされた「音楽の三層構造」は秀逸です。
私なりにこんな形(↑)でイメージ化してみました。
■ パーソナル・ミュージック
・生徒が日常生活で個人的に好んでいる音楽
・アイデンティティに密接に関わるため、公に曝すことは慎重になりがち
・私的な性格
・教室などフォーマルな空間でぶつけ合うと会話が成立しない
・「みんなの歌」にはなりにくい
・“皮膚”に近い感覚
・インフォーマルな空間
教室のようなフォーマルな空間では、「パーソナル・ミュージック」を曝け出せない。しかし、グループに共通した音楽をまず確認しなければ、自分の立ち位置は確定できない。
つまり、個人の音楽嗜好の位置を測る目安となる“グループ共通の音楽”が必要になる。それが「コモン・ミュージック」。
■ コモン・ミュージック
・同世代に共通する音楽で、生徒同士が話す場面で共有される
・公的な性格
・カラオケなどで友人同士で盛り上がるレパートリーなど
・CD売上ランクよりも、通信カラオケランクのほうが参考になる
・「みんなの歌」にしかなり得ない
・“私服”に近い感覚
・セミフォーマルな空間
■ スタンダード・ミュージック
・教師や親世代と会話する場合の音楽
・異世代とも共通する音楽
・大人世代の承認という正統化の過程を通して
初めてフォーマル空間に入る
・一時の流行を超えて長く歌い継がれた
「コモン・ミュージック」がスタンダード化
・特定の文脈を脱して、テクストとしての自律性が高い
・「時を超えた名曲」
・“制服”に近い感覚
・フォーマルな空間
「そもそも、ジャンルとはレコード産業のような作り手側が主導して決めた区分で、聴き手の実態に寄り沿った区分ではない。高校生からみればジャンルは大人が決めた論理で、自分たちの音楽実践の実態から離れているのだ。生徒にとっては決められたジャンルにしたがうよりも、音楽の語り口をとおして仲間内での自分の立ち位置を守り刷新していくことのほうが、はるかに重大事なのである。」(56ページより)
この知見はとても重要でしょう。
小泉氏のフィールドワークの結果によると、男子は「議論」という「前線」にたって「パーソナル・ミュージック」を語り、女子は「前線」を避けて、秘密裏の作戦で「パーソナル・ミュージック」を隠すとのこと。
グループアイデンティティ構築の力学に則ると、女子は「パーソナル・ミュージック」を胸の内に秘め、仲間と「コモン・ミュージック」を共有して連帯感を演出する傾向が強い。
こういう男女差は面白いですよね。
同世代共通の「コモン・ミュージック」や、異世代共通の「スタンダード・ミュージック」を「円滑な」コミュニケーションの道具として使い、
「パーソナル・ミュージック」を隠すためにまとう二重三重の「鎧」とする。
こういった他者との関係性の探り方のありかたが「音楽の三層構造」。
「目に見えにくい腹の探り合いを続ける女子高校生の作戦」などは、
こういった「三層構造」の視点で見ればよく理解できることでしょう。
実際、小泉氏の高校生へのインタビューでも、フォーマルな空間やセミフォーマルな空間で、“嫌いなアーティスト名を挙げてパーソナル・ミュージックを隠す” といった“作戦”を見出すことができます。
また小泉氏は、様々な位相の高校生のバンドメンバーへのアプローチから、
個人の「パーソナル・ミュージック」とバンドの「コモン・ミュージック」の葛藤を、ダイナミックに抉ったりもしています。
このあたりは、高校生に限らず、バンドというものをやったことのある人には、身にしみていることだと思いますよ。
10代後半の時期、音楽への関与が最も高いことの裏付けの一つでは?
と考えられる知見も書かれてます。
「成人に比べて音楽にのめりこんだ年数が浅い高校生は、さまざまな年齢のリスナーが集う場でそれぞれの世代のコモン・ミュージックを瞬時に理解し、パーソナル・ミュージックを語ることで立ち位置を確保して自分を差異化できるほど経験を積んでいない。異世代リスナーと集う際には、スタンダードの知識も当然要求される。リスナーとしてひとり立ちするには、高校生ではまだ若すぎるのだ」(159~160ページより)
「そう言われると、確かに・・・」という実感は私にもあります。
当時ならではの音楽への強い吸収欲と言いますか。
「音楽の聴取とは極めて個人的なもので、コモン・ミュージックの形で他者と共有するものではない。そもそも他者から評価を受け、干渉される性質のものでもない。それゆえに、聴取者は私的な場でのホンネの音楽嗜好と、公の場でのタテマエの「好きな音楽」の間にはっきりと線引きしようとするのだ」(155ページより)
小泉氏は、高校生へのフィールドワークを通して、
「他者から干渉されない自分の精神世界を築き上げたいが他者ともつながっていたいという、アンビバレントな心境」(161ページ)を見出します。
このような鋭い知見は、調査対象の高校生に限定されることなく、我々の音楽との関わりを探る上で有用だと考えます。
そして、何よりも「音楽の三層構造」モデルですね。
これは、個人の音楽嗜好・履歴にあてはめることもできますし、世の中の概念としての「音楽カテゴリー」(ジャンルではありません)として考えることも可能です。
但し、お読みの皆さんには、言わずもがなとは思いますが、三層間の流動性は高い。
例えば、個人の中の「コモン・ミュージック」にカテゴライズされるある曲が、時間の経過と嗜好の変化から、いつの間にか「パーソナル・ミュージック」に、ということもあるでしょう。
『のだめ』ナンタラカンタラをTVや映画で観て、クラシックにはまった人の中には、初めて触れたある曲が、(世間的な)「スタンダード・ミュージック」から、(個人的な)「パーソナル・ミュージック」へ、なんてことがあったり。
自分が一番輝いてたあの頃のあの曲が、Aさんにとってはかけがえのない「パーソナル・ミュージック」、でも同年代のBさんにとっては懐かしさを感じつつも、単なる「コモン・ミュージック」でしかない、なんてことはよくあるでしょう。
購買行動と絡めて単純化すれば、「嵐」のパッケージ商品をバカスカ買う人にとって「嵐」は「パソナル・ミュージック」。
でも、モバイルの無料で十分、という人にとっては「コモン・ミュージック」。買うにしてもレンタルしても、せいぜいシングルといったところ。
4.コミュニケーションに偏り過ぎ?
業界の内外を問わず、「CDが売れねぇ」 なんて言われ続けて10年以上。
11年連続の前年割れで、2009年の生産額は16%減。
2桁減なんてまるで百貨店業界。百貨店の場合は、業態自体のアイデンティティの問題が根底にあるわけですけど。
昨年末、今月に閉店してしまったHMV新宿サウス店の寂しい店内を歩いていて連想したのも、百貨店業界のことでした。
私も以前、当時のグループ会社のCDショップ閉店処理の仕事したことありましたが、そりゃ寂しく、虚しいもんでした。
でも、昨年末のサウス店を歩きながら思ったことは、もっと深刻。
「こういう価格のこういう商品のビジネスモデルって・・・」。
「そもそも、“バリュー・ライン”がねぇ・・・」
「若い人達の消費が携帯に」という言い訳が耳にタコができるほど。
「違法ダウンロードが云々・・・」もね。
その辺の詳しい話はきりがないのでこの場では、なんですが、「音楽の三層構造」モデルで考えると、まず「コモン・ミュージック」でしょうね。
「音楽はコミュニケーション・ツール」
やはり数年前からよく言われてることです。
若者(便宜的に10代、20代を一緒くたにしてます)は、多層的な仲間うちの「同調型コミュニケーション」で大忙し、お金の使い方も、ネットワークのインフラ維持で精一杯(しかも貯金もする)。
『情報病』の著者の一人(若いほう)、原田曜平氏執筆の『近頃の若者はなぜダメなのか』が先日、刊行されましたが、原田氏は、“ケータイネイティブ”達のネットワークを「新村社会」と呼んでいます。
(注)まえがきを読んで頂ければわかりますが、
原田氏は決して「若者がダメ」とは言ってませんし、むしろ逆です。
このタイトルは、出版さんの定番で、光文社さんの見え透いたマーケティング戦術でしょう。
「CDはマスター」。
これもよく聞く話です。
マスター1枚あれば、コピーして友人にシェアできるし、それでOK。
(しかも、“マスター”は購入商品とは限らない・・・)
私もここで安易で思考停止的な 「若者批判」 なんてする気はありません。
そもそも、ヒットを追い求めるあまり、「コモン・ミュージック」の世界を肥大化させてきたのは、供給サイドである音楽業界なのです。
80年代のデジタル化=CDフォーマットの普及によって、マーケットを拡大させ、90年代、ドラマとのタイアップ戦略で“CDバブル”。
「今のトレンドはこうなっていて、これがあなたの聴きたい曲です」。
そういう“上から目線”の“マーケティング”が効いていた。
そして、カラオケ。最強のコミュニケーション・ツールですよね。
90年代、ソニーのSDさんからオファーを受けてた友人のロックバンドは、
「これじゃ、カラオケで(素人が)歌えないね」とダメ出しされてました。
「素人がそう簡単に真似できないことを歌ったり演奏するのがプロなんじゃないかぃ?」と私は内心思ったもんです。
時代の空気を読むのは大いに結構なんですが、将来の “グランドデザイン” もなしに、僅かな若者のお財布を巡って、戦略なき戦術で(当人たちは「戦略」と思ってるんでしょうけど)、目先の利益を求める。
(ビジネスマンとしては、事情はわかりますけどね・・・)
そもそも、80年代の“デジタル化”の進化形態こそ今の状況なんです。
しかし、その“恩恵”のほうが大き過ぎたんですね。
そして、時代と時代の主役たる生活者の消費構造が変化しても、過去の“成功体験”から脱することができない。
“マーケティングのパラドクス” でしょう。
イノベーションでは “ジレンマ” といいますが。
結果、音楽マーケットは80年代後半のスケールに。。。
“消費財”としての音楽商品(ひいてはアーティストやミュージシャン)。
しかも、マス向けなので、会社の規模も内容もそれなりに拡大。
CD不況になって、ダウンサイジングに迫られれば、リストラの嵐。
メーカもディーラーも優秀な人達からいなくなっていった。
(今は、そんなの関係なくのようですが・・・)
かつて音楽(商品)は、嗜好品と言われてました。
嗜好性という根本を考えれば、「パーソナル・ミュージック」って重要ですよね。まだ詳細に検証したわけじゃないんですが、時間の経過の中で(いつの間にか)、「スタンダード・ミュージック」の地位を得る曲って、ある時期(時代)、「コモン・ミュージック」であったにせよ、やっぱ、多くの人達にとって「パーソナル・ミュージック」であったんじゃないでしょうかね。
粗っぽく言うと、どうせダウンサイジングした業界ならば、「コモン・ミュージック」に当たる曲、“市場価値”が見極めらない新人は、デジタル配信(モバイル配信)で流して (でないと違法DLは減りません)、一方で、今までないがしろにしてきた“音楽ファン”に向けた、高付加価値商品の開発にも注力していくべきじゃないんでしょうか?
すでに若者に限らず、世間のユーザーから“なめれている”んです。
(ヘビーユーザー、ライトユーザー問わずね)
いや、既になめられるを通り越して、見捨てられたかな?
少子高齢化で、若年層の人口構成比が低下。
今まで無視してきた 「スペンディング・カーブ」 にも売らにゃならん、ということで、とりあえず 「もう一度、妻を口説こう。」 なんてコピーのコンピでね、「売れた! 売れた!」なんてはしゃがれてもね、大勢は変わらんわけですよ。
(注)「スペンディング・カーブ」:結婚してローンと教育費で趣味・嗜好品の支出が減少する、いわゆる「標準世帯」のこと。
2000年代中頃からの「韓流ブーム」。
昨年のビートルズのボックスのバカ売れ。
これらは、業界がターゲットから外してきた人々が主役の現象です。
「俺らには、懐メロのコンピやリマスターあてがっときゃいいんかい!?」
「俺らが唸るような、スンゲェ アーティストや曲を出してみんかい」
一音楽ユーザーとしてのオッサンはこう思いますが。。。
余計なおせっかいかもね(笑)。
自分には、大切な「パーソナル・ミュージック」のカタログは揃っちゃってるからね。別に困らんよ。
でもね、新しい“刺激”を求めてるのも事実なんです。
世の中も面白くなりますしね。
若年層だってね、昔の自分の調査結果でもそうでしたけど、10代後半から20代前半って、CD購入意向は高いんですよ。
これってある程度普遍性があることなんです。
「意向」は「意向」でしかないですけどね。
90年以降に生まれた人=新成人たちは、その上の世代(現在の20代後半)より音楽関与度は高い。
肝心なのは、“バリュー・ライン”でしょうね。
「意向」を「行動」に結び付けるための。
「なぜ安いのか?」「なぜ高いのか?」の説得力のある理由づけも忘れずに。
長くなりましたが、次回はもっと大きな「時間の流れ」で、トレンドというものを考えてみたいと思います。
音楽だけの話だけでなく、マクロ的な話です。
(「今年はこれが流行る!」とか、そういう話ではありません。悪しからず・・・)
5. “飽きる” というのは人間の才能!?
今回、取り上げるのは、この書籍(↓)です。
著者は、株式会社感性リサーチ研究所の黒川伊保子さんと岡田耕一さん。
*2021年11月注記:今や『トリセツ』シリーズで有名な黒川伊保子さん。
この章でご紹介する黒川さんの脳科学の成果ですが、「ブレイン・サイクル」などの言葉を聞いただけで、体質が古く頭の固いマーケティング・リサーチャーの皆さま、「オカルトだよ」といって即、拒否反応を示します(特に私より年長の先輩方・・・)。
しかし、私の交友範囲の範囲内でも、大手ナショナルブランドメーカーさんは、感性リサーチの知見をご活用しております。だから、日本のマーケティング・リサーチ業界は広告代理店の “下請け” の地位から抜け出せず、セコい市場規模のままで、今度ははたまた、データサイエンティストの後塵を拝するお馬鹿ぶり、、、なんて止めときましょう(笑)。
語感研究者である黒川さんは、1999年、各商品のネーミング変化に気付かれたそうです。
英語造語から日本語、イタリア語へ。
子音(機械音)から母音(自然音)、デジタル音からアナログ音への嗜好の変化。
1999年を「大衆の共通感性の分岐点」と名付けた黒川氏は、元MIT医療研究所の脳生理学者、トニー・ネイダー博士の「人間の生理」という論文に出合われます。
そして、1999年の市場全体で起こった子音から母音への嗜好変化を、大衆の脳が「短い軸索が活性化しやすい脳状態」から、「長い軸索が活性化しやすい脳状態」へ変化したことに起因する、という仮説に辿り着きました。
この10年間、よく「男性脳」「女性脳」ということをよく聞きますが、
「短軸索活性系」=「男性脳」:デジタル系
「長軸索活性系」=「女性脳」:アナログ系
ということになります。
*男性の右脳と左脳を結ぶ長軸が短軸に「改造」されるのは、
胎児の脳内で分泌される男性ホルモン「テストステロン」の仕業。
で、「時代の中の気分」というものにも、「デジタル気分」「アナログ気分」の周期性があるのではないか? という仮説も導き出されました。
「飽きる」ということは人間の才能である、というのが黒川氏のご持論で、私も説得力があると考えます。
でなければ、文明の進歩なんてないんじゃないかと。
「デジタルとアナログの2つの気分は、正弦波のような傾向を描くのでは?」と考えた黒川氏は、自動車デザイントレンドから「アナログ/デジタル周期説」を導出された菅原健二氏と出会われたそうです。
丸いティアドロップ型のグラマラスラインと、四角い楔形のシェイプラインの流行。最も丸くなる、四角くなる周期は28年。
28年の変化は、7年ごとの変化ブロックで構成される。
自動車、ファッショントレンドの膨大なデータの裏付けによる「28年周期説」。この菅原氏の説を黒川氏は取り入れました。
「アナログ気分」28年、「デジタル気分」28年の56年周期説です。
因みに認知科学で「マジカルナンバー」と呼ばれる「7」は、容易に短期記憶に収められる最大数。
太陽暦の1週間の単位で、4倍すれば月の公転周期に近い。
女性の月経の周期にも近く、人の脳と身体の周期にもなる。
人の骨髄液の入れ替わり単位も7年。
よって免疫システムも7年で変化するそうです。
(「7年目の浮気」も理にかなっている!?)
黒川氏は、この「デジタル気分」と「アナログ気分」の56年サイクルを、「ブレイン・サイクル」と名付けました。
下図は、『なぜ、人は7年で飽きるのか』の「A/Dビュー」を、
Excelを使って自分で作っちゃったものです。
(小さくて見づらく恐縮ですが、一番下に引用元の注釈も入ってます)
*大衆の脳は、28年のデジタル気分と28年のアナログ気分を56年周期で繰り返している。
*1999年、時代はアナログ気分(女性脳期)に突入、産業構造は「大量、画一、マス」から「適量、多様、パーソナリティ」(口コミ、通販)」へ。 (同書61ページより)
≪アナログ期に好感度が上がるもの≫
◆ドラマティック
多様、例外・特別、紆余曲折、意外性
◆共感、情報交換
口コミ
◆複雑系
アナログ、自然、人間性
◆デコラティブ
グラマラスライン、模様、多色使い、異素材ミックス、
リボン、フリル、エッジ、包む・重ねる
(同書、74、75ページより)
≪デジタル期に好感度が上がるもの≫
◇論理的
答えがひとつ、だれもが納得する、最小コスト、最短パス、必然性
◇競争
サバイバル気分、情報収集
◇合理性
デジタル、人工、論理性
◇シンプル
直線的なシェイプライン、モノトーン、統一感
(同書、80、81ページより)
いかがですか?
2010年現在は、99年に始まった「アナログ期」の第2周期である「ブレイク期」。3年後の2013年に、「アナログ期」は絶頂を迎えます。
日産マーチの円めのフォルム。
新幹線N700系の流線形。
「今だけ限定」「貴方だけ限定」の商品群。
紆余曲折と意外性だらけの韓流ドラマ。
口コミなんてのは今さら言うまでもありませんよね。
「癒し」はもううんざりするぐらい。
「エロカッコイイ」「キモカワイイ」など通常では結び付かない概念の組み合わせは、長軸索活性系の女性脳の特徴だそうです。
絢香あたりで一般化した「等身大」。
「○○ちゃんは等身大で、若い女の子の気持ちが云々♪」
なんて胸クソの悪くなるようなコメント溢れる芸能系音楽雑誌。
このところ騒動となっている角界。
「モーニング・ブルー・ドラゴン」は引退しました。
これがもし「デジタル期」の出来事だったとしたら、
「モラルがなくても、伝統を軽んじても、とにかく強けりゃいい」
ということで、引退には至らなかったんじゃないか? と思います。
「MBD」引退による不経済効果よりも、各界の伝統を重んじたのが今。
(私の個人的な気分としても、引退に賛成です)
対して、「デジタル期」の特徴である「論理性」。
ITの進歩で一見、世の中を席捲しているかのようです。
私もビジネスパーソンですので、「ロジカル・シンキング」「クリティカル・シンキング」の本は沢山読んできました。しかし、ビジネスの世界限定じゃないですかね? こういう「ブーム」は。
勝間和代さんのブームもマスコミで盛り上がった反動(=消費されたこと)で、今や食傷感も出ています。
もちろん、勝間さんご自身が悪いわけじゃありませんよ。
むしろ、これからの「デジタル期」を先取りし過ぎている、という見方もできます。
そりゃ、勝間さんのようにシングル・マザーで激務をこなす、となれば、「アナログ期」だろうが関係ないでしょうけど、フツーの女性は壊れますって。
彼女のフォロワーである所謂“カツマ-”と呼ばれる人達の絶対数は、女性より男性のほうが多いんじゃないかな? と私は推測します。
違ってたらゴメンなさい。
(今年は「ほぼ日手帳」を使ってる私、昨年は勝間さんの手帳を使ってました)
そして何よりも、米国MBA流とやらの結果はどうなったのか?
お粗末な「リーマンショック」「サブプライム問題」の露呈じゃないでしょうかね(苦笑)。
(私はMBA流を否定はしませんし、勉強はしてますよ。“短軸的な誤解”はしないでね)
「同じ事象も、大衆の気分が違えば、まったく違う見方になる」(同書85ページ)
最近はマスコミから姿を消した細木和子氏。
(私は、山本圭一扮する“太木数子”が大好きでしたが・・・)
「デジタル期」に突入した1970年代の「第一次ブーム」の時は、「大殺界で死を予言する」恐ろしい占い師。
「アナログ期」の2000年代の「第二次ブーム」では、「大殺界の乗り切り方を教えてくれる」ありがたい伝道師。
表現方法も、髪型も服装も、本の内容もほぼ同じなのに、受け取る大衆(と取り上げるマスコミ)のほうが、勝手に怖がったり、勝手にあがめたり。
そしてあがめて飽きたら貶めて捨てる。
2000年代は「スピリチュアル」もブームでしたね。
これも「デジタル期」だったらブームにならないか、逆に怖いものとしてマスコミが取り上げたことでしょう。
そういえば、私の身の回りの人達を見回してみても、江原啓之氏とかを目の敵のように嫌っていたのは、男性の中でも“超短軸系”の人でした。
こんなもんなんでしょうね。
そう考えると、30年とか40年もブランドとしての価値を保っているアーティストは驚異的ですね。(日本では「サザン・オールスターズ」の桑田佳祐氏とか「E・YAZAWA」さんとか)
勿論、“売れた”ことによる有形・無形の資産があるからですし、当人達もステークホルダー達も、勘と経験と度胸で、こういうサイクルとかは意識はしていなかったとは思いますが。(だから偶然の産物、なんですけど、それはそれでいいんです!)
またまた長くなってしまいました。復習してみます。
同書による「流行」「トレンド」の定義は、「流行を生み出すのは大衆の意識傾向(トレンド)であり、トレンドを生み出しているのは脳の中に脈打つ意識サイクルである」(10ページ)
◆個体の脳の意識サイクル=ブレイン・サイクル
◆ブレイン・サイクルによって生み出される大衆の意識傾向=感性トレンド
◆感性トレンドによって生み出される社会現象=流行
この定義は構造的で実にすっきりしています。
「○○ちゃんは等身大で、若い女の子の気持ちが云々♪」
なんて言ってるような“芸能”チックな人達は、(俺もしつこいね・・・笑)
現象である「流行」に振り回され続けます。
さらに、その人達に振り回される「制作者」たちは、「そりゃ、“2匹目のドジョウ”を狙え! ヒットじゃ、ヒットじゃ!」と、同質化のスパイラル地獄にのめり込んでいきます。
まあ、現象である「流行」は大切なんですけどね。
販売結果のランキングも大切です。
しかし、その土台となる「ブレイン・サイクル」「感性トレンド」の分析を疎かにするな、というのが私のスタンスです。
だから、認知心理学や脳科学は大切にしていきたいなと。
昨今、ブームになっている行動経済学も大切ですが、騒ぐにはちょっと古いかな? その「先」のステップがあることをお忘れなく。
下図は、「ブレイン・サイクル」の正弦波を移行の視点から、つまり、トップからボトム、ボトムからトップの28年で区切ったビューです。
(「S/Hビュー」)
「アナログ期」の第2周期である「ブレイク期」にあたる2010年は、「ソフト期」の第4の四半期。
「市場ニーズ優先の時代」「ハードよりソフト、ブツよりコンテンツの時代」は、あと3年で絶頂期を迎えた後、「デジタル期」への移行により、衰退へと向かいます。
6.はじめに脳ありき
前章では、黒川伊保子さんの書籍 『なぜ、人は7年で飽きるのか?』を取り上げ、人の脳の傾向と「流行」の構造化、を見てきました。
◆個体の脳の意識サイクル=ブレイン・サイクル
◆ブレイン・サイクルによって生み出される大衆の意識傾向=感性トレンド
◆感性トレンドによって生み出される社会現象=流行
まず、誤解してほしくないことは、ブレインサイクルとは、「飽きる」という“才能”を持った私達の「脳」と、世の中の意識傾向の話であり、社会・経済状況の推移と表面的には結び付かない、ということです。
だから、28年、56年前とか後に、「同じようなものが流行る」ということではありません。
極端な喩えですが、技術が「アナログ」から「デジタル」に移行したのは、時代の進歩。
2010年現在が「アナログ期」だからといって、単純にアナログが復権するわけではありません。
ただ、時代がどんなに進んでも、28年、56年周期の「アナログ期」「デジタル期」のブレイン・サイクルは繰り返し、世の中の底流の意識トレンド(→流行)は循環する、ということです。
戦争や災害があっても、戦後の復興期、高度経成長期、バブル期、失われた10年であっても “意識の底流” は変わらないということです。
「感性トレンドは、『同じものがはやる』ことを予測するのではなく、
「同じ気分によって、『同様の傾向を呈する』ことを予測する手法だ」(103ページより)
この数年、「アラフォー」とか「負け犬」とか「イタい・・・」など、働く女性の話題が事欠きません。
ブレイン・サイクルと経済・社会情勢の“絡み”については、同書の130~135ページのコラム、「Hanako世代」(私と同世代の女性)の分析が、具体的で説得力があります。
さらに、『なぜ、人は7年で飽きるのか?』で押さえておきたいこと。
それは、「はじめに脳ありき」、ということです。
「私たちは『人は、理由があり行動している』と思い込みがちだが、脳を見つめていると、脳に先になんらかの意識ベクトルが生じ、脳自体がそこへ気持ちよく突っ走るための理由を探しているとしか思えないことが多々ある」(116ページ)
すなわち、脳にはまず初めに気分があり、その気分に合うものを欲して動いているのであって、一つひとつの理由は案外ささいだったりするということだ。(117ページ)
「一つひとつの理由(事実)にとらわれすぎないことだ。これは人間観察の基本である。部下や恋人の言い募る不満が、彼ら自身の気持ちの真実を語っていないこともある」(117ページ)
消費者の行動分析をするのはいいのだが、その事実(意味的な理由)にこだわりすぎると、かえってトレンドは見えなくなる。
そうなる前に、先んじて起こった「市場の脳の気分」にまで目を配らないと、本質は見えてこない。
脳の気分をアンケートや現象分析から割り出すのであれば、理由が明確な属性を並べるより、「理由もわからないのに、なぜか売れている」特異点に着目するのがコツである。(118ページ)
引用が長くなりましたが、重要なポイントですので。
“永遠の問題”(?)である嫁姑問題に至っては遺伝子レベルの話のようです。
私の経験でも結構、しっくり理解できます。
“本能の壊れた動物”(20代の頃、この方の著作は全部読みました)である人間には、「発情期」がありません。「発情期」の長さと回数は人それぞれですが。。。
そんな私達には、結婚という社会制度があり、ライフステージとして「適齢期」というものが設定されています。
「やすらぎが ほしくて結婚 しない僕」(役立たず)
“草食系”とは言えない(?)私ですが、この「サラリーマン川柳」の一句、よくわかります。
というのは余談ですが、そんな私でも、ほんの些細なことがキッカケで、
「恋愛モード」のスイッチが入ることがあります。
まず“対象”があって、“感情”が生起する、と云うよりも、“感情”のモードがスイッチオン、それから“対象”というように。
だから、ずっと同じ環境にいる女性に、ずっと何も感じなかったのがある日・・・、といったことも。
もっとも恋愛には「相手」があることなので、そういうタイミングがずれると、「鈍感すぎる男」ちゅーレッテルを貼られる、なんてことも多くありました。。。
そしてスイッチが切れると、「俺は何であんな女のことを???」と思ったことも。。。「まぁ、結果オーライか・・・」とか。
7.最終章 そして、文学やロックの世界
2010年現在は、「アナログ気分・ブレイク期」(2006~2012年)。
人間性を尊ぶ気品の時代、らしいです。
7年間の「癒し」の時期を経て、癒されることに飽きた大衆は、気高い気持ちに。
こういう「品格」の時期って、元「モーニング・ブルー・ドラゴン」にとっては分が悪かったですね。
1999年から2006年の「アナログ気分・黎明期」には、元ライブドア元社長 堀江貴文氏の逮捕劇がありました。
『なぜ、人は7年で飽きるのか?』の98ページにこのことが触れられています。
癒しや自分探しがキーワードになる時期とは、一方で、陰湿ないじめや徹底的に叩かれる存在が出やすいそうです。
人々はエリート主義を捨て、拝金主義を叩く。
堀江氏逮捕のちょうど56年前(同じ時期)、光クラブの山崎氏が逮捕されました。
三島由起夫の『青の時代』のモデルです。
全く同じパターンではありませんが、私の頭に浮かんだのは村上春樹のことです。
1980年代後半、正確には1987年でしたが、小説『ノルウェーの森』の大ベストセラー化によって「村上春樹ブーム」が起きました。
当時20代だった私は、村上作品のほぼ全てを読んだだけでなく、彼の翻訳したフィッツジェラルドの小説まで読みました。
1987年は、「デジタル期」のピーク(1985年)後、「アナログ期」へ向かっていく「ソフト期」の最初です。
ほかには、よしもとばなな『キッチン』も。
“DINKS”というライフスタイルの概念が米国から輸入されたのもこの頃。
これを「第一次」村上春樹ブームとすると、『1Q84』がブレイクした2009年から2010年は「第二次」ブームかもしれません。
もちろん、90年代も執筆・刊行されていましたが、社会現象としては・・・。
2009年は「エルサレム賞」でのことで世界的にも話題になりましたし。
2010年は、2013年の「アナログ期」の絶頂に向かう「ソフト期」の最後です。
「ソフト期」の最初と最後にブーム、というのはいかにも村上春樹じゃないの? と私は感じざるを得ません。
デジタル化という技術のイノベーションが、「ブレイン・サイクル」と絡んで、マーケットを拡大させた、という事例こそ80年代以降の音楽業界です。
(私の仮説ですし、ロック・ポピュラー音楽が中心の話になりますが)
『なぜ、人は7年で飽きるのか?』では、「デジタル気分 ブレイク期」(1978~85年、2034~2041年)のページで、ロックについての記述が見られます。
この時期はS/Hビューでは「ハード期」。
デジタル&ハードの究極の「男性脳」型の時期です。
テクノの隆盛もありましたね (日本では「YMO」など)。
ロックについては以下のように書かれてます。
「エレキギターを使い、子音をシャウトするロックは、ニューロン短軸索リンクを刺激し、デジタル期全体に心地よい音楽である」(124ページ)
「1960年代から1980年代にかけてのロックシーンの名曲がいまだにドラマやコマーシャルで使われるのは、デジタル期の土壌でこそ培われる音楽である証拠なのだろう」(124~125ページ)
1985年、男性脳の「デジタル期」はピークを迎え、その後、女性脳の「アナログ期」に向かう「ソフト期」が始まります。
80年代前半から中頃にかけて、欧米でも日本でもロックが隆盛を極めます。
70年代のカウンターカルチャーとの違いは、大規模な商業ベースにのったということです。
ずっと前に書いたかもしれませんが、MTV文化の勃興も大きいですね。
ファッションをはじめとしたカルチャーの “先導役” をロックが担い始めた時期です。
80年代の日本では、「ポストモダンの消費社会」が花開き、音楽業界では、CDというデジタル・フォーマットがマーケット拡大の最大の原動力となります。
このあたりの経緯は、2005年に刊行された烏賀陽(うがや)弘道さんの不朽の名著『Jポップとは何か』で詳しくまとめられています。
レコードからCDへの主役交代は、1986~87年のこと。
ハード機器を売るため=ソフトマーケット拡大の新たなターゲットに設定されたのは「若い女性」。
いわゆる「ガールズポップ」といわれる一群。
「プリプリ」「渡辺美里」「永井真理子」「中村あゆみ」「山下久美子」・・・。一応、その前に「レベッカ」ってのがありましたが。
それに「山下久美子」はこの中ではベテラン (という小異はいいか)。
そう言えば、日本のポピュラー音楽メーカーの「主役」も、ヤマハさんからソニーさんに移行しちゃったんですね。今更ながら気づきましたが。
そこでもキーとなるのは、ソニーさんの「CD」でしょう。
なんせ、技術的なイノベーションですから。
総合電機メーカーに、楽器メーカーは敵わなかったと。
「夢をかなえるべく前向きにがんばり、成長していく女性像」 (『Jポップとは何か』45ページより)
私、個人的にはうざかったんですが(笑)、それは置いといて。
若い女性ターゲットの新しいマーケットとは、結構、エポックメイキングな出来事でした。
70年代まで、女性がロックをやるとなると「男」になる必要がありました。
また、「アイドル」全盛の頃の女性歌手のファンは男性、という図式は崩れました。
「BOOWY」のような日本のロックの土台を作ってきた男性のバンド群も80年代後半、解散が相次ぎました。男達に支持され続けてきたバンド群です。
今から思えば、産業としてのロックが確立した後、“用済み”となったとも思えます。
これじゃ言葉が悪いんで、“歴史的生命を終えた”と言いましょうか。
「ブルーハーツ」のようなバンドは、私の独断・偏見ですが、パンクを標榜しつつも、男性的な攻撃性、アイロニー(皮肉)、毒はなく、大衆からの「共感」のされ方を鑑みると、男性的ではなく女性的だと考えます。
80年代後半には、「イカ天」というオーディション番組によって、80年代2度目のバンドブームが到来します。(この番組、またまた私は嫌いでしたが-笑)
このブームも、時代潮流としてみれば、「女性」的だと私は考えます。
世間からの受け入れられ方や、広まり方がです。
なんせ、ロックがアングラ・シーンからうごめきだした「東京ロッカーズ」(後期)や、インディーズ(自主制作盤)の時代に身を置いてきましたから。。。
(70年代については、体験された方から直接聞いたり、書籍・雑誌の情報ですけど)
90年代のマーケット拡大は、今更ここで詳しく書くまではないでしょう。
ドラマタイアップの大ブレイク期。
どんなアーティストがどんな楽曲で、ということを思い出して下さい。
CMタイアップも忘れてはなりません。
烏賀陽さんの本にも書かれてますが、電通さんなど大手広告代理店がキャスティング業務を本格化させたのも90年代からです。
“CDバブル”崩壊直後、90年代後半、メガセールスを記録した“ディーヴァ”と呼ばれたアーティスト達 (いちいち個人名を挙げるのは面倒なので)。
やはり女性ですよね。それもリスナーとしての女性に支持される女性。
ジャニーズ系の皆さんや、「B'z」「ミスチル」のような男性陣もおりますが、俯瞰的に見れば、供給サイドでの女性優位は否めません。
それに、90年代はいかにも男性ロックファンのカリスマとなるような“ギターヒーロー”は出現していません。
これもよく言われることですが、80年代から活躍している布袋寅泰氏が最後じゃないでしょうかね?
個人的には残念な気持ちと、「鮎川さんがいれば十分」 という気持ちで複雑です。
2000年代もこの傾向が加速します。
1999年は、男性脳の「デジタル期」が終わり、女性脳の「アナログ期」に突入。
ある知人が、「平井賢」「徳永英明」とか、あんな女々しい歌声で大丈夫なんかい? 男達は? と危惧してましたが。。。
(ファンの皆さま、お気を悪くされないでね。私、嫌いじゃないですから)
話は戻りますが、「Jポップ」という呼称についてです。
やはり、烏賀陽さんの本に書いてありますが、もともとラジオ局の「J-WAVE」なんですね、由来は。
それにレコードメーカーの人間が数人からんで。
基本的な発想は、「JR」「JT」「Jリーグ」と一緒です。時期もほぼ一緒。
「J」というからには、世界で通用することが前提なんです。
「Jリーグ」と「Jポップ」は、あくまで幻想に過ぎないんですけど、とにかく “大衆化” のためには必要だったと。
大衆化にとって不可欠なこと、それは女性の取り込みです。
(注1)現在のアニメやヴィジュアル系など「クール・ジャパン」が世界で受容されていることは、この文脈とは違うのでいずれ書くかもしれません。
(注2)やはり、烏賀陽さんの本に書かれてますが、CDという“フォーマット”のイノベーションで日本の企業は貢献しましたが、ソフトである「音楽」自体のイノベーションは日本から生まれてません(少なくとも、大きなものは)。フィル・ペクターやスティーブ・リリーホワイトのようなイノベーティブなサウンド・プロデューサーはいない。これは「Jポップ」の致命的なウィークポイントです。
ずいぶん長いこと書いてきました。
第4回目では、供給サイドの音楽業界に結構きつい言い方をしました。
大衆の意識:ブレインサイクル ⇒ 感性トレンドは今まで述べてきた通りです。
その大衆の意識に一生懸命より添ってきた音楽業界は、それなりにマーケット拡大に一生懸命だったわけです。それは責められないかもしれません。
ただし、音楽のコモディティ化(=価値の低下)は行き過ぎです。
それに、グランド・デザイン不在のままではいけませんね。
こんな悲惨な状態なんですし。
そして最後に。
前半は、“草食系”など若者の消費動向、生活意識について書いてきました。
いつの時代でもそうだと思うんですけど、
若者の問題って若者だけの問題じゃないんですよね。
自分の経験則からもそう思いますし、原田さんの本にも書いてありますけど、眉をひそめるような若者の典型の行動って、おっさんだってやってます。
「デジタル万引き」だって若者だけじゃない。
そのあたりは、「統計数字」に対し近視眼的にならないほうがいいですよ。
一般的に、若者の傾向って2~3年で上の世代に波及していきます。
消費の不振を若者だけのせいにするのは止めて、もっと広い視野と長いスパンで世の中を見ていきたいもんです。
“総論賛成、各論反対”にならずに。
固定的にしか見えない“問題”だって、主役は人間(の脳)です。
仮説とはいえ、それなりの理由があっての結果です。
このままの状態が永遠に続く、なんてことはありません。
で、肝心なのはこれからどうなるのか? ですって?
そんなに難しいことじゃないんじゃですか(笑)。
少なくとも傾向を予測するのは。
どの変数とどの変数を掛け合わせればいいのか?
経済・社会の予測は難しいとは思うんですが、私達の意識のベクトルは大体読めるでしょう?
そのために今まで、今まで長々と書いてきたんですから。
粗っぽい仮説ですけどね。
長々とお付き合いいただき、どうもありがとうございました!
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