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遠いくにの神話

#2011年3月11日14時46分あなたはどこで何をしていましたか

あの日、わたしは14歳。
15歳の誕生日を迎える1ヶ月と1日前、中学2年生だった。

あの日、午前中は教室で授業を受け、給食を食べた。午後には、学校で避難訓練が予定されていた。

あの地震が起きた瞬間は、地震による火事が発生した想定での避難訓練の真っ最中で、火災報知器が鳴り響く校舎を避難訓練のために全校生徒で以って移動していた。

当時、わたしの中学校は校舎の建て替え中だったから、校庭に建てられたプレハブ校舎で授業を受けていた。
業間になると生徒がトイレに行ったり、次の授業に向けて移動したりするので、それだけでも地震のような振動と、水の中にでもいるようなくぐもった騒音がした。

そんなただでさえ揺れるプレハブ校舎からの避難訓練だったので、校舎全体が揺れていた。
だから、わたしの住むまちが揺れたかどうかは家に帰るまで知らなかった。

あの日、教室から校庭への避難が終わって、整列がすんでも、訓話に来てくれているはずの消防の人の話は始まらなかった。
見れば、なんだか先生たちが落ち着かなく校舎と校庭を行ったり来たりしている。

先生がそんな様子なので、周囲がざわつき出した。
「誰かまだ校庭に来てないんじゃないか」
「さっき避難途中に、男子が掃除用具箱に隠れてるのを見た」
そうか、誰かがふざけて避難してきてないから、先生が探しているんだな、馬鹿だなあ。
晴れていたような記憶があるが、まだ3月上旬。吹きさらしの校庭で待たされるのは寒い上に退屈だった。

避難訓練の最中にふざけて学校から逃亡したり、トイレに隠れたりするのはよくあることだったから、またか、早く見つかって出てこないかな、なんて思っていた。

なんだかいつもと様子が違うぞ、という空気が出てきたのは、静かにするように、と拡声器で怒鳴りながら生徒指導の先生が生徒の前にあらわれてからだった。
いつもならここで校長先生が朝礼台の前に立って、生徒が静かになるまで待っているはずだ。

キーンというハウリングの音とともに、生徒指導の先生はひとしきり生徒に向かって怒鳴ったあと、避難訓練は一旦中止にする、クラスごとにまとまって教室へ戻るように、と言った。

先生は黙って移動しなさい、と叫んでいたが、異常事態を感じ取った中学生の大集団は叫んだくらいでは静かになるはずがない。
みんな好き勝手に、なぜ避難訓練が中止されたのかを噂しながら、下駄箱へ向かっていた。

「避難訓練中に逃げた奴が見つからなかったからだ」
「実は訓話をする予定の消防の人、遅刻してるんじゃない」
「寒いから、教室で訓話を聴くのかも」

それでも、校庭から下駄箱に着く前に、誰かが
「どこかで大きな地震があったらしい、先生から聞いた」
と言ったのを耳にした。

そう言った子は途端にみんなに笑われて、
「地震が起きたのは避難訓練の仮定の話だ」
「嘘つくな」
「先生が避難訓練が中止された理由をお前だけに教えてくれるはずないだろ」
と散々に言われていた。

でも、その子が教えてくれたことは、まぎれもなくその時、日本で起きている事実だったのだ。

教室へ戻っても、先生たちは一向に教室へ来なかった。
普段、先生の目があるからまだいい子の顔しているだけの中学生が、先生が教室にも廊下にもいないとなれば、大人しくしていようはずがない。
教室内にいればまだしも、トイレに行く子から、普段禁止されている隣のクラスに遊びに行く子まであらわれて、校舎は休み時間のようだった。

「先生どこ行ったんだろ」という誰かの疑問から、「ちょっと職員室覗いてくる」と言う子があらわれて、教室を出て行った。

しばらくすると、その子は走って戻ってきた。
「大きい地震あったのはほんとだ、職員室のテレビでやってた」
「先生はもう戻ってくるから席についておいた方がいい」

その子は勇気あることに、職員室のドアをスパンッと開けてテレビの映像を確認してきたらしい。
先生たちは突然開いたドアに硬直していたそうだが、我に帰った先生に「教室へ向かうから、お前もとっとと戻れ」と言われて、戻ってきたそうだ。

その後、すぐに担任の先生が教室へやってきた。
本来であれば、避難訓練終了後は帰りのホームルームがあって、部活があって帰宅する予定だったから、気が早い奴はもう部活のユニホームに着替えていた。
先生は教室を見回して、あとは部活へ行く気満々という顔の生徒を見て、ため息をついて、早く席に着くように言った。

それから先生は生徒に向かって、東北で大きな地震があったから大事をとって今日はもう帰宅すること、今日の部活は中止とすることを告げた。

教室は騒然とした。同じようなことを告げられたであろう他のクラスの喧騒も伝わってきて、学校全体が揺れていた。

先生は何とかして生徒を落ち着かせようと躍起になっていたが、すぐに諦めたらしく早々にホームルームを切り上げて、まっすぐ家に帰るように言って、生徒を教室から追い出した。

わたしは当時、部活のために学校へ行っていたと言っても過言ではないくらいだったので、何のために登校したんだか分からんと思いながら帰路についた。

家に着くと、足が悪く床に座ると立てなくなるからと普段床に座るのを億劫がる母が、リビングの床にぺたんと座り込んでテレビで映画を観ていた。

「お母さん、ただいま」
と声をかけると、母は座り込んだまま振り返って
「おかえり、早かったね」
と言った。
「地震があって、先生が早く帰れって言ったから部活なくなっちゃった」
そういうと母は
「ああ、そりゃ残念だったねえ」
と言ってすぐにテレビは目を戻してしまった。

「何を観てるの?」
「速報。これ地震の今の映像」

この会話で初めて、母が観ていたのは映画ではなく、ライブ中継だったのだと意識した。

そこに映っていたのはとても現実の出来事とは思えなかった。
大雨の時の洪水のような色の水に大量の木片が浮いている映像と、燃えながら流れていく家と、水から逃れようと走っていく車と、海岸線へ向かってくる波の壁の映像が繰り返し、繰り返し流れていた。
安っぽいパニック映画のような映像。

わたしは学校から帰ってきたセーラー服のまま、教科書がパンパンに入っていて重たいスクールバッグを肩にかけたまま、何を言っているのか聞き取れないレポーターの叫び声を聞きながら、テレビに映し出される映像をリビングに立ちすくんで眺めていた。

どれくらい時間が経ったのだろう、我に帰ったのは小学校へ行っていた弟が帰ってきて、母がテレビの電源を切ったからだった。

それから母は言い訳をするように
「地震が起きたときはおばあちゃん(わたしの祖母)ちにいた」
「結構揺れた」
「揺れが長かった」
「しばらくおばあちゃんとテレビを見てたけど、学校から何か連絡があるかもしれんと思って家帰ってきて、テレビつけたらちょうどあんたが帰ってきた」
という内容のことを教えてくれた。

わたしは「避難訓練の最中だったから揺れたか分かんなかったよ」と言った。

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地震のあった翌日から、毎日、弟と新聞を奪い合うようになった。

私の家と、近くに住む祖母の家は違う新聞をとっていたから、記事の内容も写真も違う。
どちらの方が臨場感のある写真が載っているか、どちらのほうが記事が詳細で掲載範囲が大きいかを基準に喧嘩までして新聞を確保していた。

遥か遠い、行ったこともない東北で震災があっても、原子力発電所の事故があっても、川に囲まれた岐阜県の片田舎の日常は続く。
震災のあった翌週には何事もなかったかのように、登校し、授業中に読書をして先生に怒られ、給食を食べ、部活へ行って下校する毎日があった。

でも、毎日配達される呑気に新聞を奪い合っているわたしたちの前で、あの震災の死者と行方不明者の数はどんどん増えていった。

片田舎の中学生にとって、あの10年前の震災は、毎朝新聞を奪い合って写真を眺めるくらい現実味がなかった。
あの日の午後、学校で感じた不穏な空気もあれきりだった。

年度が変わり葉桜が青々とするようになった頃から、震災に関する新聞の記事は、だんだん被害状況を伝えるものから被災者の声を伝える内容へ変化してきた。

帰ってこない家族を探し続けている人、土葬される遺体の前で俯いている人、家が流され仮設住宅で暮らす人、ひとりぼっちになって遠くへ預けられた人、故郷を離れざるを得なくなった人。

あの日のことを聞かれて、あの日の朝から今日までのことを話している。

夕方になれば帰ってくるはずの人が帰ってこない、帰る家がなくなった、帰る場所がなくなった。
話したいことがあったのに、喧嘩して別れたばかりだったのに、渡すはずのものを持ってたのに、借りたものがあるのに。

日常が続くと信じて疑わなかった。

ここへ来てわたしは初めて、日常は天災を前にいとも簡単に失われるのだと理解した。
遠い遠いくにの出来事だった震災が、発生から半年が経ってわたしに「日常はある日突然壊れる」と教えてきた。

もちろん本当の意味で、わたしは家族が失われる恐怖も、家がなくなる恐怖も、帰る場所がなくなる恐怖も知らない。

でも、全く現実味がなかった中学生のわたしに、日常を意識させるには十分すぎるくらいの恐怖だった。

わたしは戦慄し、夜、眠ろうと目を瞑るたびに泣いた。
私に明日は来ないかもしれない。わたしの日常はいつ何時壊れるか分からない。

そうか、被災者の人の感情の一つはこれなんだな。
日常が失われる恐怖。

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今日であれから10年が経つ。
わたしはもう夜眠る時に泣いたりはしない。
でも、時々この時の感情に思い起こすことにしている。
そして、防災や減災について考え、調べて備えることにしている。

これから先も日本から自信がなくなることはないだろう。何も日常が失われるのは天災によるものだけではない。でも、少しでもあの恐怖が減るように、知っていることで、ほんの少し備えに時間を割くことで日常が繋ぎ止められるなら、わたしはそうする。

#2011年3月11日14時46分あなたはどこで何をしていましたか

私はこの感情を生涯忘れない。

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