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最後の福祉国家 第1章6

■前回までのあらすじ
少し投稿が開きました。ちょっと整理しておかなければならないことに気づいて、お話しする手順を組み替えておりました。投稿を楽しみにしていた少数のみなさん、おまたせ致しました。

とはいえ、みなさん投稿間隔が開いてしまって、内容をお忘れだと思いますので、以下すこし前回までのあらすじをお話ししておきましょう。まず最初に私たちが考えなければならないのは幸福でした。幸福というのは、最もよい人生の状態のことですので、そんなものがあれば、すべての人にとって幸福は生きる目的ということになります。ただし、幸福という概念を考えることはできるのですが、その具体的内容を定義することはできません。このため、この概念は内容的に「空っぽ」ということになります。その意味では、「幸福」という言葉は、存在しないものに対して付けた名前ということになるかもしれません。

この幸福の空虚さを回避するための工夫は概ね2つで、1つは実用主義的な幸福概念を考えることでした。多くの人びとが納得しそうな幸福指標を考えるというのがこれですね。そしてこれは一定程度役に立ちます。もう1つは、幸福を必要条件から考えるという方法で、幸福は全体としてはよくわからないけれども、幸福というからには少なくともこれこれの条件が含まれているはずだ、という解釈です。この連載の最初に挙げたのは「生存」でした。これは、福祉国家が帯びている世俗性をもっとも端的に表すものです。そして、この生存を含む一般的な必要条件を表す概念が「ニーズ」と呼ばれるものです。福祉国家は、生存だけでなくいろいろなニーズを発見してきました。その方法には、社会理論に基づく洞察から現場から立ち上がってくるものまでいろいろありますが、要は最後に多くの人がその重要性に合意するところが肝で、これを根拠として、福祉国家は支援策を講じてゆくわけです。

以上が、第1章のここまでのまとめといったところです。より詳しい説明が必要な場合は、バックナンバーに戻っていただければと思います。

■社会保障
ここから新しい話に入ります。福祉国家が運用する最も中核的なセーフティネットといえば、いうまでもなく社会保障です。街角インタビューみたいなものでも、今一番気にしている政策課題はと訊かれて「社会保障ですかね」みたいな答えが返ってくるほどメジャーな制度です。実際、社会保障給付費でみると年間130兆円以上の金を回している化け物級の制度です。

では、この社会保障という制度は一体何をしているのでしょうか。以下この点を確認してゆきましょう。社会保障という概念は論者によって広い狭いがあって、それによって社会保障が何をしているのかについての答えが変わってくるところがあるのですが、ここではちょっと狭めにとって説明します。

社会保障を構成している制度には主に、社会保険制度と公的扶助制度があります。前者で現在日本で動いているのは、医療保険・年金・失業保険・労災保険・介護保険です。医療とか介護とかは、同時に大きなサービス供給制度が構築されていますが、基本的には、経済生活破綻のリスクに対応してお金を配る仕組みです。保険と名前がついているのは、生活破綻のリスクに対して、あらかじめ保険料という形でカネを徴収することで、みんなでお金を出し合って個別のリスクをヘッジするという保険的アプローチをとっているためです。ただ、社会保険の場合基本的に国民全員が保険に加入することになるので、本質的に税金とあまり違わないともいえます。後者の公的扶助は、日本では生活保護として制度化されているもののことで、経済生活が実際に破綻してしまった人にお金を配るというのが基本的機能になっています。もちろん、ここまでは教科書的な説明で眠たい話にすぎません。

■ベヴァリッジプラン

(https://mylearning.org/resources/the-five-giants-cartoonより)

上の図を見てください。これは、ベヴァリッジリポート(Beveridge Report)として知られている英国で1942年に発表された報告書が漫画化されたものです。報告書の責任者W. ベヴァリッジは、英国社会が退治すべき5つの悪の巨人(Five Giants)として、失業(idleness)、貧困(want:欠乏の意味)、病気(disease)、無教育(ignorance)、悪い住環境(squalor)を挙げ、これらを社会保険制度と公的扶助(生活保護にあたるもの)などによって退治するという、第二次大戦後の青写真を描きました。Youtubeにベヴァリッジ自身が計画について説明している動画も落ちていたと思いますので、興味のある人は調べてみてください。

このベヴァリッジリポートの反響は凄まじくて、戦後多くの国(といっても先進国に限った話ですが)で、このプランに倣って社会保障制度が整備されてゆきました。当時英国の敵国であった日本でも学者や官僚の間でこの報告書は広く読まれ、それが1950年における社会保障制度審議会によるいわゆる「五十年勧告」(ベヴァリッジリポートに倣って社会保障を整備すべきだとする勧告)につながったことはよく知られています。その意味では、戦後先進諸国において福祉国家を叢生させたものとして、また日本を含む戦後の社会保障のありかたを方向づけたものとして、ベヴァリッジリポートは格別の歴史的意義があるといえます。

ベヴァリッジリポートにおいては、ニーズは19世紀後半以降にさまざまに論じられてきた国民のニーズを集約したものです。そして、5つの害悪のうち、とくに貧困こそが、巨人の中でも王者に位置にあるとみなされました。一例として病気を考えてみましょう。病気はときに命の危険そのものであるわけですが、一定レベルの医療を受けるにはカネがかかります。また勤労者の場合、病気をしている間所得がなくなるわけですから、貧困に陥る可能性が高まります。このように考えますと、医療保険は、病気による経済的損失のリスクを軽減するものといえますので、結局貧困がより根幹的な問題だということになります。他の失業・無教育・住環境も結局のところ、それが経済的な破綻に結びつきますし、逆にお金があれば解決するところがあるので、ひとまず巨悪の根源は貧困といっていいわけです。

福祉国家(welfare state)はときに再分配国家(redistributive state)ともよばれてきました。これは、福祉国家が富や所得をより平等化する方向に再分配する国家としての性質をもってきたことを指しています。これは、富や所得の不平等やそこからくる貧困を、福祉国家がもっとも対処すべき社会問題と捉えてきたことを意味しています。そしてその裏側には、さまざまな生活上の困難の根幹に貧困があるという基本認識があります。

ベヴァリッジの基本的な問題意識には次のようなものがありました。世界に冠たる大英帝国で、生活が立ち行かなくなっている人びとがたくさんいるのは、国富が足りないからではなく、その配分が悪いからだ、と。とするなら、うまく富を配分すれば、5つの巨悪、そしてその根っこにある貧困を駆逐できると。ではどうやって貧困を駆逐するのでしょうか。ベヴァリッジ報告では、社会保険制度+公的扶助を回せば、貧困を十分に駆逐できると主張されました。


■社会保障制度の構造的特徴
では、この社会保険制度+公的扶助とはどのような構造的特徴をもっているのでしょうか。以下貧困に限定せずニーズに一般化した形で説明しましょう。なんらかのニーズがあることが社会的に認められますと、まず、世の中の人びとはニーズが充足されている人とニーズが充足されていない人に分けることができます。ニーズが充足されていない人については、それは放置できない状態であることを意味しますので、ニーズが充足されるところまで、支援することになります。これを救済機能と呼んでおきましょう。ではニーズが充足されている人についてはどのように考えることができるでしょうか。ここでリスクという概念を導入しますと、ニーズがとりあえず充足されている人びとの間にも、ニーズが発生してしまうリスクには違いがあります。所得が年収400万円の人と、4000万円の人では貧困に陥るリスクに違いがあるというような話です。そのリスクの濃淡を考えて、お金を必要に応じて配るための装置が、社会保険と呼ばれるものであり、その基本的な機能は予防機能です。図示すると下図のような感じになります。字が汚いとかそういうことを言ってはいけません。大学の教師というものは概して字が汚いものなのです。私が付き合っている学生の皆さんは、温かく図を心の眼でみてくださっています。

現実の社会保障制度として実現したものも、多少のおまけはつくとしても基本的にこの構造です。たしかに「それっぽい」というか「いい感じ」の制度のように見えます。人びとの暮らしを支援するという観点から広く考えてみると、支援がこのような構造を持っていなければならないという論理的必然性はありません。その意味では、はやりベヴァリッジ報告の歴史に与えたインパクトが大きかったといえます。

そして、そのベヴァリッジ報告自体も、基本的にはすでに存在していた概念や制度の寄せ集めによって組み立てられた支援策でした。まず、上図のような構造と取るためには、人びとをニーズある人/ニーズない人に分けなければなりませんが、これは19世紀末ごろから「貧困線」(poverty line)に関する議論が行われていました。当時、世界に冠たる大英帝国で貧困者がたくさんいるとされていることを不思議に思った人たちが、貧困者の数を数えようとしたわけです。そのとき、どの所得水準から下が貧困とよべるかを決めないと貧困者数を計測できませんから、そこから概念を構築する必要があったわけです。これが社会保障制度における「最低生活水準」(national standard of living)につながってゆくわけです。また英国では、1910年ごろから、端緒的な年金制度や医療保険制度の運用が行われていました。さらに、16世紀ごろから存在してきた公的扶助の一種である救貧法(Poor Law)の伝統もありました。論者によっては、社会保障や福祉国家をさまざまな理念の寄せ集めとみる人もあるように、社会保障の構成要素は、歴史的にさまざまな理由で生まれた制度の流用という性格をもっています。

それでもベヴァリッジ報告が革新的だと言えるのは、それらを上の図のような一貫したコンセプトにまとめ上げたところにあるといえます。


付録

ある時期SOS教育の必要性が言われたことがありました。なにか困ったことがあるときに「助けて」といえることが役立つことがあるというのはもちろん理解できます。ただ、直ちに思ったのが、「助けて」と言える時点で、その人の困難の「深度」が浅い可能性が高いということです。「助けて」といえなくなっている人には、すでに何度も「助けて」というメッセージを出したことがあり、その都度さまざまな悪意や善意に跳ね返された結果、自分以外に自分を助けてくれる存在はいない、自分の環境には基本的に敵しかいないということを学習した人びとが含まれています。そんな人にSOS教育を施したところで、基本的に虚しいでしょう。ソーシャルワークのケース報告を読む機会がありますが、そこに困ったものだといったニュアンスを込めて書かれた「支援者に対して非協力的」のような文言を見るたびに、ああ、この報告者は深い困難というものに共感・理解がないのだなと思うわけです。このような人びとに対して教育政策対応をするなら、当然「困っている友人の話の聞き方」教育であるべき、SOSを出す側ではなく、それを受け止める側に対する教育であるべきだと思っています。

そして、上のような閉ざされた人間は、決して「困難事例」にだけあるのではないとも思っています。いわゆる言い訳のできない環境に長く置かれた人は、「助けを求める」=言い訳するということになってしまって、他者に助けを求めることのできない人間としての傾向が強くなっているように思います。 かくいう自分もその類かもしれません。

声/ a voice
Youtube版(動画、歌詞付き)

SoundCloud版(音声、少し音がいい)


lyrics: 1.o

どんな暗い闇にあっても
光をあてたら輝きを放つものです
私は知っています 本当の悪人はいないと
愛情の温もりを知り
人としての生き方をすれば
どんな人生だって輝きだすんです

そう言われたぼくはいまも闇の底にいる
呼吸もできないような塞がれた暗さの中で

この世が嫌い ぼくのあやまちを咎めるためにあるから
善人が嫌い ぼくを知らない場所に連れてゆくから
自分が嫌い ぼくをこの闇に閉じ込めるから
自分が嫌い ぼくをこの闇に閉じ込めるから

耳を塞ぐこともできない喧騒の渦の中で
大きな声を上げてもだれにも届かないと
ひたすら地面の皺を数えてる
ぼくに光があたることはないだろう

この世が嫌い ぼくのあやまちを咎めるためにあるから
善人が嫌い ぼくを知らない場所に連れてゆくから
自分が嫌い ぼくをこの闇に閉じ込めるから
自分が嫌い ぼくをこの闇に閉じ込めるから

でもぼくが本当に苦しいのは
自分の声 自分の声
自分の声 自分の声
そう 自分の声がささやくんだ

どんな暗い闇にあっても
光をあてたら輝きを放つものです
ぼくは知っています 本当の悪人はいないと
愛情の温もりを知り
人としての生き方をすれば
どんな人生だって輝きだすんです

この世が嫌い ぼくのあやまちを咎めるためにあるから
善人が嫌い ぼくを知らない場所に連れてゆくから
自分が嫌い ぼくをこの闇に閉じ込めるから
自分が嫌い ぼくをこの闇に閉じ込めるから

嫌い 嫌い 嫌い 嫌い 嫌い 嫌い

まだ言い足りない?
もういいよ おまえ
もういいよ
もういいよ おまえ
嫌いだろ

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