見出し画像

最後の福祉国家 序章3

■セーフティネット

冒頭から、20-21世紀転換期ごろから、広義の意味における個人の幸福を目標とする社会に移行する傾向が見られるということを述べているわけですが、この動向を捉える枠組みについて、これからの議論のために少し用語解説を兼ねてしておきたいと思います。早く本論に入りたいところですが、まあ省けない話ではありますので、もう少しだけお付き合いいただければ幸いです。

「セーフティネット」という言葉があります。「セーフティネット(safety net)」は、一般には、サーカスの空中ブランコなどさまざまな場面で使われる安全網のことですが、日本の政策現場では、個人の生活が破綻しないように下支える制度のことを意味しています。英語で、政策用語で使われているのと同じ語感をもたせる場合には、social safety netになりますが、ここでは日本語の用法に倣って、social safety netの意味で単に「セーフティネット」と言っておきましょう。そしてこのセーフティネットの構築・運用に責任をもつ国家のことを福祉国家(welfare state)といいます。専門家の用語法では、ここでいう国家(state)は、国(country, nation)とは区別される概念で、人びとを統治する機構(権力装置)のことを意味しています。

福祉国家が構築している代表的なセーフティネットは、社会保障(social security)とよばれるものです。社会保障は、基本的には社会保険と公的扶助(生活保護のこと)の組み合わせでできていて、毎年140兆円に及ぶ莫大な支出額となっています。ここまで財政規模が大きいと、福祉国家に関する論争は、社会保障支出に集中しがちで、どうやって医療保険や年金を抑制するか、とか自己負担額をどうするかというようなことが年がら年中議論されるわけです。

また、最近流行りなのが社会的投資(social investment)という文脈からの議論です。上述のように予算規模が大きいので、福祉国家は批判の的になりやすいのですが、もしそこで使われたお金が、将来もっと大きな富(など社会的に有用な資源)を生み出す効果をもつ(これを社会的投資といいます)のであれば、福祉国家は大きくてもいいわけです。近年、子どもへの支援に社会的関心が集まるようになりましたが、その背景には子どもへの支援は投資効果があるという議論が存在しています。

そんなこんなで、福祉国家に関する議論は大体カネ絡みの話になっています。ですが、私が注目したいのは、セーフティネットの内容です。実のところ、今日のセーフティネットは、もちろん財政的には社会保障の部分が大きいのですが、それ以外にも戦後80年近くの時間をかけて様々な支援制度が構築されており、それらもセーフティネットの構成要素となっています。このうち、障害、老齢、児童、家族などに関わって多くの人びとが共通に抱える人びとに対する支援については、「社会福祉」と呼ばれていますが、それ以外にも行政、法律家などの専門家、非営利組織などが提供する様々な市民サービスもセーフティネットの一翼を担っているといってよいでしょう。

私は現在山梨県の甲府市というところに住んでいます。甲府市の人口は、約20万人で、市部の平均人口よりは少し大きいですが、県庁所在地としてはかなり小さいといったところです。試みに、甲府市の市民が利用できる生活関連の相談窓口がどのくらいあるか数えてみたのですが、甲府市・山梨県・弁護士会・医師会のような行政・専門家による窓口だけで95箇所もありました。これは、普通の市民が思いつく大抵の相談内容に対応する相談窓口がある状態で、甲府市のような人口規模からみると平凡な都市にまでこれほどのきめ細かな網の目が構築されていることは驚くべきことでしょう。このことは、戦後全国で営々とセーフティネットの網の目が張り巡らされてきたということをわかりやすい形で示してくれています。

2015年からは、政府の説明では、社会保障を構成する社会保険(「第1のセーフティネット」と生活保護制度(「第3のセーフティネット」)の間に挟まる形で、生活困窮者自立支援制度(「第2のセーフティネット」)として稼働をはじめました。これも社会保障の基本的な機能である金を集めて配り直すという雑な支援政策を補完しようとするもので、セーフティネットの網の目を細かくしてゆこうとする政策的意思の表れだということができるでしょう。

ただし、「生活モデル」と関わって私がこれから述べようとしているのは、この日本のセーフティネットの素晴らしさではありません。全く反対に私は、このセーフティネットには根本的な欠陥があるために、それはネットと呼ぶにはあまりに粗雑なザルのようなものだということ、そしてその目を埋めてゆくためには「生活モデル」が必要だということを説明しようと思っているのです。次回から、本論に入ってゆきます。


----付録----

前回、私が学校で孤独だったということをお話ししましたが、その原因は転校生だったということだけではなかったと思います。私の場合、特に診断を受けているわけではないのですが、典型的なADHDの子で集団に溶け込むことも出来ませんでしたので、基本的に学校ではどこでも単に孤独なだけでなく浮いてもいました。クラスメートからは怪獣みたいな奴にみえていたかもしれません。大人になってから小学校の頃の通信簿が出てきたことがあって読んでみたら、「もう少しじっとして授業を受けましょう」的なことが書かれなかった学期が1-6年の間に一度もありませんでした。いつも忘れ物をしていましたので、当時のしつけとして立たされたり、床に座らされたりが日常でした。宿題した記憶もありませんし、そもそも授業を聴いた記憶もほとんどありません。教卓の横に「特別席」のような席が置かれ、私の席は大抵そこでした。偏食もひどかったので、給食のあと一人教室に残されて、冷めた給食とにらめっこし続けの日々でした。学校の成績も小3位まではめちゃくちゃで、当時は他に選択肢がなかったとはいえ、本当によく通い続けられたと思います。小4位からだったと思いますが、突然テストの点数だけは全科目ほぼ満点をとるようになりまして、担任の先生にとってはさらにやりにくくなったと思います。特に、小学6年生のときは、完全に担任の先生と戦争状態で、手を挙げては「先生、その説明間違ってます」と間違いを指摘したりしていました(本当に間違っていたのですが)。まあ、その担任も中学受験して合格した生徒にだけボールペンを配るという人でしたので、正しい戦争をしていたのかもしれません(中学受験して合格したうち私だけにはボールペンをくれませんでした)。ちなみに、中学受験に際して、1通内申書が余ったので、開けて読んでみたら、本当にボロクソ書いてあったのには苦笑せざるを得ませんでした。「この生徒は大変問題のある生徒で・・・」みたいなことが書かれていましたね。私の場合、進学した中高も大学も、入試に内申が全く影響をもたない学校でした(読みもしないという意味で)。それは、裏返せば試験の成績だけが意味をもつということでもありました。それはそれで、一般には教育システムとして問題があると思います。ただ、私の場合、奇しくも、この日本の学歴主義に救われる格好になったのでした。一方、おそらく小学校低学年の自分のようにADHDで勉強もできない子には、より学校は辛いことも多いと思います。その意味では、近年ADHD(だけではもちろんありませんが)として生きることの難しさが、徐々に社会的に認知されてきていることは、大きな進歩ではないかと思っています。

きらいだ
Youtube版

SoundCloud版

静かにしていられない いまなら
ADなんとかいうらしい
忘れ物する じっとしてない
宿題はしない 友達はいない

よくわかる 担任は僕が嫌いだ
よくわかる よくわかるよ
僕が担任でもお前は嫌いだ

教卓の横は僕の席
目を付けられてた
僕も睨み返してたんだ
褒められることした記憶はない

よくわかる 担任は僕が嫌いだ
よくわかる よくわかるよ
僕が担任でもお前は嫌いだ

やってきた東京 荒れてた学校
一人ぼっちの僕は このままでは死ぬ
そう思って 僕は学んだ
チャンスを掴んだ 街を出た

真っ黒な気持ちを抱えて
絶え間なく襲う多動の衝動
脳内でビートを刻んでたら
見た目は普通に近づいて
僕は大人になった

よくわかる 僕は世間が嫌いだ
よくわかる よくわかるよ
僕が世間でもお前は嫌いだ

よくわかる 僕は世間が嫌いだ
よくわかる よくわかるよ
僕が世間でもお前は嫌いだ

よくわかる 僕は世間が嫌いだ
よくわかる よくわかるよ
僕が世間でもお前は嫌いだ


いいなと思ったら応援しよう!