郷田マモラ新連載「この小さな手」開始記念ロングインタビュー!!
郷田マモラ原作、吉田浩作画による新連載「この小さな手」が、WEB雑誌「マンガ on ウェブ」第4号(1/1より国内電子書籍ストア約50ヶ所で発売中)から始まった。2013年、郷田氏は知人女性への暴行などの罪で逮捕、起訴され、懲役3年執行猶予3年の判決を受けた。事件をきっかけに連載中だった「あしゅらみち -冤罪-」(双葉社・漫画アクション)は連載終了。進行中だった映像化などの企画も全てストップし、郷田氏は表現の表舞台から消えた。
今回連載開始となる「この小さな手」は、実は2013年の事件と深いつながりがある。事件後、完全新ネタによる新連載は今作が初。作品に対する思いや事件と作品の関係を語ってもらった。(取材/文 佐藤秀峰)
佐藤秀峰(以下佐藤):さて、新連載「この小さな手」がいよいよ始まりました。今回のインタビューでは作品についてお話を伺いたいと思っておりますが、その前に郷田さんの漫画家デビューから今までの経歴を教えてください。
郷田マモラ(以下 郷田):デビューは86年ですね。当時25歳くらいで、大阪で商品説明書のイラストなど、細々としたイラストを描く仕事をしていました。その時に、ふと「一生に一度は漫画を描いてみよう」と思い立ち、前年の85年に読み切りを描いてモーニングのちば賞に応募しています。それが佳作に入り、担当編集者がついて初めてネームをいうものを描いたり、1年後に同じコンテストに応募して大賞を受賞しました。賞に入らなかったら漫画は描き続けていなかったかもしれませんし、人生って不思議ですね。
佐藤:ペンネームはその時から「郷田マモラ」ですか?
郷田:本名は上之郷守(かみのごうまもる)というんですけど、最初の応募の時は一文字変えて上之郷円(かみのごうまどか)としました。大賞を取った時は上之郷を反対から書いて「うごのみか」です。軽い気持ちで適当にペンネームを付けていましたね。
で、86年に大賞を獲って、それがそのまま連載になりました。「ひよこさんチーム!」というギャグ漫画で、野球をテーマに球場のベンチで登場人物たちが漫才をするような内容でしたね。モーニングではなく、兄弟誌のアフタヌーンの連載でした。毎号16ページの連載でしたが、人気がまったくなくて3回目くらいからページを減らされて8Pになり、次は6ページになり…、10ヶ月で打ち切りになりました。
でも、当時は出版業界も景気が良かったので、打ち切り後も編集部が「漫画研究費」という名目で毎月5万円くらいくれるんですよ。そういうものなんだと思っていたら、1年後に突然振り込まれなくなって、担当さんに「今月分がまだ振り込まれていないんですけど」って電話したら、「いつまでももらえると思ったらら大間違いだよ」と言われまして…。それで「モーニングはネームを持っていってももう相手にしてもらえないだろうな」と思って、他の青年誌の賞に応募し始めました。当時は青年誌がたくさんあった時代で、「コミック ギガ」って知ってますか?
佐藤:すいません、わかりません…。でも、いっぱいありましたよね。
郷田:まずギガの賞に応募して、他に4コマ漫画も描いてみようと思い、芳文社の「まんがタイム」にも4コマを10P描いて応募しました。ギガのほうは郵送した原稿が3ヶ月後返却されてきまして、「落ちた!」と思ったら、「雑誌休刊されることになりました」とお知らせが入っていました。
佐藤:審査結果の前に休刊ですか…。
郷田:まんがタイムのほうは、送ってから1年間音沙汰なしで「箸にも棒にも引っかからなかったんだな」と思うじゃないですか。そしたら1年後に突然、10P中4Pだけ掲載されたんです。現金書留で賞金2万円が送られてきて、編集部からはそれ以外一切連絡がなかった。代原か何かで使われたんですかね?もう27〜28歳になっていましたし、このままじゃ悔しいので、仕事をしながら100万円貯金して、大阪から上京しました。高円寺の4畳ロフト付き5万9千円。
佐藤:偶然ですね。僕もデビュー前後に高円寺に住んでたんですよ。僕は3畳ロフト付き5万6千円。高円寺って夢を追う若者にちょうど良い雰囲気がありましたよね。でも、特に作品の掲載などのアテもなく上京したんですか?
郷田:僕はジャイアンツファンなんですけど、その頃、ジャイアンツが新マスコットキャラクターを募集していて、採用されると賞金1千万円がもらえるので、キャラクターのイラストを描いて応募しました。
佐藤:まさかそれが…
郷田:見事落選しまして、確か練馬のアニメーターが受賞していましたね。後にジャビットと名付けられました。
佐藤:あ、僕ジャビッツと合コンしたことありますよ! じゃなくて、掲載のアテもなく仕事もなく、その後は…?
郷田:夏前に上京して11月で貯金がゼロになりました。働かなきゃということで、平和島まで荷物の仕分けのバイトをしたり、交通量調査のバイトや郵便局の深夜勤を入れたり、できるだけ人と話さなくてよくて、家に帰ってからもマンガを描くエネルギーを残せるような仕事を選んでやっていました。人と話すのが一番エネルギー使うので。
漫画のほうは「少年誌もやってみようかな?」と思って、少年チャンピオンの新人賞にギャグ漫画描いて応募し、青年誌はヤングジャンプの月例賞に応募しました。
佐藤:また2作同時応募ですね。
郷田:その他に公募ガイドという本を買ってきて、今もあるのかな…?その本にいろんな自治体のイメージキャラクターの募集とかがいっぱい載っているんですよ。それに応募しまくりました。そういうのは大体、自治体の関係者が大賞を獲るんですけど、僕は最初から2等賞狙いで1万円とか5千円の賞金をよくもらってました。切手デザインコンクールに応募した時は3万円相当の油絵セットをもらいました。大げさな授賞式があって、そうとは知らず僕はヨレヨレの服を着て行ってしまって、油絵セットは今でも家に使わずに放置されていますけどね…。そうこうするうちに29歳です。
佐藤:ザ・バイト時代ですね。漫画を描き始めて5年目ということになりますか。チャンピオンとヤンジャンはどうなりましたか?
郷田:少年チャンピオンは最終選考止まりでしたが、担当者がつきました。ヤングジャンプは佳作30万円を受賞し、ベアーズという増刊号に掲載されました。この時のペンネームが「郷田マモラ」ですね。大阪は「梅田」とか「岸和田」とか町の名前や人の名前で「田」の字がつくことが多いので、本名の「上之郷」の「郷」に「田」をくっつけて「郷田」として、「マモラ」は小さい頃からのニックネームです。ここでようやく「郷田マモラ」になったんです。どちらの編集部とも打ち合わせが始まり、それぞれ何度もネームを描き直した末、ほぼ同じ時期に編集会議にかけられるところまでたどり着いたんですよ。「どっちの作品も編集会議を通ったらどうしよう?」とか「2誌同時連載なんて自分にできるかなぁ?」とかドキドキしていたのですが…。
佐藤:が?
郷田:結局、どちらもボツになりました。
佐藤:わぁー………。
郷田:しかも、がんばりすぎて右手を疲労骨折してしまいましてね。医者には「ペンを握る仕事はやめろ」と言われ、ちょうど編集会議の結果が分かったのが30歳の誕生日の日だったんですよ。落ち込みましたね。まだ何者にもなっていないのに30歳になってしまった。精神的に追い込まれました。
あ、でも右手を疲労骨折したおかげで、筆圧の必要なGペンのような画材は握れなくなりましたが、代わりに面相筆で漫画を描くようになりました。
佐藤:おお、まさにケガの功名じゃないですか。郷田さんといえば、あの独特の面相筆のタッチが印象的です。次の一手はどうしましたか?
郷田:モーニングにもう1回応募しようと思いました。最初の受賞から大分時間も経っていましたし、あそこは変わった絵柄や変な作品も受け入れてくるので、応募したら大賞獲れるんじゃないかと、もう1回。それとミスターマガジンにも応募しました。
佐藤:また2作同時応募ですか。追い込まれても元気じゃないですか!
郷田:モーニングは最初から連載狙いで2話分描いて応募したので3作とも言えますかね?ミスターマガジンは人情ものでした。思惑通り大賞を受賞し、2ヶ月後に隔週連載が決まりました。ミスターマガジンも入選をいただいて掲載もされました。
佐藤:スゴイ!でも、この時点で西暦何年ですか?ネットでプロフィールを調べると「大阪総合デザイン専門学校でグラフィックデザインを学び、卒業。フリーのイラストレーターとして活動した後、1993年に『虎の子がゆく!』がちばてつや賞一般部門大賞を受賞、『花の咲く庭』がミスターマガジンの新人漫画賞入選を受賞し、二誌同時デビューとなった」と書いてあります。
郷田:なので93年ですかね?最初のデビューが86年なので、実は「郷田マモラ」以前が長いんですよ。今おっしゃったようにモーニングは「虎の子がゆく!」という作品でした。4年前にアフタヌーンで連載させてもらった時は10ヶ月で打ち切りだったので、「今度は11ヶ月連載できるように頑張ります!」と言って、授賞式ではウケを取りましたが、何と9ヶ月で打ち切りになりました。単行本は2巻出て、それでも初版は2万5千部でした。
佐藤:いい時代ですねー…。今は初版3万部で大ヒットとか言われますよ。でも、打ち切りになってしまったということはまた投稿生活に逆戻り…?
郷田:当時、マガジンハウスが 「コミックアレ」という月刊誌の創刊を準備中で、すぐにそこで連載が決まりました。その頃はすでにアシスタントを雇っていまして、その子がマガジンハウスに持ち込みをしていて、「郷田マモラの所で働いている」と言ったら、「紹介してくれ」となったらしいです。「純情ダウンタウン」という作品で、創刊号から1年間月間連載して単行本が1冊出ています。モーニングは担当編集者がものすごくキツかったんですね。忙しいのもありましたけど、「ああしろ、こうしろ」とか。だから、コミックアレは月刊だし編集者が漫画を知らない人ばっかりでゆるいんですよ。いいリハビリになりました。
その作品が終わった後は、「考えるサル」という作品を同誌で2年間連載させてもらいました。で、「純情ダウンタウン」の連載中にミスターマガジンから連絡があって、「法医学モノを描かないか?」と。
佐藤:もしかして、それが代表作の「きらきらひかる」ですか?
郷田:そうです、そうです。でも、連載が月3本に増えて地獄でした。当時、結婚したばかりで多摩湖畔に一軒家を借りてこもりっきりでした。アシスタントは2人に増え、嫁もみんなのご飯を作ったり、仕上げを手伝ったり。「きらきらひかる」連載開始から半年後くらいにはドラマ化の話も来て、そちらは97年に実現しましたけど。
佐藤:気がついたらすっかりプロですね。急に売れっ子になって戸惑いませんでしたか?
郷田:それより担当がキツくて…。モーニングもキツかったですけど、当時ミスターマガジンは創刊から3年が経った頃で、もっと雑誌を売っていくために編集部の体制を入れ替えた時期だったんですよ。やたら職業漫画が多く始まり、担当者は最初は2人つきましたが、途中から3人になり、打ち合わせでは最初に新人担当に意見を言わせて、他の2人が徹底的に反論するみたいな。社員教育を兼ねているのかわかりませんけど、編集者側の意見がなかなかまとまらない。僕にもその調子で当たられるので相当キツかったです。でも、それまでは自由に漫画を描いていたのが、漫画理論みたいな物を仕込まれた部分はありますね。
佐藤:あれキツイですよね。社員教育は会社でやってくれというか。ヤクザが目の前で下っ端を怒鳴りつけてるのを見せつけられると、こっちも萎縮するというか、普通の会話ができなくなってくるじゃないですか。
郷田:ははは。でも、僕もメチャメチャでしたから。その頃になると、仕事場を花小金井のマンションに移し、いろんな出版社から仕事の依頼が来るようになってきました。アクションと漫画サンデーからお声がかかって、うっかり両方で短期連載を始めてしまいました。急遽、アシスタントを募集しましたが、3人入ったはいいものの、忙しすぎて1ヶ月で全員辞めてしまって、残った僕は過労で倒れて3日間入院して点滴を受けたり。
97年頃ですかね?「きらきらひかる」がドラマ化された頃の出来事ですが、立ち上げの編集者がモーニングに異動して、その後、マグナム増刊の編集長になったんですよ。その人から声がかかって、「霊が見える監察医」の話を描かないかと言うんです。多分「シックスセンス」を観て影響されたんでしょうけど。「MAKOTO」という連載を隔月で始めました。
同時に漫画サンデーで「なにわ下町小劇場 人間やねん」という月イチ連載も描いていましたね。
そうこうする内にミスターマガジンが休刊し、マグナム増刊も休刊。「きらきらひかる」も「MAKOTO」もお終い。今度は「きらきひかる」の元担当が異動してイブニングの編集長になって、「きらきらひかる」と「MAKOTO」を合わせた作品を描けと言うので「きらきらひかる2」が始まりました。
佐藤:一気にお話を伺いましたが、本当にいろんなことをしていますね。
郷田:他にも同時期にアクションでも女性タクシードライバーの話を描いたり、「次はホラーを描いて欲しい」とかいろいろあったんですけど、アクションがエロ路線に変更になってしまい、話がうやむやになって、その内休刊になってしまった。気がついたら2003年はイブニングだけです。
その後、休刊になったアクションから連絡が来て、「2004年にリニューアル創刊するから描いてくれ」という話になりました。当時、実はイブニングの担当編集者との関係が上手くいっていなかったんです。そういうタイミングだったので、僕はアクションで「モリのアサガオ」をいう作品を連載開始しました。イブニングの「きらきらひかる2」は休載したまま連載自体が自然消滅してしまいました。
佐藤:え?連載が自然消滅なんてあるんですか?
郷田:その時期、「MAKOTO」が映画化されたんですけど、僕は担当者からは「試写会があるけど行く?」と聞かれただけ。何も知らされない。そういう関係になったらもうダメですよね?
佐藤:ちょっと待ってください。映像化の許諾は著作権を持っている著者が出しますよね?映画のプロデューサーに会ったり、脚本が送られてきたりはしなかったんですか?
郷田:ないです。そもそも許諾なんてまったく知りませんでしたし。試写会までに映画化の告知、それから主役の俳優さんと監督の名前だけ知らされただけです。驚いて制作会社に直接連絡したら、チケットを何枚か譲ってくれました。原作使用料もセットにお金がかかったとかで半額しか支払われませんでした。使用料はどっちにしても安いので、単行本も増刷がかかったしいいんですけどね。
佐藤:え〜〜…。僕だったらメールで編集部と交渉して文章で証拠を残してから代理人に委任してああしてこうして…。 でも、まともに話し合える関係ではなかったんですね。だとしたら、次の作品に向き合うのは正しい選択かもしれません。「モリのアサガオ」は僕も大好きな作品です。死刑制度と正面から向き合った傑作だと思います。
郷田:「モリのアサガオ」は順調でしたね。2004年から2007年まで続きましたが、連載開始から1年後には映像化の企画が来ていました。作品は2008年に文化庁メディア芸術祭大賞をいただき、テレビ業界では死刑問題は基本的にNGだそうで、ドラマ化は難航しましたが、2010年にかないました。
連載終了後は「きらきらひかる」の最終章をアクションで描きました。そちらもちゃんと終わらせたかったので。
佐藤:ああ…、やっぱり担当者が変われば描けるようになるんですね。
郷田:「うちで描かない?」」と編集長が言ってくれたおかげで「きらきらひかる」はちゃんと終わらせることができました。同時に実は「モリのアサガオ」執筆中から、「陪審員制度について描かないか?」という話も編集部からありました。ちょうど、翌年から陪審員制度が始まるというタイミングだったので、「きらきらひかる」終了後はすぐにそちらにとりかかりました。「サマヨイザクラ」という作品です。時期的にちょうど良かったのか、連載開始直後から映像化のオファーが殺到して、無事、オンエアされています。
「サマヨイザクラ」は2巻で終わって、この時点で2009年でしたかね?次は「星屑の少年たちへ なにわの思春期外来奮戦記」という作品を発表しました。これもアクションですね。
佐藤:いっぱい描きますね。
郷田:でも、この頃から少しゆっくりしていますかね?2010年はさっき言った「モリのアサガオ」のテレビドラマ化があって、2011年は何なくて、2012年は漫画サンデーで昔描いていた「なにわ小劇場 人間やねん」の中に「蝉の女」という飛田新地を舞台にした短編がありまして、それがショートムービーになりました。「星屑の少年たちへ」もこの年の春に終わっています。
佐藤:ようやく話の中の時計が現在に近づいてきました。さて、次はいよいよ「あしゅらみち -冤罪-」の連載が始まります。この作品の執筆中に郷田さんは例の暴行事件を起こしていますね。連載は途中で終了し、メディアでも大きく取り上げられました。
郷田:はい。被害者の方にはとても悪いことをしてしまいました。僕は中学生の頃から喧嘩で補導されたり、子供の頃から自分でも抑えられない暴力性があった。それは自分でも認めていて、何とかしないといけないとずっと思っていたんですけど…。
佐藤:事件の報道内容は本当だったんですか?以前から郷田さんを存じ上げている者としましては、報道記事を読んでかなり違和感がありました。「郷田さんがそんなことをするはずがない」という僕の願望を差し引いても、つじつまが合っていないというか…。実際の所、どうだったのでしょうか?
郷田:あ、いえ、それは一切言ってはいけない決まりなんです。
佐藤:と言いますと?
郷田:裁判の前日に被害者の方がどうしてか、僕との関係など「自分の情報が特定されかねない情報は一切出さないでほしい。事件の詳細も一切公表しないでほしい」と要望を出されたそうで、僕はそれに従わなくてはいけません。
佐藤:なるほど。では、事件当時は仕事はどのような状況だったんですか?
郷田:この作品を描く少し前にアクションの編集長が交代しました。「星屑の少年たちへ」執筆中に「あしゅらみち」の話も同時に進んでいて、連載はすでに決まっていたんですね。その状況で編集長が交代して新しい編集長には「郷田マモラはもういらない」というニュアンスのことを言われたんです。「自分が就任する前から連載は決まってたから、一応やるけど」と。そういう雰囲気で連載が始まっていました。
同時にその頃いたアシスタントがもう7年以上ずっといる人たちだったので、「そろそろなんとかしてあげないと」というのもあって、僕が原作を描いて、その内のひとりに作画を任せた連載企画を進めていました。
佐藤:なんでそういう作家のやる気を削ぐこと言う編集者がいるんでしょうね。作家にやる気を出させるのが編集者の仕事だろうというか。しかも編集長ですよね?
スタッフの件は、ずっといるスタッフって自分の仕事の方法を理解してくれているのでありがたいけど、「この子たちこのままどうなっちゃうんだろう?独立して漫画家になれるんだろうか?」と心配になってくるんですよね。仕事面ではストレスに囲まれた状況にあったのではないかと想像します。
郷田:いえいえ、そういうことが事件を起こした理由ではありません。あくまで僕の問題なんです。許されないことをしました。
佐藤:辛い質問を続けてしまい申し訳ありません。お話しできないことが多くあることはお察しします。事件によってご家族との関係はどうなりましたか?
郷田:僕が逮捕されたことによって家族はバラバラになってしまった。嫁がストレスから精神的なバランスを保つことができなくなり、当時2歳だった娘を育てることができなくなってしまいました。娘を施設に預け、家族はバラバラになりました。
佐藤:実は今回連載を開始する作品は、その時のご家族との間で起こった出来事をベースに描かれています。僕は作品の成り立ちなど執筆前の打ち合わせで知っていて、その上でこうしてインタビューをさせていただいているワケですが、作家の業とでもいうべきものを感じますよね。作品化することで関係者は当時を再体験することになるかもしれませんし、迷惑をかけるかもしれない。描くべきではないという意見も絶対にあると思います。郷田さんはそういう想像力をお持ちの方だと思いますが、それでも描こうとするのはどういう気持ちが底にあるからなのでしょうか。
何を描きたくてこの作品を作ったのですか?
郷田:僕が施設に預けた娘を取り戻すためにしたこと、そこで感じたことを描こうと思っています。
佐藤:まず、奥様が精神面のバランスを崩されたということですが、具体的には何が起こったのでしょうか。
郷田:そうですね。まず夫がやったこと、急にいなくなったこと、逮捕されたことが大きなショックだったと思います。それとは別に、僕と面識のある女性が「私も郷田の被害者だ」と嫁に連絡をしてきたことがありまして。そちらは事実ではないのですが、嫁は混乱していましたし、それを説明できる僕は留置所で目の前にいない。その女性の話を信じてしまい、200万円の慰謝料を支払ったそうです。それによって嫁が僕に対する憎悪をさらに募らせた部分もあり…。
逮捕から10日後、留置所にやってきた嫁は「娘を育てられなくなった」と言い、面会室の窓を叩いたり、言葉で僕を責めました。彼女は彼女なりに子供を守ることに必死で、自分が正常な状態ではないということを自覚した時、市役所経由で児童相談所に相談して、娘を施設にあずけることを決めました。それが彼女なりの誠実さだったと思います。
そして、僕に対しては「家を売れ」「実家の土地を売れ」と迫り、僕の生命保険を解約したり、娘を改名するための書類に母印を押させたり、離婚届にも判を押しました。 壊した物の大きさを思い知りました。自分が捕まったニュースが留置所のラジオから流れるのを聞きました。
佐藤:壮絶ですね…。でも、この話を聞いても多くの人は同情しないと思います。郷田さんはそれを受け止めなくてはいけません。留置所を出た後はどうなりましたか?
郷田:家に帰ると部屋の中は荒れ果てていました。嫁は離婚して荷物を持って家を出て、子供はいなくなり、「あしゅらみち」の連載も中止になりました。留置所を出てから10日間は死ぬことばかり考えましたね。自殺未遂も何回かしました。西国分寺の都営マンションの階段を10階まで上がると、風が吹いているんですね。その風が背中を後押しをするというか、そこから飛び降りようかなと。でも、夏で子供が下の方で遊んでいる声が聞こえてきて、あの子たちに自分の死体を見せるのは申し訳ない気がして。その後、知り合いが僕を元気付けようと電話をくれた時はボロボロ泣きました。
佐藤:当時、僕もお声がけしていいものかどうか悩みました。でも結局、ご連絡しましたけど…。
郷田:いやいや、ありがたかったですよ。そうやって周りの人に支えられて、何とか死なずにやっていられました。
佐藤:「あしゅらみち」の連載中止はどのように決まったんですか?
郷田:まず出てきて担当者の携帯に何度も連絡したんですけど受信拒否でまったくつながらないんです。謝りたいのと、今後のことも話し合わないと、と思っていたので、編集部に電話して編集長に繋いでもらいました。編集長の第一声は「何の用ですか?」と。元々、「郷田マモラはもういらない」と言っていた方だったので、そんな感じで「連載中止だ」ということを言われました。
佐藤:そこは実は僕はよくわからないのですが、多分、担当者については電話に出るなという指示が編集部内であったでしょう。その上で、郷田さんはアクションという雑誌に貢献してきた作家じゃないですか。一度、アクションが潰れて、その後の時代を作ってきた作家です。もちろん犯罪を犯したわけですから、社会的な価値観に照らし合わせて連載中止は仕方ないと思います。それにしても、「何の用ですか?」とまで言わなくてもいいと思うのですが。
郷田:そういうことをしたんだと思います。でも、「連載は終了するが版権は双葉社にある」とも言われたので、連載をどこかの雑誌移籍して続けるようなこともできなくなりました。それで今は登場人物や設定も全部変えて、別作品として発表しています。2014年の8月から連載していますので、「あしゅらみち」を描き続けられなくなってから10ヶ月ほど後の話ですね。
佐藤:そちらの作品名は何と言いますか?
郷田:すいません。ここで作品名を挙げて、出版社や作画家の方にご迷惑をかけてしまってはいけないので…。
佐藤:分かりました。では、その後、ご家庭はどうなりましたか?
郷田:やがて嫁が…この時点では元嫁ですが、時々、家にやってくるようになりました。残った荷物の整理が理由なのですが、その片付け中にたまたま家の電話が鳴って、彼女が出たんですね。そしたら、ある人物が「一生をかけてお前の娘から10億取るぞ」と脅迫をしてきたそうで。僕だけじゃなく家族を破滅させようとしている人物がいるのだと思った時、「これは闘わなきゃいけないんだ」と思ったそうです。そこから奇妙な共闘関係のようなものが生まれ、また一緒にやっていこうということになりました。
佐藤:再婚されたんですね。不思議です。それが夫婦というものなのでしょうか。
郷田:本当はもっといろいろあったんですけど…。でも、そうなった時に娘だけがそこにいないんです。施設に預けた娘を家に戻そうと思いましたが、これがなかなか難しいんですね。施設には親から虐待を受けたり、貧しかったり、いろんな理由で親と一緒に暮らせない子供たちが預けられていますので、児童相談所もそうすんなりとは施設から親元に子供を返してくれない。まず、児童相談所の担当者と面談し、これから一緒に暮らして行く意思を伝えて、それが認められて初めて自分の子供に会うことを許されるんです。
10月10日でした。娘に会ったのは4ヶ月ぶりです。6月5日の早朝に自宅に刑事が7人やってきて、実況見分の後、着替えを持って警察に向かうことになりました。手錠はされませんでしたが、家を出る最後に娘を抱かせてもらって…、それ以来です。
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