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誹謗中傷とブーメラン

僕の先輩が次のようなツイートをされていて、これについて僕もコメントをしたくなったので書くことにしました。(※かなりわかりにくくなってしまったかもしれないので、「自分は誤解している」と思いながら読んでくれると嬉しいです。すいません。)

誹謗中傷に関して、それをしている人をただただ非難するのではなく、彼らが石を投げざるをえない理由・背景を捉えようとしているところにとても同意しました。
誰かに石を投げている人に石を投げることは不毛だと思うからです。

一方で、「どうしたらそんな人も思いやりを持てるのか」という点に違和感を覚えました。
「誹謗中傷」の本質はそこにはないように思われたからです。

僕が思う誹謗中傷の本質的側面

このツイートの引用元のツイートに「匿名の誹謗中傷はダサい」「(ビラを撒いた人の)想像力が乏しすぎる」という文言がありますが、多分これも誹謗中傷になりえますよね。その時、石を投げているのは安藤さん自身になる。
つまり(あまりにも言葉足らずですが)僕が言いたいのは、誹謗中傷の本質というのは自分自身が石を投げていることに気づいてないことにあるように思うということです。
それはすなわち、自身の正義感を相対化できていないことであるように思います。

簡単な例で言えば、芸能人が不倫したらその芸能人に対して罵詈雑言が飛び交いますよね。そこには「不倫はしてはいけない」という正義(不倫をすることは悪)に基づいて、芸能人に対して正義の鉄槌を下しているわけです。その時、罵詈雑言を放っている人たちの多くは罵詈雑言を放つことを「正しい」ことだと信じているわけです。その「不倫をしてはいけない」という正義を信じており、「悪」には罵詈雑言の鉄槌を悪気なく無自覚に下してしまうわけです。
本来、自分の持っている価値観・正義を誰もが持っているわけではなく、批判された芸能人には芸能人なりの「不倫」に対する価値観・正義があるはずで、その価値観・正義というのが自分には理解できないものであるからといって芸能人に鉄槌を下すことは正当化されません。
つまり芸能人の不倫に対する誹謗中傷においては、「不倫をしてはいけない」という正義を絶対的なものと無意識のうちに捉えている人が、正義の鉄槌をふるった結果、無自覚のうちに誹謗中傷をしていたのだと言えます。

また、少し複雑ですが、より誹謗中傷の本質をわかりやすく表出させているように思われるのが、次の例です。プロレスラーの木村花さんの自殺に際して、ネット上で誹謗中傷が話題に上った時にこんな感じの趣旨のツイートが数多く見受けられました。

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これは「石を投げている人に石を投げる」典型例だと思います。ここでは「誹謗中傷をすることは悪」という正義感のもとに、誹謗中傷している人が「バカ」と呼ばれています。このツイートをした人は「誹謗中傷をすることは悪」の正義感の下で、「悪」に正義の鉄槌(「バカ」)を下しているのですが、自分自身が「誹謗中傷している人」を誹謗中傷していることには気づいていないでしょう。

結局言いたいこと

ここまで書いてきて僕は結局何を言いたいのかというと、誹謗中傷を無くしたいのであればやることは自分が理解できない人の価値観・正義を認めることと、自分自身が誰かを傷つける行為をしていないか自省をすることです。

「悪いことしている他人をどうにか更生・変化させてやろう」という姿勢には、自身の価値観・正義の押し付けがあります。何が「悪いこと」なのかは価値観・正義によって違います。そのため、誹謗中傷のように自分にとって「正しい」ことを相手に押し付けることはその人の価値観・正義を否定する暴力的な行為にならざるを得ません。(誹謗中傷でない「押し付け」の方法はあるのかもしれませんが、多様な人間が存在する以上、その方法は根本的な解決にはならず、暴力的なものにならざるを得ません。多様な人間全員に一定の価値観をうまく押し付けることは成功し得ません。途中過程で大きな同調圧力が生じ、それに圧殺されるマイノリティがうまれます。)
自身の価値観・正義を相手に認めさせるのではなく、相手の価値観・正義を理解しようとしたり、理解できなくても相手の価値観・正義の存在をみとめることが大事だと思います。

そして何より、自分自身が誰かを傷つける行為をしてないか自省することが必要なのは、誹謗中傷を行う主体の多くは自身が誹謗中傷を行なっていることに無自覚であると考えられるからです。すなわち、僕自身(注意しているつもりではありますがそれでも)無自覚のうちに誹謗中傷を行なっている可能性があるということです。

冒頭で安藤さんのツイートの「どうしたらそんな人(中傷した人・心が不健全な人)も思いやりを持てるのか」という点に違和感を覚えたのはまさに今述べたようなことが理由です。すなわち、自分自身を「中傷した人」から除き、「中傷した人」という他人をどう変えるか(思いやりを持たせるのか)という視点に立っていることに違和感を覚えたのです。

余談だけど一番大事かもしれないこと

それと余談ですが、そもそも「誹謗中傷とは何か」が語られなければ誹謗中傷に関する議論はほとんど意味をなさないと思います(つまり、この文章全体としてブーメランです)。「誹謗中傷」という言葉が使われすぎて、僕にはその実体がつかめなくなってきています。この文章ではなんとなく「人を傷つけること」ぐらいの意味で使っていましたが。「誹謗中傷とはなんなのか」を語り合うことは、誹謗中傷に関して生じている問題を解決する糸口になるような気がします。

あと、「誹謗中傷とは何か」について語ったあと「そもそも誹謗中傷はいけないのか」「なぜいけないのか/いけなくないのか」について語り合うことも必要な気がします。
上では「誹謗中傷をしている人は無自覚のうちにやっている」という旨のことを書きましたが、誹謗中傷を誹謗中傷とわかっていて書いている人もたくさんいるでしょう。そのような人たちの中には「誹謗中傷はいけなくない」という価値観を持っている人もいるでしょう。(ただし、全員がそうだとは思いません。してはいけないと思っているけれどついついしてしまう人もいると思います。)彼らの価値観を理解する/みとめる為にも必要な語り合いだと思います。

つまり、誹謗中傷に関する多くの議論では(この文章も含めて)誹謗中傷という言葉が上っ面で使われ、「誹謗中傷はいけない」ということが暗黙の前提となっているように思われ、そのような状況において「誹謗中傷をなくそう」みたいな話をすることにあまり意味を感じられないということです。

最近「大抵の批判はブーメランだ」という意見を耳にして、確かにそうかもしれないと思っています。つまりこの文章自体、僕自身に批判の矛先が向いているということです。書きながら、これブーメランだなあと思うところが多々ありました。読者の方々は僕よりもっとブーメラン感を感じているかもしれませんね。

最後までお読みいただきありがとうございました。
ツイートを勝手に使わせていただいた安藤さんは今お茶の水大学の「水コン」でがんばってらっしゃるので皆さん応援してください。

本当の余談

ここに書いたことって、多分戦争とか差別とかの議論にもつながる部分がありますよね。
戦争において戦っているのは「正義と悪」ではなく「正義と正義」だみたいな話よく聞きます。
それと、この前「人種差別ほど絶対的な悪はないんだから人種差別するやつには正義の鉄槌を下していい」という感じの主張をする方と議論しましたが、僕の正義感ではやはり人種差別をしているからといって鉄槌を下していいとは思いません。僕は人種差別している人の気持ちを多分わかっていませんが、わかろうとする姿勢を持ちたいし少なくとも彼らの価値観を踏みにじるようなことはしたくありません。踏みにじることこそ、差別と同じくらい暴力的な行為だと思うからです。
人種差別をする人はおそらく彼らなりの正義感のもと行動をとってそれが結果的に他人からは「差別」とされているわけで、それはつまり僕自身も「差別」とされる行動をとっている可能性があるということです。人種差別という文脈においても、やはりできることは差別しているとされている人の価値観の存在をみとめようとすることと、自分の中に存在しうる差別意識に目を向けようとすることだと思います。
僕自身これらのことをできている気はあまりしませんがね。

次なんか面白いことやるように使おうと思います。 もらえたらめちゃくちゃ喜びます。 サポートの際、これやってほしい!みたいなのがあれば反映されるかもです。