転換点かもしれない
今年は自分と向き合うことが多い年だったように思う
向き合うというのは、「自分は何者なのか、いや何者でもない」といった感じのとはちょっと違って
初めての場所に行って何が目に入るのか
初めての経験をして何を感じるのか
そこから自分が心導かれる、重心が寄る方向・角度を見つけていくようなイメージ
そういえば、年始にそれっぽいことをnoteに書いたことを思い出した
「ちゃんと謝る」「ちゃんと感謝を伝える」
これらは割とできたんじゃないかと思う
同時に複数のことを処理するのが難しく、そのことで最善の対応ができないことが何回かあり、謝ることはできた。感謝も前よりは意識的にするようになった…はずである。
「みんなを信じる」「仲間を頼る」
元々人に頼むのが申し訳ないとか、この人とはまだこういう関係性だから、言ってみるのはやめようとか、自分のこんな面を出したら相手はきっと嫌に違いないという過度で憶測でしかない妄想を抱くことがあったことに由来する。逆の立場になって考えるとそんなことはないのだが、自分だけはそうなんじゃないかと思うことがかねてよりあったのだ。でも、もうそんなことを考えるのはやめようと思えたのが2024年だった。
「内省の時間を意識的に持つ」
日常ではあまり持てなかった気がする。ただ、今年は移動距離がハンパなく、1年間での国内移動距離はおそらく人生で一番長かった。1年間で訪れた都道府県数も最多だと思う。北は北海道から南は屋久島まで。特にお金を稼げる出張でもない...むしろ使いすぎなのだが、今考えてみるといずれも「内省の時間を意識的に持つ」ことができた気がしている。
「祈りの時間をつくる」
日常でこの時間を作ることができなかった。世の中では今年も悲しく痛みをともなうさまざまなことが起きた。「なんでなんだ」とその度思い、自分の中で感情がさまよう。自分の手が及ばないところにある事柄に対して、祈りという形をとりたい。そしてそれを共有していきたいと思っているのだができていない。2025年は祈りを大切にしたい。
「挑戦を必要以上に怖がらない」
ええい!の勢いで何かに飛びつく行動力はあれど、自分発信で何かをするときのスピードがとっても遅い。見られたときどう思うかに保険をかけすぎてしまうのだと思っている。(仮)で公開すること、完璧でない状態でシェアすることが怖かった。「自分なんて...」という過度な蔑み妄想のせいで、こんなにも味方がいるのに味方を頼れなかった。未完成の自分をさらけ出すのが怖かったのかもしれない。
でも2024年、なんとかリハビリして、ちょっとずつ未完成の自分を出せるようになってきた。それでも、2月の淡路島、8月の屋久島、11月のサティシュ、その他感じたことはたくさんあるのに、うまく整理できていないからってまだnoteを書けていない自分がいるわけで...(笑)
もっと未完成を楽しめる人間になりたい