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記憶力とは何か

記憶力が高いというのはどういうことかを考えることがある。
これは自惚れというわけでもないし、僕より優れている人などいくらでもいると思っているが、僕は

  • 色々な分野に博識だね

  • なぜそんなことを知っているの?

などと言われることがある。ただ、僕自身は自分が物事を記憶できる容量が、人よりも優れていると思ったことがない。

人間の記憶力とは何か

記憶力は単に人間が持つ脳内の永続化された記憶領域の容量の大小ではないことは、明白であろう。
では何が記憶力なのかと言うと、「記憶力」と呼ばれるものの構成要素について、僕は次の3つから構成されると考えている。

  1. 記憶容量

  2. 読み書き速度

  3. 理解力、表現力(=演算能力、出力装置の性能)

これはちょうど、コンピュータの性能のようなもので、1が永続記憶領域 = HDDやSSDの容量、2がそれらの読み取りを高速に行う性能や、そのためのメモリ容量、そして3はその記憶を求められる形に加工し、言葉や図形、場合によっては動画によって表現する能力と言える。3については最初、演算と出力の2つに分解するのが適切なようにも思ったものの、演算装置がCPUにしてもGPUにしても、目的とする出力のための演算であることを考えると、理解し表現するとひとまとまりにするのが適切と考えた。
なぜこの3要素で構成されるかは、「記憶力が高い」と言われる人がどのような場面で記憶力が高いと言われているかを考えてみるとわかる。

  • ①ある場面で必要な情報を

  • ②その場面に適した形で

  • ③即座に取り出して伝えることができる

という振る舞いをできたときにこそ、ある人記憶力が高いと思うはずだ。①〜③のどの要素が欠けていても、記憶力が高い人の振る舞いにはならないはずである。
それぞれが欠けているケースを具体的に思い浮かべてみよう。

  • ①今から食べるランチの行き先の話をしているときに、急に近くの釣具屋の話をし始めれば、それは記憶力が高い人の振る舞いではない

  • ②ランチの行き先の話を主に現在地からの近さを元に判断しようとしているのに、その行き先となるお店がどういったオーナー・経営者によって運営されているかを話し始めれば、それは記憶力が高い人の振る舞いではない

  • ③そのランチの店の情報を得るために、その場で1時間のデスクリサーチをした場合には、それは記憶力が高い人の振る舞いではない

①②は理解力・表現力が欠けている話、③は記憶容量や読み書き速度が欠けている話だが、いずれにせよ、「記憶力」とは単に記憶容量ではないということが分かる。

記憶力と情報の畳み込み・抽象化

僕は数学や物理学のような世の中の具体的な現象をシンプルで抽象的な理論で説明する学問に美しさを感じる。また、こういった美的感覚を同じように持つ人との会話を楽しく感じ、そのような感覚を他者と共有していると感じたときに喜びを覚える。
そして反対に、時折「数学は公式の暗記ができなくて苦手だったな。」とか、「公式を覚えてさえいれば物理はできる」というようなことを言われると、とても悲しい気持ちになってしまう。
僕が記憶力の面で相対的に優れていると他者から思われることが多いのは、記憶容量の大きさというよりも、情報の畳み込み・抽象化能力に優れていることが大きいと考えている。
そしてそういった能力が鍛えられた背景にはおそらく、学生時代に取り組んだ数学・物理学的な学問が大きく影響している。例えば物理学において $${F=ma}$$  のようなニュートン力学の最も基本的な力と質量、加速度に関する数式であれば、

  • 羽のような軽いものが落ちてきても痛くない

  • 鉄球が落ちてきたら痛い

  • 体重が重い人のパンチは、同じ速さでも強さが違う

  • 重い物と軽い物がぶつかると、重い物の速度が遅くても、軽い側は大きく加速される

といったたくさんの具体的な現象を、1つの抽象的でシンプルな表現でまとめている。さらに、具体的でこれまでに見たこと・経験したことがある事象以外にも、これから起こるかもしれないこの式が前提としている条件を満たす全ての現象に対して予測可能性を与えている。光の速度に近いような高速で運動する物体に対しては、この数式を適用できないが、これは「この式が前提としている条件」を満たさないケースである。そういった意味で、アインシュタインはニュートン力学を否定したわけではなく、近似項を無視できないような極めて高速で運動する物体にまでそれを拡張しており、よりシンプルな1つの理論で世界を説明できるようにしたと言える。
余談だがそういった意味で、僕は数学や物理学を形容するときに「難しい」というのは正しい表現に思うものの「複雑である」というのは明確に間違っていると考える。現実の具体的な事象の方がよほど複雑ではないか。シンプルさと理解の簡単さというのは、全く違うものと捉えるべきだろう。


さて、古典力学に基づく例を説明したが、数学においても、偶数を $${2n(n∈ℤ)}$$ と表現することは、個々の具体的な偶数を-10, -8, …, 0, …, 10, …と無限に列挙していくことなく、抽象的に表現したシンプルな式によって、有限の記憶容量で収められるように、そして有限の表現の中でも効率的に格納できる形で表現したものと言える。つまり、数学者や物理学者は、現実世界の圧縮アルゴリズムを作っているとも言えるかもしれない。

話を記憶力に戻すと、僕は小学校・中学校・高校・大学と数学や物理学がとても好きだったし、歴史や古典、文学も好きだったが、それらのどれか1つでも「暗記科目」と捉えたことは一度もない。
僕にとって知識・知恵を得る全ての過程は、具体的な事象を抽象化し、よりシンプルで小さな記憶容量に収められるようにしていく行為であった。それは言い換えると集合同士の関係性を作っていくこととも言える。
それは例えば以下のような考え方を指している。

  • 偶数は $${2n(n∈ℤ)}$$ と表現できる

  • 奇数は任意の偶数に1を足すことで得られる

数学的な話はわかりづらい可能性があるため、もう少し具体的で現実に近い例えをするなら、

  • ①明日の予定は、A, B, C, D, ……, Nである

  • ②明日の予定は、Googleカレンダーに入れている。Googleカレンダーにアクセスするためにはスマホを使えば良い

という考え方のうち、ほとんどのケースで②のような考え方をしているということだ。だからこそ、僕の周りの人は、僕のことを予定の管理を全然できない人だと思っているはずだ。例えば「明日Aという予定があるの、忘れてないですよね?」と僕に聞いても、「あー、そうなんですね」と返すことがほとんどである。僕からすると、そんな具体的な予定は覚える必要がなく、その予定の情報を取り出す方法さえ覚えておけばよいというわけである。

最近まで、僕は具体的でマニュアルに明確に細かいことまで定められているような手続きを覚え、実行することがとても苦手であり、また例えば昨日の食事の内容といった簡単な内容も全く覚えていないため、自分自身に対して短期記憶能力が極めて低いと考えていた。それ自体は現象の表現として誤ってはいないが、当たらずとも遠からずだったというのが、今の感想である。本質的には、僕は具体的な情報を覚えることを、それが必要な場合を除いて一切しないことを習慣づけられているというのがより正確だと思う。
つまり、マニュアルの中身を覚えることはしておらず、マニュアルを見ればその仕事のやり方が分かることを記憶していて、また昨日何を食べたかは、昨日の行動を思い出す手段(Googleカレンダーなど)があれば分かることである、と記憶しているわけだ。

これは具体的情報をできる限り捨象して、その情報を記憶するために使う脳の記憶領域を最小化していると言え、データベースの正規化やリレーションの設計と近いかもしれない。
こういった記憶の仕方に対して、「意味記憶」というような呼び方をすることがあるが、その呼び方は僕の感覚と少し異なる。なぜなら、僕はある具体的な記憶すべき情報に意味というラベルを貼っているのではなく、すでに存在する集合のなかの1要素として、具体的な情報を位置付けているためだ。
例えば、Aさんという人の情報を記憶するとき、意味記憶と呼ばれるものと僕の記憶の仕方には、次のような違いがある。

  • 「意味記憶」のイメージ

    • Aさん:A社、趣味がゴルフ、…

  • 僕の記憶の仕方

    • J社の人

      • Aさん

      • ……

    • ゴルフが好きな人

      • Aさん

      • ……

つまり、データベースのテーブル設計的に言うならば、僕は人というテーブルの1カラムとして、その人の属性を管理することをやっておらず、Aさんとその人と会った場面などの情報をキーとして、他の集合を管理するテーブルとAさんとを紐づけているという感じである。
意味記憶のような、個々の具体的要素に対してラベルをつけていく記憶の仕方は、記憶容量の使い方として、また情報の関係性の管理方法として効率が悪いというのが僕の意見である。人間の脳という記憶媒体は、容量が有限で直接的に後天的に拡張することが困難なので、その容量の使い方を工夫しなければ大量の情報を保持し、処理・表現することができない。
一方で、ある分野の学習の過程として、1.個々の要素の単なる記録→2. 意味記憶のようなラベルづけがなされた記録→3. 抽象化され、適切に最適化されたテーブルに格納された記録、というような順序で、脳の記憶容量の使い方を最適化していくことこそが、その物事を知っている状態から理解している状態への習熟なのだという話なら、それは理解できる。

実務能力と抽象的思考力

さて、ここまで書いたような具体的事象を抽象的でシンプルな数式や言語に落とし込む方法は、脳の記憶容量の有効活用といった観点や、それらを効率よく取り出す方法として優れていると思う。しかし同時に、これらが優れていることは、必ずしも実務能力の面で短期的に優れていることと紐づかない。
結局、実務的な問題解決を行うためには、ハードコーディングしておくべき定数や即時に取り出すことがより容易な形で、あえて抽象化せずに持っておくべき情報が必要だからだ。
キッチンで魚を捌きたいというときに、魚を捌くための道具はキッチンのどこかに存在するというような抽象化された記憶では、鮮度を落とさずに魚を捌ききることができない。魚を上手く高速に捌くためには、まな板、出刃包丁と柳包丁、おろした魚を入れるバット、流し台、そしてそれら全ての調理台上の位置関係を体で覚えていて、調理台に立てば手足を無意識に動かせるレベルまで慣れていることが必要なのである。このように無意識レベルで体を動かせることを一般に慣れと呼ぶ。では慣れというのは何かというと、脳の極めて取り出しが容易な領域に、そういった情報を極めて具体的なレベルで保存している状態を言うのだと考えている。
抽象化されたシンプルな集合とそれらの関係性だけを脳に効率よく詰め込んだ状態というのは、データが全然入っていないが、極めてきれいに設計されたデータベースとそれにアクセスするためのAPIのようなものであり、実際にそれを動かして問題を解決するためには、現実のデータが入っている必要があるというわけだ。

まとめ

  • 記憶力は記憶容量、読み書き能力、理解力・表現力から構成される

  • 物事の記憶の仕方として、具体的な情報を具体的なままに記憶する方法と、抽象化して具体的な情報を捨象して記憶する方法がある

  • 現実の問題解決のためには、具体的な情報を具体的なままに記憶する方が優れていることがある


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