見出し画像

大学生活観察日記7 満員電車での試み・「百科全書」のホンモノにふれる

4/13(木)


ふう、今日もいろんなことがありました。

最近はこの観察日記を書くのが一つの楽しみになっていて、生活の中で「あ、これ観察日記に書こう」と思うこととかがしばしばあります。

今日はまず、朝の満員電車の攻略法を探っていました。

僕は満員電車がとても苦手で、一応1・2年生の頃は毎日のように乗っていたのですが、2年生の間に夏休みを長めにとったらしばらく乗らない期間ができて、その間に満員電車に乗るのが苦痛になってしまいました。なんでかといえば、というかなんでかとか言わずとも、見知らぬ人間と密着して密室に鮨詰めにされて、ムンムンとしたクサい空気を呼吸しながら電車の揺れに耐えるのは、誰がどう考えても不快だと思います。満員電車が平気な人もみんな慣れてるだけで、しばらく乗らない生活を送ったら誰しもが満員電車なんか乗りたくないはずだと勝手に思っています。

ああ、書いていたらなんかもう眠気が襲ってきました。まず電車に乗る以前に、毎日6時台に起きる生活になったので夜眠くなるのが早いです。健康ではありますが、朝目覚ましに起こされるのが若干ストレスなので、対処法を考えなければいけません。休日に目覚ましがかかってなかったら、同じ時間に起きるのでも健やかに起きられるのに、目覚ましがかかってると目覚ましより早い時間に起きたら、なんとなくまだ寝ようと思ってしまって、眠りにつこうとしている状態で目覚めさせられるから、起きるのがしんどくなります。かといって目覚ましをかけないで寝るのも不安です。どうしたもんか。早く寝りゃいいのですが、この文章を書く時間をどうするか。21時に寝て朝書くのも考えたけど、今日あったことは今日のうちにここに書き出してスッキリして寝たいです。最近は22:30に寝ているのですが、ロングスリーパーなので8時間だとちょっとギリギリです。明日は試しに、この時間に起きたら出発ギリギリだよみたいな時間に目覚ましをかけて、明日の自分が目覚ましより早く目を覚ましたときに二度寝を躊躇わせようと思います。ものは試しです。


さて、満員電車の攻略法に話を戻すと、僕は満員電車が苦手なので、それを乗りこなせるようになりたいと思いました。授業の時間的にピーク時に乗らざるを得ないし、ポチから離れたくないのと自然のある地元にいたいから大学の近場に一人暮らししたいと思わないし、なので、満員電車をなんとか乗りこなしたいです。今日は何を試みたかというと、隣の人との接点を和することです。満員電車で辛いのは、隣の人がなんか苛立ったようにぶつかってきたり、不快な感じの触れ方というか、苛立ってるわけじゃなくてもみんな周りへは閉ざした感じで、余裕がないです。僕はそういう感じをくっついている人の接点に感じていることに気がついたので、そこに注意を向けてみることにしました。

以前笹井信吾先生という方の稽古で、「相手の印象を受け取って動く」ことをやりました。相手の腕に触れて、相手の腕を力で能動的に動かすのではなく、相手との接触から感じる相手の印象を手のひらから吸い上げ、その吸い上げた印象から動きます。文字にするとなんのこっちゃわからないかもしれませんが、そういうことを稽古しました。この吸い上げは、身体が開いた人相手にやるとやりやすいのですが、体が閉じた人、たとえば電車にいるときのような状態の人にやると、すごい拒絶されてる感じというか、胸が苦しくなるような感じがあって、生きる豊かさを閉ざし押し殺していて、病みそうとか死にたくなりそうとすら思います。稽古では僕自身が電車の中にいるときのような状態になって、組んだ相手に吸い上げてもらったのですが、吸い上げる側とは対照的に、吸い上げられる側は体が開こうとする感覚を体験しました。相手がこちらの何かを引き出そうとしてくれてるような、あたたかさも感じました。そこも全力で拒否すれば、より閉ざした状態を保てたのかもしれませんが、僕の組んだ相手が上手だったのか、閉ざすのも難しかったです。

そういう稽古をしていたから、今日は満員電車で接触した人との接点から相手の印象を吸い上げることにしました。

やっぱり相手も体を閉ざしているし、こちらも閉ざしているところがあるから、吸い上げようとすると壁みたいなのがあるなとは感じました。気を抜くと死にたさも訪れそうな感じがあるのですが、その感覚が全てでもないことが感じられて、壁の向こう側に相手の印象があると感じました。僕は大学に2本の電車で行くのですが、まず1本目の電車では右後ろに女性と左側に男性、その二人からそれぞれに、壁の向こう側の印象を受け取ります。

するとだんだん、自分のからだの動きが2人のからだの動きと連動しているのがわかってきます。お皿に乗せられたプリンが揺らされて揺れるように、電車の揺れで僕ら3人のからだが連動して揺れます。1人1人との間の衝突が減ってきて、接点の感覚が柔らかくなってきました。そして、接点では付かず離れず、押さず引かずな感じの距離が出てきました。後ろの女性の方は、呼吸の動きまで感じられてきました。僕が目を瞑って体を感じていると、今度は隣の男性が立ちながら寝そうになっています。寝落ちする寸前で起きるから、膝がガクッとなって何回か僕の足に当たりました。接点が柔らかすぎて、逆に電車にしては気持ち悪い感じになってきて、何度か一旦からだを少し動かしたりして少し壁を作ったりもしました。

乗り換えた後の2本目の電車では、後ろに立つ女性のひじが僕の腰に当たっていました。その人との接点にも注意を向けていたら、その女性のひじが冷たすぎて、冷たいといっても表面温度というより、なんか冷ややかって感じでうげっと思いました。普段だみたいに注意を向けずに乗っていたらうげっとはならなかったかもしれません。でも、なんか嫌な気持ちだなとはなってたかもしれません。その女性は壁が厚くて、徹底的に「個人主義」って感じがしました。自己責任論みたいな、人様に迷惑をかけてはいけませんって言いすぎて、寂しくなっちゃってるけど、迷惑かけちゃいけないと思って寂しいとも言えなくなっちゃってる人みたいな感じがしました。僕の妄想です。腰で当たったとこから印象を受け取るのは難しいし、触れているのもなんか疲れるから、少しずつ体勢を変えて僕の正面にその人が来るようにしました。背後から感じるより、正面から感じた方が気楽だと思ったので。そして、その人のひじから寂しいのかな、どうなのかな、なんだろうな、みたいな感じで印象を受け取っていたら、だんだんと、不快ではあるけれどそれが特段問題ではなくなってきました。そうしたら、その人がどこかのタイミングで離れて行きました。何が起きたのかは分かりませんが、何かそこにいることが不都合な感じがしたように見受けられました。

この人に触れるなかで、その人だけでなくその人から向こう側のドアにいる人たちが駅での乗り降りでうごめくのも感じられました。


今日の満員電車での試みはこんな感じです。いずれにせよ、接点ではやっぱり出来事が起きちゃうから、疲れます。どうせ疲れるなら、不快を麻痺させるのではなく、乗りこなす試みをしていこうと思います。自分を含めたみんなが少しでも「個人主義」なからだをやめたら、少しは平和な世の中になるのではないかと思います。満員電車での接触面での試みから、何か変わったり、見出せたりしたらいいな〜。無理のない程度にやっていこうと思います。


さて、大学に着く前に満員電車での試みについて書いていたら残りあと10分です。急いで今日大学であったことを書きたいと思います。

まず、1限の経営史の授業では、『百科全書』のホンモノに触れました。僕は世界史を真面目に勉強していなかった、いや、真面目にやってたけど頭には入っていなかったのですが、それでもどこかで聞いたことのある名前でした。ディドロとダランベールという名前とともに覚えています。この二人が百科全書を編纂した人たちのようです。百科全書は18世紀フランスで書かれた百科事典で、この世のあらゆる知識をまとめようという試みのもと作られたようです。およそ300年前の書籍なので、白手袋をはめて、唾液がつかないようにマスクをして触らせてもらいました。フランス語は僕は読めないので文章は分かりませんでしたが、銅版画は多岐にわたるものでした。武器から葉っぱの形、炭鉱労働に使われていた道具からその設計図、なんでそんなこと載ってんの?みたいなことがたくさん載ってました。めっちゃ面白かったです。いい授業です。そして、本自体の古さというか、当時の人間が当時の作り方で作って、この本が300年前にこの世にあって、300年の経験を積んでいて、300年前の人たちから触れられていて、そういう存在感というか、樹木ともまた違うけど、なんか念みたいなのが入っている気がしました。

東京大学経済学研究科
東京大学経済学研究科


東京大学経済学研究科
東京大学経済学研究科

(先生から「東京大学経済学研究科」と入れることを条件に写真のインターネット
掲載の許可をもらっています)
当時の情報網は実際に見聞きしたことしかないのに、イタリアとかアフリカとかの情報が乗っているページもあるらしいです。銅版画の絵の細かさや、本の存在感から、何かお腹を突かれるような、執念のようなものも感じました。

この本を編纂したうちの1人のディドロという人物は、元々数学者として有名だったダランベールとは違って、制作当時無名の青年だったそうです。でも、当時宮廷や貴族に独占されていた知識を、民衆たちが交際の場で使えるために百科全書作ったようです。僕はもともと、百科全書というのは人間が理性で世界を全て認識できるという傲慢を体現したみたいな本だと思っていたので、あまり好かなかったのですが、ディドロの気概と執念に、ちょっと印象が変わりました。自分も無名の青年だからかもしれません。少しディドロが気に入りました。


その後は、経済史の授業がありました。ああ、もう21時になってしまったので今日の日記を書く時間を終えなければいけません。簡単にまとめます。経済史の授業では、前回も今回もおんなじような疑問を抱きます。それは、今の時代の感性で過去を捉えても、過去に今の感性を投影することになって、過去を過去として理解することには至らないのではないか、ということです。過去を過去そのままとして捉えることは不可能だったとしても、過去を捉えながら同時に今の自身の感性を相対化を試みることすらされなければ、過去を振り返る意味もあまりないように感じてしまいます。そういう趣旨のことを、授業内容に則して具体的に先生に何回か質問しているのですが、納得のいく答えは得られていません。先生の返事からは、感性を相対化するって言ってもどうやるの?そんなの無理じゃない?みたいな印象が受けます。たしかに、頭でやろうとしても難しい気がします。僕は幸い韓氏意拳をやっていて、過去の感性がどんなことかは分からなくても、自分の当たり前に身につけている感性や動き方があらかじめ人間のベースになっているわけではないらしいということだけは体験できているので、自身の感性を脇に置いておく道筋が見えてくるのかもしれません。


あとちょっとだけ書きたい!今日は国富論の輪読はいかずに、文学部の授業に出ました。もう他学部単位の許容範囲はほぼ埋まってるので、取れてもあと1単位なのですが、単位取るためだけに大学にいるわけじゃないから、興味あるやつは出てみようと思いました。前学期に面白い授業をしていた先生です。自分の体験から臨床倫理の哲学研究をしていて、それがとても面白いのです。質問にも素直に答えてくれるし、フェアに議論もしてくださいます。

先生は僕のことを覚えていてくれて、授業後に話しかけにきてくれました。そして、授業内容やそれに関する雑談を、他の学生が帰るまで一緒にしてくれました。「自律」を切り口にした臨床倫理の授業なのですが、僕がリバランスワークでの「自律」というか、自他の関係性・世界観について話したら興味を持ってくれて、施術を受けたいと言ってくれました。

今日はパンフレットを持ってきていなかったので、来週お渡しすることにします。

先生との雑談も、なんだか楽しく、その先生とだとなんでも気楽に話せます。経済学部にもこういう先生いたらいいのになと思いました。


さて、あとちょっとと引き延ばしていたらもう21:14になってしまいました。

時間内に書く方がいいものが書けて、時間を越えると間延びした文章になる気がしていたのですが、今日は時間をオーバーしながらもそれなりにいい文章が書けた気がします。

まあ、ここら辺で終わりにしましょう。もう眠くて仕方ありません。明日も1限です。

ではおやすみなさい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?