遊んでいるのを「ただ見てて」と子供に指示される狂気の時間に得たもの
3歳の娘がブロックで何か作ってたり、おままごとセットとお人形で遊んだりしている時
「パパも一緒にやろうよー!」
と誘ってくれる。
「いいよー」と隣に行ってそのオモチャを手に取ると
「パパ!触っちゃダメ!見ーてーて!」
という大人の思考ではなかなか出てこない指示を頂き、娘が遊ぶのを隣に居てただただ見続けないといけないというイカした時間を過ごす事がある。
娘が遊んでいるのを見ているフリをしながら隠れてスマホを触ったりしていると、急にこちらを振り返って「パパがちゃんと見てるかチェック」をする抜け目なさまで兼ね備え出すのが3歳児。
見てなかった事がバレると
「パパ!ちゃんと見てて!」とお叱りを受けることになる。
なので、本当にしっかりと「娘が遊んでいるのを隣に居てただただ見続けていないといけない」のだ。(もちろん娘のやる事に口を出すのもNG)
最初の頃はこの時間を「何もしていない時間」だと思ってしまい、「理不尽だ」とか「この無意味な時間はなんだ」なんて思っていたけど、何度かこの時間を過ごすうちに、そうではない事がわかってきた。
まず、娘の中には「自分が作るものを見てほしい」というシンプルな動機がある。
その先には「褒められたい」があるし、その根底には「認められたい大事にされたい」がきっとあるわけで。
「パパから自由を奪おう」なんて考えは絶対にない。
なんならうちの娘は「パパにブロック遊びを学ばせてあげよう」という雰囲気すら纏っている。
なめんじゃねぇ。こっちはテメェの33コ上だぞ?なんて野暮なツッコミは遠くにぶん投げて、こちらは「娘より知らない人」になって、遊ぶ娘を「全力で見る」ことにする。
そうして見ていると
え?そこにそのブロックはめちゃうんだ!?
から始まり
あ、それをベットと見立ててるのか!
とか
すべり台の先にトイレがあって、動物園の入り口なのに病院の先生が診察してるのか!
とか
「寝る」という概念と「ブロックの間に挟まる」という概念がこの世界では同一のものなのか!
とか
木の天辺にイルカ!そのイルカの上に象!
などなど
とにかく条理なく自由に創造された世界がそこに作られていく様を見ることが出来る。
なるほど!
これを見せたかったのかこの子は!!!と。
娘が遊んでいるのをただただ見てないといけないというこのイカした時間は
「無意味な時間」ではなく
「凝り固まった大人の頭の中を、子供だけが持つ自由の棒でほぐしてもらっている時間」だったのだ。
ハッとした。
これに気づいた瞬間、そこにいるのは娘ではなく「アナタはもっともっと自由になっていいのよ」と教えてくれる天使だった。
立川談志師匠の言うところの「イリュージョン」だ。あれだ。こっちの方が無理のある状態。
「普通はこう」「常識的に考えるとこう」みたいな答えを、そもそも持っていない人間の想像は、面白いに決まってる。
考えてみたら「無意味な時間」という発想すら、大人の凝り固まった頭でっかちな思考だ。
パパはブロックに触らないで!というのは、もしかしたら
「自分でやりたいからパパがやらないで」という意味ではなく
「自由に想像する邪魔をしないで」なのかも知れない。
大人の勝手な物差しで子供の無限を測ろうとしてた。こりゃ恥ずかしい。
親子に上も下もないけど、自分が上だと当たり前に思いながら接してしまわないよう気をつけないとな、と思う。
この先、この子は親が何か教えなくても、きっと自分で学んで賢くなる。
子供向け番組やら、家庭以外の世界から。
ならば、まだ幼いこの子を、出来る限りよく見ているべきだ。
柔らかい=面白い
子供から与えて貰った「気づき」はきっと大きく残るし、気づければ気づけるほど、親は面白い人になれる。
ことに、気づいた。