ジーニーみたいなあいつと肉まんを半分こ
はじめに
ただ、嫌いになりそう、も、分裂しそう、も、
「わあそんなことになっていたのか〜」と後から気づいたこと。
自覚する前に、これまた無意識に、もみ消そうとしていたから。
大丈夫だよ〜なんの問題もないよ〜って。
もう自分を憐れみたくないし、嫌いになりたくない。
そう思って唱えた言葉だったけど、巡り巡って、
どうやらわたしを苦しめてしまっていたみたい。
planBが見つからないの
羨ましい、と思ってしまった。
12月に、映画「正欲」をみた。この世を生き抜くために夫婦という関係性を結んで暮らすふたりが、とにかく羨ましくて仕方なかった。
性欲がお互いに向くことはなくて、でも、あなたがいるからわたしはここにいていいんだと思える。”普通”の恋愛も奇妙なものだね、なんて笑い合える。いなくならないでね、に、いなくならないよって返ってくる。
そんな2人の姿をみて、あれ、わたしは、と思った。
わたしにも、誰かと暮らす未来があるんだろうか。
想像しようとしてみて、まあ、わたしにはそんなの無理よねとすぐに思った。そんな自分に、びっくりした。そういえばわたし、欲しい未来を想像したことが、これまで一度もない。
なんというか、この先が初めから存在していないのだ。わたしの足元からそこにつづく道はなく、ぽっかり穴が空いている感じ。
結局は、性欲がちゃんと向く相手に出会えたら、わたしも誰かと対等に恋人という関係を築ける。今のわたしのままで、誰かと一緒にいる可能性はない。そう思っているから、一歩先がぽっかりしているんだと思う。
だからと言って、自分のことを欠けていると蔑んだり、普通になりたいと嘆いたりしているわけでもない。やけに淡々としているのだ、自分でも不思議なくらいに。
自分の言葉を持つようになって、わたしはわたしの「好き」や「嫌だ」をちゃんと認識していて。でも、自分を抱きしめることは、未来を諦めることだったのかもしれない。わたしがわたしのままで生きていくその先には、誰もいない。それを当然の事実のように、受け入れるか受け入れないかを決めるまでもなく、頷いちゃってる。そういうもんだよね、って。
あれもダメこれもダメ
行動しないであれこれ言ってるのもな、と思い、恋愛に身を投じてみたこともあった。うまくいかず、諦めに至るわけなんだけど。
えいやっと飛び込んでみたアセクシャルコミュニティで出会いがあったが、むむむ、だった。
この先も、わたしは誰に対してもどんな時でもアセクシャルでい続けると約束したくない。というかできない。そんなの、わかるわけない。その約束ありきで成り立つ関係性に、伸縮性を感じなかった。また自分を固定しちゃいそう。友情結婚に対しても、同じことを思う。変化が許されなさそう。
あなたのことは好きだけど、だから手を繋ぎたいとか、キスしたいとかは思わないんだ。頑張って言ってみたこともある。でも相手には、好意よりも先に、拒絶が伝わってしまうらしい。拒絶しといて好きとはどういうことか、混乱するらしい。混乱の中で、わたしの「好き」はなかったことになってしまう。悲しい。
いいんだ、わたしはここにあるって知ってるから。そうやって、自分をよしよしし続けるのもだんだん虚しくなってくる。他人の言葉で、簡単にぐらぐらしてしまう。
今思い返せば、わたしは一緒にいる人が欲しいんじゃなくて、一緒にいたいと思った人と、一緒にいたかった。結婚やパートナーづくりに目的を定めた人々の中で迷子になるのは当然だったのだ。
でも、一緒にいたい人と一緒にいる方法もわからない。
あれも違う、これも違う、じゃあどうすりゃいいんだ。普通の恋愛をしなければとは思わないけど、そうではないPlan Bが浮かんでこない。
社会を貫く矢印
この、Plan Bがない状態が、クィア・スタディーズという分野で研究されてきたことを偶然知った。その名も、クィア・テンポラリティ論。
たとえばリー・エーデルマンという人は、現代社会を形づくっている未来観は、非常に異性愛主義的・家族主義的・生殖主義的だと指摘している。
誰かと恋愛をして、結婚して家族になり、子どもが産まれる。わかりやすく現在から未来へとつづく一本の矢印が、社会を貫いているということだ。
そうした〇〇主義を前提とせずに未来を考えようとすると、どうなるか。どこかで行き止まりにぶち当たる。性欲が他者に向かない人間が、誰かと恋愛をすることは不可能だと歩みを止めるように。現状、同性カップルには「結婚」という未来が選択できないように。なんか、アイテムが足りなくて、ステージクリアできないみたいだ。
そうなると、他の人たちがやっていることを自分もできるようになるにはどうしたらいいのか、そればかりを考えてしまう。我慢して、隠して、擬態して。自分が、自分たちが欲しい未来ではなく、あるべき未来像に自らをフィットさせようとしてしまう。それしかないって思ってるから。
矢印を、増やしていくこと。そもそものスタート地点として、選択肢が用意されること。それは、決して1人ではできない。
正欲の2人は、普通じゃないままで、ひっそりしたたかに道をつくっていた。矢印の向かう先を、自分たちで決めていた。既存の夫婦という仕組みを乗っ取って、中身を変えて。2人の在り方は、わたしには、眩しかった。
先行く人々が作った道は、現在を生きる人々にとっては遥か遠くに見える光になり、進む方向を示す目印になっていくように思う。
LGBTQ+が出てくるドラマ映画、最近多すぎだろってコメントをいろんなところで見かける。でも、こう考えたらどうだろう。そこで描かれる世界は、誰かにとって、目から鱗の未来かもしれない。え、そんなのありなんだ。想像したこともなくて、想像しないようにしていた、未来かもしれない。
ただ、そこに登場するものはたったひとつの正解ではないことを、何度でも心に刻んでおく必要がある。
友情結婚は今のところ自分の求めるものではないと悟ったわたしには、もう選択肢は残されていないと思い込んでしまった。友情結婚そのものの形はひとつではないし、はじめから性欲が交差しない恋愛結婚だって、あり得るかもしれないのに。
10人中10人が勝手に納得して祝福してくれるような「わかりやすい未来」は、それを手に入れた人たちを自動的に幸せにしてくれるものではないのかも、とも思う。
今あるものは、いつだって、自分仕様にカスタマイズできる。なければ作る。そのパワーを、わたしは持ってる。わたしたちは持ってるよねって、言い合える誰かに、もっと出会いたい。
変化する生きもの 〔悪用編〕
変化する生きもの〔希望編〕は、vol.2🍕の記事のこと。
わたしという人間は、これまでもこれからも世界にひとりしかいない。そして、時間や環境、対峙する相手によって変化する流動的な生き物である。
それは、”あるべきアセクシャル像”に長い間縛られていたわたしにとって、希望でしかなかった。
でも、1年経って。
変化する可能性は、いつか普通になれる可能性になった。
わたしはその時々や関わる人によって変化する生き物なんだから、ここが全てじゃない。たまたま、今、相手とわたしの間には、性欲が発生していないだけ。もしかしたらこれから変わるかもしれないし、この世界のどこかに、わたしが普通の恋愛をできる人がいるかもしれない。
大丈夫、いつか普通になれるよ。
ちゃんと性欲が向く相手に出会っていないだけだよ。
ぜったいに言われたくない言葉を、いつの間にか自分にむけていた。
もうこれ以上、アセクシャルだから不幸だ、と思いたくなくて。
わたしとアセクシャルの関係性がぐらついて、お前のせいじゃねえか、、、と睨みそうになって。でもそれは嫌だ。だって、あの3年間の繰り返しになってしまうから。
だから、仲良くしていたいがゆえに、目をつぶった。
どうしたらアセクシャルの存在感を小さくできるかを考えて、唱えはじめたのが、「いつか、誰かとなら、普通になれるかも」。
いやいや違うよ、アセクシャルのせいじゃないよ。
ずっとこの先アセクシャルとも限らないしね。
わたしが変わればいいんだよね。
たぶんもうほんとに疲れてて。探求するとか、道を探すとかそういうことに。だから、波風立てないことを第一とするエセ平和主義者でいたかった。
それでうまくいくって。
相手が距離を詰めるなどの恋愛ムーブを見せたならば、「相手が思う好きとわたしの好きはそりゃ違うよね、というか人によってそこは違って当然だよね」と解釈して。目の前で起きていることを薄〜く平た〜く伸ばして関係者を人類全体に広げた。普通の恋愛を当たり前に遂行する相手のせいに、そしてそれに応じない自分のせいにしないようにするために。
でもずっと、クソ〜って思ってる。うまくいかないことに対して。
だったらクソ〜って嘆けばよかったんだけど。なんだか悲劇のヒロインぶってるみたいだし、アセクシャルじゃなくなるかもしれないから、もうこれ以上自分を固定するのはやめておこうって。
今の自分を肯定したくてごまかして、でもそれは回り回って、今を否定していて。結局、いつも普通への憧れのようなものがあって、そこに気づけば吸い寄せられてしまう。
もうちょっと開き直ってもいいのかもしれない。心が痛むけど、無理なものは、無理なのだから。
それありきで、わたしが変わればいい、じゃなくて、わたしたちはどう変化していくか、そのために今なにをするのか、なのかな。
わたしの不幸は、わたしが決める
”アセクシャルであること”で受けた恩恵は計り知れない。
出会った名前の呪いは研究テーマになり、これから進む大学院でも、そこから派生した問いを探求する。やっぱり”当事者”であることは強力で、わたしはまるでギフトをもらったかのように感謝していた。
でも、苦しんだあの3年間は、できることならば経験したくなかった。
別になりたくてなったわけじゃない。
母にポロッとこぼした時、ついに口に出してしまった、という感じがした。
受け入れることだけが、共存する方法じゃない。
あのままいけば、わたしはわたしがセクシャルマイノリティという「特別」な存在であることに依存していたと思う。優越感に浸って、自分を売りにするけど、自分をずっと嫌悪している人間になっていただろうな。
いらなかったと口にしたところで、これまで頑張ったわたしは消えず、そしてアセクシャルも消えるわけではない。でも、初めて爽やかに悪態をつけた気がする。自分が身を置く状況に。
自分のことをかわいそうな奴だと思ってるわけじゃないし、思われたくもない。ただ、めんどくさいというか、とっかかりがいくつもあってスムーズに進まないとか、そういうものが存在しているのは本当。
やれやれ、もう困っちゃうな〜くらいの気持ちで。
お前がいて大変だよ、まあ、それ含めてのわたしなんだよな。お前いないとつまんないし。悪態をつきながらもなんだかんだ一緒にいて、帰り道に肉まん半分こしちゃったりして。
青春スポーツ漫画を心にすまわせながら、生きてみようと思うの。
おわりに
発見して、うまくいかなくて、また発見して。同じことの繰り返しのように思えて、むずかしく考えすぎな気がして、へこむ。こんなに長々と書いてるけど、これ全部もしかして他の人にとっては当たり前のことなんじゃ、、、と不安になる。
そんなときには、大切な言葉を、それを大切だと感じた過去の自分ごと、摂取する。『場末にて』は、きっと何度だって読み返す。
大好きな本屋さん「Twililight」の店主さんが朗読している動画も沁み渡るので、ぜひ聴いてほしい。
そして、行き詰まっているように感じたら、まだ知らないわたしがたくさんいることを思い出す。
昨年末から素直に楽しむようになったメイクは、考える・言葉にする以外の方法で自分を知る時間になっている。自分のどのパーツをどう活かすのか、とか、この肌荒れはなぜ起きて何を必要としているのか、とか。
自分のこと、ぜんぜん知らないね。
それが楽しいと思えるから、わたしはいま健康です。
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