世の中って。
最近テレビをつけないせいか世の中の動きにとても疎くなっている私でさえ、コロナウイルスの名前は嫌でも耳にする。
それが私の生活にどれほど影響があるのか、正直なところわからない。
別に何かイベント事に参加するでもなく、かと言って仕事もあるので外に出ないわけでもない。なんとなく手を洗い消毒をして、好きなものを食べつつ、もしかしたらの場合を想定してマスクを付け、帰宅してからはのんびりと夜を過ごしている。
こうしてエッセイを書いている時でも、この家の壁の向こう側で能天気に遊び歩く人もいれば、警戒に警戒を重ね万全の対策を練る人もいる。その数を思い浮かべながら、そこに属さない私と、私と同じように過ごしている同志諸君とを以て、世界は回る。
何かしらの折に見かけた話だが、トイレットペーパーやティッシュが無くなるとの噂が立ちドラッグストアに長蛇の列が作られているらしい。
そのデマを打ち消すためにSNSを使いメーカーが注意喚起を促す。
さて、これにて薬局の長蛇の列は解消されたのだろうか。その答えを私は知らないし、おそらく確かめる事もしないだろう。トイレットペーパーが無くなろうが、長蛇の列に乗り遅れようが、それは私にとって気になる事ではない。
あまり興味がないと言ってしまえばそれまでなのだが、世界の動きに対して、自分の出来る事があまりにも小さすぎるために、私は深く考える事をしないでいる。極端な話をすると、天気予報すらロクに確認せず、朝起きてカーテンを開けた時に初めて、冷たい雨が春の香りを消し去るように降っている事を知る。こうして刻一刻と流れる時の変化に、一体この小さなタンパク質の塊に何が出来ようか。
私一人が並ばなくても、ドラッグストアの列は作られ、トイレットペーパーは市場に流通し、コロナウイルスは何処かで息を潜め、繁華街のネオンが一つずつ消えていく。
そのような性格であるからこそ、私は意欲的に活動する人間やいわゆる意識高い系と揶揄される人々を尊敬している。
よく、まあ、そんなに頑張れるなあ。私には、無理だなあ。と、彼らの行動や成果を眺めしみじみと思う。
先程タンパク質の塊と私の事を比喩したが、同じタンパク質の塊でもこうまで違うのかと思うと、少し面白い。
私は医学的な知識はからっきしなもので、だからこそ不思議に思うのだが、このタンパク質の塊の何処に経験とやらが蓄積され、人格などという曖昧な物が形成されるのか。
見えぬ存在はまるで神の悪戯のように思える。きっと神は気まぐれに私を怠け者にし、気まぐれに彼らに行動力を与えたのだろう。
だとしたら、神様サンキュー。
私は特別頑張りたくない性格をしていて、この性格が実に気に入っているので、神様の悪戯はむしろプラスの方へと向いている。
他の人へなされた悪戯がどのようなものかはわからないが、少なくとも私と、この世界の在り方に関して言えば、私は神に対して文句の一つも出てこない。
ここまで書いて改めて気がついた事があるが、どうやら私は私の事が好きなようだ。崇月として生まれてよかったと、真顔で言えるだろう。
世界はどうだろう、私の好きな花や星の美しさは、私が一から想像するよりもずっと綺麗で、流れる水の音に耳を澄ませば、それだけで心が満たされる。
その代わり、人間が作り出した社会というものは、どうにも好きにはなれないでいる。