胃が痛い。
雨降りの朝、少し冷えた空気に目を覚ますと、布団から出たくないまま幾らかの時間を過ごす事になる。微睡、昨夜少し遅くまで起きていたせいか頭がまだ重たく、体を起こす事がひどく億劫に思える。
それから、少し胃が痛い。
最近、私も大人になってきたおかげか、若干ではあるが辛いものを好むようになってきた。ポケモンカレーやタラコではなく、ビストロなんとか見たいなレトルトカレーや、明太子ご飯を食べ始めた。
だが……、昨日つけ麺を食べた際に一緒に頼んだ「ピリ辛ネギご飯」なるものは、まったくピリ辛レベルではなかったのだ。
辛いものが苦手な同士諸君であればわかるだろうが、自分のキャパシティを超えた辛いものを食べると、1日2日は胃の痛みや不快感とお付き合いし、ムカムカとしながらも別段お医者様のお世話になる必要のない、実に中途半端な時間を過ごさねばならなくなる。
そして、私は今まさに、その状況下におかれている。
ここで一つ言っておきたいのは、別にピリ辛と表記されていたご飯が全くのピリ辛ではなく、ラー油がこんもりかかった激辛ヒリヒリ胃痛ウェルカムご飯だった事に文句やクレームをつけたいわけではない。事前に情報を得ていなかった私の落ち度であり、また日頃辛さに耐性をつけてこなかったミスでもある。そこのつけ麺はたしかに美味しかったので、金輪際二度と行かねえよ、と思っているわけでもない。
私は今、気を紛らわすためだけに書いているに過ぎない。
そして、からさは、本当に必要な要素なのだろうか?
そもそも、「からい」とは「辛い」と書く。これは読み方を変えれば「つらい」にもなる。つまり、「からい」は「つらい」なのだ。
人は幸福を求める生き物だ。世の中の書店やインターネットの記事を見れば、「幸せになる生き方」だとかなんとか、幸福を求める記事が散見される。だが、「辛くなる生き方」や「辛さを求めよう!」などという書籍や記事は見当たらない。それはもちろん、我々人間がつらい事など求めていないからだ。
ならば、何故こうも「からい」食べ物が至る所にあるのだろうか?
幸福を求め生きる人間に、「つらく」なる「からい」ものは本当に必要なのだろうか?
もちろん、「からい」食べ物が好きな人が多数いる事は知っている。私の知人にも何人かいるし、父は好んで七味唐辛子をあらゆるものにかけて食べている。
父の話で思い出したのだが、彼は自分ののみならず、他人の食べ物にも七味唐辛子をかけるクセがある。それについては何度も喧嘩をしてきた。普段仲の良い家族ではあるのだが、七味唐辛子に関しては私と父の間で本気の言い合いが発生し、かつ父は何も学習しないのか、またしてもうどんに七味をどっさりとかけ私の食卓に並べる。
ありえない。思春期の乙女が父親のお風呂の後に入りたがらないのと同じように、私は父親の作った後のうどんを絶対に食べたくはない。まあ、だいぶ感覚は違うのだろうけど。
ともかく、この経験があるおかげで、将来的に私に娘が生まれ、「お父さん私より先にお風呂入らないでくれる?」と、言われるような事があっても、おそらくそこまで大きなダメージはないだろう。娘にとって私の入った後のお風呂は、七味唐辛子が大量に浮いているようなものなのだから。その点においては、うどんの度に喧嘩をしていた父に感謝したい。ありがとうございます、あなたのおかげで私はいつかやってくる思春期の娘との接し方を一つ理解する事が出来ました。
いつもの如く、何の話だっけ? と、あやふやな感じにすれば、胃の痛みもうやむやになるだろうと思い書いていたが、どうやらそうでも無いようだ。
エッセイの内容はしっかりと迷子になりつつ、私の胃の痛みは、きちんとみぞおちのやや下辺りに寝そべってテレビを見ている。
それどころか唇のヒリヒリもなんか出てきたところで、このエッセイを終わりにする。
茶漬けの準備をしつつ、お茶を飲んで待つとしよう……。