海路歴程 第二回<上>/花村萬月
. 02
さて、どうしたものか。
十右衛門は、途方に暮れていた。
元服をすませて七兵衛あらため十右衛門と七つから十に名前の数は増えはしたが、まだ齢十三、産毛じみた鬚がわずかに生えてはきたが、当人は軀の変化を気にとめることもなく、眼差しなどじつに穉い。
まだ子供だが、いつだって狙い澄ましたように難題が突き刺さる。そのほとんどは家の問題、貧困の問題、父親の問題であった。
生まれてからずっと難題にまみれて足掻いてきたが、路傍に座りこんだ十右衛門が抱えているいまの難題は、空腹である。
飢えている。
食う物がない。寝込んだ病身の父になにか食わせなければと、ありとあらゆる算段をしたのだが、誰からも冷たく突き放され、食う物は手に入らなかった。
十右衛門自身も、なにも食べていない。空腹のせいで、投げ遣りな気分だ。
「腹へった~」
ぼやき声で呟いても、食い物が眼前にあらわれるわけではない。
「腹が減ったんだよ!」
癇癪を起こして怒鳴ってみても情況はなにも変わらぬ。
「腹、腹、腹、減ったよぉ腹──」
半泣きになっても、伊勢は五ヶ所湾から吹きあげる生温かく湿った海風が十右衛門の蓬髪をなぶるばかりである。
よけいな声をだしたせいか、ますます消耗がひどい。十右衛門は虚ろになって、ぼんやり地面を眺める。
足許を蟻がゆく。
黒く大きな蟻である。
十右衛門は無意識のうちに抓んで、しばし見つめ、口に抛り込んだ。
躍り食いである。
黒大蟻は十右衛門の口中で狼狽え、迷走した。その動きが舌にくすぐったく、十右衛門は困惑気味の苦笑いを泛べる。
「いてっ!」
蟻が大顎で加減せずに十右衛門の舌先を咬んだのだ。
十右衛門は蟻を吐きださなかった。咬みついているということは動かない、動けないということだ。
十右衛門は舌先を操って奥歯のほうに黒大蟻を移動させた。
ぷち。
そんな音を聞いたような気もしたが、錯覚だろう。
舌に酸味が拡がった。酢にも似た酸っぱさだが、厭な苦みのようなものもある。
しばし蟻の味を慥かめたが、我に返って喉の奥に送りこんだ。
十右衛門の目が地面をさぐる。
すぐに蟻の隊列を見つけた。
手を伸ばし、委細かまわず土塊もまとめて無造作に抓みあげて口に抛り込み、もはや舌の上の蟻の動きを追いもせず、奥歯を臼のように使って蟻を潰していく。
虚しい。
蟻で腹を膨らませるには、どれだけの数を食えばいいのだろうか。徒労感が強い。
それでも食う。
食うしかない。
口中全体に刺さる酸味に辟易しながら、食う。
影が射した。
誰かはわからないが、十右衛門は決まり悪さに顔をあげられなかった。眼前の粗末な藁草履から覗いた拇指を見つめるばかりだ。爪は薄桃色だが、岩角で削られたがごとく荒れていた。
「蟻を食ってるのかい?」
十右衛門は答えない。見られたのだ。答えるまでもない。割り切ったわけではなく、恥ずかしかったのだ。
「見窄らしい。男なら顔をあげな」
口調は荒いけれど、意外な優しさのこもった声だった。十右衛門は無表情をつくって顔をあげた。
幽かに見覚えのある女だった。
八歳くらいのころか、ときおり家にやってきて父となにやら話し込んでいた。すらりとしているが、骨格のしっかりした背丈のある女だ。
女は顎をしゃくった。
ついてこいということだ。十右衛門は膝に手をついて立ちあがった。三日食べていないので、大儀だった。
相賀浦に面した小さな漁村におりた。
漁に出ているのだろう、舫い杭につながれている舟の姿はほとんどない。腐った魚の臭いがきつい。破れた漁網が気怠げに揺れている。人影はない。春の陽射しだけが贅沢にあたりを燦めかせていた。
女は集落の端の荒ら屋に十右衛門を招じ入れた。
荒ら屋の中は意外に整頓されていて、十右衛門の家のような薄汚さはない。
女のものばかりで男の気配はない。
「ほら」
いきなり包丁を突きつけてきた。
十右衛門が固まっていると、片頬だけで笑った。
「刺身にしてやるよ」
「俺をか?」
「莫迦」
女は切先を十右衛門に向けたまま、笑みを崩さずに言った。
「朝、浜で雉羽太をつかまえた。なにを血迷ったか、波打ち際で小躍りしてたよ」
女は包丁を引くと、二の腕ほどもある雉羽太を手にとり、ぶらさげた。全身に散った橙の斑点が鮮やかだ。
ほれ、と鰓をひらいて見せた。鮮紅色が露わになった。新鮮なのが伝わった。
腐りかけていたって食いかねない十右衛門だったが、女の前で自尊の心が湧きあがり、それが猛烈な食慾を抑えこんだ。
女は十右衛門の様子を静かに窺った。
十右衛門は視線に耐えられず、けれど目をそらすのも癪なので、女の左目の下のほくろを凝視していた。
「見てくれは気色悪いけど、美味い魚だよ」
ここいらではあまり獲れない魚なんだけどね──などと付け加えつつ、女は包丁さばきも巧みに雉羽太の刺身を拵え、粗塩を振って真魚板ごと十右衛門の前に差しだした。
十右衛門は自尊もへったくれもなくなり、手摑みで白身を貪り食う。
美味いとか不味いとかの味覚とは無縁で、ただただ肉の塊が腹に落ちていく快感に、意識せずに目尻に涙がにじんだ。
そんな十右衛門を横目で見ながら、女は雉羽太の肝や胃袋を湯引きし、独り言のように訊く。
「幾日食ってなかった?」
やや硬い白身を咀嚼するのに夢中で、女の問いかけに反応するのが遅れた。
「──三日」
さらなる飢えを乗り越えてきたのだろう。女は揶揄の口調で嗤った。
「たった三日で、そのザマか」
内臓の湯引きを十右衛門の前に置く。
女は十右衛門の傍らに立て膝で座ると、箸を差しだし、食えと目で促した。
湯気が十右衛門の顔を湿らせる。動かなくなった十右衛門を女が覗きこむ。
「どうした?」
「いまになって刺身が甘くて」
すべて平らげてしまった雉羽太の余韻に打ち顫えているのである。
「脂が甘いのが雉羽太の取り柄だよ」
「うん」
女が苦笑する。
「泣くことはないだろうが」
「申し訳ありません」
「謝ることもないだろうが」
女は咳払いすると、土間に痰を吐いた。
「熱いうちに、早く食え」
十右衛門は頭をさげ、湯気をあげる肝に箸をのばした。
湯引きした皮まで雉羽太をあまさず平らげた十右衛門を女が好ましげに見つめる。
「すこしは気が充ちてきたか?」
「はい。腹が充ちて、なにやら血のめぐりがよくなったかのような」
「まだ食えるか?」
「もちろん!」
「ならば自分で割れ」
差しだされたのは金槌だった。
「卵を産む前だから、美味しいよ」
赤螺だった。淡い褐色の殻を自分で割れというのだ。
分厚い殻は、恐るおそる金槌を振るっても割れぬくらいに硬い。見かねた女が金槌を奪い、凄い勢いで殻を割っていく。
「赤螺はいくらでも獲れる。浅蜊を食うから赤螺は根刮ぎ獲らなければならない」
女は海女だろう。十右衛門がそう判じたところを狙い澄ましたように、言う。
「米はない。毎日毎日、魚に貝。添え物に磯菜。飽きあきだ」
勢州には豊かな海がある。まともに潜ることもできぬ十右衛門には宝の持ち腐れだが。
十右衛門はふてくされた声をあげた。
「米などいらぬ」
「食いたくないか?」
「ほとんど食ったことがありません」
「威張ってる」
女は嘲笑う眼差しで言葉を継いだ。
「河村の家は、とにかく貧しいからなあ」
「うるさい」
叮寧語で応えたり、偉そうに受けたりと、やりとりが安定しない十右衛門だった。
十ほども赤螺を割ったか。まだ腹は減っているが、女の手前、勝手に赤螺に手を出すのもはばかられる。
女は河村の家と言った。
貧農の頂点に立つ極貧である。
しかも父が偏屈で、まともに働かぬくせに気位ばかりが膨張して偉そうに、横暴に振る舞う。集落で刀を振りまわしたこともある。周囲からは毛嫌いされ、山側に追いやられて孤立している。
集落内ならともかく、名を知る者などいるはずもない。やはりときおり訪れていた女であろう。
「父上とはどのような因みか」
女は答えず、食えと赤螺を目で示した。
十右衛門は大きく頷き、真魚板の上の貝に手を伸ばした。
貪り食う十右衛門に投げ遣りな眼差しを注ぎ、女がぼやいた。
「腸まで食う奴がいるか。よく食えるな」
「──慥かに苦い」
女が腸を千切って、貝の身だけを口に抛り込んでみせた。
真似て食うと、しこっと絡むような歯応えがあり、雉羽太とは違った甘さがある。海水の塩味がそれを引きたてる。
女は十右衛門が食うのに合わせて、要領よく赤螺の殻を割り、塩水にさっとくぐらせ、十右衛門の眼前に置く。
もはや十右衛門に遠慮はない。食えるときに食っておこうという浅ましさである。
女は両肘をついて、十右衛門に柔らかな眼差しを注ぐ。
「飯代は、五十両だ」
「五十両か。そうか。安いな」
「安いか?」
「百両でも払う」
「いつ?」
「それが問題だ」
女は軽やかに笑う。
十右衛門は目を細めて女を一瞥し、即座に俯き気味になる。
赤螺で腹が一杯だ。満腹の息をつく。山盛りの腸が、なんだかもったいない。
十右衛門は勢いこむ。
「払う。払うから」
決まり悪げに付け加える。
「いまは無理だ。それは姐さんもわかってるだろう」
女は小さく二度頷いた。
「飯代、もってくるの、愉しみにしてるよ」
「空手形ではないぞ」
「空手形ときたか」
地面から柱が生えた掘っ建てだ。海に面してさえぎるものとてない吹きさらしの浜に建てられた荒ら屋だ。颶風に襲われたら耐えられるのだろうか。
この女に立派な家を建ててやりたい。
唇を固く結んで女を見やる。
なに? と、女は十右衛門の目の奥を覗いた。
こんどは、真っ直ぐ女を見つめ返すことができた。
女は眼差しを伏せた。
十右衛門は胸が軋んだ。
だが十右衛門を軋ませたものが、色香と呼ばれるものであることには思いが至らない。女が放つ、女ならではの深く濡れた匂いであることがわからない。
女性から、このような跪きたくなるような高貴な気配を覚えたのは、初めてのことだ。
この高貴な気配は静的なものではなく、胸騒ぎに似た得体のしれないもやっとしたものを含んでいて、摑みどころがないが、なにやら抑制をぶち壊す危うさがあった。
十右衛門は女に強烈な引力を感じた。
触れたい。
軀をあずけたい。
それらの衝動を気取られぬよう、表情を消した。けれど息が速くなってしまい、脈打つ蟀谷が自分でわかるほどだ。
十右衛門はそっと女の様子を見る。
女は俯き加減のまま、藁筵の上に指先を触れさせ、なにやら字を書くかのように嫋やかに動かしていた。
「七兵衛だったっけ?」
「元服した。十右衛門だ」
「やれやれ。いまだにおまえの親父は村上源氏の末とか吐かしているのか」
「藤原秀郷、すなわち俵藤太。その十世の孫である秀高が祖で、秀高は相模国河村郷に居を構えたので、河村姓を名乗るようになった」
女は聞いていない。
十右衛門は己の内奥に燃え盛る女に対する得体の知れない危うい衝動を自覚し、無意味な言葉にのせて消し去ろうと捲したてる。
「秀高の子、秀清は源頼朝殿に仕え、奥州平泉の藤原討伐にて軍功をあげ、ここ伊勢に住むようになった。俺の高祖父、曾祖父、そして祖父は伊勢国司北畠殿に」
忌々しげに女が十右衛門の眼前で手を左右に振った。
「鬱陶しい。結局は、おまえの親父は百姓だろうが」
「──帰農したのだ」
「いいか」
「なんだ」
「これから先は、先祖のことなど一切口にするな」
「なぜ?」
「先祖なんて、遠い昔に終わったことだろうが。しかも真か嘘か、証しようがないではないか」
「──系図もある」
「阿房らしい。紙にすぎぬ。字を学べば、おれにも書けるわ」
十右衛門が詰まると、女は十右衛門の顎に手をのばしてきた。十右衛門は、ぐいと顔をあげられた。
「由緒ある十右衛門殿が、腹が減って道端に座りこんで土塊ごと蟻を食う」
容赦のない言葉に、十右衛門は顔を持ちあげられたまま、思わず落涙した。
飢えていたのだ。
すべてを投げ棄ててしまいたかったのだ。
女は十右衛門の顎に手を添えたまま、涙で曇った目を見つめた。
女は、顔を近づけてきた。舌をだすと、涙をすくいあげるように舐めた。
女は涙をきれいにすると、嘲るように鼻の頭を舌先で圧した。
女は鼻から唇に舌先を移し、唇のまわりに生えている産毛じみた髭を唾で濡らした。
女は舌で唇をなぞり、強引にこじあけて十右衛門の歯並びをさぐった。
女は、閉じた十右衛門の前歯を不思議な力でこじあけて、舌先を十右衛門の舌に触れさせた。
女は十右衛門の舌に、舌を絡ませてきた。
女は十右衛門の唾を加減せずに吸った。
女は自らの唾を十右衛門の口中に押し込んできた。
十右衛門は我知らず女の唾を吸っていた。頬がすぼまるほどに、きつく吸っていた。
十右衛門は軀をまさぐられた。
十右衛門は空腹とは別の甘く切ない無力に支配され、もはやされるがままである。
十右衛門は寝藁の上に横たわっていた。
それに唐突に気付いて、事の前後を完全に失念している自分を期待と昂ぶりと胸騒ぎとともに訝しんだ。
女はすっと離れ、十右衛門の顔貌をなぞるように視線をはしらせた。
「おまえの親父は、女の扱いが巧みだった。だから魚を持っていった」
十右衛門は蜘蛛の糸に搦めとられた羽虫のごとく身動きできず、見おろす女の顔をぼんやり見つめ、ぼんやり思う。
どうやら父には特技があったようだ。どのような技かはわからぬが、女が礼に魚を持ってきてくれるほどであったらしい。
. *
幾度も爆ぜ、完全に虚脱した。
腰回りが烈しく発汗していた。
乱れに乱れた息が落ち着いてくると、単調な潮騒が十右衛門の耳にとどく。
信じ難い境地があった。すべてを反芻しようとしたが、まともに像を結ばない。それだけ昂ぶっていたのだ。
女の淡く靄った腋窩に顔を突っ込み、その幽かな香りを慈しむ。
女が顔を動かして勢いを喪った十右衛門を見やり、十右衛門の顔に己の顔を近づけると、頬に貼りついた後れ毛を指先で弄びながらまだ荒い息を抑えこみ、嬉しそうな掠れ声を十右衛門の耳の奥に吹きこむ。
「政次の倅も、ここまでか」
「斯様なことがあるとは」
「思っていなかった?」
「思いもしなかった」
「ああ、愛おしい」
「姐はたまらぬ」
「おまえもな」
「応えたか」
「応えた」
「ふう」
「あ」
どうした! と声をかけると、女は半身を起こして手拭いをつかんだ。
女はその瞳に微妙な羞恥を泛べながらも、凝視する十右衛門を無視して、委細かまわず拭いはじめた。
「旺盛な。いきなり、あふれだしてきた」
「なにが?」
「おまえだ」
「よくわからん」
「尋常でない。おれは孕むかもしれん」
「孕む──。はじめて知った。こうすることで、孕むのか。俺も父親か」
「暢気だな」
「ああ。俺はたいがい暢気だ」
「落ち込まぬか?」
「腹が減れば、落ち込む」
「腹が減ったら、蟻を食う奴だからな」
「もう、言うな」
「親父など比べものにならんわ」
「俺の親父か?」
「そうだ。まだまだ身も心もなにもかもが子供だが、器がちがう。今日、おれの軀で慥かめた」
子供と言われて内心、聞き咎めはしたが、父との日々で、呑みこむことは習い性になっていた。
女の言っていることの意味がうまくつかめず、訊きなおした。
「器。俺の器か。どういう器だ?」
「知らん。知らんがな、綾が以前、あの倅は逸物だ。尋常でない賢さだ。なぜひたすら野良仕事をさせられているのか──と怒ったように言っていた。綾が言ってたことは、慥かだった」
「綾とは誰だ? 俺の家には、知り合いなどおらん。誰も相手にしてくれない。綾という女も知らぬ。なにを言っているのか、まったくわからん」
「綾とは、おまえの家に足繁く出入りしていた女だよ」
わかったような顔をしながらも、素直なもので小首をかしげてしまう。
「綾か──」
「三年前か。息綱が首に絡まって、死んだ」
「死んだ。死んだのか?」
女はそれには答えず、眼差しを伏せて照れたような声で言った。
「おまえの親父はな、女を泣かすことにかけては、天賦の才をもっていた」
「泣かす」
「嬉し泣きだ。おれもおまえと肌を合わせて嬉し泣きしてただろ」
「──あれか」
「そうだ。あれだ」
「俺の父は、あれが」
「ああ。巧みだった。だから海女ばかりで男が少ないここの女たちは夜毎忍んでおまえの親父のところへ行った。幾人、女が出入りしてたことだろう」
十右衛門は幼いころの遠い記憶を手繰り寄せる。畑仕事で疲れ果て、ほとんど眠っていた刻限だったが、慥かに女ばかりが訪れていた。女は交代で訪れていた。深夜が父の働き場だったのだ。
ふと朧な追憶の中の一人の女と、眼前の女が重なった。
「姐さんは昼間からきていた」
女は吐き棄てた。
「夢中だったんだよ。惚れていた」
「父上にか?」
女は苦々しげに横を向いた。十右衛門は脳天気に言う。
「姐さんが母上だったらよかったのに」
「ふふふ。おまえは母上としちまったのか」
「俺は母を知らん」
「ならばお袋扱いも許す」
「それより父上だ」
「女も現金なものでな、おまえの親父が精彩をなくしたら、ぱたりと近づかなくなった」
「──姐さんもな」
「ああ、そうだ。だがな、おれが昼間も訪ねるようになったのは、おまえの親父の軀が不自由になってからだ」
「慥かに、俺が畑に出ているあいだ、親身に面倒を見てくれていたような──」
「おまえはまだ十にもなる前で、朝から晩まで、独り土と格闘していたからな」
そうしなければ飢え死にしたからだ。
河村の家の畑は、土よりも石塊のほうが多い最悪の土地だった。
女と顔を合わせることがなかったのは、眩しかったからだ。家に出入りしていた女の中でも、別格だったのだ。
そんな記憶が甦り、十右衛門は運命を感じて、心窃かにときめきを新たにした。
「おれが訪ねなくなったのは、愛想を尽かしたからだよ。おまえの親父は駄目になってから、ますます人として耐えられぬ代物に成りさがった。おれは駄目な政次を支えようと頑張ったんだ。多少の我儘は耐えられた。無理難題も、我慢した。けどな、猜疑心の異様さに、つくづく厭になった」
「父上は偏屈だ」
「そうだ。おまえのような鷹揚さがなくて、やたら細かくて、癇癪もちで、気位ばかりが高くて、おれを見下して、無意味な嫉妬ばかりして──」
「すまん。父上を許してくれ」
女は目を細めて笑んだ。
「許すもなにも、おれとおまえは和合した」
女の頬笑みの美しさに、十右衛門は勢いこんだ。
「俺をここに置いてくれ。海には潜れぬが、姐さんの肩を揉むし、なんでも言うことを聞く。あのことも、まだよくわからんが、姐さんに尽くす。姐さんの言うとおりに頑張る」
女はさらに頬を柔らかくゆるめ、十右衛門を見つめた。諭す口調で言った。
「おまえは、こんなところに居ないほうがいい。河村の家からも出たほうがいい」
「──どこかに行ってしまいたいとは、思っている。が、父上を棄ておけぬ」
女は浄めていた手拭いから立ち昇る栗の花の香を心窃かに愛おしみ、思案顔になった。
十右衛門はしどけない恰好で思いを巡らす女を黙って見つめていた。
──ヒョォ~ ヒョォ~ ヒョォ~
聞き耳を立てた。海のほうから聞こえた。風に乗って浜まで届くようだ。哀調といえばよいのか、なんとも悲しげな音だ。なんの音だ? と女に訊いた。
「磯嘆きだ」
「磯嘆き」
「沖海女が底深くまで潜ってな、限界まで息を怺えて鮑を獲る」
「限界までか?」
「限界までだ」
まともに泳げない十右衛門には海底に潜ることなど想像もつかぬ。
「俺は風呂で溺れたことがある」
はははと女は笑い声をあげ、座ったままだが背筋を伸ばし、くっと顔をあげた。水面に顔をだしたときの姿勢だ。
「ヒョォ~、ヒョォ~、ヒョォ~」
「その音だ!」
「こうしてな、息を整えるんだ。おれら沖海女は、石や分銅の錘をつけて軀が浮かぬようにして、海の底に沈む」
「錘で海中。自害か!」
女は淡々と続ける。
「死にそうになるまで息を怺えて貝起しで鮑を獲る。いよいよやばいとなると、息綱を引いて合図して、一気に舟の上に引きあげてもらう」
女は薄く目を閉じた。
「あれはぎりぎりで浮かびあがったときに、息を整える音だ。胸の奥一杯にたまった澱んで濁った息を吐く音だ」
十右衛門は俯き加減で藁筵の大雑把な網目を睨むと、顰蹙覚悟で言った。
「遠くで鳴ってるぶんには、趣もある」
「趣ときたか」
「姐さんの磯泣きを間近で聞いたら、胸が苦しくなった」
「磯泣きじゃない。磯嘆きだ」
「嘆きか」
「嘆きだ」
「なあ、姐さん。生きることは嘆きか」
「嘆きだ。嘆くしかないことばかりだ」
「姐さんとくっついたことは、嘆きか」
「好ましい相手となら、嘆きじゃない」
「好ましくない相手となら?」
「地獄だ」
十右衛門は腕組みをして黙りこんだ。
女は両脚をひらいて伸ばし、そのあいだに十右衛門を引き寄せ、太腿で枕してくれた。
腿の付け根だった。顔を逆に向ければ、女の秘密が眼前にある位置だ。
秘密を慥かめたい思いを抑えこみ、十右衛門は女の太腿を抱き、頬を太腿にきつく密着させた。
余剰のない冷たい太腿が、十右衛門の顔の熱を奪ってすこしだけ温かくなった。十右衛門は女をもっともっと温めたいと願った。
「姐さんは引き締まっていて無駄がない」
「軀か。沖海女は太っていた方が、冷たい海に強いんだが」
「かわりに、目映いばかりに綺麗だ」
「擽ることを言う」
「本音だ。姐さんは貌だけでなく軀までもが美しい。なんで、こんなに伸びやかで、すべすべなんだ?」
女は答えず、黙りこんでしまった。
十右衛門も合わせて沈黙していたが、女に気を許し、甘える心が育った。絶対に誰にも言わないと決めていた内面の毒を、一気に吐きだした。
「食うもんもなく、まわりからは見放されて二進も三進もいかなくなって途方に暮れた。俺は父上が死んでしまえばいいと思って家を飛び出した」
女は掌で十右衛門の頬を軽く押さえた。
「父上に死んでほしかった俺は、蟻を食っているところを姐さんに見つかった」
女の吐いた深い息が、十右衛門の首筋を擽った。
「──親父の病はいよいよ悪いか?」
「もう一年以上寝たきりだ。床ずれがひどくて、骨が見えてる。俺は湧いた蛆を取るのが日課だ。まともに口もきけん。けれど、幽かに息してる」
「そうなると人なんて、半分海の底に沈んだようなもんよ」
「そうだ。もう海の底に引きずり込まれてるんだ」
十右衛門は奥歯を噛みしめた。
「俺はまだ餓鬼だ。必死に頑張ったが、この日照りで、畑も全滅だ。まわりは見て見ぬ振りだ。水をよこさんばかりか、嘲笑っている気配さえあった。俺はなにもできん。ただオロオロしてたよ」
「百姓も地獄だな」
「俺は足りないから、己の境遇が地獄であるとは思っていなかった」
「男と女のことを知ってしまっただろう」
「うん」
「それも、地獄だ」
「地獄じゃない。姐さんとのことは天国だ」
女は笑んだ。指先で十右衛門の鼻筋をなぞる。静かに、けれど唐突に言った。
「おれは阿曇に連なる伊勢海人だ」
女の太腿は、やはり男とはちがう。陽に焼けているにもかかわらず、しっとり艶やかな肌の奥に揺るぎない強さの芯がある。
十右衛門は太腿に唇を押しあてていたが、聞き慣れない言葉に、中途半端に唇を離して訊いた。
「姐さんが伊勢の海人なのはわかる。そのまんまだ。阿曇というのは、なんだ?」
「おれたちは阿曇部といってな、もともとは天皇の飯を司っている一族だ」
「天皇の飯──」
「いまでは鮑くらいだが」
女は付け加える。
「それでも天皇が食う干し鮑は、すべておれたちが獲る」
さらに付け加える。
「否応なしに申しつけられてるんだけどな。おまえら百姓の年貢みたいなものだ。まったく天皇はどれだけ食うんだっていうくらいの鮑を獲らされる」
「鮑。名しか知らぬ。食ってみたいものだ」
意図しているのかいないのか、ずれた言葉を吐く十右衛門に愛おしげな眼差しを注ぐ。
「阿曇は伊弉諾尊の子、表津少童神の子孫だ」
「俺の父上の先祖自慢よりも、すごいな」
女は口許に手をやって笑ったが、真顔にもどした。
「遠い昔は知らぬが、いまはここ伊勢海人が海人の中心だ」
そのわりには、浜の集落は貧しい。
「阿曇の男たちは、外海にもでる。海にでたら、当分もどらぬ。伊豆の七島、その先にまで自在に船を操る」
十右衛門は女の太腿で目を閉じた。外洋を行く船の姿が泛び、その舳先に自分が立っているところが見えた。
女は脂っぽい十右衛門の髪を手櫛で撫でるように整えていく。
「屹立だ!」
「なんだ、いきなり」
「俺は舳先に屹立していた」
「舳先。船か」
「そうだ」
「だが、おまえは船のことなど、まともに知らぬだろう」
「それだ。俺が屹立していた船のかたちがはっきりせぬ」
「それでは屹立しようがないな」
女は悪戯っぽく十右衛門の腰に視線を投げたが、十右衛門は気付かなかった。船に屹立したことで頭がいっぱいなのだ。
「なあ、十右衛門」
「なんだ」
「屹立するには、おまえの親父が」
「──それだ。それがある。俺は父上がこの世からいなくなるまで、身動きできん」
「なあ、十右衛門。こうするのは、どうだ」
「どうする?」
「おれが看取る」
「父上をか!」
十右衛門は太腿の枕から跳ね起きようとした。意外な力で押さえつけられた。あらためて太腿に頬を密着させた。
女が問いかける。
「未練があるか」
「父上か」
十右衛門は煩悶した。女の太腿がなかったら、呻き声をあげていたかもしれない。
「実も誠もないくせに、なぜあんなに居丈高に振る舞えるのか、俺にはわからん」
女の太腿に歯を立てる勢いで言う。
「未練などない」
「ならば、おれが折々に世話をする。おれが看取る。いいな」
「──なぜ、そこまでしてくれる?」
「惚れたからだ、おまえに」
「俺か、この十右衛門にか!」
「こんな年増に惚れられるのは、迷惑だろうがな」
「俺は姐さんと一緒に暮らす」
「そうはいかぬ」
「なぜ」
「おれも身の程をわきまえることくらい知っている。おまえを縛りつけるような愚かなことはせぬ。おまえは新たな世界に乗りださなければならぬ」
「追い出されるのか?」
「おまえは、どこかに行ってしまいたいと言っていたではないか」
「すごくな、すごくどこかに行ってしまいたかった。けどな」
「けど?」
「いまは永遠に姐さんといっしょにいたい」
女は十右衛門の首を絞めるような仕種をした。やがて実際に力がこもっていった。十右衛門はうっとりそれを受け容れた。
「殺してしまいたい」
囁きにあわせて女の指に込められた力は、甘美だった。殺してくれと目で訴える。
とたんに女は力をゆるめた。
死を厭わぬ心持ちだったのに、いきなり抛りだされたかのような心許なさに、十右衛門は縋る眼差しを投げる。
女が揶揄する声で言う。
「おまえは絞められて屹立するたちだな」
十右衛門は下腹に視線を投げ、未熟なりに精一杯背丈を伸ばしている己を凝視する。
(次回に続く)