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下町やぶさか診療所 5 第一章 散骨の思い・後/池永陽

【前回】

 羽田空港を早朝の七時ちょっとの飛行機に乗り、りんろうたちは出雲空港に向かった。
 びびりまくるのではないかと心配されていたたかは窓際の席に座り、ガラスに顔をくっつけるようにして外の景色を一心に見入っていた。通路側に座った麻世まよも最初のときのような恐れる様子はほとんど見られず、静かに両目を閉じて黙って座っていた。ただ、両手で肘掛けだけはつかんでいたが。
 いちばん大変だったのは、高史の隣に座っている「飛行機が怖くて、お天道様の下を大手を振って歩けるもんけえ――」と大見得を切っていた、徳三とくぞうだ。
 飛行機が離陸して上昇するにしたがい、徳三の顔色が蒼白に変っていくのがわかった。ぎゅっと目を閉じて、何やらぶつぶつと小声で独り言をいっているようでもある。
 十分ほどしてから、後ろの席に座っていた麟太郎は体を乗り出して徳三の耳許みみもとに顔をよせた。
「親方、大丈夫か」
 小声でいてみると、
「面目ねえが、大丈夫じゃねえ。どうしようもねえがよ」
 蚊の鳴くような声が返ってきた。
「飛行機事故は交通事故に遭うより確率は低いから、心配はいらねえよ」
 こういってやると、わずかにうなずいては見せたが返事はない。
「ところで親方。さっきから口のなかで何やらぶつぶついってるようだが、あれはいってえ何だ」
 興味津々の思いで訊いてみる。
「あれは、念仏だ」
 ぼそっといってから、
「おめえに話しかけられるとよ、集中できなくなってご利益が薄くなるような気がするから、ちょっと黙っててくれ。今日は俺の負けでいいからよ」
 怒ったようにいって、すぐにぶつぶつと念仏を唱え始めた。しゃべっていたほうが気が紛れるのではないかと思ったが、黙るより仕方がなかった。
 機体がガタガタと揺れ出すと、徳三の体も小刻みに震え出した。顔色も真っ青だ。
 ところが、三十分ほどすると徳三の震えはぴたっと止まり、顔色も生気を取り戻してきた。いったい、何がどうなっているのかわからなかったが、麟太郎は胸をなでおろす。 

 そんな状況で飛行機は無事、出雲空港に着陸し、麟太郎たちは空港ロビーに出て、ひとまず喫茶ルームに落ちつく。
 それぞれの飲物が運ばれてきたあと、今回のリーダー格のもとが口を開いた。
 元也はまず一緒にきてくれた礼の言葉を述べてから、これからの予定を話した。
「今日はまず、出雲大社に行って、いろんな意味でのこれまでのお礼と報告をします。そのあとはゆっくり昼食を摂って、出雲から湯泉津ゆのつへ向かいます。途中、いわ銀山ぐらいは寄るつもりですが、夕方には現地に到着すると思います」
 神妙な顔をして元也はいった。
「移動は確か、レンタカーっていうことだったよな」
 麟太郎が念を押すように訊くと、
「はい。八人乗りのワンボックスカーを手配してありますので、ゆったりできるはずです。運転は僕がやりますので、みなさんは眠っていても大丈夫です」
 幾分、胸を張って元也は答える。
「元也さんは仕事柄、お年寄りを乗せた運転には慣れてますから、大船に乗ったつもりで安心してください」
 ともがすぐにフォローする。
「するってえと、散骨は明日ということになるのか」
 これは徳三だ。どういう加減か、いつのまにか元気そのものになっている。
「漁船に乗って沖に出るつもりなので、波の高さによっては明後日になるかもしれません。そのあたりはお天気次第ということで」
 申しわけなさそうにいう元也に、
「元也さん、漁船をチャーターしたんですか、すごいですね。完璧ですね」
 八重子やえこが感嘆の声をあげた。
「ここまで一緒にきていただいたみなさんに、隠し事をするつもりはありませんので、正直にいいますと……」
 ほんの少し、かすれた声を元也は出した。
「実はみなさんにも以前お話しした、音信不通になっていた母の故郷からたった一人だけ年賀状をくれていた、白井さんという人なんですが。今回湯泉津に行くにあたって、僕はその人に一度お会いしたいと連絡を入れたんです。すると向こうも、そういうことなら、ぜひ会いたいと――その白井さんという人が漁師さんで、自分の船を無料で出してもいいといってくれて。むろん、相応の金額は払うつもりでいますけど」
 といったところで、麟太郎は声をあげた。
「元也君。きちんとお金は払って、そしてそのお金は必ず精算して俺たちに請求してくれるように」
「あっ、ありがとうございます。そうしていただけると助かります。何分、僕も知ちゃんも貧乏ですので」
 元也はぺこりと頭を下げる。同時に知子も深々と頭を下げた。
「そんなわけで僕は白井さんに会って、母と実家の関係などをいろいろ聞いてくるつもりでいます。むろん、わかったことはみなさんにはお話しするつもりですので、よろしくお願いいたします」
 こういって元也は話を締めくくった。
 このあと、みんなで空港前のレンタカー会社に向かったのだが、このとき麟太郎は気になっていたことを並んで歩く徳三に訊いてみた。
「飛行機で念仏を唱えて震えていた親方が、途中から急にしゃきっとしたのはどういうことなんだ。俺にはあれが不思議でしようがないんだけどよ」
 隣を歩いていた徳三が、にやっと笑った。
「念仏を唱えてたら、いきなり観音様が現れたんだよ」
 妙なことをいった。
「おめえ。俺が震えていたら、冷房の効きすぎでしょうかと優しく声をかけて、毛布を持ってきて膝にかけてくれたお姉ちゃんがいたのを見ていたか」
「ああ。あの、キャビン・アテンダントの女性だな」
「あのお姉ちゃんが、えらく別嬪べっぴんさんでよ――それで俺はそのとき考えたんだ。このお姉ちゃんと一緒に死ねるんならってな」
 また、にやっと笑った。
「俺たちのような棺桶かんおけに片足を突っこんでいるような、しぼんだ年寄りが一人さびしく死んでいくよりは、飛行機がちて、あの別嬪さんと一緒に死んでいけるんなら、これはもう本望じゃねえかってよ。そうじゃねえか、麟太郎。こんな幸せなことは、そうそうはねえと思うぜ。そう考えたら、急に体が楽になってよ、だからよ」
 いかにもうれしそうに徳三はいうが、麟太郎はぜんとして何も答えられない。
「だから、今日もやっぱり、俺の勝ちだ」
 徳三は痩せた胸を張った。 

 麟太郎たちは、出雲大社の下り参道を拝殿に向かう。
 麟太郎は麻世と並んで、いちばん後ろだ。
 せいだまりの大鳥居をくぐって、しばらく歩くと「ちょっと、こっちへ」と麻世がいった。
 参道を左に折れた麻世の後につづくと、横手に屋根のある立派な土俵が見えた。その脇を通ってさらに奥へと進むと、小さなほこらがあった。麻世はその前に厳かな面持ちで立った。
 柏手を打って丁寧に頭を下げた。
 しばらく何かを祈っているようだったが、真剣そのものの顔だ。
「ここはいったい、誰がまつられてんだ」
 げんな思いで訊いた。
「日本書紀に出てくる、たいまのはやと相撲を取って蹴り殺したという、みの宿すくが祀られてるんだよ。いわば、古武術の元祖のような人だよ」
 まったく知らなかった。
「道場の米倉よねくらさんから、出雲大社に行くんならここの祠にお参りしてこいっていわれて、それでね」
 麻世のいう道場とはいま神社裏にある、りゅうごうりゅう剣術のはやし道場だった。剣術の道場とはいってもここは古来からの組打技くみうちわざも伝わっていて、当て身、蹴り、投げ、関節……何でもありのけん技が特徴だった。
 そのため怪我けが人が続出したが、麻世はこの古武術の道場に小学生のころから通い、歯を食いしばって荒稽古に耐え、その強さでいじめを克服した。米倉はこの道場の師範代で、麻世が唯一勝てない相手だった。
「そうか、米倉さんがな」
 という麟太郎の言葉に「うん」と麻世はうなずき、深々と祠に一礼してからそこを離れて、土俵のあるほうに歩いた。
 麻世は土俵の前でスニーカーとソックスを脱いで裸足になり、ここでも深く一礼した。そして両脚を踏んばって、まず右足をぴんと跳ねあげた。四股だ。
 麻世はここで三度四股を踏んだ。
 みごとな四股だった。
 右足も左足も宙に向かってまっぐ伸び、それでいて体が崩れることはじんもなかった。力一杯、地を踏んだ。
 力強かった。そして美しかった。
 以前、米倉がじゅんいちにいったという言葉が麟太郎の胸に浮んだ。
「あの子の体は柔らかいんです。そして、それを支えているのが、あの子の途方もなくしなやかできょうじんな筋肉です。筋肉の質をいえば、百年に一人の逸材。それがあるからこそ、女の身でありながら、あれだけの力を発揮できるのです」
 米倉はこういったのだ。その言葉を裏づけるような、みごとな四股に思えた。
「凄いな、麻世。凄く力強かった」
 スニーカーを履く麻世に声をかけると、
「力強いのか。まだまだ未熟だな、私は。力強さじゃなくて、美しく見えないとな」
 残念そうに口にする麻世に「いや、美しさも充分に……」といいかけて麟太郎は押し黙る。武術に限ってのことだが、むやみにめればこいつはつけ上がる。
 米倉も麻世を称して、こんな言葉を――。
「両腕と両あしの筋肉量を今の一・五倍増量させ、技の未熟さを克服できれば、私を超えることになると思います」
 しかし米倉はそれを麻世に知らせることはない、知ろうものなら麻世はすぐにてんになって、何をやり出すかわかったものではないと潤一にいったという。米倉も見るべきところは、ちゃんと見ている。
 麟太郎は麻世をうながして拝殿に急ぐ。
 すでにみんなは参拝を終えて、麟太郎と麻世を待っていた。ここでも麻世は真面目そのものの顔で参拝した。
「これが、日本一大きななわなのか」
 どんと張られた注連縄を見上げながら、麻世が声をあげる。
「違うぞ、麻世。日本一の大注連縄はここではなくて、確か神楽殿にあるほうだ」
 何気なくいうと、
「ええっ、これじゃあないのか……上には上があるものなんだ」
 どういう加減か、ちょっとしょげていた。
 このあと、ご神体に最も近い八足門やつあしもんに回って参拝し、神楽殿に向かった。
 唖然とした表情で日本一の大注連縄を見上げる麻世に、
「重さは大体、五・二トンだそうだ」
 何となく勝ち誇った思いでいう麟太郎に、
「五・二トン」
 麻世はかすれた声でつぶやいただけで、それ以上何も言葉を出さなかった。
 そんなとき「おお先生、そろそろ、お昼にしませんか」と知子が声をかけた。
 麟太郎たちは大社近くの、出雲蕎麦の店に入り、七人すべてが出雲名物のわり蕎麦を頼む。これは重ねた段ごとに温泉玉子や天ぷら、とろろやきのこなど、蕎麦の上の具が異なるという珍しいものだ。
 たっぷりと蕎麦つゆをかけて頬張ると、腰の強さとうるぶしを主体にした甘めのつゆの豊かさが喉に染みとおる。
「これって、おいしいですね。荒っぽいかんじが、故郷を思い出させます」
 遠慮気味に高史がいった。
 高史の故郷は青森県だ。
「ところで高史君は、おおくにぬしのおおかみ様に何をお参りしたのかな」
 おどけたような口調で麟太郎は訊く。
「それはやっぱり、縁結びの神様ですから、僕と知沙ちさのことを……」
 いかにも恥ずかしそうに高史はいう。
 知沙とはメリケン知沙の異名を持つ、麻世同様の筋金入りの元ヤンキーだった。その知沙を高史が好きになり、二人の間を何とか取り持ったのが麟太郎と麻世の二人だった。
「おうっ。それで、高史君はその知沙さんとどうなりたいんだ」
 嬉しそうに訊く麟太郎に、
「それは……ケッコンとか……」
 真赤な顔をして高史はいい、周りからどよめきがあがった。
「高史、おめえ。今はそんなチャラっとしたことより、一人前の風鈴職人にならなくちゃ、駄目だろうがよ」
 徳三の一喝に、高史の体が縮んだ。
「いいですねえ、若い人は」
 そんな高史を見ながら、八重子がいかにも羨ましそうな声をあげた。
「そうだな、俺たちはもう駄目だけどな」
 と、しんみりした口調でいう麟太郎の脳裏に、潤一の顔がふいに浮んだ。 

 昨夜のことだ。
 それまでは面倒臭くなるからと当の麻世にも口止めしておいた例の出雲行きの件を、麟太郎は夕食前に潤一に話した。
「えっ、麻世ちゃん、出雲に行くの」
 それまで上機嫌だった潤一の表情が一変した。目がうつろだった。
「急なことで悪いが、やっぱり厳粛な儀式だから出席しないと筋が通らないからと麻世がいってくれてな。それで、麻世も散骨に参加することになった」
 申しわけなさそうにいうと、
「じゃあ、俺は……」
 弱々しい声を出した。
「お前は先日決めたように、明日はここにきて患者さんをてくれるんだろう。そうでないと大いに困ることになる」
 んで含めるようにいうと、
「それで、明日の出発は何時なんだ。早いのか、遅いのか」
 まだ、じたばたしている。
「早い。朝の七時過ぎの飛行機に乗る予定だ。この便に乗るのが、いちばん効率よく現地で動けるらしいからよ」
「そんなに早く行くのか、午後じゃなくて」
 独り言のように呟き「ああっ」といって黙りこんだ。
 どうやら遅い出発なら、その前に誰かを説きふせて午後の診療だけでもここにきてもらい、自分も一緒に出雲に行こうと算段したのだろうが、あえなく頓挫したようだ。
 そのとき台所から「できた」と麻世の声が聞こえ、テーブルの上に大皿に盛られた肉じゃがが置かれた。ぐちゃぐちゃに崩れた肉じゃがだったが、何の悪態もつかずに潤一は黙々と口に運んだ。
「ごめん、おじさん。急に出雲行きを決めたりして、本当に」
 食べ終えた潤一に向かって、なんと麻世が頭を下げた。どうやら麻世も、潤一の取り扱いには慣れてきたようだ。
「あっ、いや、麻世ちゃんに頭を下げられたら、俺は。まあ、とにかく、明日は頑張ってみるから、一人で」
 掠れた声だったが、何とか口にした。
 このあと潤一は「帰ります」といって、肩を落して部屋を出ていったのだが……正直いって、あれほど落ちこむとは、考えてもみなかった。
「どうしたんですか、大先生。ぼうっとした顔をして」
 八重子の声に麟太郎は我に返る。
「いや、何でもないぞ。ちょっと山葵わさびが効きすぎただけでよ」
 空咳からせきをひとつすると、
「遅めの更年期だな、麟太郎」
 余計な一言を徳三が口にした。
「何でもいいですので、早く食べてくださいよ。このあとは、これも出雲名物のぜんざいを食べに行くことに決まりましたから」
「このうえ、ぜんざいを食うのか」
 あきれたようにいう麟太郎に、
「ぜんざいの起源は、出雲の神在餅じんざいもち――これを食べないで、どうするんですか。ねえ、知子さん」
 八重子は知子に同意を求める。
「私も出雲のぜんざいを食べるのを、楽しみにしてました。大粒の小豆と、ちょうどいい塩加減が絶妙の味だと聞いています」
 嬉しそうに知子がいった。
「そうか。そりゃあ、さぞ、うまいんだろうな。それじゃあまあ、ちゃっちゃとこれをすまして、甘味処に乗りこむか。なあ、徳三親方」
 いったとたん、
「俺は、甘いものが大好きだからよ。だから、さっさと食っちまいな、大先生よ」
 しれっといって、徳三はにやっと笑った。
 このあと麟太郎たちは神門通しんもんどおり脇の店に入り、ぜんざいと抹茶を腹につめこんでから車に戻り、石見銀山に向かって出発した。
 銀山ではりゅうげんで、徳三が坑道の出っぱりに頭をぶつけて大騒動になったが、幸いコブができただけですみ、大事にはならなかった。徳三は痛い痛いといって、一人でわめいていたけれど。
 湯泉津には四時頃に着いた。
 昔ながらのしっとりとした雰囲気を漂わせる、江戸時代から昭和に至る時間を閉じこめているような町で八重子などは、
「レトロ感覚、満載ですね」
 といって柄にもなく、はしゃいでいた。
 宿も昔ながらの造りに、ハイカラ感がちょっとだけ加わった、居心地の良さが感じられる所だった。
 部屋割りは元也と知子、徳三と高史、それに八重子と麻世の三部屋と、麟太郎だけは一人部屋が用意されていた。
 玄関脇のロビーで――。
「僕と知ちゃんはこれから、例の白井さんに会ってきますので、みなさん方は夕食まで適当にくつろいでいてください。夕食は七時です。僕たちもそれまでには帰りますので、よろしくお願いします」
 元也はこういい、つづいて知子が言葉を引きついだ。
「それから、明日の夜の八時から、この町のたつのぜん神社で夜神楽の定期公演が催されます。席はもうとってありますから、時間までに神社に行けばいいので大丈夫です」
 ここで知子はちょっと息をつぎ、
「明日の夜は少し早めに簡単な食事をしてからここを出て、どこかでお茶でも飲んでから、ゆるゆると龍御前神社のほうに行くつもりなので、その点よろしくお願いします」
 こういって元也と顔を見合わせ、白井に会うために二人は玄関を出ていった。
 徳三たちと八重子は少し休んでくるといって部屋に行き、ロビーには麟太郎と麻世だけが残された。
 麟太郎は二人分のコーヒーをフロントで頼み、ロビーのイスに腰をおろす。少しするとコーヒーが運ばれてきて、麟太郎と麻世の前に置かれる。麻世は砂糖もミルクも入れるが、麟太郎はブラックだ。
「ところで、あの件だけどよ」
 麟太郎は少しコーヒーをすすってから、さりげなく声を出した。
「お前の心配事の件だ。どうだ、そろそろ話をする気になったかなと思ってよ」
 遠慮がちにいった。
「ああ……」
 といって麻世は、ゴクリとコーヒーを飲みこんだ。
「あれは、まだ。ここでは無理みたい。気持の整理がまだついてないから」
 気持の整理と麻世はいった。
「でも……」
 と麻世が細い声を出した。
「散骨がすめば、話せるような気がする」
 イミシンなことを口にした。
「散骨がすんだらって――お前の心配事は散骨に何か関係していることなのか。俺にはさっぱり見当もつかないが」
 真直ぐ麻世の顔を見ると「うん」と掠れた声でいって視線を外した。
「そうか、それなら散骨がすむまで待つことにするか。おとなしくよ」
 そういって麟太郎は小さくうなずいた。 

 夕食はみんな一緒に広間で食べることになった。
 元也と知子も七時少し前に帰ってきて、広間で合流した。二人とも何となく、さっぱりしたような顔になっていた。
 大きなテーブルの上には、出雲特産の海の幸を主体にした料理が次々に運ばれて並べられる。麟太郎たちはすでに温泉に浸かったあとなので、全員が浴衣姿だった。元也と知子は温泉はまだ入っていないといっていたが、二人も浴衣に着替えていた。
 麻世だけはウーロン茶だったが、みんなの前のコップにはビールがつがれ、乾杯の音頭は麟太郎がとった。
 このあと元也が立ちあがって、口を開いた。
「白井さんに会ってきて、母親と実家の関係、それに母親と父親とのあれこれは、大体わかりましたが、これは酒宴が進んでから、おいおいと話すとして、その前に白井さんからの伝言を伝えます」
 元也はみんなの顔を見回し、
「白井さんの話では、明日の散骨は無理なようです。天気はまあまあらしいのですが、波が高いようで、白井さん一人ならともかく、みなさんを乗せるとなると小さな漁船なので、一気に強い波がたたきつけると、海に放りだされる危険があるといっていました。そんな怖いことはできないので明後日のほうがということです」
「明後日だと波は収まるのか」
 徳三が体を乗り出した。
「白井さんの長年の勘では、まず大丈夫じゃないかと。もちろん、気象庁の予報や天気図もきちんと検討するといってましたが」
「そうか。そういうことなら、プロの言葉に従うしかねえよな。何たって、海は怖いからよ、放り出されたら、ひとたまりもよ。なあ、大先生よ」
「そうだな。ここはその白井さんという人の判断にまかせるしか方法はないな。危険なことは極力避けないとな」
 麟太郎も素直に同意した。
 すると「あのう」といって珍しく麻世が声をあげた。
「もし、明後日も駄目なら、散骨のほうは……」
 もっともな質問だった。
「そのときは、残念ながら僕と知ちゃんだけがあとに残って……そうするしか方法は」
 元也の言葉に、みんなの口から溜息ためいきがもれた。
 麻世の表情も暗かった。
 なぜ麻世が、これほどまでに散骨にこだわるのか、いくら考えても麟太郎にはわからない。
「なら、みんなで祈りましょう。ここは神話の国の出雲です。みんなで祈れば、きっと神様も願いをかなえてくれます」
 八重子が強い口調でいって、みんなは何度もうなずいた。
「何はともあれ、まず食べませんか。せっかくのごそうなんですから」
 元也の言葉にみんなは箸を取り、思い思いに料理を口に運ぶ。
 メインはかに料理だったが、麟太郎のお気に入りは島根特産の、のどぐろの煮つけだった。塩焼きもうまかったが、あっさりと味つけした煮つけは絶品だったし、地酒にもよく合った。
 他にも魚介類の天ぷらや、新鮮な刺身の類、手のこんだ一品料理の数々……。
 隣の麻世を見ると、やっぱり蟹しゃぶに無言で挑戦していた。
 一時間ほどったころ、元也が声をあげた。
「このままいくと、みなさん酔っぱらうか眠ってしまう恐れがありますので、今日の白井さんとの話の内容をお話しします。食べながら、飲みながらでいいので聞いてください」
 と、元也はぽつぽつと話し始めた。
 元也と知子が白井に会ったのは、JRの湯泉津駅近くの喫茶店だった。
 漁師をやっているだけあって、白井はがっちりした体格の持主で、肌も赤銅色に焼けていたが細い目がいかにも優しく見え、温和な人柄に見えた。
 元也は毎年の年賀状の礼をいい、単刀直入に母親のひさとの関係を訊いた。
「久ちゃんとは同級生のおさなみで、石見神楽の同志のようなものです」
 といい、小学校の三年のときから高校三年まで、久枝は横笛を吹き、白井はかねを叩いて神楽の伴奏をしていたという。いわば、いちばん仲のいい、異性の友達だったと白井はいった。
 高校を卒業して、白井は家業の漁師の跡をつぎ、久枝は漁業組合の事務の仕事をするこ とになった。
 問題がおきたのは、それから二年後。
 湯泉津の町へ東京の芸大を出た、絵描き志望の若い男がふらっとやってきた。その男が元也の父親の下谷しもたにりょうへいだと、白井はいった。
 良平は湯泉津の町の持つ、過去と現在がほどよく溶けあった雰囲気がいたく気に入り、数カ月の間、この町で間借り暮しをしてイーゼルを片手に歩き回り、あちこちの風景をキャンバスに描きこんだ。久枝も小さいころから絵が好きで、いつのまにか二人は仲よくなり、やがて恋に落ちて結婚を望むようになった。
 しかし良平は大学を出てから一度も仕事についたことがなく、毎日の生活はすべて実家からの仕送りでまかなっており、その当時、すでに勘当同然の身だった。
 久枝のほうも生活力のない男との結婚など許されるはずもなく、両親とは口もきかない険悪な状況に陥っていた。それでも二人は一緒になりたかった。
 そしてある日、二人は駆落ちを決行した。
 久枝と良平は手に手を取って、東京に住居を求めた。二人とも実家とは縁を切った思いで気は楽だったが、暮しは苦しかった。
 良平は相変らず絵一筋で家には金を入れず、久枝は保険の外交をして暮しを支えた。
 それから三年、良平の絵描きとしての芽は出ることがなく、そのころになってようやく絵を断念することを決断して、良平は何とか文房具の卸問屋の営業の仕事を見つけて就職した。優秀な営業マンとはいえなかったが、それでもノルマだけはこなすことができ、二人の生活は楽になり、ちょうどこのころ元也が生まれた。
 しかしそうなっても、久枝の実家との絶縁状態はとけず、良平のほうも実家からは、ほとんど相手にされなかった。それでもちゃんと暮していけるうちはよかったが、元也が三歳になった春、良平が脳出血で急死した。
 医者は働きすぎの過労が原因だろうと診断したが、若いころ、あれだけ奔放な生活をしていた良平が、この年になって働きすぎとは――悲しすぎる結末だった。
 これが久枝の人生の、あらましだった。
 これを聞いた元也の口から、
「あのかたくななほど真面目一方だったお袋が、そんな過激な人生を――」
 こんな言葉が飛び出した。
「久ちゃんは、真面目だったけど、情熱的な女性でしたよ」
 と白井は一度だけ、結婚してからの久枝と会ったことがあると前置きして、
「良平さんと一緒になって苦しい日々がつづいたけれど、私は一度たりともあの人と離婚しようと思ったことはありません。どこまでも、あの人を支えて生きていこうと決めていました」
 そのとき久枝はこんなことを口にしていたという。そして、
「つまり、二人は愛し合っていたんですよ。心の底から」
 気恥ずかしい言葉を白井は口にした。
「それはまあ……それで、白井さんがお袋に会ったというのは、いつのことなんですか」
 気になったことを訊いてみた。
「良平さんが亡くなって半年ほど後。つまり元也君がまだ三歳ぐらいのときです。そのとき久枝さんは元也君と一緒に、この湯泉津にきているんです」
 びっくりすることをいった。
「僕も一緒にここにきて、そして、白井さんに会ってるんですか」
「まだ三歳ですから、忘れてしまっているのも無理のないことですよ」
 まったく覚えていなかった。
「それで、お袋は何をしに、ここへ」
「良平さんの散骨です」
 ぽつりといった。
「親父も、この海に散骨を――」
 思わず大声が出た。
「そのときも俺が船を出しました。久ちゃんは元也君をしっかり抱きしめて、良平さんの遺骨をこの海に流しました」
「だからお袋は、親父の墓のことは一切口にしなかったのか……しかし、なんで、そんなことを。親父は実家の墓に入れてもらえなかったんですか」
 声を荒げた。
「おそらくこんなことだろうと久ちゃんはいってました。良平さんはまれに実家に行くことがあったそうで、そのときたまたまお墓の話が出て、良平さんの骨は実家の墓に入れてもいいけど、どこの馬の骨ともわからない久枝さんの骨は入れることはできないと。その時点で良平さんは完全に実家とは縁を切ろうと……そう思ったんじゃないかって」
「ああっ」
 とうなるような声を元也は出し、
「すると、お袋のほうも同じようなことが」
 息をつめて白井に訊いた。
「久ちゃんの場合はもっと悲惨です。元也君が生まれた半年ほど後。久ちゃんは孫の顔を見せようと、この湯泉津の実家を訪れたんです。でもそのとき、久ちゃんは門前払いをされて敷居もまたがせてもらえなかったと、目に涙をためていってました。そんな話を良平さんとして、それなら二人が死んだときはこの海へと……そう決めたんじゃないですかね」
 白井は淡々と話して視線を落した。
 これで全貌がわかった。
 すべては、そういうことなのだ。
「あの……」
 このとき傍らの知子が初めて口を開いた。
「白井さんは、なぜ私たちやお義母かあさんに、そんなに親切にしてくれるんですか」
「それは」
 白井は一瞬、絶句した。
「俺と久ちゃんは、ちっちゃいころから神楽を通して同志のようなものだったから。だから久ちゃんは東京に行っても、俺には住所を教えてくれてたし……それに」
 白井は宙を仰いだ。
「それに、久ちゃんは俺の初恋の人だったから」
 掠れた声でいった。
 とたんに知子の目から、涙があふれるのがわかった。ずずっとはなをすすった。
「幸せですね、お羲母さんは。みんなから愛されて。本当に幸せです。ねえ、元也さん」
 肩を震わせていった。
「僕もそう思う。お袋は本当に幸せ者だ。まだ亡くなるには早い歳だったけど、みんなから愛されて」
 元也も鼻の奥が熱くなるのを感じた。
「あの、誤解だけはしないでくださいよ」
 白井がしゃがれた声を出した。
「俺には妻も子もいて、今俺がいちばん大切に思っているのは、その妻と子ですから。ただ、久ちゃんが東京に行ってしまうまで、ずっと好きだったことは本当です」
「わかってます、白井さん。わかってますから大丈夫です」
 泣き笑いの顔で知子がいった。
 心なしか、白井の両目も潤んでいた。
 元也の長い話は終った。
「おい。何だよ、その話は。良すぎるほどいい話じゃねえか。頭が下がるじゃねえか」
 大声をあげたのは、徳三だ。
 知子も八重子も、そして麻世までが目を潤ませていた。高史も洟を、ずずっとすすった。麟太郎も胸に熱いものを感じていた。
「こら、麟太郎。白井って男は凄いな。男のなかの男だな。荒神山こうじんやま吉良きらきちのようなもんだな。俺たちはまだまだ、修行が足りねえな。情けなくなるな」
「確かにそうだ。俺たちはまだ、修行が足りねえ。情けねえ話だが、親方のいう通りだ」
 そういったとき、ポケットのスマホが音を立てた。画面を見ると潤一からだった。何だこんなときにあいつはと、部屋の外に出てスマホを耳に押しあてると、
「親父、明日そっちへ行くから」
 能天気な声が聞こえてきた。
「こっちへくるって、何をしにくるんだ」
 呆れた声でいってやると、
「きまってるじゃないか、厳粛な儀式に参加するためじゃないか」
 嬉しそうにいった。
「やめとけ」
 すぐに言葉が出た。
「悪いことはいわんから、今回だけはやめとけ。お前がくると厳粛な儀式が台なしになりそうな気がする。何か、とんでもないことが起こりそうな気がする。だからよ」
「何だよ、それ。よくわからないよ」
「ただひとつ、確実にいえることは、くれば必ず麻世に嫌われる。そういうことだ」
「えっ、そんなことが」
 電話の向こうで絶句するのがわかった。
「なら、やめとくよ。そのかわり、ミヤゲを頼むって麻世ちゃんに」
 情けない声を全開にして潤一はいった。
「わかった、わかった」
 ぷつりと電話を切って、麟太郎は大きな溜息をつく。何だってあいつは、あんないい話のあとに電話など。何だか腹が立ってきた。
 広間に戻ると、麟太郎はすぐに八重子のそばに行って部屋の隅に誘った。
「ひょっとしたらだけどよ、大丈夫か八重さん。突然、絵描き志望の話が出てきたけどよ」
 遠慮ぎみに声をかけた。
 麟太郎の親友であり、八重子の恋人でもあった瀬尾せおしょうすけも久枝の夫であった良平同様、絵描き志望だった。
 しかし、ある出来事から八重子と章介はすれ違いの状態になり、死ぬほど好き同士でありながら何十年もの間、意地の張り合いを押し通してきた。その結果、様々な事件も重なって最後は章介の自死という悲しすぎる終りを迎えてしまったのだが……。
 まだ、数カ月前のことだった。
「大丈夫ですよ、大先生。絵描き志望という話が出て少しはびっくりしましたけど。何があろうとなかろうと、私の胸のなかの章ちゃんは、いつでも元気な姿で生きてますから」
 強い声でいった。そして、
「絵描き志望の人って、変な人が多いんですね。もっとも、その変な部分が可愛くて惹かれるんですけどね。久枝さんも良平さんの、そんなところが好きになって……何だか私と久枝さんはよく似ているようです。気が強くて頑固で肩肘張って。多分、莫迦ばかなんでしょうね、二人とも」
 ふわっと笑った。いい顔だった。
「そうか、まあ、それならいいんだけどよ。ちょっと気になったからよ、だからよ」
「見くびっては駄目ですよ、女の底力を。女はどんなときでも強く、しぶとく、たくましく生きていくものなんですから。特に恋をしている女は――」
「恋をしている女って……それじゃあ、八重さんは今でも章介に対して」
 あっにとられた思いで訊くと、
「もちろん、今でも私は章ちゃんに恋しています。これは未来永劫えいごう、変りません」
 という八重子の両目はやはり、潤んでいた。
 そんなところへ「おいこら、そこの二人」と徳三のダミ声が響いた。
「これからみんなで記念写真を撮るから、大御所二人がいねえと始まらねえだろう」
 その声を聞いたとたん、八重子がさっと髪をなでつけるのが目に入った。
「行きますよ、大先生」
 先に立って歩き出した。 

 翌日は曇り空で白井がいった通り、波が高くて散骨は中止になった。
 しかし、次の日はみごとに晴れた。波も穏やかで、絶好の散骨日和といえた。
 昼少し前、麟太郎たちはそれぞれ、小さな花束を手にして湯泉津港の埠頭に向かった。
 道すがら、麟太郎は隣の麻世にこんなことを訊いた。
「昨夜の神楽は、どうだった」
 出雲大社の土俵の前で、みごとな四股を踏んだ麻世に感想を聞きたかった。
 夜神楽は八時ぴったりに始まり「がえし」と「おろ」の二題が舞われて、九時半頃に終った。道返しは神と鬼との対決の舞いで、大蛇はまたの大蛇を題材にした舞いだ。両方とも舞台一杯に舞手が飛び回り、迫力満点の神楽だったが、麟太郎の目は終始横笛を吹く少女と鉦を叩く少年の姿に注がれていた。
 二人とも長時間座り通しだったが疲れも見せず、ただひたすら音を奏でる姿を貫き通した。見ていて気持が良かった。爽やかだった。そんな二人の姿に、麟太郎は久子と白井の姿が重なって見えた。ひたむきだった。
 そのことを麻世に話すと、
「なるほど、それが外科医の目か」
 と、ぽつりといった。
「それなら、武術者の目はどうだ」
 興味津々の思いで訊いてみると、
「隙がなかった」
 一言でいった。
「舞い手はみんな、頭の上から小指の先までぴんと力がみなぎってはくがこもっていた。だから技の面ではなく、気持の面で打ちこむ隙がなかった。そういうことだ、じいさん」
 爽やかな顔で麻世はいった。
「俗な言葉でいわせてもらえば、感動した。その一言につきるな」
 麟太郎がこう答えると、
「そうだな。私も感動した。あれだけの時間、気魄のこもった舞いを踊るには、相当真剣な稽古が必要なはずだから」
 麻世は大きくうなずいた。
 そんな話をしているうちに埠頭に着き、そこには白井が待っていた。すぐ下には白く塗った、小さな漁船が泊っていた。
 麟太郎たちは白井に挨拶をして、丁寧に頭を下げて順番に船に乗りこむ。
 船は二十分ほど走って、ぴたりと停まる。
「この辺りが、久枝さんが元也君のお父さんを散骨した場所です」
 白井の言葉に麟太郎たちは花束を抱えたまま合掌して、頭をたれる。
 どれほどそうしていたのか、元也は骨壺を取り出して、灰になった久枝の遺骨を知子と一緒にゆっくりと海中に落し入れる。すべてを落し入れてから、みんなの献花だ。思い思いの気持をこめて花を海に投げ入れる。
「久枝さあん、元気でなあ」
 頓珍漢な言葉を徳三が張りあげる。
「お羲母さあん、よくわかりましたよ。早く散骨してほしいといった、あの言葉の意味が。早く良平さんのところに行きたかったんですねえ、そういうことですよねえ」
 知子も声を張りあげる。
「お袋っ、お袋っ……」
 これは元也だ。
「私も、もうすぐそっちに行きますからねえ。仲よくしてくださいねえ」
 八重子が涙声をあげている。ひょっとしたら久枝にだけではなく、この声は章介に向かっての呼びかけなのかもしれない。
 高史は焦点の定まらない目で沖を見つめ、麻世は鋭いまなしを水平線に向けている。
 麟太郎は心の奥で「久枝さん、お幸せに」と何度も念じ、操舵室から黙ってみんなを見つめている白井のところに行った。
 簡単に自己紹介してから、
「海は綺麗ですね」
 と麟太郎は真直ぐ前を見ながらいった。
 空は光り、海は輝いていた。
「確かに綺麗ですが、荒れるとこんな怖いものはないですよ」
 笑いながら白井はいった。
「まるで、人間の女性のようですね」
 麟太郎も笑みを浮べ、
「そこで白井さんに、ひとつお尋ねしたいことがあるんですが――一昨日、白井さんと久枝さんのあれこれは聞きましたが、いくら初恋の人だからといって、白井さんのあの情熱はどこからくるんでしょうか。なぜ、そこまで、一生懸命になれるんでしょうか」
 一気にいった。
「それは――」
 と白井は一瞬、ちゅうちょしてから、
「男は莫迦ですから――というより、俺が莫迦なんでしょうね」
 ちょっと困った顔でいった。
「あっ、いいですね。近頃、その手の莫迦が少なくなりましたから。私も白井さんをまねて、ちゃんとした莫迦になるために頑張ってみます。ありがとうございました」
 麟太郎はそういってから麻世のほうを指差し、
「あそこにも莫迦がもう一人いますので、ちょっと話をしてきます」
 深く頭を下げてから操舵室を出て、麻世の隣に戻った。
「どうだ、麻世。例の心配事は」
 あっさりいうと、
「何だか心が晴れたみたいだから、東京に戻ってからゆっくり話すよ」
 ふわっと笑った。
「そうか。楽しみにして、待ってるからな」
 と麟太郎がいったとき、強めの風が波をさらった。無数の光の玉が飛びちった。
 すうっと心の奥が和らいだ。

               (つづく

プロフィール
池永 陽(いけなが・よう)
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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