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海路歴程 第九回<上>/花村萬月

.    *

 どーん!
 爆裂音が轟いた。
 あわてて目をひらく。
 ばらばらと派手に雨が降りかかった。
 舌先で濡れた唇まわりをなぞる。潮だ。この塩辛さは間違いなく海の水だ。
 薄闇のなか、皆はてんでんばらばらに転がって、眠り呆けている。
 貞親さだちかせわしなく目をこすった。ただ一人、酒を呑んでいなかったから、すぐに意識がもどったが、先ほどの大音響がなんであったのかは判断がつかない。
 雑魚寝している水夫かこたちを踏まぬよう気配りしたが、なにぶんくらいので幾人かの足や手を踏んだ。けれど水夫たちは酔い潰れて熟睡しているのか、目覚めもしない。なんだか屍体を踏んだかのようで、貞親は奇妙な違和感を覚えながらもぐらから出た。
 息を呑んだ。
 眼前に黒い壁がそびえ立っていた。
 経験豊かな貞親も初めて目の当たりにする前後左右が完全に筒状の、天井の抜けた城壁のような巨大なうねりの底にいた。
 甲陽丸こうようまるは、うねりの最下部でかろうじて安定を保っているのだ。
 うねりの天辺を見極めようと目を凝らす。頂点を飾る波浪が銀白にぜるのを見たような気がしたが、月のない晩であることに加えて、うねりが桁違いの高さなので銀白の波浪は錯覚かもしれない。
 落雷に襲われて困憊こんぱいしていたのでうまく頭が働かないが、この異様な情況をなんとか解釈しようと狼狽うろたえ気味に思い巡らせた。
 船乗りの大先輩である古老の教えが頭をかすめた。
 大地震が起こると常軌を逸した大津波が起きるという。洋上では信じ難い大きさのうねりが発生して、うねりが大きすぎて逆に気付くのが遅れるとも言っていた。
 なるほど、これは大津波のうねりではないか。そう判じたが、津波のうねりの対処法など思いうかぶはずもない。
 甲陽丸はうねりの底にあって、凄まじい勢いであらぬ彼方に流されて、いや疾駆させられている。
 奇妙なことに、うねりのもっとも底に固定され、うねりに合わせて甲陽丸は帆走では有り得ない速さで趨走すうそうしているのだ。
 恐怖を覚えるよりも先に自然天然の超越的な力と姿に感嘆し、無意識のうちに独白していた。
「化け物だぞ、こりゃあ──」
 船頭以下水夫たちを叩き起こすのも忘れ、貞親は波浪の奇妙なほどに滑らかに聳えたつ絶壁を、ただただ息を呑んで見あげていた。危機的状況にもかかわらず、あろうことか大自然のもたらす超越に感動さえ覚えていた。
 うねりを船腹に受ければ沈没だ。けれど四方を波の絶壁に囲まれて、壺の底に沈んで閉じこめられたかのような見透しのきかぬ情況だ。船首をどちらに向ければよいかなど、まったく判断がつかない。
 船頭やかたおもてを起こすしかない。ようやくそれに思い至り、屋倉に駆けこんだ。
 なぜか船頭が見当たらない。片表の姿もない。それどころか、水夫たちの姿が消滅していた。
 そこで己が眠っていることに気付いた。貞親は夢を見ていたのだ。
 まだ、実際のうねりは収まっておらず、甲陽丸は前後左右上下、満遍なく強く揺すられている。
 攪拌かくはんされて均衡を崩しながらも貞親は苦笑しつつ、闇の中を手探りして摑まる場所を探した。勝手知ったる甲陽丸だが、夢を見ていたせいで頭がぼやけていて現実にうまく対処できず、なんとも覚束ない。
 寝ずの番を買ってでたのだが、雷の暴風雨になぶられて草臥くたびれ果て、寝入ってしまい、夢を見た。
 夢とはいえ、自然天然に対する畏怖がまだ抜けない。
 当然ながら航海中に水夫全員が就寝することなど有り得ない。誰かが常に海を、甲陽丸を見守るのが当たり前だ。貞親以下片表を含む四名が、昼夜問わず常に半日ごとの交代で監視に当たることになっている。
 けれど帆をうしない、どのみち流されるだけだから──と投げ遣りな心持ちに支配され、貞親以外の全員が酒をあおった。その結果が重層するいびきだ。
 貞親は掌で側頭部を幾度も叩き、夢の残滓を追いだす算段をした。感情の昂ぶりとはべつに冷たさからくる胴震いが起きて、からだ全体が濡れていることに気付いた。
 闇を透かし見る。
 はさみの間に敷きつめた踏み板にまで海水が流入していた。酔っ払った皆は相変わらず寝入ってはいるが、さすがに全身があかに浸っているので鼾が乱れ気味だ。
「船頭! 起きてくれ」
 大声で怒鳴ると、うめきに似た声をあげながら船頭がだらだら上体を起こした。
「ここまで淦が這入はいり込んでやがる」
「なに!」
 船頭は、濡れた手の甲をぺろりと舐め、その塩気に顔を大きくしかめた。
 夢で唇を舐めたのに重なって、妙な気分がおきたが、こだわっていられる場合ではない。貞親が指摘する。
「淦がくるぶしくらいまで達してやがる」
 てめえら、とっとと起きやがれ──船頭がごえで怒鳴った。こんななかであるにもかかわらず、貞親は船頭の息の嘔吐物じみた酸っぱい酒臭さに閉口した。
 うー、とか、あーといったくぐもった声をあげながら皆が半身を起こした。酔いが残っているから、なかなか情況を悟ることができない。
 それでも様子を察した片表が慌てて立ちあがった。若衆に灯りの用意を命じ、即座にすっぽんの準備をした。
 船内の色彩がそう見せるのだろうが、灯火があからさまにした光景は、奇妙に黄色がかっていた。船頭が大きく舌打ちした。貞親はその視線を追った。
 たった一人、海水に浸かったままかしきが大口をあけて鼾をかいていた。
 貞親は黙って傍らに立ち、しばし見おろして脇腹を蹴りあげた。驚愕し、泣き騒ぐ爨を醒めた目で見やる。
 手にしている淦取りを加減せずに投げつけてやりたかったが、柄が折れたりすれば、使い物にならなくなる。こらえてことさら叮嚀ていねいに爨の眼前に置いた。汲みだせ──と無言の圧迫を加える。
 すっぽんすっぽんひょうきんな音をたてて、水夫が海水を汲みだしはじめた。そのほかの水夫たちは柄杓や桶を使う。
 貞親は挟の間の踏立を外して、船底の様子をたしかめる。海水がなだれこんだだけならまだしも、もはや淦水道かんすいどうが完全に水没していた。つまり船体のどこからか浸水している。
 気抜けしそうな気持ちを抑えこんで、貞親はあらためて淦取りを用いながら、濡れ鼠の全身と重ね合わせて、こころひそかに先ほどの夢を反芻はんすうする。
 夢のなかで派手な爆裂音を聴いた。激浪が船体を直撃したのだ。さらに貞親の全身を雨粒が打ちすえた。あれは実際に波浪が甲陽丸の船内にまで這入り込んできて、海水が雨のように降りかかったのだ。
「あそこで目が覚めたつもりになってたんだから、まったく俺も目出度めでてえぜ」
 重層的な夢に呆れつつも自嘲し、もう甲陽丸はだめだろう──と内心、うなれる。それでも激浪によって流入した海水は挟の間からほぼ汲みだされた。
 舟灯籠を用意させ、船尾に向かう。
 摑んだ梶柄が異様に軽かった。灯りをかざして覗き見るまでもない。
「梶がなくなってる」
 落胆はなかった。どのみち帆を喪っていることもあり、梶も飾りのようなものに成りさがっていたからだ。
 もはや操船は不可能だ。できることは、ないのだ。運命を司るなにものかに、おまかせするしかない。
 せいせいしたと言えば語弊があるが、貞親は情況に不釣り合いな薄笑いを泛べ、続けておお欠伸あくびした。うたた寝では疲労と睡眠不足は解消されない。
 揺れが烈しいので、まともに立っていられない。貞親は船尾ののぼりが気ぜわしくはためくのを聴きながらその場に腰を落とし、はぎつけに背をあずけて座りこんだ。
 片表が梶前をつれてやってきた。貞親は首を左右に振った。それで、すべてが通じた。片表も梶前も貞親に合わせて踏立板に座りこんだ。
 船底に海水がたまっているのも、激浪に梶を持っていかれた衝撃で、棚板と戸立の接合に不具合が生じたからだ。巨大な梶を持つざいせんの最大の欠点だ。
 加えてそれ以前から、微妙にどこからか海水が這入り込んでもいた。
 複合してしまうと、原因の場所を特定しづらくなるが、もっとも多く海水が浸入しているのは、間違いなく梶を支える部分だ。
「箱館を発つ前に、竜骨の話をしたじゃねえか」
「へえ。けど、いまそれを蒸し返されると、正直怖すぎますぜ」
 顔をそむけた片表である。だが貞親は言わずにはいられなかった。
「すまん。あんとき俺は甲陽丸は箱に過ぎねえって言ったじゃねえか。けどよ、桶だ。甲陽丸は桶だ。ちっぽけな桶だ。大海原にぽつんと浮かんだ、たががゆるんだ桶だ」
 片表は、魂が抜け落ちていくかの溜息をついた。
 波浪によって浸入した海水は汲みだすことができたが、いまや下船梁したふなばりの上にまで淦が浸入していると梶前が報せた。水夫たちが鍋釜まで用いて船底の海水を汲みだしている。
「甲陽丸は、もうお仕舞いだ」
 片表が、へい──と頷いた。
「みんな投げて、酒かっくらって寝てましたからね。仕方ねえです」
 梶前が受ける。
「なんか、さばさばした心持ちでさあ」
 そうなのだ。諦念からくるのか、貞親も奇妙なまでに平静な気持ちだ。
 もっとも酔っ払って梶をあげるのを忘れて眠ってしまったのは梶前である。
 本来ならば、有り得ねえことだと梶前を叱責するところだが、もはや出来ることはなにもない。すべてがどうでもよくなってしまって、投げ遣りに言う。
「ま、横っ腹にでけえ波を受けなければ、さしあたり沈むこともあるめえ」
 諦念が伝染した片表が苦笑気味に呟く。
「しかし、いま、いったい、どのあたりなんでしょうねえ」
 陸地に近いことを祈りたいが、望み薄な気がした。もちろんそれを口にはせず、貞親は雑に首をすくめ、希望的観測を呟いた。
「潮の流れからすれば、発ったとこにもどってるかもしれんが」
「どうでしょう」
「うん。どうだろう」
 口にはしなかったが、まばらに降っていた雪も消えて、奇妙なほど寒さ冷たさが消え去っている。認めたくはないが、間違いなく南に流されているのだ。
 片表が期待薄といった調子で言った。
「地面があるってだけで、蝦夷地でもかまわんというか、蝦夷地が懐かしいですぜ」
 対馬海流は黒潮のように強靱ではない。強風に見舞われれば、海面は風向きに支配されてしまう。貞親は本音を洩らした。
「黒瀬川とちがって、こっち側の流れはよええからなあ。風に牛耳られてるさ」
 途轍もない距離を流されてるぜ──という後半は呑みこんだ。梶前が口を尖らせて、強風に頼りなく揺れる舟灯籠を見やる。
 このころの難船は太平洋、日本海のどちらも、もっとも多い漂着先は中国で、朝鮮、露西亜の東部、そして米国、ソンと続き、片表も漠然と中国に漂着するのではないかとかおを顰めた。
「陸に辿たどり着いたはいいけど、唐人笠をかぶった奴らだったら、どうしましょう」
「どうもこうも、地面さえありゃあ、唐でも天竺でも、どこでもいいさ」
 貞親はどこか投げた物言いである。じつは漂流もきついが、運良く外国から日本にもどされてからが、さらにしんどいということを耳にしたことがある。
 あまりの吟味取調のきつさに、せっかく日本にもどったのにあがりで自殺する者もあるという。漂流民は犯罪者に準ずる扱いを受けることを貞親は知っていたのだ。
 片表が嘔吐した。呑みすぎた──と苦笑いした。やっぱ自棄はよくねえ──と自嘲の口調で付け加えた。梶前が受ける。
「酒でも呑まなきゃ、やってられねえさ。俺なんて梶をどうしていいかわかんねえから、半泣きだったぜ。まったく、よくぞあの雷様から逃げられたもんだ。ねえ、あにい
「ああ。目の前に落雷だもんな。帆が裂けて燃えたときは、終わったって天を仰いだぜ」
 続けて、ふっと息をつき、貞親は片表と梶前を従えて船首に向かう。
 碇捌いかりさばきが座りこんで、手持ち無沙汰な顔で綺麗に並べられた碇を見守っていた。貞親に向けて頷く。
「重てえだけに、ぜんぶ揃ってますぜ」
 いちいち指先で触れて、貞親は碇を慥かめる。指を汚した鉄錆に、この船で、はじめて揺るぎのないものに触れた気がした。碇捌が諦めの言葉を口にした。
「立岩なら、たらしも効きますけどね、こりゃあどうみても深場ですぜ」
 立岩、すなわち岩礁地帯ならば、逆に陸が近い。
 この鷹揚に感じられるほどの大きなうねりと、間近な海の漆黒の気配から察するに、碇捌の見立てどおり相当の深場である。
 たらしと称される碇を投じて制動をかけることくらいしか、もはや甲陽丸にできることはないが、それでなにか打開できるかといえば、慥かに望み薄だ。
 それどころか海水が大量に浸入すれば、おもりは投げ棄てるしかない。場合によっては船を軽くするために碇だけでなく、嫌われている水夫までもが海に投じられてしまう。
 片表が耳打ちするように言ってきた。
「哥は呑んでねえし、寝てねえ。どうか休んでくだせえ」
 夢を見て飛び起きたとは言えない。貞親は苦笑いした。片表には、その笑みが妙に切なく感じられた。

.    *

 とはいえ小康状態とでも言えばいいか。海水の流入も弱まり、うねりはたけっているが、甲陽丸は健気に耐えている。淦水道の見張りを置いて三々五々、水夫たちが貞親のまわりに集まってきた。
「明けねえなあ」
 星のない空を仰いで誰かが呟いた。漠然と朝を待つのは、しんどい。貞親も雑に夜空を見あげた。
 天罰か、とも思うが、たかが昆布である。このような過酷な仕打ちの連続は、納得がいかない。
 いまだに貞親は意味がわからないのだ。なにしろ昆布は禁制の品ではない。抜売りではあるが、抜荷ではない。
 なぜ薩摩は隠密裡に大量の昆布を甲陽丸に運ばせようとしたのだろうか。薩摩の思惑がわからない。ちょうどやってきた船頭に問うと、大きく顔を顰めた。
「薩摩にまったく昆布が入っていねえわけじゃねえ。けどな、とことん入り用ってわけでもねえだろう」
「京や江戸大坂ならともかく、薩摩ですからね」
「そういうこった。俺が思うにだ」
「思うに?」
「奴らはこれを抜荷に使うつもりだった」
「昆布を──」
「ああ。どうやら唐に運べば、凄えいい金になるらしいんだ。そこで甲陽丸に試しに運ばせたってわけだろう。甲陽丸は栄誉ある第一陣てわけだ。いや、第一陣だった、が正しい物言いか」
 たかが昆布、という思いが抜けない貞親の目の色を読んだ船頭が続ける。
「だからよ、奴らは昆布を筆頭に鎖国の禁を破るつもりなんだよ」
「なぜ!」
 船頭が事もなげに言う。
「薩摩には、金がねえからだ。金が慾しくてしょうがねえんだ」
 破顔して付け加える。
「ぶちあけたとこ金が慾しいのは、誰だっていっしょだけどな」
 加減のない莫迦笑いだが、水夫たちの尖った気持ちにかぶさって、ずいぶん丸めてくれた。船頭はすべてを喪ったのだ。それなのに明るい。船頭の高笑いは、鬱々と凝り固まったものにひびを入れて砕いていく。
 水夫たちも素っ裸になった気分だ。これから先を考えずに、いま息をしていればいいという割り切りが拡がった。もちろんす術がないという現実がのしかかっているのだが、俯いていても始まらない。
 幸い甲陽丸は荒々しいうねりにもかかわらず、こうして浮かんでいる。漂流が長引いて水がなくなれば一悶着あるかもしれないが、雨も降るだろうし、蘭引らんびきで真水を得ることもできる。
 甲陽丸が積んでいる蘭引は蒸留して焼酎をつくるためのものではなく、海水から蒸留水をこしらえるための大きなものだ。下から熱するために薪がいるが、いざとなったら船板等を剥がして燃やせばいい。だからこそ甲陽丸を沈めてはならない。
「まったく全員で伝馬に乗っかるなんて、最悪だからな」
 船頭の呟きに貞親は大きく頷く。甲陽丸はその規模からすると船頭の見栄もあって、かなり立派な伝馬船を載せてはいるが、さすがに外洋を漂うにはこころもとなさすぎる。
 水夫たちは船頭と貞親のやりとりで薩摩だの抜荷だのと危ういことを耳にして、おおよそのことを悟った。もっとも貞親と同様に、積み荷の昆布がさほど価値のあるものとも思えない。
 それを片表が囁くと、貞親も微妙な表情をみせた。昆布が天に罰せられるような代物とはどうしても思えないのだ。一方で神社に供えられた昆布を目の当たりにしたこともあるので、複雑な心持ちである。
「しかし薩摩まで行くとは思ってなかったですぜ」
「俺も、龍飛を過ぎたあたりで薩摩行きを聞かされてな、本音で泡食ったぜ。ただ、うまく薩摩に昆布を運べば、皆にたっぷり賞与金をはずむことができるってわけでな、いまさら引き返すことも出来ねえってはらくくったわけだ」
 片表と貞親のやりとりが聞こえてはいたが船頭は空とぼけて鼻屎はなくそをほじる。隣に座っている若い水夫の筒袖になすりつける。
 貞親は横目で船頭をうかがう。雷に打たれて焼けて、頭髪がちりちりになっている。
 うねりが嫌らしく甲陽丸に絡みつく。まるで意思をもっているかのようだ。ねちねちとまとわりついて、いたぶってくる。
「しかし、しつこいなあ」
 おさまる気配を見せぬうねりは、ときに波頭が白く爆ぜて剣呑な姿を隠しもしない。片表が膝に手をついて立ちあがった。船底の淦の様子を見にいくのだろう。
 片表が見張ってくれれば間違いない。貞親は肩から力を抜いて、胡坐をかきなおした。
 すっと軀の重みが抜けた。
 胡坐をかいた体勢のまま一瞬、宙に浮いたかのような錯覚がおきた。
 巨大なうねりの底に、一気に甲陽丸が墜ちていったのだ。薄気味悪い重力変化だった。
 垣立かきたてに摑まって立ち、どうにか均衡を保っている片表の背後に、さらに複数の人影が立っていることに貞親は気付いた。
 まずい。大波の底にいるのだ。貞親が声を張りあげようとした瞬間だ。
 嶮浪が襲った。
 帆柱が残っていればその波高の判断もつくが、見あげるほどの大波としか言いようがなかった。
 貞親はとっさに千切れた脇取綱を握っていたが、胡坐の恰好のままのしかかる大波に翻弄されて天地が逆転した。
 甲板全体にぶち当たった波が、しゅわーとこれ見よがしな涼しげな音をたててもとの海に帰っていく。
 貞親は息を荒らげていた。弓なりの激浪のあいだから腕が見え、その残像が眼球にこびりついてしまっていた。
「どんだけ持ってかれた!?」
「わからねえ」
「佐吉がいねえ」
「茂助も、呑まれた!」
 誰それがいない──というふるえのにじんだ声が、幾つもあがった。貞親は片表も波に呑まれたことを直覚していた。
 皆がいっせいに波浪が抜けていった方向に身を乗りだし、消えた水夫の姿を捜す。
 けれど闇夜だ。乱れ狂う墨汁の海に人影など見出すことはできないし、たとえ波間に姿が見えたとしても、この激浪に飛びこんで助けることなど叶うはずもない。
 船頭が立ちあがり、着衣を脱ぎ棄て、褌一丁になった。意想外だった。次の激浪に備えて胡坐をかいたままの貞親は、上体を傾けて即座に引きとめた。
「無理だよ、船頭。無理だ!」
 この情況では救出しようがない。貞親に足首を摑まれた船頭はしばし動かなかったが、海に向けて派手に唾を吐き、手負いの獣じみた唸り声をあげた。
 貞親は船頭が無茶をしないよう足首を摑んだまま、点呼を命じた。
 甲陽丸の水夫、十三人。けれど残っているのは船頭も合わせて五人だけだった。
 八人、波にさらわれた。
 船頭が残された水夫たちに向きなおり、爨に視線を据えた。
 貞親も爨を睨みつけた。
──片表の姿が消えたってえのに、役立たずのずるい餓鬼が、薄笑いを泛べて息をしてやがる。
 年若いというだけで、爨は得体の知れぬ過剰な憎悪を浴びていた。
 爨は笑っているつもりなどないのだが、皆の視線が刺さって頬や口許が引きれ、それが笑みのような貌をかたちづくっていたのである。
 恐怖と狼狽が爨を追い詰めていた。哀れにも飛沫とはあきらかにちがうものが爨の頬を伝っていた。
 貞親は直情を抑えこんだ。
 静かに見やり、心の中で呟く。
──てめえ、いざってときは、真っ先に食ってやるからな。
 船頭も同様の思いを抱いていたようで、口の端に爨の泛べた引き攣れとは別物の、本物の凄い笑いを泛べて、醒めた眼差しで爨を見やっていた。

次回に続く)

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花村萬月 はなむら・まんげつ
1955年東京都生まれ。89年『ゴッド・ブレイス物語』で第2回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。98年『皆月』で第19回吉川英治文学新人賞、「ゲルマニウムの夜」で第119回芥川賞、2017年『日蝕えつきる』で第30回柴田錬三郎賞を受賞。『風転』『虹列車・雛列車』『錏娥哢奼』『帝国』『ヒカリ』『花折』『対になる人』『ハイドロサルファイト・コンク』『姫』『槇ノ原戦記』など著書多数。

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