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雌鶏 終章/楡 周平

【前回】

   1

 繁雄(しげお)は始業時刻よりも一時間早い、午前八時前後に出社するのを常としている。
 日中は会議や来客への対応、書類の決済に追われるし、夕刻からは会食の席が設けられることが多く、雑務をこなす時間がなかなか取れない。そこで、出社後の一時間で報告書や売上日報などに目を通し、余った時間を新聞や経済雑誌を読む時間に当てていた。
 ただ、会社宛に送られてくる郵便物には、ほとんど目を通すことはない。
 日頃付き合いのある人間ならば、私信は自宅宛に送ってくるはずだからだ。実際、会社宛に名指しで送られてくる手紙の内容は、債務者が返済に猶予を求めたり、ヨドの商法に抗議する内容のものばかりで、秘書が対処してしまうので繁雄の目に触れることはない。
 ところがである。
 いつものように上着をハンガーに掛け、執務席に座った繁雄の前に秘書が歩み寄ってくると、膨らんだ封筒を差し出しながら、
「社長……。お手紙が届いております……」
 珍しく硬く、低い声で言う。
「ん? 手紙? 私宛にか?」
 繁雄の視線から逃れるように、秘書は目を逸(そ)らし、小さく頷(うなず)く。
「私が読むべき内容だと、判断したのかね?」
 封筒を受け取りながら、重ねて繁雄が訊(たず)ねると、
「冒頭部分を読んだだけですが、私が目にしてはならない内容が書かれていると察しまして……」
 今度は、弁明するかのように言う。
 長く身近に仕えてきた男である。たとえ封筒の表に「親展」と記されてあっても、開封後、一読することを許してある。
 そんな男の言葉だけに、余程のことが書かれているのに違いあるまい。
「分かった……。君は下がっていいよ」
 秘書は硬い表情のまま、黙って一礼すると、部屋を出ていく。
 ドアが閉まったところで、繁雄は封筒を裏返した。
 住所は書かれておらず、名前だけが記してある。
 「貴美子(きみこ)」という文字を認めた瞬間、繁雄は凍りついた。
 心臓が大きな拍動を刻み、封筒を持つ手が小刻みに震え出す。
 貴美子? 貴美子って……。あの貴美子か?
 繁雄は胸中で叫び声を上げてしまったのだが、貴美子と言えば、思い当たる女は唯一人しかいない。
 そう、かつて内縁関係にあり、自分に代わって殺人の罪を被(かぶ)って懲役刑に服したあの女。そして、固く誓った約束を反故(ほご)にして、捨ててしまったあの貴美子だ。
 息が荒くなる。心臓が早鐘を打ち始める。喉に酷(ひど)い渇きを覚えながら、繁雄は震える手で手紙を封筒から引き抜いた。 

  拝啓
 突然、お手紙をお送りする御無礼をお許しください。
 あなたが私の前から消え去って、もう三十年もの歳月が経(た)つのですね。
 そう言えば私が誰か、分かりますよね。 

 冒頭の部分を読んだだけでも、間違いなく貴美子だ。
 繁雄は貪るように、文面に目を走らせた。
 読み進むうちに、手の震えはますます激しくなって便箋が擦(こす)れ合い、カサカサと音を立て出す。
 というのも、そこに書かれていた内容が、繁雄にとってはまさに驚愕(きょうがく)の連続以外の何ものでもなかったからだ。
 あの時、貴美子が妊娠していたこと。獄中で男児を出産したこと。自分の名から一文字取って勝彦(かつひこ)と名付けたこと。子供は貴美子が刑期を終えるまで、乳児院に預けられ、出所後は貧困生活を送ることを余儀なくされたこと。そして、水商売で生計を立てながら、勝彦を立派に育て上げたこと……。
 そこまで読んだだけでも、自分を捨てた男が、消費者金融業界で大成功を収めていたと知れば凄(すさ)まじい怒り、恨みに駆られたことは容易に想像がつく。そして、さらに読み進めたところで、繁雄は椅子の上で固まり、途方もない絶望感と恐怖に駆られ頭の中が真っ白になってしまった。
 そこに書かれていたのは復讐予告であったからだ。
 事件は三十年前に決着がついているし、真相を明かされても、とうに時効を迎えているから逮捕されることもないし、罪に問われることもない。
 だが、この事実が明るみに出れば、間違いなく人生は一変する。
 日本一の消費者金融の社長が、過去に人を殺した。それも二名もだ。
 殺人に至った経緯を説明すれば、非は絶対的に米兵にあり、偶発的に起きてしまったことと分かろうが、貴美子を身代わりにした挙句、捨ててしまった。その後一切の音信を断ち、素知らぬふりをしてきたのだ。そんな行為を世間が許すはずがない。
 まして、消費者金融は業として認められたものではあるものの、世間では金に窮した人の弱みに付け込んで高利を貪る文字通り『高利貸し』のイメージが未(いま)だ根強く残っている。法に触れようと、触れていまいとそれが現実なのに、ヨドを日本一の消費者金融会社に育て上げ、莫大(ばくだい)な私産を手にした人間が、こんな過去を持っていると知れば、マスコミが黙っているわけがない。
 新聞、週刊誌、テレビと、あらゆるメデイアの取材合戦が始まり、自分の過去を暴き、虚実綯(な)い交ぜにした報道が連日繰り広げられることになるに決まっている。
 その結果がどうなるかは、火を見るより明らかだ。
 なにしろ、経営トップの大スキャンダルだ。社業が甚大な影響を被る事になるのは間違いないし、自分が社長の座を退いたところで事態が収束するとも思えない。業績が低下の一途を辿(たど)るばかりとなれば、そこから先は負の連鎖だ。事業規模が縮小すれば、従業員の削減も避けられない。ヨドは業界トップの座から転がり落ちるどころか、消滅してしまうこともあり得るのだ。
 もちろん、そうなったとしても繁雄には莫大な私産がある。これまで通りの暮らしは送れるにせよ、問題は家族、特に櫻子(さくらこ)だ。
 こんな過去を持つ父親の娘となれば、まともな縁談はまず見込めない。生涯「あの森沢(もりさわ)繁雄、こと井出清彦(いできよひこ)の娘」と後ろ指を指されながら生きなければならなくなるだろう。
 いったい、その時はいつ来るのだろうか……。
 明日なのか明後日なのか。ひと月後なのか、一年後なのか……。
 そこに思いが至った瞬間、繁雄は暗澹(あんたん)たる気持ちになった。いや絶望感を覚えたと言ってもいい。
「これじゃまるで死刑囚じゃないか」、と思えたからだ。
 判決は既に確定し、後は執行を待つばかり。その日はいつやって来るのか。ひと月後なのか、一年後なのか、いや、もっと先なのか……。
 死刑囚は事前に刑の執行を知らされない。ある朝、獄舎の廊下を歩く看守の足音が自分の房の前で止まり、突然扉が開かれて、その時がきたのを告げられるのだ。
 だから死刑囚は、毎朝廊下を歩く看守の足音が近づいてくる度に、今日は自分の房の前で足音が止まるのかと恐怖に駆られ、房の前を通り過ぎると、「また一日生き延びた……」と安堵(あんど)のため息を漏らすと聞く。
 今、自分が置かれた状況は、まさにそれである。
 判決は既に貴美子によって下された。そして刑の執行日を決めるのも貴美子なのだ。
 その日は突然やってきて、事前に知ることもできなければ、防ぐ術(すべ)もない……。
 せめて住所が分かれば、貴美子の前に跪(ひざまず)き、土下座をして詫(わ)びることもできるだろう。金を出せと言うのなら、望み通りの金額を差し出してもいい。
 しかし、封筒の裏には「貴美子」とあるだけで、住所は一切記されていない。
 それがまた、貴美子の恨みの深さ、復讐への覚悟の程を物語っているように繁雄には思えた。
 ふと思いついて、繁雄は封筒をひっくり返し、消印を確認した。
 住所は分からないまでも、住まいに見当がつけられるのではないかと考えたのだ。
 切手と封筒に跨(またが)った形で押された消印を見て、繁雄は改めて恐怖を感じた。
 日付は一昨日、『東京 新宿局』とある。
 貴美子は側(そば)にいる……。俺をずっと見ているのだ……。
 繁雄は、便箋を机の上に置くと、背もたれに上体を預け、天井を仰いだ。 

   2 

「先生……。本日は、急なお願いにも拘(かかわ)らず、時間をお割きいただき、感謝申し上げます」
 部屋に入ってきた繁雄は直立不動の姿勢を取り、深々と頭を下げる。
 京都の自宅を訪ねてきた理由は分かっている。
 繁雄から、「先生にご相談申し上げたいことがありまして……」と電話が入ったのは、一昨日のことだった。
 手紙を投函したのは五日前のことだった。
 内容が内容である。一読すれば、心穏やかでいられるはずがないし、一人で胸に秘めておくには重すぎる。かといって相談しようにも、相手を選ばなければならない。なにしろ絶対に知られてはならない過去なのだ。そして、相手が誰であろうと、打ち明けたその瞬間から、致命的な弱みを握られることになるのである。まして金絡みの仕事をしているのだから、弱みを握られれば、いつ首を取りに来られるか。脅しの材料に使われるか分かったものではないし、そもそも誰に相談しようと打開策などありはしないのだ。
 安心して相談できる人間が、繁雄の周りにいるとは思えない。
 絶対的信頼が置けるといえば、真っ先に思い浮かぶのは家族だが、今回ばかりは絶対に知られてはならない過去である。
 となれば、誰に目が向くかは明らかだ。
 既に過去の一端を打ち明けてしまった人物。
 そう、私だ……。
「いったい、どうなさったのです? 電話口での様子からすると、余程のことのようですが?」
 貴美子は、案ずる素振りを装って、繁雄に問うた。
「どこから説明すればいいのか……」
 繁雄は困惑した様子で言葉を濁すと、意を決したように、背広の内ポケットに手を差し入れて、「私の口から申し上げるのも、憚(はばか)られまして……。これをご一読いただければ、ご理解いただけるかと……。一昨日、会社宛に届いた手紙です」
 貴美子の前に、封筒を差し出してきた。
「手紙?」
 封筒を受け取りながら、貴美子が訊ねると、
「以前お話しした、かつて内縁関係にあった女性からのものです……。どこで私の今を知ったのかは分かりませんが、突然こんなものを送りつけてきまして……」
 繁雄は心底困り果てた様子で、小さくため息を漏らす。
 馬鹿ねえ。書いた本人が目の前にいるのに……。
 内心で嘲笑(あざわら)いながら、
「拝見しますわね……」
 貴美子は封筒の中から、手紙を引き出し文面に目を走らせた。
 貴美子が手紙を読み終えるまで、繁雄は一言も言葉を発しなかった。
 ただ、身の置き所に困った様子で項垂(うなだ)れ、時々反応を窺(うかが)うかのように、上目遣いで貴美子をチラ見するばかりだ。
「なるほどねえ……。これはかなり深刻ですね……」
 沈黙を破ったのは貴美子だった。
 そして、便箋を封筒の中に戻し、机の上に置くと、
「それで、私にどうしろと?」
 突き放すような口調で訊ねた。
「どうしろと言うより、どうしたらいいのか、ご相談申し上げたくて……」
 繁雄は縋(すが)るような目を向けてきた。
「相談と言われましてもねえ……」
 貴美子は困惑する素振りを装った。
 さあ、ここからはじわじわ行くか……。
 そんな内心をおくびにも出さず、貴美子は続けた。
「とにかく、物凄い憎悪と言うか、恨みを抱いている様子が伝わってきますよね。社長もそうお感じになりますでしょう?」
「ええ……それは、まあ……」
「そりゃあ、そうですよ。殺人の罪をこの女性に被せた挙句、約束を反故にして捨ててしまったんですもの、社長の今を知れば、怒りもするでしょうし、恨み骨髄に徹すってことにもなるでしょう……。それにしても、酷いことをなさったものですわね」
 貴美子は詰(なじ)るように言い、ジロリと繁雄を睨(にら)みつけた。
「いや、全くお恥ずかしい話で……」
 貴美子は、呆(あき)れたとばかりに息を吐くと、
「まあ、そうは言っても、いまさら取り返しがつくわけじゃなし、仕方ありませんよね」
 そう前置きすると、話を戻した。「厄介なのはこの方が、いつ、どんなタイミングで、どんな手段で、このことを公にするのかが一切分からないことです」
「おっしゃる通りです……」
「でもね社長。彼女はすぐには行動を起こさないと思いますよ」
「それはなぜですか?」
「そりゃそうですよ。手紙にも書いてありますけど、彼女が真相を明かさないうちは、その日がいつやってくるのかと、社長は不安に苛(さいな)まれる日々を送らなければならないんですもの。この方が強いられた苦難の日々、その間味わった苦痛と同等、いや社長の業界でいうなら利子をつけた分の苦痛を味わわせてやっと同等。最後の最後で、過去を明かして止めを刺す。そうでもしなければ復讐になりませんよ。すぐに明かしてしまったら、それまでですもの」
 繁雄は、ハッとしたように顔を上げる。
 顔面は既に蒼白だ。
 貴美子の読みが的を射ていると察したのだ。
「確かに、おっしゃる通りかも……」
「でもね、それは社長にとって悪いことではないと思いますよ。だって、公表するのが後になればなるほど、策を講じる時間があるということになりますでしょ?」 
「しかし、策を講じると言いましても、彼女がどこにいるのか、皆目見当がつかないのですからどうすることもできませんよ」
「現時点ではね?」
「それは、どういうことでしょう?」
「この手紙はどこから出したのかしら?」
 貴美子は机の上の封筒に手を伸ばしかけたが、それより早く繁雄は言う。
「消印は新宿で、私が受け取る二日前に投函されたと思われます」
「新宿と言うと、ヨドの本社があるところですね」
「それがまた不気味で……」
 繁雄は、顔を強(こわ)ばらせる。「彼女はすぐ側にいて、ずっと監視されているようで……。せめて名乗り出てくれれば、どうしたら許してくれるのか聞きようもあるのですが……」
「三十年も経つと、容貌もすっかり変わっているでしょうからね。女性なら尚更(なおさら)ですもの、社長がお気づきにならないだけで、お会いしているのかもしれませんものね」
 繁雄はギョッとして、上体を仰(の)け反らせる。
「あら、可能性はあるんじゃありません」
 今、お前の目の前にいるんだよ。
 貴美子は笑い出しそうになるのを必死に堪(こら)え、続けて言った。
「手紙にも書いてありますよね? この方、お酒を出すお店をやってらっしゃるみたいですもの、馴染(なじ)みの店のママが実は、なんてこともあるんじゃありません?」
「いや、それはないと思います……。と言うか、絶対にありません」
 繁雄は断言する。
「どうして、そう言い切れるんですか?」
 繁雄は、急に困った顔になって口を噤(つぐ)んでしまう。
「言いにくそうですけど、正直に話していただかないことには、私も相談に乗りようがありませんわ」
「実はですね……、彼女の左手の薬指には墨が入っておりまして……」
「すみ?」
「刺青(いれずみ)です……。彼女が刑期を終えて出所した後は、誰も私たちを知るものがいない土地で、再出発を図ろうと誓った証(あかし)として、左手の薬指に刺青を入れたんです」
「そんなことをなさったの?」
 貴美子は声を張り上げ、大袈裟(おおげさ)に驚いて見せた。「そこまでなさった女性を捨てたんですもの、そりゃあ激怒するどころの話じゃない。恨みもしますよ。一生消えない痕跡を、彼女の体に残したんですよ。刺青を見る度に、社長のことを思い出すことになるんだもの、そりゃあ死ぬまで恨みは消えやしませんよ」
「今にして思えば、若気の至りと言うか……。なんとも軽率なことをしてしまったと、悔いるばかりです……」
 若気の至り? 悔いるばかりだって?
 そんなありきたりな言葉しか浮かばないとは、何と情けない男なのだろう。
 しかも、今の言葉からすれば、悔いているのは誓いを果たさなかったことではなく、証として刺青を入れさせたこととしか思えない。
 貴美子は胸中で燃え上がる怒りの炎に、ガソリンをぶち撒(ま)けられたような気にさえなった。
「周りには、薬指に刺青を入れている女性はいないとおっしゃるわけ?」
「その通りです……。それに文面からは、私が井出清彦だと知ったのは最近のように読み取れますし、顔に深手を負ってからは、外で呑(の)むといえば会食ぐらいのものでして、女性が席に着くクラブのような場所に出入りすることもとんとなくなってしまったのです。ですから、彼女はまだ私と直接接触を持ったことはないのではないかと……」
「心当たりがないのでは、話し合いで解決するわけにはいきませんわね」
「それに、文面からは、彼女の目的は金にあらず。私を社会的に葬り去ることにあるとしか思えませんし――」
「お金じゃないってどうして言い切れるの?」
 貴美子は繁雄の言葉を遮って訊ねた。
「えっ? そうとしか読み取れないではないですか」
「そうかしら」
 自然と目が細まるのを感じながら、貴美子は繁雄の顔を睨みつけた。「貴美子さんは、この手紙を読んだ社長がどんな気持ちになるかを見通しているように思いますよ。だって、いつ過去を明かすかは、自分次第だってお書きになってるんですもの、いつ爆発するか分からない爆弾の上に座らされているようなものじゃないですか。そりゃあ、読んだ瞬間から、内心穏やかではいられないどころの話ではありませんものね」
「時限爆弾と言うか……正直なところ、執行の日に怯(おび)える死刑囚のようです……」
 なるほど、死刑囚ね。うまい例えだわ。
 吹き出しそうになるのを堪えて、貴美子は続けた。
「まず、彼女の狙いは、そこにあると思うのです。社長を精神的にとことん追い詰める。不安に苛まれた挙句、精神を病んでしまうのもよし。とにかく、最大限の苦しみを与え続ける……。そう、死を迎えるその時まで、無間地獄を味わわせてやると……」
「無間地獄……」
 貴美子が発した言葉が胸に突き刺さったのだろう。繁雄は慄(おのの)くように絶句する。
「でもね、そこまでするほど、この方は馬鹿じゃないとも思うの」
「と言いますと?」
「だって、社長との間には子供がいるんですよ? 母親にとって、子供は我が身にも代えがたい大切な存在なんですもの、最終的には自分の恨みと、子供の将来を天秤(てんびん)にかけるんじゃないかしら」
「天秤にかけるとは、どういう?」
 ここまで言っても、まだ気がつかないのか。
 貴美子は失笑しそうになるのを堪えて、努めて冷酷に言い放った。
「認知を求めてきたら、どうなさいます?」
「に……認知!」
 繁雄の驚くまいことか。 
 跳び上がらんばかりの勢いで、声を裏返させる。
「あり得るんじゃありませんか? だって認知させれば、婚外子でも息子さんは社長の法定相続人の一人になるんですよ。どれほどの私産をお持ちかは存じませんけど、ヨドをここまでの会社に成長させたんですもの。とことん社長に苦痛を与えた挙句、子供に相続させようって考えはあるのではないかしら」
 繁雄の顔から、瞬時にして血の気が引いていくのがはっきりと見て取れた。 
 果たして繁雄は、震える声で言う。
「そ、それは困ります……。婚外子がいたなんて、今更家族に打ち明けるわけにはいきませんし、第一話すにしても事の経緯を説明しなければならないわけで……」
 何て、勝手なヤツ。
 金で決着がつくのならと言っておきながら、家族に過去を知られるのは嫌だと言う。
 虫がいいにも程があるってもんだわ。
「今の社長の反応も、彼女はお見通しかもしれませんわよ。だって、それもまた、社長に苦痛を味わわせることになるんですもの、立派な復讐になりますでしょ?」
「しかし、手紙には息子は、大企業に就職して、今は駐在員として異国の地で暮らしていると書いてあったではないですか」
「それが?」
「それがって……」
 口籠った繁雄に、貴美子は追い討ちをかけた。
「お金はいくらあっても困るものではないでしょ? 一流会社で働いていようが、所詮サラリーマンじゃありませんか。遺産相続ともなれば家族愛なんてたちまち何処(どこ)へやら。一円でも多く貰(もら)おうと、文字通り骨肉相食(あいは)むような修羅場と化すのが世の常じゃありませんか。口を噤む代わりに、相続人として認めろと言い出しても不思議じゃありませんでしょ?」
 もはや、ぐうの音も出ないらしい。
 引き攣(つ)った顔面の皮膚に脂汗が浮かんでくるのを見て、貴美子は愉快でならない。
 貴美子はさらに追い討ちをかける。
「それに、認知は社長にとっても悪い事ばかりじゃないかもしれませんわよ」
「なぜ、そんなことが言えるんです?」
「だって、息子さんはかなり優秀なようではないですか。立派な大学をお出になって、一流会社で働いているんですもの、社長の跡を継いで、ヨドの経営者に据えることだってできるじゃありませんか」
 こんな話が出るとは想像していなかったのだろうが、指摘されてみるとあり得ることのように思えたのだろう。
 繁雄は沈黙するばかりだ。
「復讐の手段としても悪くありませんしね」
 ギョッとした様子で、顔を上げる繁雄に、貴美子は続けた。
「もし、彼女が息子さんを後継者に据えようと目論んでいるのなら、どこかの時点で必ず接触してくるはずです。でもね、それは当面の間、社長が最悪の事態から逃れられるチャンスの到来になるかもしれませんよ」
「最悪の事態とは?」
「社長にとって最悪の事態とは、この方に殺人の罪をなすりつけたことが明るみに出てしまうことですよね」
「ええ……。その通りです……」
「さっきも言いましたけど、過去を明かすのは、彼女にとっての切り札なんです。息子さんを社長にすることを目論んでいるのなら、取引の条件としては、最強の切り札になるんじゃないかしら」
「息子を社長にするなら、黙っていてやる。拒否するなら、公にするというわけですか」
「そうなりません?」
 貴美子は片眉を吊(つ)り上げ、繁雄の視線を捉えた。「だって、明かしてしまったら、手持ちのカードを使い切ってしまうことになるんですよ? カードを持ったままなら、いつ切るかは、彼女次第。それまではどんな条件を突き付けても、社長は言いなりになるしかないんですもの、復讐の手段としては、大ありじゃないですか?」
 かくして、無間地獄が延々と続くことになるのは変わりないのだが、貴美子は敢(あ)えてそこには触れないことにした。
「その時、認知の件はどうなるのでしょう……」
「そこは社長が条件を出せばいいじゃありませんか。息子を社長に据えるから、認知は諦めてほしい。その代わり、応分の待遇を以(もっ)て迎えることにするとか、なんとでも言いようがあるじゃありませんか」
「それで、貴美子が諦めますかね」
「諦めないかもしれませんね」
 貴美子はあっさりと言ってのけた。
 これには、さすがに繁雄も驚いたと見えて、
「諦めないかもって……」
 短く漏らし、絶句してしまう。
「だって、社長が死んでしまっても、実の父親かどうかなんて、DNA鑑定をすれば立証できますからね。その時、社長が殺人を犯したことを公表するかどうかは彼女次第ですけど、息子さんをヨドの社長にした上に、相続も受けられるとなれば、公表までするかどうか……。もし、遺族が反発すれば、父親が実は殺人者だったってことを公表すると言えば――」
「そんなことすれば、困るのは櫻子だけじゃない! 勝彦だって、殺人者の息子という汚名が一生ついて回ることになるじゃないですか! あり得ませんよ!」
 そんなことは考えたくもないとばかりに、貴美子の言葉の半ばで繁雄は声を荒らげる。
「それと引き換えに、息子さんは法外な収入をもらい続けて、財産贈与にも与(あず)かれるんですよ? 一方の櫻子さんはと言えば、婿養子を迎えることになるのか、他家に嫁ぐのかは分かりませんけど、いずれにしても苦しい立場に立たされることになるんです。ならば、奥様と結婚する前に、実は内縁の妻がいて、自分が犯した罪を被って服役中に子供を産んだ。妊娠していたことを知らずに別れてしまったのだが、子供が不憫(ふびん)に思えたので会社に迎え、後継者に据えた。社長がそう告白して、それで決着がつくのなら、奥様も櫻子さんも勝彦さんを異母兄と認めざるを得ないんじゃありませんか?」
 もはや反論などできようはずもない。
 繁雄は、呆然(ぼうぜん)とした面持ちで、焦点の定まらない目で虚空を見つめるばかりだ。
「そうなったとしても、社長にとっては悪い展開じゃないでしょう」
 貴美子は言った。「だって、少なくとも世間には過去を知られずに済むし、実の息子を後継者に据えることができるんですよ? それにいくら何でも、私産を全部渡せとまでは言いませんよ、それで、名声も守られれば、家族の平和も守られるなら万々歳じゃありませんか」
 それでも繁雄は、なかなか反応を示さない。
 暫(しば)しの沈黙が流れた。
 次に口を開いたのは、繁雄だった。
「先生……。今後、この件はどう展開していくのでしょう。先生のおっしゃった通りになるのでしょうか? それとも、全く別の局面を迎えることになるのでしょうか? 卦(け)を立てれば、分かりますかね」
 それこそが、待っていた言葉だった。
 それでも貴美子は、暫し考え込む素振りを装うと、
「何とも言えませんけど、お望みならば卦を立ててみましょうか?」
 繁雄に向かって訊ねた。
「是非、お願いいたします」
「分かりました」
 貴美子は短く答えると、引き出しを開け、中にあった占い道具を取り出した。 

   3  

 筮竹(ぜいちく)を操り、算木を並べ終えた貴美子は、それに暫し見入った後、ようやく口を開いた。
「やっぱり当面の間、社長の過去が明かされることはなさそうですね。まずは、苦痛を与えるだけ与えて、その時を待つ。つまり、公にされては困るタイミングを見計らって、なんらかの行動に打って出ることを考えているようですね」
 もちろん出まかせである。
 繁雄が算木の並び方を読めるわけがない、ここから先の筋書きは、既に貴美子の頭の中にある。
「困るタイミングと言えば……」
 考え込む繁雄に向かって、何気ない素振りを装って、貴美子は問うた。
「真っ先に思い浮かぶのは、櫻子さんの縁談ですが、そういえば小早川(こばやかわ)先生のご子息とは、その後どうなりました?」
「小早川先生には、私の過去の秘密の一端を知られてしまいましたのでねえ……。先生がお立てになった卦の結果もよくありませんでしたし、事実、そうなってしまいましたので……。それに誠一(せいいち)さんのアメリカ留学も延長されることになって、縁談話は止まったまま……というか、自然消滅と言った方が当たっているかもしれません」
「確かに、こんな爆弾を抱えてしまったのでは、誠一さんとの縁組は、止(や)めた方がいいでしょうね」
 貴美子は肯定すると、「でも、小早川先生には、継続して政治資金を用立ててあげていらっしゃるのでしょう?」
「例の件で鴨上(かもうえ)先生の存在が明るみに出てしまって以来、政界での小早川先生の勢いは、目を見張るものがあります。そう遠くないうちに、総理総裁の座を射止めるのではないかとも目されておりますので、乞われるがままに用立てております」
「それで、こんな卦が出たのね……」
 貴美子は改めて算木に目をやると、静かに頷いた。
「と、おっしゃますと?」
「社長を守る人を側に置け。その人物を育て、力を振るわせれば、最悪の事態からは逃れられると読み取れる卦が出ているの」
「守る人を育て、力を振るわせろとおっしゃるからには、小早川先生しかいませんね」
「鴨上先生が、あれほどの力を隠然と発揮できたのは、一にも二にも、莫大な資金力があったから。確かに総理大臣は絶大な力を握ってはいるけど、それも資金の裏付けがあればこそのことですからね。当たり前の話よね。権力とお金は表裏一体なんですもの、資金の提供を受けている以上、金主の意向には逆らえないのよ」
「確かに、それは言えてますね。それも、大口の資金提供者の意向は、絶対に無視できません。そっぽを向かれれば、それこそ金の切れ目が縁の切れ目。折角手にした地位を失うことになりかねませんからね」
「そう考えると、小早川先生にとって、社長は鴨上先生と同じような存在になっていると言えますよね」
「鴨上先生と同じ?」
「だって、そうじゃありませんか。社長は小早川先生の最大の資金源。とっくの昔に返済期限を迎えた債権も、そのままにしてあるのでしょう?」
「もちろん、担保は取っていますよ。大半は手形ですけど、全て私が処理していますが、小早川先生の債務であることに変わりはありません」
 さすがは金貸し。繁雄の瞳に怪しい光が宿る。
「つまり、債権を持ち続ける限り、その額が膨らめば膨らむほど、小早川先生は社長のために、働き続けなければならないということになりますよね」
「間違いなく……。借金の返済を迫られれば、日の出の勢いの小早川先生だって、そう簡単に払える額ではありませんので……」
「だったら、小早川先生が政界の頂点、総理総裁の座に就くまで、徹底的に支援なさったらどうかしら?」
「先生の見立てに異を唱えるつもりはありませんが、小早川先生を総理にすることと、今回の件がどう関係するのですか? 貴美子が私の過去を明かしてしまえば――」
「社長は権力の怖さをご存じないようですね」
 貴美子は繁雄の言葉をピシャリと遮った。「鴨上先生の存在は、政界、財界の大御所ならば、口にこそ出さなかったけど、誰もが知っていたことなんです。だからことあるごとに鴨上先生の事務所を詣でていたの。マスコミだってそれは同じ。大手メディアのご重鎮たちだって、鴨上先生の存在は、重々承知していたのに、これまで一切報じることはなかったでしょ? さすがにアメリカ議会にまでは鴨上先生の影響力は及ばなかったから公聴会で名前が出てしまったけど、そうでなければ、未だ日本のフィクサーとして君臨し続けていたのよ」
 反論などできようはずもない。
 繁雄は話に聞き入るばかりだ。
 貴美子は続けた。
「会社なら社長、学校なら校長と、権力者は社会を構成する様々な組織に存在しますけど、それら全ての頂点に立って、全権力を掌握するのが総理でしょう。だから政治家になった以上、誰もが総理大臣の座に就くことを夢見るわけですよね」
「しかし、それはあくまでも表面上のこと。現に日本の政財界は、これまで鴨上先生の影響下で動いてきたと言いたいのですね」
「総理を目指すにしても、まずは議員になって、当選回数を重ねることが大前提ですからね。そのためには有権者の歓心を買い続けなければならないし、議員もまた然(しか)り。一大派閥の長となって、議員を束ねるくらいにならないと、総理の座は絶対に物にできないものなの」
「つまり、豊富な資金源の確保は必要不可欠。それも継続性が重要になるのですから、金主を無くしかねない事態が発生すれば政治家生命に関わることになる。何がなんでも、金主は守らなければならないというわけですか」
 ようやく繁雄も貴美子の言わんとしていることを理解したとみえて、声に力が籠り始める。
「だから権力ってのは金の力だって言われているのよ」
 貴美子はニヤリと笑って見せた。
「社長の過去をバラそうにも、大手メディアが相手にしなかったらどうするの? そりゃあ、メディアと言っても様々です。中には反権力を謳(うた)う新聞や雑誌もあるけれど、大半は虚実綯い交ぜで面白おかしく報じるイエロージャーナリズムばっかりでしょ? まともな人間はそう読むものじゃないし、公人ならともかく、ヨドのトップとはいえ私人ですからね。大手メディアが追随しなければ、大した騒ぎにはならないんじゃないかしら。ただ……」
 希望を抱かせる見解を述べながら、最後のところで貴美子は言い淀(よど)んだ。
 続く言葉が気になった様子で、
「ただ……何です?」
 繁雄は先を促してきた。
「こんな手紙を送りつけてきたからには、言い逃れができないような証拠を握っているのかも……」
「証拠?」
「当時の調書や捜査資料を入手しているとは思えないけれど、現時点では想像もつかない動かぬ証拠を持っている可能性はなきにしもあらず……」
 繁雄は深い息を吐きながら、腕組みをして瞑目(めいもく)すると、
「そんなものがありますかねえ……」
 首を傾(かし)げながら、不安げに漏らす。
「今ここで、あれこれ考えても仕方がないのだけど、そうなった時に備えるためにも、守りを固めておかなければならないのよ」
「分かりました。先生がおっしゃるように、小早川先生が総理になれるよう、全力を挙げてお支えします」
 さて、いよいよ仕上げにかかるか。
「ただし仮に満願成就、小早川先生が総理の座に就けたとしても、支援の手は緩めてはダメですよ」
 貴美子は切り出した。
「実は大分前に小早川先生がここを訪ねてこられてね。その時こうおっしゃられたの。自分は早いうちに政界を退き、息子に跡を継がせるつもりだ。今、自分の派閥作りに全力を挙げているのは、息子を総理にするための地ならしなのだと……」
「では、小早川先生はご自身が総理になるのではなく、ご子息をとお考えだったのですか?」
「あの頃と今とでは、状況が一変しましたからね。ここを訪ねてきた時も、自分が総理になれるか占って欲しいなんておっしゃいませんでしたもの。だから、その事については卦も立てなかったんですの」 
「自分の野心の実現を、息子に託すと?」
「そうじゃないの」
 貴美子は首を振った。「小早川先生の狙いは、ご子息を総理にして、ご自分は院政を敷くことにあったの」
「なるほど、院政か……」
「大臣なんて、持ち回りの名誉職みたいなものだけど、当選回数が目安ですからね。しかも総理になるためには、大臣の中でも重職を歴任しなければならないでしょ。つまり、総理総裁を目指すなら、若くして議員になるに越したことはないから」
「そう聞くと、小早川先生が早期の引退を考えていた理由も分かりますね。なるほど、院政を敷くのを狙っていたわけですか……」
「ご子息の誠一さんは、東大法学部をお出になって、コロンビア大学で政治学の学位を修められた秀才ですからね。英語だって堪能でいらっしゃるだろうし、学歴も超一流。跡をお継ぎになったら、たちまち若き政界のリーダーとして注目を浴びることは間違いないでしょうからね」
 それが我が子だと思うと、なんとも誇らしくてならないのだが、今目の前にいる男の血も半分引いているのだと思うと、喜びが半減してしまうのは否めない。
「でもね、社長……」
 貴美子は続けた。
「小早川内閣が実現して、仮に短命に終わったとしても、失望することはありませんよ。一度総理になれば、重鎮として党内で大きな力を発揮できることには変わりありませんからね。もちろん、それも資金力があればこそ。派閥も維持できれば、次の総理を誰にするか。キングメーカーとして、自派閥、党内で権勢を振るえることになるの。だから、小早川先生が、院政を敷いて権力を固持しても、金主の意向は無視できない。つまり、最も大きな力を持つのは、他の誰でもない、社長、あなたなの」
 繁雄の顔はすっかり血の気を取り戻している。サングラス越しに、見える瞳が炯々(けいけい)と輝き出すのが見てとれた。
 考えていることは分かっている。 
 櫻子との縁談を復活させようと目論んでいるのだ。
「社長……。それは駄目ですよ」
 貴美子は微笑みながら言った。
「駄目って何がですか?」
「誠一さんとの縁談を復活させようと思っていらっしゃるんでしょう?」
 繁雄はぎくりとした様子で、一瞬顔を強ばらせたが、
「怖いなあ……。お見通しでしたか……」
 すぐに照れたような笑いを口元に浮かべる。
「状況が変わっても、一度立てた卦の結果は、変わりませんのでね。とにかく、櫻子さんと誠一さんの縁談は、不幸を生むことになるんです。ほら、よく言いますでしょう? 二兎(にと)を追う者は一兎をも得ずって。まさにそれですよ。ここは、小早川先生、誠一さんを支える黒子になって、鴨上先生のような日本のフィクサーにおなりになればいいではありませんか」
 もはや繁雄は私に将来を見通す不思議な能力があると信じて疑っていないはずだ。
 何をやるにしても私に相談を持ちかけるだろうし、卦を立ててやれば、その結果を鵜呑(うの)みにするに違いない。つまり、日本のフィクサーになったつもりでも、全ては私の思うがまま。日本のフィクサーとして君臨するのは他の誰でもない、この私なのだ。
 我が子勝彦が、日本政界の頂点に立ち、絶対的君臨者として表舞台で輝きを放つ。
 それを可能にするのが、目の前にいる憎んでも憎み切れないこの男の資金力。そして、母子手を取り合って、この国を自在に操る……。
 それこそが、貴美子が考えた復讐だった。
「分かりました。先生がおっしゃるように、小早川先生、誠一さんを全力でお支えします」
 決意の籠った声で言い、深々と頭を下げる繁雄を見ながら、貴美子は口が裂けそうな笑いを浮かべた。

   (次回に続く) 

プロフィール
楡 周平(にれ・しゅうへい)
1957年岩手県生まれ。米国系企業在職中の96年に書いた『Cの福音』がベストセラーになり、翌年より作家業に専念する。ハードボイルド、ミステリーから時事問題を反映させた経済小説まで幅広く手がける。著書に「朝倉恭介」シリーズ、「有川崇」シリーズ、『砂の王宮』『TEN』『終の盟約』『黄金の刻 小説 服部金太郎』など。


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