【刊行直前特別連載!】鶴は戦火の空を舞った 第一章 5/岩井三四二
(第一章 死と隣り合わせの任務 )
五
明けて大正二(一九一三)年の正月──。
英彦は亜希子とともに、年賀のため麻布の実家を訪れていた。
「しかし飛行機ちゅうのは、危なくないか」
床の間を背にした父が、ほぼ真っ白になった鼻の下のカイゼル髭をひねりつつ問う。英彦は答えた。
「危ないといえば危ないのですが、そこはなんとか注意を払って乗り切るしかないです。機体と発動機の整備を念入りにやって、気象の悪いときには無理に飛ばないようにすれば、そこまで危険なものではありません」
「お天気次第ってことか。それでいくさに使えるのか?」
「はあ。上層部では、これからは飛行機なしには戦えぬ、との評価のようで。なにしろ敵陣の上空まで飛んでいけるので、偵察に重宝するのです」
ふうん、と父はまだ納得がいかない顔だ。盃を手に、英彦をにらんでいる。
父は退役軍人で、東京市麻布区の高台の広い家にひとりで住んでいた。市電の停留所が遠いのが少々難だが、閑静で住みやすい町中である。
妻を先に亡くしてひとり身といっても、通いの家政婦が掃除から食事の世話までやってくれるし、芝の別宅には英彦の母がいる。母はもともと向島の芸妓で、二十歳で父の妾になった。以来、別宅に暮らしている。英彦も別宅で生まれ、育ったのである。
いまの中佐や大佐が妾をもつなどあり得ないが、父の時代は可能だったようだ。
英彦にとっては異母姉となる姉たちもかわるがわるようすを見に来るので、暮らしに不自由はない。父もひとり身を楽しんでいるようだ。
「偵察の役に立つのはいいが、いくさにならぬうちに落っこちて死んでしもうては、なにもならぬ。考え直したほうがよくはないか」
「新しいことをやってみたいのです。工兵将校は何百人といますが、飛行機を操縦できる将校となると、いま十人もいませんので」
「新しいことか……。そうか。そちらで出世しようと思っているのか」
「……はあ、まあそんなところで」
はじめて得心がいったというように、父は深くうなずいた。
「危険と出世を、天秤にかけたってことか。仕方がないやつだな」
父は長州藩士の家に生まれ、二十歳のときに長州征伐の幕軍と戦い、はじめて戦火をくぐった。その後、長州藩兵として、あるいは官軍兵士として戊辰の戦いを生き抜いた。
維新ののちは陸軍に奉職し、佐賀の乱では大尉として、また西南戦争のときは少佐として歩兵中隊をひきい、勲功をたてて中佐に昇進したという経歴をもつ。
しかしその後、実戦がなくなると昇進がとまり、大佐に昇進した直後に予備役に編入された。戦いには勇敢にのぞむ男だったが、軍政や軍人教育といった平時の仕事は苦手だったようだ。
将官と佐官とでは退役後のあつかいもかなりちがうようで、軍内で出世した者の中には、爵位を得た者も少なくないという。
父は、華やかな世界にあと一歩およばなかった自身の人生に不満があるらしい。酔うと出世した同僚や後輩の悪口が出てくることで、それが察せられる。
そこで英彦に軍人としての出世を期待しているようなのだ。幼年学校へ入ったのも、父の命令である。逆らうことは許されなかった。
結局、二時間ほどで居づらくなって、英彦たちはすぐに実家を出た。すると亜希子は、
「わたしは、目白へまいります」
と言い、英彦の返事も聞かずに歩き出した。少々遠いが、狸穴町の市電停車場へゆくつもりだろう。チンチン電車で青山へ。そこで乗り換えて目白まで。距離はけっこうあるが、二時間はかからない。
亜希子は、家を出たときからひと言も話さなかった。最初で最後のひと言が、これだ。
こうなることは予期していたので、英彦は止めもしなかった。むしろせいせいすると感じたほどだった。
英彦は英彦で、行く場所がある。実母がいる芝の別宅だ。
──親孝行しろとは言われるものの……。
軍務があるので、母には盆暮れに顔を見せるくらいしかできない。いまのうちにせいぜい顔を出しておくかと思いつつ、大通りに出て人力車をひろった。
別宅はこぢんまりとした貸家だが庭と門があり、玄関と客間もそなえている。門前に松が飾られていた。なつかしい、いつもの正月がそこにあった。
「おや、元気かい」
と英彦を見た母はさっぱりした口調で言った。丸髷を結っているのは昔と変わらない。黒の紋付きを着ているのは、年賀の挨拶回りからもどったばかりだからだと言う。
近所の娘さんたちに三味線を教えている以外、母は仕事とてしていないはずだが、それでも付き合いの範囲は広いようだ。
「あんたは正月なのに軍服たあ、色気がないね。それでなきゃ駄目なのかい」
黒衿のついた銘仙の着物に着替え、居間の長火鉢の前にすわった母は言う。
「これがおれたちの正装だからね。正月だからこそ軍服だよ」
口は悪いが、内心で喜んでいることは顔つきでわかる。居間にすわって、久しぶりに母子ふたり水入らずの正月となった。
「ま、おせちでも食べておゆき」
今夜は泊まるつもりだったので、早めの夕食を母と摂ることにした。数は少ないながら、ちゃんとおせち料理も用意されている。
「どうだい。空を飛ぶのも慣れたかい」
「毎日飛んでるよ。それが仕事だからね」
「高いところを飛ぶなんて、危ないだろ。いい加減、よしたらどうだい」
「みんなそう言うけど、それほど危なくもないよ。ときどき不時着したりはするけど、いまのところ仲間の誰も怪我はしてねえし」
「そうかい。危なく見えるけどね」
「飛行機ってのはうんと工夫して作られているからね。危なく見えて、それなりに落ちないようになっている。ま、腕前の良し悪しもあるけどね」
母はまだなにか言いたそうだったが、
「いまじゃもう、土の上を這いずり回る軍務なんて、できないね」
と英彦が言うと、あきらめたようだった。
「あんたは子供のころから危ないことばかりやってたからね。屋根の上に登って𠮟られたり、大きな船を見たいってだけでひとりで横浜まで出かけたり、親に心配かけといて平気な顔してたよ。大人になっても変わんないどころか、ますますひどくなるねえ」
英彦が何も言えないでいると、
「ところで亜希子さんは?」
と探索の矛先を変えてきた。
「いまごろは目白行きの電車の中さ。最近はよく実家に帰っているよ」
所沢へ行ってからのことは母にもあまり話していないだけに、驚いたようだった。
「嫁が実家へよく帰るってのは、あんまり外聞がよくないねえ。大丈夫かい」
そんなことを言って憂い顔になっている。
「大丈夫だよ。心配ないって。夫婦って、そう簡単には壊れないから」
「ま、こんな家だし、来てくれとは言わないけれど、お年賀くらいは聞きたかったね。そろそろ孫の顔も見たいから、子作りのおまじないも教えてあげたいしねえ」
はあ、とため息をつく。
「ごめんよ。三が日のうちには、つれてくるから」
母がかわいそうになり、つい、できるかどうかわからない約束をしてしまった。
「気をつかわなくていいよ。元気でいれば、そのうち顔も見られるだろうし。それより、あんた」
と母は真剣な顔になって言った。
「女房が足枷になるような生き方をしなさんな。どっちも不幸になるからね。別れるなんて、とんでもないよ。わかってるね」
今度は英彦が驚く番だった。内心を見透かされているようで、ちょっと怖くなった。
「軍人なんて、いくさに出て死ぬのでなけりゃ、一生食いっぱぐれのないいい商売なんだから、せいぜい出世して女房を喜ばせてあげな」
母はそう言って、数の子を口に入れた。
英彦は居間の鴨居が気になっていた。子供のころ、あそこで懸垂をしたものだ。さすがに母の前では大人げないと言われそうでできないが、母が寝たらやってみよう、と思っていた。
(次話に続く)
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