
纏足探偵 天使は右肩で躍る/小島環 第一話・前
序
趙月華の世界は、その日まで、なにもかもが完璧だった。
家が裕福で地位もあり、才能にあふれた七歳の少女だった。
地を蹴り、群衆の隙間をぬう。北京の春は暖かく、人混みの中は暑いくらいだ。月華はその小さな体で、人の前にでた。
「まだ幼い童子を狙うなんて恐ろしい」
「光瑞党から声明文はでてないのか?」
まわりの怒声を聞いていると、月華は笑いだしたくなる。
愚かだ、なにも見えていない。
帰ろうと踵を返す月華は、自分と同年くらいの男児に気づいた。
月華より少し小さいその男児は、質はよいが古びた衣服を着ており、人のあいだから何かをそっと見ていた。その横顔は青く─けれど赤い斑点のような疱瘡の跡があり─指先はふるえていた。
沿道には人々が集まり、卵や腐った野菜を投げている。
その先には、ひとりの男がいた。彼は、腕を鎖で繋がれ、足に重しをくくりつけられ、長い板を二枚あわせて中央をくり抜いた首枷をつけられていた。
「あなたの大切な人だったのね」
男児は月華の顔をはっと見つめて、その指摘に、さらに表情を消した。
月華は口の端を持ちあげると、なおも告げる。
「彼を救えたのは、主人である、あなただけだった。決定的な証拠を持っているのに、あなたはそれを口にだせなかった。ちがうかしら?」
「……なにを言うんだ。私は……!」
男児は月華の言葉をはねのけようとした様子だったが、まわりの目に気づいて声をひそめる。
「彼を見殺しにするわけは……自分が主犯だと思われて、同じように処刑されるのが怖いから」
断言してみせると、男児は月華の顔を見まわした。得体のしれない怪物を見るような瞳であり、天女を見るようなそれでもあった。
「……陥れられたのだ」
「わかるわ。そういう顔をしている。でも、ここにいても解決しないわ。さぁ、行きましょう」
月華が男児に手を差し伸べると、男児は瞳をうろつかせた。それから、月華の手に、手をそっと重ねた。
ふたりで沿道の人波から抜けだして、家々のあいだを駆けた。
大通りでは、商店から威勢のよい呼び声が響く。肉や野菜、麺に炒めものに点心など、爽やかな風に乗って、香りがただよう。
北京に住む者、旅人、行商人、驢馬に山羊に馬がゆきかう。通行人の顔も明るいものが多い。
少し汗ばむ春の日だ。
月華の足は軽やかにはずむ。もう七歳だが、まだ自由に走れる。衣服は下女の物を拝借した。北京の下町の子のふりをして、裕福なお嬢様だと気づかれないようにしている。
けれど、ときおり、月華の顔を見てはっとする者がいる。月華は素知らぬふりをして、男児を人の気配のない橋の下までつれていった。
風に擽られる。水面は輝いている。ここは、月華のお気にいりの場所だ。
「彼は、世話役だ。私の兄を殺そうとしていたので、捕まった。だが、そんなことするわけがない」
男児は悔しそうに、拳を握った。
「あなた、お兄様を殺された時に、彼と会っていたのね」
「そうだ。私が証人だ。けれど、……まだ七歳の私が、なにを言っても信用されない。それに、私と彼が、会っていたと主張したら……」
「主犯が彼ではなく、主人のあなたになる。彼は、あなたを守ろうとしている。真実を言ったらあなたまで捕まってしまうから」
そうでしょう、と月華は笑った。月華の推理は絶対に正解だ。
男児は月華の表情を見てなにかを言いかけたが、結局がっくりと肩を落とした。
「そうだ……私には、力がない」
「力がほしい?」
「ほしい」
顔には、後悔の色がある。瞳には怒りを宿していて、まるで烈火のようだ。
順治十七(一六六〇)年三月。
皇帝崩御まであと一年もない、ある日の出逢いだった──。
1
康熙七(一六六八)年、六月二十七日、朝食を終え、辰時(午前七時から九時)頃、十五歳の亦不喇金・瑠瑠は、三十五歳になる母の亦不喇金・阿伊莎と礼拝の間にいた。礼拝の間には、絨毯が敷きつめられている。絨毯の模様は、円や直角、曲線などが描かれており、それは懐かしい故郷を思い起こさせた。
厳かな雰囲気がする房室(部屋)で、瑠瑠の隣には阿伊莎がいる。
阿伊莎は絨毯のうえでうずくまり、嗚咽していた。
胸がはりさけそうになったが、静かに阿伊莎の肩に手をそえて、その頭に絹布をそっと被せた。母の黒い艷やかな巻き毛が、黒の絹布からのぞいている。
「どうして……あなたが死ななくてはならなかったの?」
悲痛な声に瑠瑠は瞼をぎゅっと閉じた。
亡き父の名を心の中で呼ぶ。童子の目から見ても、仲睦まじい両親だった。阿伊莎はずっと礼拝の間から離れない。
房室の扉が叩かれる。
顔をあげると、三十代半ばの小父、康思林が立っていた。意志の強そうな眉に、眼窩の彫りが深い。豊かな睫毛をしていて、瞳はどこか阿伊莎に似ていた。
「瑠瑠、ちょっといいかい?」
思林は母方の遠縁だ。北京に生まれ育った。彼は、貿易商を営む亦不喇金の一族の中でも人脈と目利きに優れており、大口の注文を受けたり、有力な牙行(仲介業を営む組織)と取引をおこなったりしている。
「どうしたんですか?」
「頼みができたんだ。北京について、三日目なのに、忙しなくてすまないが」
瑠瑠たちを運んだ隊商との取引に、問題でもあったのだろうか。
強引に命じることもできるのに、思林は年少の者にも配慮した言葉遣いだ。
小父の穏やかな性格と、耳に心地のよい声に、瑠瑠は微笑んだ。
頼みだなんて、嬉しいことを言ってくれる。小父には感謝してもしきれないのだから、役にたてることがあるなら、ぜひ、したい。
それに、よいことをすれば、右の肩にいる天使が、善行を書きとめてくださる。たくさん書きとめてもらえたら、最後の審判の日に天秤にかけられても、悪行より善行のほうが重いと見なされる。
そうしたら、美しくて喜びにあふれる天国に行き、そこで永遠に暮らすことができる。
「私はなにをすればいいのでしょう?」
「趙月華お嬢様のご期待に応えてきてほしい」
趙月華─知らない名だ。だけど、どのような相手であれ、小父が頼むとまで言うのだから、断る気はなかった。
「わかりました。どんなことをすれば良いのでしょうか」
「それが、君だけに伝えると言われてね」
「どういったお嬢様なのですか?」
「会えばわかるさ。とにかく、いそいで行ってきてくれるかい?」
「もちろんです。すぐにまいります!」
瑠瑠は靴をはいて、礼拝の間をでた。
母屋が左側にあり、正面には小さな院子(庭)が広がっている。母屋の自分の房室に入って、机にある丸い鏡に自分をうつした。
瑠瑠は、母の若い頃に容姿が似ているといわれる。黒の巻き毛と、意志の強い眉毛、黒い瞳を縁取る豊かな睫毛、筋の通った鼻に、形のよい紅の唇だ。
白かった肌は、八ヶ月前より焼けて、棕色になってしまった。
でも、いずれもとに戻る。なにもかも、もとに戻る。
瑠瑠は青紫の絹布を頭から被りなおした。少しさがって、刺繍入りの長衣を鏡にうつして、どこもおかしくはないかをたしかめた。故郷から着てきた服だ。腰のあたりを絹布で縛り、下にはゆったりとした袴(ズボン)をはいている。
「いいわ、行こう」
房室をでて門を抜けると、瑠瑠は光に目を細めた。見上げると、広がる青がある。故郷の濃い色とは違うことに気づいた。北京の空は青を薄めたような色だ。
歩む速度を落として、瑠瑠は空に背をむけた。
「瑠瑠お嬢さん、準備はできています!」
門前に馬車がとまっていた。
「頼むわね、義六」
「はい! それでは、まいりましょう」
瑠瑠に返事をする声は快活だ。
義六は思林の家の使用人だ。瑠瑠より数年上の漢人で、小身で瑠瑠よりも僅かに背が低い。色の抜けた薄灰色の衣服を着ており、濃い色の靴をはいている。
瑠瑠を乗せた馬車が牛街を走る。
牛街は、北京に住む回教徒(イスラム教徒)が多く集った街だ。
行きかう人の服は、瑠瑠と似た格好が大半だが、漢民族の服装である襦裙を着た女性や満州族の旗袍を着ている男女もいる。
道には石榴と棗の木がならんでいた。羊肉を売る店先には生肉が吊るされ、香辛料を売る店からは恋しい小豆蔻の香りがただよってきた。
香りが瑠瑠を落ち着かせてくれる。看板に書かれた阿拉伯語がいまとなっては懐かしい。
回教の寺院である清真寺の前を駆ける。「いってきます」と心の中で挨拶をする。
馬車はまもなく、牛街をでた。
街から阿拉伯語は消えさり、看板は漢字ばかりになった。商店街で呼びかける声は、どこも中国語だ。辮髪の男性が道をいきかっている。婦人は髪をあらわにして、髪飾りで彩っている。男女ともに、中国の衣装を着ている人ばかりだ。
家から遠ざかるにつれて、世界で仲間が義六だけになり、暗闇に突き進んでいくような心地がした。瑠瑠は膝のうえで拳を握った。
趙家の屋敷は内城の中心地近くにあった。門前で義六が馬車をとめる。義六に手をとられて、ゆっくりとおりた。門番がやって来たので、義六が瑠瑠の名を告げた。
「聞いております。中にどうぞ」
門番がじろじろと瑠瑠を見た。物珍しい見世物でも見る目だ。瑠瑠はじっと門番を見返した。まっすぐ目を見ると、門番が目をそらした。
「通させていただきますね」
瑠瑠は微笑んでみせた。
邸内にはいると、すぐに家令(執事)がでてきて瑠瑠を院子に案内した。院子には築山、庭石と、礼拝の間より少し大きめの舞台があった。舞台には、朱塗りの柱と深灰色の瓦屋根がついている。さらに、幾多の樹木の中には若い実をつけた林檎があり、鉢植えの花々のあいだを蝶々が飛んでいて、目に美しい光景だった。
瑠瑠は、椅子の側で待っているように告げられた。
まもなく、可憐な少女が、長身の婦人を従えてあらわれた。
少女は豊かな黒髪をまとめて結いあげ、銀の簪を刺していた。耳には真珠の耳環をつけている。化粧をした顔は、形の良い眉にささやかな鼻、薔薇色の頬に、上品な薄い唇をしていた。赤色の旗袍は絹でできていた。立襟は玉緑色で、襟まわりは黒地に金の緻密な刺繍がほどこされていた。
美しい人形を思わせる少女だ。
瑠瑠は彼女の歩きかたに、違和を覚えた。どこか雛鳥を思わせる、ゆっくりとした歩みだ。
思わず支えたくなる頼りなさがあるが、少女は優雅に前をむいている。顎を引き、背筋を伸ばして、公主(王女)のような威風をはらっている。
少女の背後から従う長身の婦人は、凜とした顔貌をしている。黒髪を後ろでひとつに縛り、意匠も刺繍もない旗袍を着ていた。歩きかたに不自然なところはない。
あの少女が月華お嬢様だろうか。足がお悪いのかしら?
疑問に思っていると、月華が椅子に着席して、瑠瑠をじっくり見たあと手招きをした。
「おまえが回教の娘、瑠瑠か。こっちにおいで」
この国で回教は、儒教や仏教に比べて少数だ。この国に来てから、幾度となく奇異の目をむけられた。
月華の瞳も好奇心に満ちていて、その口元も楽しそうに笑みをうかべていた。
瑠瑠は唇をとがらせそうになったが、月華の椅子の前にむかい、失礼のないように座った。
「回教では右を優位とする。左の手は、不浄の手だとか?」
月華が旗袍の裾から足の爪先を持ちあげて、そのまま瑠瑠の左の大腿を踏みつけた。
息を呑んだ。いままで生きてきて、誰かに踏まれたことなんてない。やめてと言おうとして、はたと気づいた。
なんて小さな足かしら!
月華の爪先から踵まで、瑠瑠の掌ですっぽりと隠せる大きさしかない。足を包む紅の絹靴には金糸で蓮の刺繍がほどこされており、高価で美しいものだった。
月華が唇の両端をにんまりと持ちあげた。
「これが事情だよ。おまえたちのような大足ではなくてね。纏足というんだ。幼い頃から足を矯正して、小さくするのさ。愛らしいだろう?」
瑠瑠は耳を疑った。
あえて嬰児のような足にしておく、という状態が、瑠瑠には理解できない。しかし、頼りない歩きかたは、これが原因だ。
瑠瑠は大腿を踏みつける足を、そっと両手で包んだ。
「お可哀想に。あなたの苦痛が少しでもなくなりますように」
「……おまえ、身分はわかっているか?」
「え?」
「私の足に軽々しく触れるでない!」
「そんな! 軽々しい気持ちではありません!」
「外猫は家猫とちがって礼儀を知らぬな!」
月華は声で瑠瑠をひっぱたくと、足をひっこめ、つんと顎をあげた。
「おまえ、撒馬爾罕から天山北路(絹の道)のおよそ万里(約六一九〇キロメートル)を通り、北京まで来たそうだな」
瑠瑠は月華の瞳を見上げた。
「はい、そのとおりです、月華お嬢様」
動物あつかいは気にいらないが、瑠瑠は撒馬爾罕の育ちである事実を、月華に軽んじられたくなかった。だから反発せずに飲みこんだ。礼儀なら知っている。父母から教育も受けている。
「十五歳、私と同年か」
「そうなんですか」
もっと幼いかと思った。瑠瑠は故郷では平均の体つきをしていたが、月華は一回り華奢だ。
「それに父親を亡くしている」
「……なぜ、その話をご存じなのですか?」
月華が鼻を鳴らして瑠瑠を見た。
「おまえは回教の娘だ。まだ若年。その娘を、危険な天山北路の旅にだすだろうか。家族になにかあったにちがいない」
瑠瑠は目を見開いた。月華は熱烈に話し続ける。
「父親になにがあったか」
なにもかも見透かすような瞳で凝視されて、瑠瑠は顔をそむけた。
「おやめください、月華お嬢様」
「なぜだ? おまえが、関わっているのだな」
「お嬢様……もう、やめて」
「そこまで嫌がる……そうか!」
「もう、やめてください!」
瑠瑠がさえぎると、月華がにやりとした。
「けれど、私のところには情報が集まってきて、それを整えれば、色々とわかってくるのだよ。人は私のこの力を、『つまびらきの写鏡』と呼ぶ。物事の微細な一片を感じただけで、私は全体像をありありと頭の中で再現できるのだ」
瑠瑠は言葉を失った。
「おまえには私の足になってもらう」
「足? なんで、そんなご命令を私に……」
月華の足では自由に歩けないのはわかる。だが、側には付き人がいるではないか。彼女だけでなく、誰にでも思うままに命じてどこにでも行かせられる。
「撒馬爾罕から来た回教の娘だ。北京育ちには見つけられぬ違和に気づくやもしれん。それに、外猫のおまえにも興味がある。私の足を見て感嘆の息を吐くではなく、可哀想などと面とむかって言ったのはおまえだけだ」
瑠瑠の見た目ではなく、これまでの生きかたの違いが月華の関心を得たのだろう。
興味があるのならば、私のことを知っていただこう。
「お呼びいただいたのは、なぜですか?」
「兄から、ある劇団の頭領が殺されたと聞いた。嫌疑人は第一発見者の役者で、兄が推察するには犯人であろうと。しかし、有名であり人気の花役者だ。頭領を殺す証拠も動機もない。そこでおまえに、事件に関する人物や物事について情報や噂を集めてきてもらいたい」
「私は北京に来てまだ三日です。求められている情報や噂を集めてくるなど、できません」
「それくらいわかっている。いまのおまえに難しいことは頼んでいない」
瑠瑠はぐっと奥歯を噛みしめた。脳裏に小父の顔がうかんだ。
小父にはとても世話になっている。その小父の頼みでここに来た。期待に応えたい。
ならば、結果をだせばいいだけだ。
「ではよいな。劇団を見に行くのだ。これを」
月華が懐から布包みをだした。
「……これはなんですか?」
「おまえに渡すのではない。賄賂として使え」
2
頭領の家は外城の南にあった。
瑠瑠は義六に礼を告げて馬車をおりた。
門前に大勢の人が集まっている。辮髪の男たちが「散れ!」と命じていた。彼らは皆そろって、上下ひとつなぎで丈のある長衫を着ている。この国の安全に携わる者たちだろうか。
人々はいったん退いても、また戻ってくる。男たちの言葉に効果はなさそうだ。門のむこうは殺人現場なのに、お祭りさわぎのようだった。
人が死んでいるのに、不謹慎だな。
瑠瑠は眉をよせながら、門にむかった。
「趙月華お嬢様の遣いでまいりました、瑠瑠と申します」
「趙家だと?」
混雑をなんとかしようとしている男たちは、顔を見あわせると、慌てて門を通してくれた。
頭領の家の院子には、朱塗りの柱と瓦屋根があった。瑠瑠はそれが舞台だと悟った。
忙しなく男たちが動き回っていた。院子を囲むように建てられた家屋の窓から、瑠瑠を見ている視線を感じた。
視線は数が多い。瑠瑠は自分が目立っていることを意識しながら、男たちをまとめる首領を捜した。
「趙月華様に遣わされてきました。この現場の指揮を執られているかたにお話をお聞きしたいのですが」
「それなら、母屋の二階に行きな。事件の場に、李石様がいなさる」
感謝を告げて瑠瑠は母屋にはいり、二階に続く階段を登った。
二階は二間あった。階段から近い房室の中を覗くと散乱していた。戸棚が倒され、卓と椅子が転がり、床には割れた茶器一式の破片が飛び散っていた。破片は、白磁に淡赤と緑の色が少しだけついている。何かの絵が描かれていたのだろう。
房室の手前に、中肉中背の男性と、三人の若者がいる。四人は辮髪をしており、長衫を着ていた。
若い人たちに指示をしている御仁が、李石様だろう。
その男は、獰猛な猪を思わせる体格で、顔つきは冷酷な蛇のようだった。
近づいたら噛まれそうで、話しかけるのがためらわれた。房室の隅で立ちつくしていると、若者が瑠瑠に気づいて指をさした。それを追って男性が瑠瑠を見た。
声をかけるなら、いましかない。
「はじめまして。李石様ですよね。瑠瑠と申します」
上手く中国語が話せているだろうか。耳元に心音を感じながら、瑠瑠は男性に近づいて拝礼をした。父に習った拝礼は、年長者や男性に対してするべき敬意だと教えられている。
「こんなところに回族の娘がどうした?」
頭からつま先まで、じろじろと舐めるように見られた。
李石の態度は、明らかに瑠瑠を邪魔者だと思っているようだった。瑠瑠は帰りたくなった。自分がこの場にふさわしくないと、わかっている。それでも、月華の命令がある。
「趙月華様の遣いでまいりました。お嬢様は、今回の事件にご関心がおありです」
瑠瑠の言葉に李石が目を見開いた。瑠瑠の口から月華の名がでたのが、よっぽど意外だったとみえる。
「なるほど、月華様か。これは遊びではないんだがなぁ」
李石が顎に手をあてた。
「くれぐれも月華様のお父上に、私が献身的であったと伝えるように」
うって変わって顔に愛想笑いを貼りつけた。
趙家はよほど力がある家のようだ。李石の優しい声音に、瑠瑠は嫌悪を覚えた。だが、悪い感情をあらわにするのは失礼だ。ぐっとこらえて微笑む。
「かしこまりました」
瑠瑠の返事に、李石が二度深く頷いた。
「昨夜、頭領が死んだ。窃盗が房室に侵入して、頭領の首を絞めたのだ」
「窃盗って、……犯人の顔は見ているのですか?」
「第一発見者の役者・天雲が物取りに気づいて、戦い、撃退した。いま天雲の証言から肖像を描かせて捜査をしている」
「第一発見者が嫌疑人と聞いております。疑いは晴れたのですか?」
「動機が微塵もないからな。それに、相公の天雲が人を殺せるとも思えん」
李石はにんまりと笑った。どこか下衆な表情だ。
「相公とは?」
聞きたくないが、知らない言葉なので問うしかあるまい。
李石がやれやれと呆れた顔をした。
「知らんのか。女役の少年俳優として歌や芝居を仕込まれ、着飾って宴席に侍るんだ」
「……わかりました。すなわち、窃盗は外部の人間ですね?」
「そうだ。そもそも役者たちが殺すはずがないんだ。大きな興業を間近に控えている。頭領がいなくなったらそれもできなくなるからな。だから、頭領に恨みを持っているやつからあたっていく。忙しいから、小姑娘の相手はできないぞ」
「はい、李石様。それでは捜査の結果がでたら教えてください。私の名前は瑠瑠です」
「いいだろう。それで、小姑娘はどうするつもりだ?」
名乗ったのに名を呼ばれなかった。童子だからなのか、異国の者だからか、嫌がられているのか、なぜ拒まれるのかわからない。
「月華お嬢様の気持ちをお慰めできるように、事件をもっと知りたいと思います。天雲様とお話はできますか?」
「そうだな、相手をさせよう」
断られなかった。よほど趙家の権威は強いのだろう。
部下のひとりが場を離れていった。天雲を呼びに行くのだろう。場に残って待っているか、部下についていくか迷った。
瑠瑠は部下の後をついて行くことにした。部下は途中で瑠瑠に気づいてふりかえったが、なにも言わずに母屋をでて、隣にある別棟にはいった。
「天雲! でてこい!」
部下が声をあげると、まもなくふたりの役者があらわれた。ふたりは十五歳の瑠瑠より二、三歳年上のようで、瑠瑠の頭半分くらい背が高かった。ふたりを比べると、掌ひとつほどちがいがある。
わずかに背が低いほうの少年は辮髪で、黒い長衫を着ていた。意志の強そうな太い眉、きらめきのある瞳、通った鼻筋にきゅっと結んだ唇だ。
少年を見ていると、太陽の光を浴びて、新緑の若木が爽やかな風に吹かれる時の心地よさを感じた。何十人、何百人いても、少年が輪の中心になりそうだと予感させるものがあった。
もう一方の役者は、白に淡い青色の襦裙をまとっていた。前髪は形の良い眉の上にあり、左右の肩から黒髪の房を膝のあたりまで垂らしている。瞳は大きく、鼻筋は通っており、唇は微笑みを作っていた。
優しい雰囲気は、どことなく瑠瑠の母を思わせたが、圧倒的に眩さがある。すれちがっても、ふりかえってしまうような蠱惑だ。
女形の役者が、天雲なのだろう。
「はじめまして、瑠瑠と申します」
「こんにちは。私は天雲。君は、上手に中国語を喋るんだね」
天雲の声は、少女のものと言われたら信じてしまうくらい高めだった。その言葉に嫌味は少しもなく、瑠瑠の技能を心から褒めてくれていると伝わってきた。
「幼い頃から父に習いました。父は各国の言語に通じている北京人でしたので」
「それなら、君の母上が、異国の血を継いでいたのだね」
「はい。父は、なにも持たない貧乏な童子でしたが、遠い異国への憧れがあったそうです。語学が好きでしたので、隊商に通訳として同行して、天山北路を通り、万里をかけて、撒馬爾罕まで来ました。そこで私の母と出会い、大恋愛の末に、祖父に渋々認められて結婚したのです」
当時、自由な恋愛を経て結婚するなど珍しかった。たいていは、親が決めた婚約者と結ばれる。
だからだろうか、父は瑠瑠にも「自由に生きよ」と告げた。自らあらゆる言語を兄妹に教え、勉学や習い事をさせてくれた。
「そうなんだね。情熱のある父上だ」
耳に心地のよい声が聞こえた。
過去の記憶をたどっていた瑠瑠は、自分ばかりが語っていたと気づいて、恥ずかしさに頬が熱くなった。
慌ててふたりにむかって拝礼をした。
「私は北京に来てまだ三日目です。言葉のつたなさや、失礼があったらお許しください」
「そんな礼はいいよ」
天雲が隣の少年の肩を抱きながら、ほがらかに笑った。
「こちらが藍暁だ。私たちはこの劇団で育ったんだよ。藍暁は心配性でね、私が嫌疑人になったからって、嫌疑が晴れてもまだ狼狽してついてまわってるんだ」
「天雲、俺は……」
藍暁はそう言って口を噤んだ。暗い表情は天雲を憂慮してのことか。仲が良いのだなと瑠瑠は予測した。
「ああ、語らなくてもわかっているよ、兄弟。我ら、生まれし日、時はちがえども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助けあい、役者の花道を目指さん!」
芝居がかった台詞を天雲がきっぱりと宣言した。藍暁はやっとぎこちない微笑みをうかべた。ふたりが落ち着いたところをみはからって、瑠瑠は声をかけた。
「趙家のお嬢様のご要望で、この事件をもっと知りたいと思います。昨日の経緯をお聞きしてもよろしいですか?」
天雲がもちろんだと頷いた。
「私は頭領と一緒にお客さんと過ごしていた。お客さんが帰るというので、送別して、戻ってきたら窃盗がいたんだ。驚いたけど、戦って、撃退したよ」
「そのお客さんについて詳しく教えてください」
「……彼を疑っているのかい? 高名な画家の典照だよ。劇団の絵を描く約束になっていた。代わりに充分な謝礼をもらう予定だったから、典照も頭領を殺すわけがない」
天雲が言った。
瑠瑠は目を藍暁にむける。藍暁は憂いを帯びた顔だ。
「俺は次の公演の練習をしていた」
「その時は、誰かと一緒でしたか?」
「何人かといたよ」
「頭領は、どんな人だったんですか?」
「……どんな人か。そうだね、優しい人だったよ」
天雲が先に口を開いた。
隣の藍暁がはっとした顔をして天雲を見たが、すぐに表情を消して、「そうだな」と肯定した。
「優しい人だった。稽古は厳しかったが、うまくやるとご褒美があった」
藍暁のご褒美という言葉に、瑠瑠は懐かしい記憶が蘇った。
「同じです! 私の父は、幼い私が中国語を上手に話すと、きまって頭を撫でてくれました。それが嬉しくて頑張りましたよ」
天雲と藍暁と共通点を見つけた。それが瑠瑠は嬉しかった。
「ああ、それは……私たちも撫でられたよ。私は気にいられていたから、小さい頃からどの子よりも撫でていただいた」
天雲が腕を組んで目を細めた。うっすらと笑みをうかべている。幸せな幼き日を思い返しているのだろうか。
「藍暁さんもそうだったんですか?」
「なぁ、もういいだろ、この話は。頭領は死んじまったんだから」
藍暁が苛立ちに染まった声をあげた。
頭領は厳しくとも優しい人だったようだ。そんな頭領を失って、ふたりとも、自分たちや劇団の行く末が不安なのだろう。
「劇団についてもっと教えていただけますか?」
「いいよ。それならこの家を案内しよう」
天雲に続いて藍暁も別棟をでた。瑠瑠も後に続く。天雲が母屋を指さした。
「この家は北の母屋に頭領一家が、西の棟には劇団員が、東の棟には使用人が住んでいる。中央には院子があって、稽古用の舞台がある」
天雲について院子にでた。四角い舞台が置かれている。
「ここで練習するのさ」
天雲が舞台にひょいと乗った。
「この国の劇を見たことがないだろう?」
「はい」
「藍暁、舞台にあがりな。私たちが魅せてやろう」
「……頭領が死んでいるんだぞ」
「それでも私たちは役者だろ」
天雲の動きが、まるで柔らかな風のように、しとやかで優美なものとなった。その表情は、見る者をせつなくさせる。潤んだ瞳が、藍暁にむきあった。
「陛下をお慕いしております。わたくしの気持ちは永遠にかわりませぬ」
「それ以上は、聞きたくない!」
瑠瑠の隣にいた藍暁が、黒い旋風のように舞台にあがった。その顔に、さっきまでの憂いはない。だが、苦悩があった。雄々しく、逞しい姿は、天雲との身長が逆転したかに見えた。
「わたくしの気持ちはおわかりでしょう? どうか、陛下は行かれてください」
天雲の声が高くなり、そっと目元に袖をあてる。
肩をふるわせて、泣いている。
「そなたをおいて、いったい何処に!」
「陛下は蜀にゆかれて、この国をお守りください。わたくしには、これ以上陛下をわずらわせることはできませぬ。そして、この世に未練を残せば、罪となります。わたくしのことは、どうかお忘れになって。今生で、陛下の恩寵をうけられ、幸せでした」
天雲は、今まさしく可憐な婦人だった。藍暁を見る眼差しは、ひたむきな愛に満ちている。
藍暁が強く舞台を蹴った。
「俺は玄宗皇帝のようにはならない。おまえを見捨てたりはしない。ふたりで役者として高みを目指そうと誓ったじゃないか!」
叫ぶ藍暁を天雲が片腕で抱きしめ、舞台に静けさが戻った。
「白居易の『長恨歌』をもとにした戯曲だよ。この国では演劇がさかんでね。今のは、劇団の試作演目なんだ」
天雲が微笑んだので、瑠瑠は我に返った。
「そのふたりは、どうなるのですか?」
「これは皇帝と妃の別れの場面だよ。ふたりは心から愛しあっていたのだけど、情勢がそれを許さなくなってね。悲しい別れを経験するんだよ」
天雲が藍暁を放した。
「藍暁、いつまで怒ってるんだ。頭領がいなくなっても、私たちには身についた芸がある。どこでも、役者としてやっていけるよ」
藍暁が天雲から顔をそむけた。天雲には自信があるようだが、藍暁は不安のようだ。
「劇団を離れるのですか?」
「まだわからないよ。それより、君の国に愛の言葉はあるかい? あるなら聞かせておくれよ」
とつぜん話が変わったので、瑠瑠はきょとんとした。
断る事情はなかった。素晴らしい演技を見せてくれたのだから、お礼をしたい。
「はい、あります」
瑠瑠は父がよく言っていた言葉を思いうかべた。
「あなたを愛する人を許して、あなたを許す人を愛して」
「どういう意味なんだい?」
「なにか失敗をしたなら、そこに愛があるのなら隠さず相手に正直に話すことが大切だという意味です。あなたが誠実に謝罪すれば、あなたの友人は許してくれるでしょう。その友人だって、いつかは失敗することもあるかもしれませんから。相手を愛して、失敗をしたら正直に話せば無事だ、と」
「それが愛だと?」
「愛でなければ、なんでしょう」
瑠瑠が微笑むと、天雲が「そうだね」と答えた。
藍暁は難しい顔をしている。言葉が気にいらなかったかもしれない。
だが、瑠瑠にとっては間違いなく愛の言葉だ。
そっと瞼を閉じて、胸に手をあて、父の名を心の中で呼ぶ。
幼い頃から、父はめったなことでは怒らなかった。それでも、怒られるのを恐れて隠し事をしたときは、瑠瑠に言葉をかけて諭してくれた。
支えにしている言葉だ。
3
正午、瑠瑠は趙家の院子で、椅子に腰掛ける月華の前に座していた。
「それで?」
「その後、役所にむかい、頭領の死体を見てきました」
役所では趙家の遣いといっても難しい顔をされた。だが、賄賂を渡したら見られた。この国の公吏(役人)は腐っているのだろうか。瑠瑠は眉をよせた。
「どんな様子だった?」
月華の言葉に顔をあげる。
これまで、遺体など見た経験がない。見たとしても、葬儀で大事に棺に納められている姿だ。それが、どうだ、頭領は茣蓙に巻かれて役所の遺体安置室の台に乗せられていた。公吏が茣蓙を剥くと、裸の中年男性があらわれた。
男性の裸に瑠瑠は悲鳴をあげた。あまりにも慎みのない格好に、恥ずかしくて、吐き気さえ覚えた。そっぽをむくと、瑠瑠の態度を公吏が楽しそうに見ていた。瑠瑠が驚き、嫌がるとわかっていたのだろう。瑠瑠は公吏を睨みかけた。
けれど、拒絶したところで、公吏の機嫌を損ねて追いだされてはかなわない。泣きたかったが、勇気をふり絞って遺体を眺めた。
「頭領は年齢五十代、太った長身の男です。首には、絞められた手の跡がありました。発見当時、表情は苦悶という様子で、泡を吹いていたそうです。検屍の結果、昨夜の戌時(午後七時から九時)頃に亡くなっています。それは、天雲が犯人と戦った時刻でもあります」
「死斑は何色だった?」
「鮮やかな粉紅色でした」
瑠瑠は少し早口で言った。
「嬉しそうだな。私のお遣いは楽しいか?」
「そういう……わけでは……」
「おまえは撒馬爾罕から、天山北路を通って、北京まで来た。北京の回族にも、そんな娘はめったにいない。珍しい娘、いや、猫だ。おまえがなにを見て、なにを考えるのか、それを知るのは私にとっても愉悦だよ」
楽しげな月華に、瑠瑠は顔をしかめた。月華にとって自分は、珍しくて毛色のちがった外猫なのだ。けれど、彼女が知っているかはわからないが、回教にとって猫は愛される存在だ。
月華が裾をあげて、足を組む。ちりんと鈴の音色がした。小さく尖った靴がちらりと見えた。どうやら踵に鈴がついている。
やはり痛々しい。瑠瑠の足の半分くらいしかない大きさだ。あれほど小さくするためには、なにか施術が行われたにちがいない。
どうして、こんなひどいまねを!
月華はお嬢様だ。家からでる必要がないほど、恵まれている。だが、逆に、家から逃れられないように、足を縛られているとも考えられた。
「それでは、……月華様が家猫ですか?」
月華が瑠瑠を鼻で笑った。
「愚かな。家猫は小愛だよ。我が父の猫だ。私は、主人の娘だな」
月華が顎を上げて、視線を背後にむけた。そこには、小愛と呼ばれた長身の婦人が立っている。表情は読めない。何を考えているのか、推察もできない。小愛は黒髪をまとめ、簡素な旗袍を着ている。歳は二十代前半だろうか。武人のように背筋を伸ばし、力強く地を踏みしめ、凜として月華の側にいた。小愛は、きっと月華の付き人だ。
小愛は家猫のあつかいをうけて、どう感じているのだろう。月華の様子を見ていると、この国では、猫が貴重な存在であるとは思えない。あいかわらず猫と呼ばれるのは、瑠瑠は嫌だ。
「月華お嬢様、私は……」
「ああ、おまえにはわからなくていい。それより、死体の顔は膨らんでいなかったか?」
「いえ。元から太っていらしたようですから、よくわかりませんが、ないと思います」
「目や顔面の皮膚に、赤く丸い小さな血の跡がでていなかったか?」
「ありませんでした」
瑠瑠が明言すると、月華がなるほどと顎に手をあてた。優美な動作だ。
「さて、気になる点は三つだ。頭領の死亡の因、客人、割れた茶器一式」
なぜそれらが気になるのかは、瑠瑠には一切わからない。
「当主の死亡の因だが、絞殺ではないな。毒殺だ」
「えっ? なぜですか?」
思わず身をのりだした。
「死体の状態が絞殺されたように思えない。泡を吹いた点、鮮やかな死斑の粉紅色は、青酸鉀(青酸カリ)を飲まされた時に似ている。明日、李石に死体を再検屍せよと言え」
毒の知識もあるのか。
情報を得て推察していく姿は、まるで奇術を見ているようだ。
「そして、次だ。おまえは客人である画家、典照には会わなかったのか?」
「はい。……調べたほうがよかったですか?」
「いい。こちらで調べさせる」
どこか呆れたように言われたが、命令にはちゃんと応えたはずだ。まだ足りないのか。
月華には、満足に働けたと思われたい。ただのめずらしくて毛色の変わった外猫だなんて思わせていたくない。侮られて終わるのはくやしいし、小父の力になりたい。
「怪しいところがありますか?」
「今はすべての人間が怪しい」
その答えは理解できた。だが、すべての人間を捜査することは、瑠瑠だけではできない。
「たくさんの人を、李石様たちが捜査していますよ」
「公吏は盲目の老人と同じだよ。では、小愛! 役所に誰かをむかわせて、茶器一式の破片をすべて持ってくるように」
月華が小愛に命じて、足を組み替えた。鈴の音色が響く。瑠瑠の意識は、誘われるようにして、再び月華の足に引きよせられた。
「私の足が気になるか?」
「……そうですね」
「そう、纏足は人を惹きつけるのだ」
「いいえ! 惹きつけられているのではありません。あまりに……あまりに……」
「哀れ、か? だが、私からすればおまえのほうが哀れだ。そのような大足で、これから北京で暮らしていくのは難事だぞ。人に嘲笑される。嫁にもいけない。だが、足こそ小さく美しければ、誰もが跪拝する。纏足は、輝かしい未来だよ。生涯、飲食にも、衣装にも困窮しない」
「でも、痛いのでしょう?」
「初めだけだ。手にするものが多いほうを選ぶまでだ」
「ですが……」
「いずれ、痛いほどわかる時が来る」
月華がふっと笑った。年齢に見合わない大人びた表情に、瑠瑠は目を奪われた。
こんな顔をするなんて、年下に見えるのに、年上のような人だ。
「でも、私はやっぱり、纏足なんて、する気にはなれません」
「おまえの年齢では、もう遅いよ」
月華が足を持ちあげて、また踏んでこようとしたので、瑠瑠はさっとよけた。
一通りからかわれた後、月華が侍女を呼んだ。
「喉が渇いた」
その一言だけで、侍女はすぐに盆に浅藍色の茶器と杯を載せて運んできた。
瑠瑠はただよう匂いに、思わず月華を見上げる。
「おまえも飲め」
侍女が茶杯を瑠瑠にも渡す。瑠瑠は自分の知る中国茶とはかけはなれているので、思わず顔をしかめた。
これを飲めと言うのか。意地悪な人だ。
「それは漢方茶だ。不味いし、匂いがきついのはわかっている」
瑠瑠を侮るような顔はしていない。瑠瑠は口で息をしながら、杯に口づけた。
ひとくち飲んで、月華を恨んだ。
「まさか本当に飲むとはな。毒がはいっていたらどうするんだ」
瑠瑠は耳を疑った。
「はいっているのですか?」
「冗談だよ」
月華はすました顔をしていた。瑠瑠はなにか言ってやりたかったが、うまい返しが思いつかなかった。
瑠瑠は茶杯を掴み、侍女にずいっと返した。それから、恨めしい気持ちで月華を見あげた。
月華は瑠瑠の視線など気にもとめずに、茶杯に口をよせるとそっと傾けた。
どうして月華は平然と飲めるのか。
月華は茶杯をおろすと息を長く吐き、再び口をよせた。その表情に苦痛は見えない。動きはすべて美しく、絵になる。瑠瑠はしばらく、月華を見つめていた。
茶を飲み終わった月華は書物を読みはじめた。瑠瑠はなにも言わず、なにもしないで、ただ月華の前に侍っていた。頁をめくる音がときおり聞こえる。
「月華様、お持ちしました」
三刻(約四十五分)ほど経った頃、小愛がお盆に、磁器の破片を載せて運んできた。瑠瑠ははっとして、小愛を見上げた。
「それはもしや!」
瑠瑠が小愛に問いかけると、
「証拠品だ」
と月華が言った。
よく借りだせたものだ。賄賂で融通をきかせたのだろうか。苦々しい記憶が蘇ってくる。公吏は、どこの国に行っても不正ばかりだ。
小愛が月華の後ろにひかえると、月華が美しい微笑をうかべた。
「それでは、瑠瑠。繋ぎあわせよ」
瑠瑠は、きょとんとした。
「私が、破片を、すべてですか?」
「おまえの他に誰がおる。房室を用意する。仕事を始めよ!」
月華に命じられて、瑠瑠は困惑しながら拝礼をした。
瑠瑠は、お盆を手にした小愛につれられて、趙家の母屋にはいった。
母屋は入口を中心として、左右同一に作られていた。右手に曲がって、客房に通される。大きな花瓶に大量の花がいけられていた。壁には水墨画がかけられている。
絨毯のうえに黒檀の卓と椅子が四脚そなえてあった。その卓には、羊肉の卵炒めと、青菜、漬物と小豆粥が用意されていた。
小愛は食事の隣に、茶器一式の破片が載った盆を置いた。破片は、小指の爪ほどの破片ばかりだ。
小愛は、瑠瑠の肩にぽんと手を置いて、出ていった。
盆のうえには、溶かした粘土がはいった器があった。これを糊として破片を組み合わせろというのだろう。
仕事だと言われた。小父にも頼まれている。ならば、やるしかない。
途方もない山に登るような気分だが、冒険なら瑠瑠はやってきた。撒馬爾罕から、天山北路を通って、北京まで来た。その過酷な旅程を思い返す。
五百頭近い駱駝と騾馬を率いる隊商に混ざり、瑠瑠は生まれて初めて故郷を離れた。
雪が降り積もる大地を、凍えながら踏みしめた。春にさしかかると、昼と夜との激しい気温の差に苦しんだ。次第に夏となり、延々と続く砂漠の刺すような陽射しをあびた。じりじりと肌が焼けつき、喉が渇いて、水のことしか考えられなくなった。
一寸先も見えなくなる砂嵐、泥棒や窃盗の攻撃に怯えながら、瑠瑠は二百五十日かけて、やっとの思いで小父の家にたどりついた。
自分が経てきた道のりをふりかえれば、清潔な房室で誰からも襲われることなく、安全に作業ができるのだから、これくらいはのりこえられる。
瑠瑠は昼食を急いで食べると、雑念を捨てて、とにかく仕事にとりかかった。
けれど、役目にとりかかってから、申時(午後三時から五時)の中頃になると、瑠瑠はたえがたい苦痛におそわれた。
ただ落下しただけで、こんなに細かく壊れるだろうか。それに、破片がなかなか組み合わない。
昨夜、頭領の房室には三人の人物がいた。頭領と、天雲と、画家である客人だ。だから、茶器ひとつと、茶杯が三つできるはずだ。けれど、どうしても破片が不足している。
気の遠くなるような役目だ。
瑠瑠は自分の身上を嘆いた。嘆いてもしかたがないと思いなおすが、すぐにまた嫌になった。
「ああ、でも、右肩の天使は、善行をつんでいると思ってくださるわ」
瑠瑠は自分に言い聞かせて、さらに三刻を費やした。
完成した花柄の茶器一式を目の前にして、瑠瑠は困惑した。
「……これしかない」
三人いたはずなのに、茶杯が二個しかできない。破片が足りなくて当然だ。
瑠瑠は腕を組んで、頭領の家の方角を見た。
(次回に続く)
イスラム監修 宗教法人名古屋イスラミックセンター
名古屋モスク渉外担当理事 クレシ サラ好美
中国監修 H.K(友人)
プロフィール
小島環(こじま・たまき)
1985年、名古屋市生まれ。愛知県立大学外国語学部中国学科在学中より小説を書き始める。卒業後、工作機械メーカーに勤務するが、その後退職。建築デザインを学びながら本格的に執筆を開始。『小旋風の夢絃』で第9回小説現代長編新人賞を受賞して小説デビュー。その後、『囚われの盤』『唐国の検屍乙女』(ともに講談社)、『泣き娘』(集英社)、『星の落ちる島』(二見書房)、『災祥』(潮文庫)、ノベライズ『春待つ僕ら』、など発表。大学にて講師もしている。
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