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下町やぶさか診療所 5 第六章 奇妙な恋文・前/池永陽

【前回】

 りんろうは『田園』の扉を勢いよくあける。
 今日こそ、先日の麻世まよなつとの間でどんな話があったのか強くただしてみるつもりだ――そんなことを考えつつ店内を見回すと、なんと満員状態で空いている席はなかった。「ううん」とうなっていると夏希が飛んできた。
「あらおお先生。しばらく御無沙汰されている間に、うちはこんなに大繁盛になってしまって、どうしましょう」
 うれしそうに夏希は目を細める。
「しばらく御無沙汰って、俺は一昨日にもここに顔を見せているぜ」
 ぜんとした表情で麟太郎は口に出す。
「私の頭のなかでは一昨日は、しばらく。三日四日になると、とんと御無沙汰っていうことになるんですよ。ああ、じれったい」
 しれっと言葉を並べる夏希に、
「まあ、それはそれとして……なんで今日に限ってこんなに客が押しかけてるんだ」
 奇異な思いで麟太郎はく。
「それがですね。昨日、突然アルバイトの理香りかちゃんが、郷里のお母さんの具合がよくないのでしばらく福島の実家のほうに戻りたいといい出して……」
 理香子の郷里は、福島県の会津若松だった。
 確か母親は永らく腎臓を患っていて、寝たり起きたりの毎日を送っていると、以前聞いたことがあった。
「腎臓か、厄介なところだな」
「ですから、いつこっちに戻ってこられるのかわからない状態で。それを昨日耳にした、理香ちゃんのファンが大挙して押しかけて、この状態なんです」
 理香子の年齢は不詳だが、大きな目とちょっと上を向いた鼻がなんとも可愛らしく、かなり若く見えた。そのために『田園』にくる客で理香子目当ての者も少なくなかった。
「そういうことなら、理香ちゃんに挨拶してから退散ということにするか」
 小さな吐息をもらす麟太郎に、
「何をおっしゃいますやら、大先生。せっかくいらっしゃったんですから、ここは相席ということでどうですか」
 一人でも客を逃したくないという、商売っけ満々の言葉が夏希の口から飛び出した。
「ちょうど奥の二人席に一人でいらしているお客さんがいますから。初めてのお客さんで、名前をお伺いしたら前川まえかわさんていう、おとなしいかんじの若い男の人ですので、相席に同意してくれると思いますよ」
 夏希の目顔の先を追うと、なるほど若い男がビールを前にして所在なげに座っているのがわかった。
「しかし、若い女性とならともかく、こんなジジイと一緒の相席など誰でも嫌がるんじゃねえのか」
 躊躇ためらう麟太郎に、
「何を気弱なことを。そうなったら、そうなったときで……何といっても理香ちゃんの最後の日ですから。そんなときに、大先生を帰すわけにはいきません」
 夏希はそういい奥に向かって歩き出そうとして、ふいに振り返った。
「そうそう。明後日から理香ちゃんの代りの若い子が店にきますので、よろしくお願いしますね」
 麟太郎を従えて、さっさと奥の席に向かった。
「すみません、お客さま。こんな混んでるときなので、何とか相席をお願いできませんでしょうか」
 満面を笑みにして頼みこむ夏希に「あっ、それなら僕は」と男は席を立ちあがりかけた。
「それでは余りに申しわけないですから、ここは何とか――こちらの人は、この隣にある『やぶさか診療所』の大先生で、見た通りのざっくばらんな性格で温厚そのもの。決して窮屈な人ではありませんので」
 やぶさかだけは余分だろうと思いつつ男の様子を見ると、何やら変化のようなものが。
「あっ、『やぶさか診療所』の大先生ですか。それなら、ご一緒に」
 どうやら男は麟太郎のことを知っているようで、あっさり相席を承知した。
「ありがとうございます。それなら大先生、しっかり接待お願いしますよ。すぐに、おビール持ってきますからね」
 右手をひらひらさせて去っていく夏希から視線を男に向け、「失礼します」といって麟太郎は席に腰をおろし、すぐにつづきの言葉を口にした。
「ひょっとして、君は、俺のことを知っているんですかな」
 単刀直入に訊くと、
「知ってます。といってもうわさで聞いたほどの知識ですが――あっ、僕は前川広之ひろゆきといって、年は二十八。つい一カ月ほど前に会社の浅草支店に配属されて、この近所のアパートに越してきました。よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げた。
「これはご丁寧に。俺は真野まの麟太郎といってこの店のすぐ隣で診
所をやっている者です。こちらこそ、よろしく」
 麟太郎も頭を下げる。
「あの、大先生は町の噂では、どんな莫迦ばかげた相談でも親身になって乗ってくれると聞いたんですけど、それは……」
 おずおずとした調子でいった。
「もちろん、乗るさ、どんな莫迦げたことでもよ。町医者の大きな使命はやってくる人間に、しっかり寄りそうこと。その一言につきるからよ」
 麟太郎の言葉が、べらんめえ調に変っている。丁寧な話し方は苦手なのだ。
「こんなこと誰にも相談できず、今までうじうじと悩んできたんですが、町の噂から大先生ならと」
 わらにもすがる思いなのか、切羽つまった表情でいった。
「おう。何でもいいからいってくれ。決して邪険にしたり、莫迦にしたりはしねえからよ」
 できる限り優しい声を出すと、
「いえ、こんなところでは失礼ですので。明日、診療所のほうに行かせてもらってもいいですか」
「いいともよ。それなら夕方の診療が終るころにくるといい、その時分ならゆっくり話もできるからよ。なあ、広之君」
 麟太郎が大きくうなずいたところへ、夏希がビールとお通しを持ってきて手際よくテーブルに並べる。
「あら、お話が弾んでいるようで、大助かり。さすがに大先生、人づきあいがお上手」
 と夏希がいったところで、
「それじゃあ、僕そろそろ帰ります。もう目的も果たしましたし」
 妙なことを広之がいった。
「目的?」
 と夏希はげんな表情を浮べてから、
「それじゃあ、またきてくださいね、前川さん。明後日から新しい若い女の子もきますからね」
 愛想のいい声をあげた。
「えっ、明後日から新しい子がくるんですか」
 夏希の言葉に広之が反応した。
「くるわよ。目のぱっちりした、ミユキちゃんっていう、色はちょっと浅黒いけど個性的な可愛い子が」
「色は浅黒くて名前はミユキさんですか……それならまた明後日にきます」
 そういって広之は、カウンター脇のレジに向かって歩いていった。
 このあと麟太郎は席に着いた夏希に、先日の麻世との件を質してみた。
「えっ、麻世さん。あの時、私との間に何があったのか、大先生にまだ、話してないんですか。ということは、まだ迷っていてどうするか決めかねているんですね」
 驚いた様子の夏希に、
「だから、こうして何の話をしたかと訊いてるんじゃねえか。ちゃんと教えてくれよ、ママ」
 懇願するように麟太郎はいう。
「それは駄目です。麻世さんが話さない以上、私の口からいうわけにはいきません。申しわけないですけど、麻世さん自身の口から聞いてください。お願いします」
 そういって夏希は口を閉ざした。
 この夜、麟太郎は看板まで飲みつづけ、しっかりと理香子を励ましてから家に戻った。

 次の日の夕方。約束通り、広之は診療所にやってきた。
 麟太郎は広之を診察用のイスに座らせ「さて」と笑いながらいう。そんな様子を看護師の八重子やえこが怪訝な面持ちで眺めている。
「あの、まず、大先生におたずねしたいのは、恋患いというのは治るでしょうかということなんですが」
 いかにも恥ずかしそうにいった。とたんに八重子の顔に好奇の色が浮ぶのがわかった。
「恋患いか――残念ながら、その病に効く薬は古今東西、どこを探してもないな」
 すまなそうに麟太郎は言葉を出し、
「そうか、広之君は恋の病を患っているのか。それは何とも羨しい話ではあるな」
 吐息まじりにいうと、八重子が何度も頭を振るのが目に入った。まったく……。
「つまり、有り体にいえば、広之君の相談事は恋のあれこれ。それもひょっとしたら、むくわれぬ恋。そういうことになるのかな」
「はい。そういうことになると思います」
 と広之は、ぽつりぽつりと話を始めた。
 広之の実家は横浜市の外れにあり、地元の大学を出たあと都内の大手給湯会社に就職した。最初は営業部門に配属されたが、人づきあいの苦手な広之はとても勤まらないと感じ、無理をいって現場仕事の部門に変えてもらった。毎日が給湯機器の取付けやメンテナンス作業の明け暮れだったが、それはそれで気は楽だった。勤務場所は従業員二十人ほどの八王子支店だった。
 入社して二年ほどったころ。
 広之は仲間に誘われ、数人で八王子の飲屋街に出かけた。この手の誘いには滅多に乗らない広之にとっては珍しいことだったが、この日は大口の給湯設備の取付けが無事完了して、みんながほっと一息ついたときで断る理由が見つからなかった。
 一軒の小さなスナックに入った。
 そこで広之は恋に落ちた。
 相手は店の女の子で、セイナと名乗ったが本名ではないようだった。
 切れ長の目に、きりっとした眉。やや厚い唇に細い顎――そして一番の特徴が浅黒い肌の色だった。一言でいえばりんとした顔立ちだったが、セイナは決して気の強い性格ではなく、むしろ、その反対に見えた。そのギャップがたまらなく魅力的で、広之の心をがっちり捉えて離さなかった。一目れだった。
 広之は週に一度はその店に通って酒を飲んだ。そう、カウンターの前に座ってビールを飲むだけで、セイナをくどくことも気の利いた話をすることもなかった。ひたすら飲んで帰るだけ。ただそれだけだった。
 広之は女性が苦手だった。
 何を話していいかわからなかったし、どう接したらいいのか見当もつかなかった。だから今まで一度も女性とつきあったこともなかったし、積極的に近づいたこともなかった。女性を目の前にすると、どうしたらいいのか途方に暮れた。その自分が、恋……。
 こんなやりとりがあった。
「前川さんて、無口なんですね」
 とカウンターの向こうから、セイナが声をかけてきた。
「はい、無口です」
「無口だと、口が渇いてきませんか」
「あっ……渇きます、いつも、カラッカラです」
 真面目な顔で慌てて答えると、
「カラッカラなんだ――だから、しょっちゅう、ビールを飲んでるんですね」
 感心したような口調でいってから、セイナは顔中に笑みを浮べた。
 れいな笑みだった。可愛かった。このときセイナがなぜ笑ったのか広之にはわからなかったが、何となく幸せな気分に襲われた。
 それからは、こうした片言だけの会話ぐらいはできるようになった。そんな状態がしばらくつづいて、少しはセイナと打ち解けることができるようにもなった。そして広之はそのころ、セイナにひとつだけ確かめたいことがあった。
 セイナの本名だった。
 むしょうに知りたかった。
 あるとき、カウンターに一人でいたセイナに思いきって声をかけてみた。
「あの、セイナさん。ひとつだけ教えてほしいことが。ひとつだけ……」
 切羽つまった広之の声に、
「えっ、何。どうしたの。何が知りたいの」
 怪訝な目をセイナが向けた。
「あの、セイナって本名じゃあ……僕はセイナさんの本名が、知りたくて、その」
 ようやくいえた。
「私の本名?」
 正面から広之の顔を見てきた。
「いいわよ。昭和大好きな父親がつけてくれた私の名前は、美和子みわこやま美和子。あんまり今風じゃないから、カタカナでセイナにね」
 何でもない口調でいって、指でカウンターの上に美和子と書いた。
「あっ、美和子さんですか。いい名前です。今風じゃないかもしれないけど、本当にいい名前です。偉大な名前です」
 上ずった声でいって慌ててコップをつかんでビールを飲みこんだ。セイナいや美和子が顔中で笑った。世界一の笑いだった。
 セイナの本名は山瀬美和子――何だか本当のセイナがわかったような気がした。山瀬美和子。本物の可愛い顔が目の前にあった。実体をようやく把握した思いだった。
 本名はわかったが、相変らず美和子とは片言の会話がつづいた。
 ここまで麟太郎に話して、広之は大きな吐息をもらして肩を落した。
「ああ、ようやく本名がわかってよかった。それにしても大変というか、何というか……しかし本当に広之君は女性が苦手なんだな。困ったなあ。こればっかりは慣れるよりほか、方法がないからなあ」
 本当に困った口調で麟太郎がいうと「あの」と八重子が声を出した。
「たとえば私ならどうですか。ちゃんと話はできますか、前川さん」
 興味津々の表情で訊いてきた。
「オバサンなら比較的大丈夫なんですが、若い子はまったく駄目です」
 何でもない口調のこの一言で、八重子はそれっきり黙りこんだ。
「それで、その後、その美和子さんとはどうなったんだ」
 ムスッとした八重子は無視して、麟太郎はその後の顛末てんまつを問い質す。
「何の進展もありませんでしたが、たったひとつ、美和子さんがこんなことを」
 そのスナックに通い始めて半年ほど経ったころ――。
「前川さん、会話が無理なら唄を歌ったら。私、前川さんの唄が聴きたい。唄なら歌詞が決まってるから考えることもないし。できたら私、前川さんとデュエットがしたい」
 こんなことを美和子がいい出し、広之の胸は躍った。確かに唄なら歌詞を口にするだけで、どんな言葉を出したらいいかなど考える必要はない。唄ぐらいなら。
「へえっ、美和子さんが唄を歌えと!」
 驚いた声をあげる麟太郎に、
「多分、ひたすらビールを飲んで、片言の会話をかわすだけの僕を気づかって」
「なるほど、少しでも場を盛りあげようとしたのかもしれねえな」
「それに唄は一人遊びのようなもので、小さなころから歌っていたと以前、美和子さんに話したこともありますし、だから」
「そうか、いろいろ考えてくれてるんだ、美和子さんは」
「社交辞令のようなものだとは思いますが、このとき僕はあることに気がついたんです」
 広之はごくりと唾を飲みこんだ。
「会話で美和子さんに思いを告げるのが無理なら、唄でやったらどうだろうって。唄なら素直に耳に届くだけで、強烈すぎるインパクトもないから、迷わず声を出せますし。いわば音のラブレターのようなものですから」
 妙なことを広之はいった。
「音のラブレターって、つまり歌詞を変えて歌うということなのか」
 思わず麟太郎が身を乗り出すと、
「いえ、歌詞は変えません。それではいかにも作為的になって恥ずかしいですから」
 あっさりと広之は否定した。
「歌詞を変えない、唄のラブレターって……いったい広之君は、どんな唄を歌うつもりだったんだ」
 首をかしげる麟太郎に、
「古賀政男さんの『影を慕いて』です」
 とんでもない題名が飛び出した。
「あれって、殿方の失恋の唄ですよ。しかも、かなり古い」
 声を出したのは八重子だ。
「それで広之君は、美和子さんの前で『影を慕いて』を歌ったのか」
 麟太郎は先を促す。
「歌いました、一生懸命。心をこめて、歌詞そのままで」
「その結果は、どうなったんだ」
 叫ぶような声を麟太郎はあげた。
「美和子さんは盛大な拍手をしてくれましたが、思いはまったく伝わらなかったようです」
「そりゃあ、そうだろうな……もっと他の唄では駄目だったのか。端的に美和子さんのことが好きだというような言葉が入った」
 溜息ためいきまじりにいう麟太郎に、
「そんな恥ずかしいこと、とても小心な僕にはできません。あれがやっとです。しかし、あのカラクリが何で通じなかったのか」
 カラクリと広之はいった。
「えっ、あの唄には何かそんなものがあったのか。いったい、どんなカラクリがあったっていうんだ、広之君は」
 また麟太郎は身を乗り出す。
「それはいえません。とても子供っぽい仕掛けですから、そんなことはとても」
 こういって広之は、がっくりと肩を落した。

 夕食後――。
 お茶を飲みながら、早速この話を麻世とじゅんいちに聞かせてやると、
「二十八というと俺とあんまり年が違わないけど、今時そんな純情というか素朴というか、そんな気弱な人間がいるとは」
 潤一の第一声がこれだった。
「いるんだよ、そういう純な人間がちゃんと。前にだって徳三とくぞうさんところのたか君や、ともさんに一目惚れした、とおる君もそうだったじゃないか。おじさんは擦れてるから、わからないだけだよ」
 ぴしゃりとした声を麻世が出した。
「あっ、それは誤解で、俺だって本当は――」
 弁解しようとする潤一の声を追いやるように、
「それで、その後、広之さんと美和子さんはどうなったんだ。うまくいったのか」
 泣き出しそうな声で麻世がいった。
「聞いたところによると、その一カ月あとぐらいに美和子さんは、お金を稼ぎたいから都心の店に移りますといって辞めていったそうだ」
 いいづらそうに麟太郎は口に出し、
「それから広之君は時間があれば、都心に出て一軒一軒スナックを回って、美和子さんを探したそうだが、いまだに見つからないといっていたな。こっちの支店に移ってからも、あっちこっち探して、それで『田園』にもきたんだが結局な」
 頭を振りながらいった。
「それじゃあ、広之さんはもう四年間も、この広い東京中のスナックを回って、美和子さんを探しているというのか……そんなこと」
 麻世の言葉に湿ったものが混じった。
「そういうことだな。それぐらい広之君は美和子さんのことが好きで、忘れられないんだろうな。頭が下がるな、その信じられない、一途な心によ。このご時世によ」
 麟太郎の声もかすれていた。
「信じられないというより、それはもうストーカーの部類に入るんじゃないのか」
 潤一の何気ない言葉に「お前なあ」と麟太郎は荒っぽい声をあげ、じろりと麻世が怖い目でにらみつけた。
「ごめん、失言だった。それよりこれを見てくれよ。これが広之さんのいっていた『影を慕いて』の歌詞だよ」
 手にしていたスマホの画面を差し出した。

“まぼろしの
 影を慕いて 雨に日に
 月にやるせぬ わが想い
 つつめば燃ゆる 胸の火に
 身は焦がれつつ しのび泣く

 わびしさよ
 せめて痛みの なぐさめに
 ギターをとりて 爪弾けば
 どこまで時雨 ゆく秋ぞ
 振音トレモロ淋し 身は悲し

 君故に
 永きひとを 霜枯れて
 永遠に春見ぬ わが運命さだめ
 永ろうべきか 空蝉うつせみ
 儚き影よ わが恋よ“

「この文章の雰囲気なら、ラブレターというよりは恋文だな。しかし、これのどこにカラクリがあるっていうんだろうな。俺にはさっぱり見当もつかないけど」
 潤一の言葉に、麟太郎も麻世も睨みつけるように歌詞を見る。やがて、
「俺にも、さっぱりわからん。まるで判じ物だ、これはよ」
 麟太郎は頭を振り、麻世もならったように首を傾げる。
「スマホで見ると、この唄は昭和初期のものなんだろう。そんな唄を、なんで広之さんは知ってるんだろうな」
 独り言のようにいう潤一に、麟太郎はすぐに声をあげる。
「広之さんが小さいころ、死んだジイサンがよく歌っていて、それで何となく覚えたといっていたな」
「まあ、懐メロの好きな人は、いっぱいいるからそうなんだろうけど、しかしなあ」
「いずれにしても、明日『田園』に若い女の子がくるということで、広之君もまたくるといってたから、そのときにいろいろとな」
「新しい女の子って、ミユキさんていう名前だろ。美和子さんじゃないのに、なぜ広之さんは」
 怪訝そうな表情の麻世に、
「それはあれだ。セイナさん同様、ミユキという名が源氏名であれば美和子さんである可能性は決してゼロじゃないからな。だからよ、悲しいことだけどよ、奇跡を待つような話だけどよ」
 大きな溜息をついて麟太郎はいい「ところで」と麻世の顔をじっと見た。
「俺は昨夜『田園』に行ったとき、夏希ママに、先日のお前とのあれこれを訊いてみたんだが」
 と麟太郎は、そのときの様子を麻世に話した。
「だから俺は麻世に訊きたい。いったい、あのとき何があったんだ。もうそろそろ、話してくれてもいいんじゃないか。何があったかということと、お前の今の気持をよ」
 淡々とした調子だったが、だからこそ、説得力があるともいえた。
「わかった、話すよ、全部」
 ぽつりと麻世が口にした。
 ぴんと背中を伸ばした。

              (つづく)

【第一章】

【第二章】

【第三章】

【第四章】

【第五章】

プロフィール
池永 陽(いけなが・よう)
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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