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軍都と色街 第十二章 佐世保 後/八木澤高明

米兵とハウスと呼ばれた売春施設

 一九四五(昭和二十)年に太平洋戦争が日本の敗戦により終結すると、日本軍に代わってやって来たのが米軍だった。
 この連載でもすでに取り上げているが、日本各地への米軍の進駐を前に、首都圏にはRAA(特殊慰安施設協会)という米兵向けの慰安施設を運営する組織がすでに立ち上がっていた。東京や神奈川では、女性たちを集めて進駐前には慰安施設が営業できる態勢を整えていたのだった。
 佐世保においても、東京の動きが伝わっていたのだろう、米兵を相手にする慰安施設が作られた。勝冨遊廓や花園遊廓は、一九四五年六月二十八日深夜から二十九日にかけての空襲で被害を受けて、営業できる状況ではなかったこともあり、新たに作られたのが港に隣接した山県町の遊廓だった。
 九月二十二日に米兵の進駐がはじまり、五万人の米兵が駐屯した。米兵たちに外出が許可されるようになると、すぐに遊廓は賑わうようになった。米軍は性病の蔓延を危惧し、すぐに山県遊廓への米兵の立ち入りを禁止する。
 山県遊廓は日本人相手に営業を続けたが、裏ではこっそりと米兵の客を取っていた。売春施設だけではなく、米兵向けのダンスホールやカフェなどを次々とオープンし、米兵相手の商売が広まっていったのだった。
 米兵向けの慰安施設は、米兵が殺到したこともあり、RAAに関しては、東京の大森にできた小町園などは、開業してから一年も経たない一九四六年三月には閉鎖されている。山県遊廓でもMPによる取り締まりが、厳しくなったこともあり、米兵の立ち入り禁止が徹底されていった。
 そうした色街への締め付けによって、売春が佐世保の街から一掃されたわけではなく、形を変えて存続していった。
 街には、パンパンと呼ばれた街娼が現れ、路上で米兵たちを誘った。他には、アパートなどを利用して、部屋を娼婦に貸したり、または業者が十人ほどを住まわせて、売春させるなどの施設が街の中に点在していた。それらはハウスと呼ばれ、正確な数が明らかになっているわけではないが、五百軒ほどあったという。勝冨遊廓跡で商店を経営する男性の案内で、連れて行ってもらったアパートなどがまさに、ハウスだった。
 佐世保における米兵相手の売春は、戦後の進駐を経て、朝鮮戦争の勃発により更なる盛り上がりを見せるようになる。物資を朝鮮半島へと送る拠点となっただけではなく、米兵以外に、国連軍の兵士も戦場へ渡る前に快楽を求めてやってきた。明日をも知れぬ戦場へと赴く前に女性を求めたのだった。現金をほぼ使い果たしていくので、女性や業者にとっては、佐世保は米軍基地のあった街の中でも稼げる土地となった。全国から佐世保で春を売るために集まった女性たちは、八千人ほどだったという。
 古びたハウスの姿からは、なかなか想像することは難しいが、軍都と色街を巡る取材の中で、私は何度か佐世保という地名を耳にした。その場所は山形県の神町じんまち、神奈川県の横須賀、東京都の町田だった。どこも朝鮮戦争からベトナム戦争にかけて米兵相手の大きな色街が存在した土地だ。
 それらの土地で米兵相手の商売をしていた人に佐世保出身者がいたのだった。佐世保で財を成し、ほかの米軍基地周辺の色街に進出した人物が少なからずいた。米軍相手の商売というのは、駐留する米兵の数によって、売り上げが変動することもあり、土地から土地へと流れていくことは珍しいことではなかったのだろう。
 
 佐世保へ取材に入る前、私は一冊の資料に目を通していた。一九五五(昭和三十)年に労働省婦人少年局で発行され、カストリ出版が復刻した『戦後新たに発生した集娼地域における売春の実情』についてという冊子である。
 その冊子には、佐世保のG町に関するハウスの状況が図で記されていた。ちなみにG町とは現在のおんちょうのことである。
 娼家の場所が黒い点で表されていて、まわりには小学校や中学校などがある。私が訪ねた場所のように住宅街の中に普通に存在していた。
 これまで、この連載の中で各地の軍都を歩いてきたが、娼婦に部屋を貸すということは、手っ取り早く金を稼げることもあり、米軍基地のまわりでは、珍しいことではなかったことがわかる。
 冊子には、基地周辺のハウスなどで働く女性たちの収入も記されている。それによると稼いでいる女性で月に五万円ほど、平均すると二万円ほどだった。当時の大卒の初任給が一万円ぐらいだったから、その倍の金額を身体ひとつで稼ぐことができる仕事に多くの女性たちが集まったのは、時代状況として必然ともいえた。
 娼婦に対して、現在の仕事に関してどう思うかという質問もあって、半分近くが仕方がないと答えている。
 資料を元に祇園町を歩いてみた。車を止めた道路の反対側には、堂々とした作りの検察庁の建物があった。近くには小学校もあった。誰が見ても官庁街にしか見えない。
 官公庁の建物から歩いて数分の場所に、何やら娼婦たちが身を置いていたであろう建物も何軒か残っていた。
 一見すると、官庁街のように見える街並みの中にアンバランスな建物が残っていて、それが米兵相手の色街だった頃の名残を今に伝えているのだった。
 この土地で春を売っていた女性たちは、果たして、どこへ流れていったのだろうか。

米軍向けのハウス

朝鮮戦争と韓国の売春

 ハウスでひと時の快楽を貪り、朝鮮半島へと送られた米兵たちの多くは、佐世保から船に乗せられた。
 一九五〇年六月に朝鮮戦争が勃発すると、緒戦は軍事力に優った北朝鮮軍が一気にソウルを落とした。その侵攻を食い止めるため佐世保から向かったのが、佐世保に駐留していた歩兵第三十四連隊だった。彼らは、北朝鮮軍に押され、当時、ソウルから後退して臨時政府を置いていたジョンの戦いで大敗北を喫した。
 朝鮮戦争で、日本は米軍をはじめとする国連軍の兵站へいたん基地としての役割を果たしたという印象を持つ人は少なくないだろう。しかし、実際には、日本人が武器を持って戦ったという記録も存在する。
 私は佐世保への取材を終えてからその事実を知った。海上保安庁の掃海艇が朝鮮半島で機雷の除去の任務に就いていたことは知っていたが、陸上戦に加わっていた日本人がいたことはまったく知らなかった。その事実を私に教えてくれたのは、米軍によって作成された極秘の尋問記録などをもとに取材を重ねて編まれた、『朝鮮戦争を戦った日本人』(藤原和樹著 NHK出版)という本である。
 先に触れた歩兵第三十四連隊は、朝鮮半島へと向かう前、佐世保や福岡などに分散して駐屯していたのだが、その本によれば、米軍基地で働いていた日本人の従業員が勤務先の部隊とともに朝鮮半島に渡った。彼らは、現地で炊事など米兵の身の回りの世話などをしていたが、戦闘が激しくなると、銃を持ち、戦ったというのだ。日本人の中には、戦死した者や北朝鮮軍の捕虜になった者もいた。さらには、有名なインチョン上陸作戦においても、上陸用舟艇の操船者などに、日本人がいて、果たした役割は大きかったのだった。
 日本人たちは、アメリカの国籍を持っていたわけでも、正式に召集されたわけでもなかったが、米軍の関係者であったことは間違いなかった。極東を揺るがした戦争において、隣国でもあり、かつて朝鮮半島を統治した日本は無関係ではなかったが、民間レベルでも関わった人々がいたのだった。
 一方で、北朝鮮軍を援助した中国人民義勇軍の中にも、正確な記録はないが、日本人残留孤児や戦後ソ連に抑留された後、人民義勇軍に加わった日本人がいた。一説には三万人の日本人がいたという。
 朝鮮半島においては、戦争勃発の五年前まで日本による統治が行われていたことから、日本語が通じたこともあり、日本人は中国軍や国連軍で重宝された。
 日本の民間人も戦った朝鮮半島には、今も米軍が駐屯し、佐世保と同じように色街が形成されている。日本の米軍基地の周辺を歩くと、どうしても韓国の米軍基地周辺の光景を思い出してしまう。佐世保と違うのは、今も朝鮮半島の基地周辺には米兵相手の色街が健在だということだ。

佐世保にある米軍基地

韓国の基地の街を歩く

 ソウルから北、三十八度線の方角へ電車に揺られて、一時間半ほど。トンドゥチョンという町がある。北朝鮮との軍事境界線である三十八度線まで二十キロほどである。
 東豆川を訪ねたのは、今から八年ほど前のことだった。町にはキャンプケーシーという米軍基地がある。朝鮮戦争当時、ソウルを目指す北朝鮮軍の主力は、東豆川からウィジョン、ソウルをつなぐ街道を通って南下していき、三日でソウルを占領することに成功したわけだが、今後また朝鮮戦争が勃発し、北朝鮮軍が南下してくることがあれば、この土地では再び激戦が展開されることは間違いない。
 米軍基地ができたのは、一九五二年のことで、基地のまわりには米兵を相手にする娼婦たちが集まった。韓国では米兵を相手にする娼婦たちが暮らす地区や色街のことを基地村と呼ぶ。
 東豆川に基地村ができたのは、娼婦たちが商売のために集まってきたからだけではなく、日本でも米軍基地周辺で今も続いている米兵による女性への暴力事件を少しでも無くしたいという地元住民の願いもあったという。
『韓国の米軍慰安婦はなぜ生まれたのか』(崔吉城著)を読むと、日本に上陸した米軍が犯した乱行と同じようなことが朝鮮半島でも起きていたことがわかる。
 
“彼らは村人たちが危惧していた通り、間もなく女性たちを略奪しはじめた。彼らは、昼間に村をぶらぶらしながら女の目星をつけておく、そして夕方になると、坂道などの村を見渡せるところにジープを止めておいて、望遠鏡で目当ての女性を探す、それで見つけると猛然とジープを走らせてくる。そうして強奪していくのであるが、私たちはそういうジープを見ると、大声で「軍人! 隠れろ」と叫んだものである。”(前掲書)
 
 危機的な状況が二ヶ月ほど続いたが、村での米兵たちの蛮行はやがて静まっていった。それは、娼婦が現れたからだと、本には記してある。娼婦たちは村で部屋を借りて、米兵たちを連れ込み商売をしたという。村人たちにとっても、思わぬところから現金が転がり込み、村の女たちの貞操も守れるとあって、娼婦たちの存在は大歓迎であった。
 村人たちは米兵がもたらすコーヒーやタバコの味を覚え、村の女性たちは農作業に適した地味な服装から、娼婦たちのような派手な洋服を着るようになり、男たちは、米兵の軍服を作業服として利用したという。
 何かこのくだりを読んでいて、やはり戦後の焼け野原や農村地帯など、日本全国の米軍基地のまわりに現れたパンパンと米兵、そして住民たちとの関係とリンクする。
 戦後の売春史において、日本と韓国はほぼ同じような道を歩んできたことが、この本に書かれている事実からも窺える。
 ここ東豆川の米軍基地は市の面積の四割ほどを占めていて、その中でも最大のキャンプケーシーには軍人とそこで働く民間人を含めて一万人が出入りしている。それほどの人員がいるだけに、米軍向けのバー街の他にも、ちょんの間があると聞いていた。
 飲食店などが建ち並ぶ表通りを歩いていると、建物と建物の間から、赤いネオンが見え隠れしているのに気がついた。
 明かりに導かれるように、薄暗い路地を歩いていくと、ガラス張りの引き戸の中に女の姿があった。人とすれ違うのがやっとの路地の入り口には、ビニールシートが吊られてあり、路地の奥が見えないようになっていた。シートをめくってみると、そこには何軒ものちょんの間が密集していた。
 ちょんの間で働いているのは、ほとんどが韓国人だった。元々は米兵向けの売春地帯だったのだろうが、米兵の姿はまったくなかった。深夜ということもあるのだろう、韓国人の客の姿もなかった。
 ちょんの間のまわりをうろついていたら、ネオンの影で佇んでいる男がいた。浅黒い肌をした男は韓国人にも見えず、何者かと思い近づいてみたら、インド人のような顔立ちをしていた。
「何やってんだい?」
「友達が、今遊んでるから、終わるのを待っているんだよ」
 十五分から二十分ほどで、出てくるのだろうが、男は時間を持て余していたようで、私の問いかけに応じたのだった。
「インド人だよ。ところであなたは?」
「日本人だよ。あなたは韓国で何やってるの?」
「洋服工場で働いているんだ」
 なるほどなと思った。元々は米兵向けだった色街は、今やこの周辺で働く外国人労働者のための性欲処理施設になっているのだった。
「インドの西ベンガルから来て、あと二年は帰れないんだよ。家族は向こうに置いてきてるから、たまにはこういう場所に来たくなるんだよ。俺たちの料金は十五分で五万ウォンだけど、日本人だったら、もう少し取られるかもしれないよ」
 韓国の繊維業界は、近年技術力を上げ日本に追いつけ、追いこせの勢いがあるという。品質のよいものを作るだけではなく、コストを下げ販売価格を落さないと、消費者はなかなかものを手にとってはくれない。価格を下げるための手段として、彼らは韓国繊維産業を下支えしているのだった。
 ちょんの間のある通りからさらに、五分ほど歩いていくと、米兵向けのバーが建ち並んでいた。
 ホッドドッグやハンバーガーを売る小店の先に、ピンクや赤のネオンがあふれていた。英語で書かれた看板が並んでいることもあり、横須賀のドブ板や沖縄のコザなどの通りと同じような風景が広がっていた。
 バーの入り口を見ると、アメリカ兵以外は入れないためGIオンリーと書かれた紙が貼られている店が多かった。
 GIオンリーと紙が貼られていない店のドアを開けると、店内はガラガラで誰も客はいなかった。ソファーに腰かけると、横にカレンと名乗ったフィリピン人が座った。
「こんばんは」
「あれっ、日本人ですか」
 彼女は嬉しげに声をあげた。日本行きの興行ビザがほとんど発行されなくなり、多くのフィリピン人が、韓国に来ているという話を聞いていたので、私はえて日本語で話しかけてみたのだった。
「四年前に、練馬のフィリピンクラブで働いていたんですよ。その時は、昼間はホテルでベッドメイキングの仕事もしてた。またチャンスがあれば日本に行きたいね」
 韓国での仕事は日本に比べて、金銭的によくないのだという。
「二年の契約で、一ヶ月四百ドルしかもらえない。休みもほとんどないし、昼間外出するのも、ママに言わなきゃいけないし、面倒くさいんですよ」
 フィリピンには五歳の子どもがいて、これから幼稚園に通うため、お金が必要なのだと言った。
 店には十人ほどの女性がいて、すべてフィリピン人。オーナーは韓国人の女性だった。
「ママのお父さんがお店をはじめたみたいね。昔は売春はあったみたいだけど、今はそんなことはないですよ。お客さんを取るために個人的にやっている人はもちろんいると思うけど、それはどこでもあるでしょう」
 彼女たちは、個人的に店と契約をしているわけではなく、フィリピンのプロモーターを通じて、この店に送り込まれているのだった。当然、プロモーターと店の間の契約では、おそらく二千ドルから三千ドルの月給ということになっているのだろうが、間に入るマネージャーなどに中抜きされて、彼女たちの手元には四百ドルほどしか入らないのだ。その形式は、かつて興行ビザで日本に働きにきていたフィリピン人女性たちとまったく同じだ。売春は強要されなくとも、ひどい搾取と管理下におかれていた。
「お客さんはほとんどアメリカ人?」
「そうね。兵隊が多いけど、韓国人も来るし、ネパール人やスリランカ人も来るわよ。特にネパール人とスリランカ人は、すぐ体を触ってきたり、ペニスを触ってくれだとか言う客とか、『いくら』と、売春を持ちかけてくるのもいるから、出て行けって追い返すこともあるわよ」
 フィリピン人の女とネパール人やスリランカ人の男たち、誰もが異郷で働くものたちだ。
「米兵はどうなの?」
「アメリカ人は、そんなにひどい人はいないわよ。若い兵隊が多くて、つきあってくれって、よく言われるけど、恋愛の対象にはならないと思う。彼らは一年か、二年でアメリカに帰っちゃうでしょ」
 私は一時間ほど店にいたが、客は誰も来なかった。
 今ではここ東豆川のバーでは、表立った売春は行われていないようだった。今から二十年ほど前までは、売春は盛んに行われていたという。基地から車で十五分ほど走った場所にサンという山があるのだが、その麓には、性病に感染した娼婦たちを隔離するモンキー・ハウスと呼ばれる施設が存在した。
 今は使われていないモンキー・ハウスは鉄筋コンクリート三階建てで、まわりは雑草に覆われ、建物に入るのにもひと苦労だった。
 窓ガラスは割れ、娼婦たちの逃亡を防ぐため窓枠にはめ込まれた鉄格子が剥き出しになっていた。放置されていて二十年以上の年月が経過していることもあり、娼婦たちを収容していた十畳ほどの病室には、ゴミが散乱し、破れた布団が置かれたままになっている。八つの病室があったが、すべて同じつくりで、収容所という言葉がぴったりと当てはまる。韓国全土、各地の基地村にこのような施設が作られ、多い時には年間四万五千人が収容された。彼女たちの中には薬の大量投与で亡くなる者もいたという。
 風雨にさらされ、荒れ果てた施設は、韓国現代史の生き証人であり、米兵を相手にした娼婦たちの墓標でもあるのだった。
 
 バーに足を運んだ翌日、カレンとその友達のアンナの三人で基地のゲート近くにあるフィリピン料理屋に行った。辺りには、三軒ほどの料理屋、物産屋もあり多くのフィリピン人が働いていることを窺わせた。
 テーブルが二つほど置かれ、十人入ればいっぱいになってしまう店内では、軍服姿の米兵とフィリピン人のグループがランチを取っていた。
「あの女たちは、店の女よ。誘われて食事に来てるのよ」
 てっきり、米兵の妻なのかと思ったら、違うという。米兵たちにとって、フィリピン人女性たちとの食事は息抜きのひとつなのだろう。
 豚肉を煮込んだ料理、野菜炒め、魚の唐揚げなどから、好きなものを皿に取った。カレンは節約のため、いつもは部屋で自炊していることもあり、滅多に外食はしないという。四百ドルの給料では、一食千円は取られる食堂に足を運んでいたら、フィリピンに送金することなどできない。ごく普通の大衆食堂でも、彼女たちにとっては高級レストランなのだった。
 一時間ほどで、私たちは店を出た。ママのチェックがあるのだ、あんまり長い時間は、外出できないのだという。それでも久しぶりの外出は、いい気分転換になったようで、
「ありがとね」
 と、彼女は笑みを浮かべて感謝してくれたのだった。
 かつてのような売春はもう存在しないにしても、ここ東豆川に米軍基地がある限り、フィリピン人のカレンのような女性たちは常に求められ続ける。そして、出入りの減った米兵以上に、売春を求めているのは、この国に働きに来る外国人労働者たちでもある。韓国経済の歯車として働く彼らにとって潤滑油的なものとして売春が存在しているのだった。

佐世保バーガー

 遊廓跡をまわった日、佐世保の街中で佐世保バーガーを食べることにした。佐世保バーガーとは米軍が進駐していた一九五〇年頃から、米軍にレシピを教わり、日本人が作りはじめたハンバーガーのことだ。米軍基地のある、横須賀やふっなどにも米軍仕込みのハンバーガー屋が多くあって、大勢の観光客で賑わっている。ちなみに米軍が伝えた本格的なハンバーガーというのは、佐世保が日本初だという。米軍は日本各地に進駐したのに、なぜ佐世保が日本初といわれるのかその理由はわからない。朝鮮戦争で戦場に駆り出された日本人の中には、調理を担当していた者もいたというから、様々な人を介して、今日までレシピが伝えられてきたのだろう。
 訪ねたのは、夕暮れ時ということもあり、店はハンバーガーを楽しむ客で席が埋まっていた。
 もともとは街に繰り出した米兵たちが、主な客だったのかもしれないが、私が訪ねた日は、米兵の姿を見ることはなかった。
 私にとって人生最初のハンバーガーといえば、ファストフードで食べた薄いパテのものだった。幼少期には、近所にあったデパートに行くたびに、母親にねだって食べたものだった。
 最近ではあまり見かけなくなった、チェーン店のドムドムハンバーガーだった。幼い頃の私は、ハンバーガーの由来などには興味がなく、ただ滅多に食べられない美味しいファストフードという印象だった。
 ドムドムハンバーガーは、中内なかうちいさおが創業者のスーパーダイエーの傘下にあるチェーン店として展開していた。 
 中内㓛、スーパーダイエーは、昭和という時代を語るには欠かせない。この連載でも一度取り上げたが、中内㓛は太平洋戦争末期のフィリピン・ルソン島における戦いで飢餓戦線を彷徨さまよった後、九死に一生を得て日本に帰還した。その戦場で、アメリカ軍の兵器だけではなく、敵陣にある豊富な食料に驚きを覚えたことが、良いものを安く売るというスーパーダイエーの原点になったという。
 その中内が経営するダイエーの傘下にあったドムドムハンバーガー、もともと中内はマクドナルドと業務提携をする方向で話を進めていたが、折り合わず独自に展開したのが、ドムドムハンバーガーだった。
 もう何十年もドムドムハンバーガーを食べていないので、その味を正確には思い出せないが、私がこれから食べようとしている米軍仕込みのハンバーガーのボリューム感とは別物で、パテの味も肉がたっぷり詰まったようなものではなく、肉の味がほんのりと甘く、優しい味がしたように思う。
 十五分ほど待っただろうか、厚いパテにチーズ、レタスとトマト、それらを挟むバンズはこんがりとした茶色をしていて、見るからに重厚感があるハンバーガーが出てきた。口に入れると、肉汁が広がる。新鮮な野菜のサクサクとした食感もよく、一気に食べてしまった。
 ハンバーガーという食べ物ひとつ取っても、日本とアメリカでは大きな違いがある。言ってみれば、佐世保バーガーとドムドムハンバーガーでは、値段も味も違う別の食べ物といっていいかもしれない。
 ハンバーガーの日米比較と同時に、韓国の米軍基地周辺でハンバーガーを食べた時のことを思い出した。
 未だ朝鮮戦争が正式には終結していないこともあり、韓国の米軍基地のまわりは、日本とは違って、よそから観光客が来るような雰囲気はなかった。ハンバーガー屋も米兵相手に営業していて、壁にはドル札が貼ってあった。華やいだ雰囲気はなく、食べに来る米兵たちも静かにハンバーガーを頬張っていた。肉汁が浸み出す、ハンバーガーの味は、佐世保と似ていた。佐世保は、韓国の米軍基地周辺ほど緊張感はないが、朝鮮半島の有事の際には、重要な拠点となる。
 韓国や佐世保のバーガーと比べ、私が幼い頃に食べた薄っぺらいドムドムハンバーガーの味は、戦争の匂いがしない平和の象徴のように思えてきたのだった。

戦後直後に遊郭のあった山県町。佐世保バーガーの店などが並ぶ

戦艦武蔵と佐世保

 バーガーを食べた後、私は佐世保港にあるドックを見に行くことにした。佐世保は太平洋戦争において、戦艦大和と並んで連合艦隊の象徴ともいえる武蔵が造られる際に、重要な役割を果たした。
 佐世保には、海軍のこうしょうがあり一九四〇(昭和十五)年に完成した第七せんきょ、現在の第四ドックが武蔵の建造に利用された。
 第七船渠は巨大なドックで、全長三四三・八メートル、幅五一・三メートルの規模があり、大和や武蔵といったちょうきゅう戦艦の修繕用に造られたのだった。太平洋戦争のはじまる五ヶ月前の昭和十六年七月には、武蔵がにゅうきょしスクリューやかじ、艦底塗装などそうの一部を行った。ドックを見下ろす場所から眺めてみると、あまりの大きさに驚きを覚える。作業に使われるアームなどもかなりの高さで、実際には見たことが無い戦艦武蔵がどれほどの威容を誇っていたのか、このドックの規模から窺えるのだった。
 武蔵が佐世保に入渠した際には、戦艦の建造は国家機密ということもあり、このドックは周囲から見られないようになっていたという。ドックを見下ろす道路を走るバスには憲兵が乗っていて、不審な乗客はいないか目を光らせていたという。
 当時の日本が、海軍の威信をかけて建造した武蔵や大和ではあったが、実際には大きな戦果をあげることができなかったのは、広く知られている。
 武蔵は一九四四(昭和十九)年十月二十四日のレイテ沖海戦において、米軍機の執拗な雷撃と爆撃を受け、シブヤン海で沈没した。
 艦長の猪口いのぐち敏平としひらは沈没する武蔵とともに戦死したが、海戦を生き抜いた生存者の多くは救助されたあとフィリピンのコレヒドール島に送られた。
 彼らの一部は、コレヒドール島から台湾に送られたが、その多くは米軍のルソン島上陸が近づくと、陸上戦を戦う陸戦隊に回された。
 首都マニラ、クラークフィールド、コレヒドール島に分かれて配備されることになったのだった。
「軍艦武蔵会」という武蔵の元乗組員だった方々が立ち上げた団体のホームページによれば、マニラの防衛に就いたのは約二百名。以下、そのホームページの記述を紹介しよう。
 米軍との市街戦を戦い、三月三日のマニラ陥落までに半数以上が亡くなった。マニラ湾口防衛部隊に編入された百二十一名は、二月十六日以降にコレヒドール島と周辺の小島(カラバオ、カバロ、エル・フラレイ)で戦い、生き残れたのは十八名だけだった。
 クラーク地区の防備に就いた約四百名は、一月十日以降から終戦までに約三百八十余名が死亡している。戦死をまぬがれた十数名は捕虜生活を経たのち、一九四六(昭和二十一)年一月末になって横須賀に帰着した。
 マニラ周辺の戦闘に生き残った者たちのほとんどは、米軍やフィリピン人ゲリラの追及を逃れて東部山岳地帯に撤退し、終戦まで自給自足の飢餓生活を強いられた。その結果、この方面で終戦まで生き残れたのは、五名しか確認できなかったという。
「ルソン決戦」に投入された「武蔵」残留者六百九十七名のうち、戦死あるいは戦病死した将兵六百四十一名、生還者はわずかに五十六名、死亡率は実に九十二パーセントだった。
 ブルネイ湾出撃時に二千三百九十九名だった「武蔵」乗員は、戦闘や漂流、輸送船の沈没、レイテ島での陸上戦闘を経た末に、約四百五十名が故国の土を踏むことができた。
 
 マニラ市街戦に投入された元乗組員が最も死亡率が高かった。佐世保で組織された佐世保海兵団からやはりマニラ市街戦に投入された酒井冨吉さんの手記を読んだ。岩国で行われた戦争と原爆展で発表されたものだった。
 それによると、陸戦隊として投入されたのは、レイテ沖海戦で沈没した軍艦の乗員が多く、陸上戦闘の訓練をまともに受けていなかった。米軍の猛攻の前に正面から戦えるような状況ではなく、マニラを脱出し、ルソン島東部の山岳地帯へと逃れたという。彼らが逃れた町のひとつが東海岸にあるインファンタという町だった。
 私にとってインファンタは、思い出深い町である。佐世保を訪ねる十四年ほど前に、取材で行ったことがあった。インファンタ近郊の山岳地帯に残留日本兵がいるという情報を得て、現地に向かったのだった。その時は、私の勉強不足で戦艦武蔵の元乗組員がいたということは知らなかった。現地を案内してくれたのは、マニラの市街戦を戦い、インファンタ周辺を転戦した日本海軍の元軍人だった。

残留日本兵を探した記憶

 私が残留日本兵を探す取材で最初に訪ねた土地は、マニラ東部にあるボソボソという村だった。ペドロ・ブアドと名乗るフィリピン人が死の直前、元日本兵だったと告白したのだった。今から二十年前のことだった。
 当時、フィリピンで遺骨収集をしていた元日本海軍の下士官寺嶋芳彦さんによれば、フィリピンで終戦を迎えた後、約四千人の日本兵が日本に帰還しなかったという。四千人という数字を信じれば、フィリピンのどこかに日本兵は生きているはずだった。
 元日本兵だと告白したペドロ・ブアドさんが暮らしていたボソボソ村に向かった。ぺドロさんの妻であるフィリピン人のユリタさん(六十八歳)が、村で生活していた。
「夫のことは、日本兵だと思っていました。本人は日本兵、いや日本人だとすら言わず、フィリピン人だと言い張っていましたが、タガログ語が上手ではなかったので、フィリピン人だと思ったことはありません。夫はマニラ近郊のブラカン出身で、双子だと言ってました。それなのに誰一人として親族に会ったことがありませんでした。そんな夫でしたが一度だけ、なぜか戦争の話をしてくれたことがありました。日本軍の部隊のリーダーだったと、戦闘中、爆撃を受け大怪我をして気を失い、目を覚ますと洞窟の中にいて、近くの村の老人が食料を運んでくれて、面倒を見てもらい助かったと言ってました。私に話してくれたのはそのことだけです。夫には、一人仲の良かったフィリピン人の友達がいて、彼には戦争当時の話をよくしていたようです」
 ペドロさんとユリタさんは一九八二年に結婚した。ユリタさんは二度目の結婚でペドロさんとの間に子どもは無かった。ペドロさんとの結婚後、経済状態は苦しかった。農業をしながら生活していたが、自分たちが食べるだけで精一杯で、現金収入は無く、フィリピン人の友達が援助してくれていたのだと言う。
 農作業をするのにも、ペドロさんの右手と右足首に爆弾の破片が貫通した傷があり、人並みに働くことができなかった。しかし、ユリタさんにとってペドロさんとの生活は貧しかったが、信仰に支えられていることもあり楽しかったという。
 ぺドロさんが暮らしていた家は、付近には民家がなく、車道から一時間ほど歩いた山の中にあった。家はうっそうとした木々に囲まれていた。家のすぐ裏には水源があって、水には困らないという。家に入ると、豆電球がぶら下がっているだけで薄暗い。電気も二年前に通じたばかりだという。家は二階建てで、二階がペドロさんとユリタさんの部屋だった。
 二階へ上がり、ペドロさんの遺品は無いか尋ねると、タンスの中から、教会に行く時に着ていたシャツを持ってきてくれた。軍服や軍刀などの日本軍に関連する物は結婚した時から持っていなかったという。家にはユリタさんと前夫との間の娘であるイメルダさん(四十四歳)が住んでいて、ペドロさんについて話をしてくれた。
「お父さんは、フィリピン人でないのは間違いありません。普通のフィリピン人とは違って毎日水浴びをして、身なりをきれいにしていました。家の中にいる時も靴下を常に履き、外出する時は、サンダルではなく靴を履いていました」
 一階の台所では、未だにまきを調理のために使っていた。調理台の下には、ペドロさんが結婚当初から使っていた壺が残されていた。台所の椅子に腰掛けると、自然と食事の話になった。
「コーヒーと味の素を入れた料理が嫌いだったね。料理はたまに作ったけど、魚でダシを取って野菜と煮込むディニン・ディンが好物でよく作ってたわ」
 この日同行してくれた通訳によれば、ディニン・ディンはフィリピンを訪れる日本人が好む料理の一つだという。
「あれは、ペドロが死ぬ三日前のことだったわ。アメリカ人の記者が通訳と二人で訪ねてきたの。その時、私は部屋の外で何を話しているか聞いていました。『私はフィリピン人ではない。私の名前はヤマカラです』とペドロが言ったのを聞いたわ。その言葉を発してすぐにぺドロは体調が悪くなって、インタビューを打ち切ってしまったの。そのままペドロは一階で寝込んでしまって、二日後に亡くなってしまったの。あの時、何を言いたかったのでしょうか」
 ヤマカラとは、山川の聞き違いだろうか、どちらにしろ、何か自分に関することを話したかったに違いない。
 ペドロさんは、死を迎えるまでの二日間、ほとんど話せなかったが、死の直前に最後の力を振り絞り言った。
「この場所から動くな、何があっても」
 ユリタさんは、「だからこの家から離れたくないんです」そう言うと、感極まって泣き出してしまった。
 ペドロ・ブアドは亡くなっていたが、彼の言葉はしっかりと家族に受け継がれていた。水源があり緑に囲まれたこの地は、フィリピンでの戦いで生き残り、見つけた最後の楽園だったのではないだろうか。

山下財宝と日本兵

 その次に向かったのがインファンタだった。
「山下財宝を探しに来たのか? 勝手に探せ」
 滞在先のホテルで、日本兵に関する情報は無いかと尋ねたのだが、フィリピン人の従業員は、こちらが言葉を発する前に、あきれた口調で言った。
 日本兵を探しに来た旨を伝えると、「悪かった、悪かった、日本人だからつい山下財宝を探しに来たのかと思ったんだ」と言って謝ってきた。山下財宝とは、フィリピン防衛のため再編制された第十四方面軍の司令官としてフィリピンで戦った山下やました奉文ともゆき大将が隠したとされる財宝のことだ。
 インファンタには山下財宝を目当てにやって来る日本人が多く、戦後すぐから現れ始め、フィリピンの人々に多大な迷惑をかけておきながら、宝探しに奔走する日本人に対して、地元民が怒って石を投げつけたこともあったという。
 ホテルで聞き込みをしていると従業員の友達だと言う男性が現れた。彼の名前はベニ(四十歳)地元の営林署に勤めていて、日本兵に関する情報を知っているという。
「最近では三ヶ月前にも目撃情報があったよ。山岳部に住むネグリート族の男から聞いたんだ。海岸沿いにあるキナン・リマンという村で目撃されることが多いんだ。ネグリートの男性の話では、あごひげが長く、目が小さくて、こちらの姿を目撃するとすぐ逃げてしまうそうだ。山に詳しい人間が言ってるのだから間違いないよ」
 その後、インファンタ周辺の村で聞き込みをして、いくつかの目撃情報を集めることができた。まずはベニが教えてくれたネグリート族を訪ねることにした。
 インファンタからトライシクルというバイクタクシーに乗って、三十分ほど走った場所にネグリート族の男性が暮らすタナ・ワン村があった。
 渓谷を見下ろす崖っぷちに板張りの小屋が五軒ほど建っていた。人々の顔つきは、フィリピン人というよりは、ニューギニアの高地人といった顔つきをしている。肝心の目撃者は、山の中に仕事に出かけていて、しばらく帰ってこないという。
 日本兵の話題を持ちかけると、アンリ(三十五歳)という男性も見たことがあるという。山奥に住む山岳民族とはいえ、ここまで簡単に情報が出てくると疑いたくなるが、話を聞いてその場所に足を運び確認する作業を続けるしかない。
「キナン・リマン村の話は知らないけれど、この近くのヒラ・ソラ海岸から山の中に入った所に、日本兵は住んでいたよ。フィリピン人の奥さんも一緒にね。僕が目撃したのは一九九八年のことだよ。三ヶ月ほど、山に木炭作りの仕事で行ってたんだ。その時、毎日仕事場に向かう道の途中に小さな小屋があって、家の前にある大きな岩の上に老人がよく座っていたんだ。僕らのことを見かけると、すぐに家の中に入ってしまうんだ。その老人はフィリピン人にはあまり見かけない、ガニマタだし、ねこ背だったので、外国の人間じゃないかと思ったんだ。家の場所は森の中で、まわりに畑も何も無いから、何でこんな場所に住んでいるのか不思議に思ったんだ。しばらくして、ヒラ・ソラ海岸の近くに住む爺さんから聞いたんだ。彼は日本兵だって。戦争が終わった直後からこの辺りで暮らし続けているんだと言ってたよ」
 実際彼に会って話を聞いてみなければならない。明日、日本兵であろう老人が暮らしている山の中に向かうことにした。
 
 翌朝、水やバナナを買い込んで、アンリを案内人として、山の中へ入った。歩いて十分もすると、民家は無くなり、鬱蒼としたジャングルに入った。木々が高く生い茂り、日が殆ど差さず、蒸し暑い。蒸し風呂の中を歩いているようだ。
 休憩を取りながら、一時間以上歩いただろうか、アンリがジャングルの中の窪地を指差し、立ち止まった。
「ここに日本兵が住んでいたんだ」
 アンリの指差した場所には、家は無くただ木々に覆われているだけだった。果たしてこんな所に住んでいたのか。
 何か遺物が残っていないか探してみることにした。草を払いのけると、家の壁に使った木材や食器に使ったと思われる椰子やしの実で作った椀が出てきた。果たして日本兵が住んでいた家の残骸なのだろうか。
 フィリピンの人々が目撃した人物が、日本兵だったのかどうかは定かではない。ただ、戦後から六十年以上(取材当時の時点)の年月が過ぎても、日本兵の目撃情報が出て来るということは、この土地に何らかの痕跡を残していたということで間違いないだろう。

佐世保の過去から未来

 数多の女たちが、日本の兵士たち、米兵たちに春を売り、朝鮮戦争によって韓国の米軍基地、フィリピン・ルソン島とも繋がっていた。
 佐世保への旅は、今から四年ほど前のことだった。海軍工廠時代には、武蔵の艤装などを行った第四ドックは、二〇二二(令和四)年を最後に船の建造という役割を終え、今は修繕用のドックとなった。中国や韓国が台頭してきて、国内の造船業が不振にあえいでいることがその理由だという。
 港から色街が消え、港の様相も時代の状況に合わせて変化している。しかし、この港が、時代を通じて、様々な土地へと繋がっていたことは紛れもない事実である。私の個人的な体験をひもといてみても佐世保との繋がりを強く意識させてくれた。
 米軍は、今後の東アジア情勢、日米関係からもこの佐世保に駐留し続けるだろう。佐世保が寒村から発展を遂げた軍港という空気は、時代を超えても変わらない。
 軍港という役割は明治以来、今も米軍の存在によって佐世保についてまわっている。私はアメリカの文化も食事も嫌いではない。米軍基地周辺で食べるハンバーガーも大好きだ。幾度となく古着屋巡りをしたこともある。
 ただ、米軍基地をこのまま日本の日常風景にしておくことには、違和感を覚える。佐世保だけではなく、全国各地にある米軍基地を無くすためにはどうすべきなのか。日本が再軍備に本腰を入れるべきなのか。それとも憲法の理想を守って、非戦の声をあげ続けるべきなのか。
 お前は、どう思っているのか? 米軍基地の存在は、意思表示をするわけでもなく、目の前の現実に流されているだけの私に問いかけてくるのだった。

米軍基地への立ち入りを禁じるフェンス

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本連載を再構成した文庫が2025年に刊行予定です!お楽しみに。

プロフィール
八木澤高明(やぎさわ・たかあき)
1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。


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