海路歴程 第七回<上>/花村萬月
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嫌な男だ。
誰も船頭の近くに寄りたがらない。
けれど船という閉鎖環境では、海に出てしまえば常にいっしょにいなければならない。命令をきかなければならない。ねちっこい厭味を浴びなくてはならない。無意味に罵倒されることに耐えなくてはならない。理由もなく殴られなければならない。
甲斐武田氏につながると言い張り、兜に当たる陽射しをあらわす甲陽を船名に戴いているが、甲陽丸の周囲には勇ましいものも輝かしいものも一切ない。
それでも皆が船頭から離れない理由は、徳用=利徳だ。船頭は目端が利く。投機的な才に長けている。一度の航海で他の弁才船とは比較にならない利益、具体的には上りと下りの航海をあわせて千七百両もの徳用をあげることさえあった。
この利益率の高さは、船頭の読みの慥かさによって、物の値のばらつきが極端に大きい地域を狙って物資を運ぶことによる。
たとえば一石あたりの米価を較べると、大坂に運べば敦賀で荷下ろしするよりも銀十匁ほども高価になった。
されど一大米集散地である大坂に運ぶことは誰だって思いつく。甲陽丸の船頭が読むのは米が不足している地域である。甲陽丸が運べば、まちがいなく値は跳ねあがる。
安く買って、高く売る。
ごく単純なことではあるが、いわゆる情報とはほとんど無縁の時代である。弁才船を率いる船頭には、単なる経験則だけでなく、的確な読みと他人と違う目に賭ける博才が必要だった。
船手直買という言葉がある。
問屋などを通さずに船頭が漁場などに直接出向いて交渉および買い付けをこなすことだが、甲陽丸の船頭には押しの強さと勝負勘の鋭さがあった。
畢竟、弁才船の商いと儲けは、船頭の裁量にかかっていた。甲陽丸の船頭には金儲けに対する並外れた嗅覚の鋭さと、先読みを巧みになす不可解な力があった。
水夫は基本的に固定給なのだが、甲陽丸の船頭は、金銭に関しては吝嗇臭いところがなく、酒の酔いで気が大きくなっているだけかも知れぬが、水夫たちには賞与金をはずむ。人間性には問題が多々ある船頭の唯一の取り柄は、金離れがよいことだ。
あるいは銭金で釣らなければ、甲陽丸に乗り組む水夫がいなくなってしまうことを船頭は悟っていたのかもしれない。
霜月下旬の蝦夷地、箱館は密に降りしきる雪に見透しがまったくきかず、とうに地面は降り積もっていく雪の下が白く半透明に凍りついて、やたらと底冷えがきつかった。
酔った船頭が白い息と唾を吐きながら派手な身振り手振りで、昆布の山を甲陽丸に積みこんでいる水夫とアイヌの荷役たちに罵声を浴びせる。その怒声は猛々しいが、ほとんど意味不明だ。
熊が吼える。
熊が猛る。
赭ら顔の熊だ。
箱館巴湊で働く人々は船頭に気付かれぬよう気配りしつつも、苦々しい一瞥をくれる。甲陽丸の水夫だけでなく、誰からも船頭は忌まれているのである。
罵詈讒謗をまともに受ける甲陽丸の水夫たちは怒り苛立ちはおろか、憂鬱さを通り越して虚ろになって、大量に集荷された昆布の荷積みをはじめとする出港準備を無表情にこなしていく。
喚く船頭にまともに耳を貸していると、心を病みかねない。実際、悪罵に耐えきれずに洋上で身投げした水夫もいるのだ。だからこその虚ろである。心を虚にしていれば、なにも響かない。
凍てつく寒さに耐えかねた船頭が、さらに酒を呑もうと、胴間声を張りあげて意味の伝わらぬ棄て台詞を残し、場を外した。
とたんに甲陽丸の水夫たちの頬から緊張まじりの虚無が消える。和人の言葉がよくわからない下働きのアイヌたちも、肩から力を抜いた。作業の手を休めることはないが、無駄話がはじまる。
「ったく、あの男はなにが言いてえんだ?」
「癇癪もちの餓鬼が引き付けをおこしてるみてえで、わけがわからん」
怒りの矛先は、船体に氷柱をさげた甲陽丸にも向かう。
「こんなちんけな船で威張りやがってよ」
「ありゃあ、あれで、必死なんだよ」
「必死の方向が間違ってらあ」
「まったくだ」
貞親はしつこく瞬きして睫毛に附着した雪を落としながら、黙って水夫たちの鬱憤晴らしに耳を貸す。
ひとしきり船頭の悪口で盛りあがったが、会話がぽっかり止まった。意図したわけではないが、微妙な間と沈黙が拡がった。
「あのぉ、あれだな」
会話の糸口を掴もうと親司が無意味な前振りをする。貞親が甲陽丸の梶身木を拳でコツコツ叩きながら引きとる。
「ちんけというが、船の大きさは、せいぜい甲陽丸くらいで打ちどめなのは、知ってるだろうが」
皆が不明瞭に頷く。
「竜骨禁止令ってのがあるんだよ」
「なんじゃ、そりゃあ」
「南蛮船は途轍もなくでかい」
「どれくらい?」
「甲陽丸の五倍、十倍くれえでかい」
「五倍と十倍では──」
「ま、とにかくでかいってことで」
おさめてくれと貞親がニヤついた目顔で訴える。皆も深く追及する気などない。
「でな、そんだけでかい船がつくれるってえのは、竜骨ってもんがあるからなんだ」
「甲陽丸にはねえのか」
「ない。上下の船梁はあるにせよ、甲陽丸は言うなれば、ただの箱。底の平べったい箱なんだよ」
実際には船底で波を切る航という仕組みが一応はあるのだが、慥かに箱状である。
「箱だからこそ浮かぶんじゃねえのか」
「まあな。けど、箱ってのは、いくら補強を加えても箱だ。大きくすれば弱いところが出てくる。ところが銭金ほしさに船脚をあげてえわけだ。で、箱に不釣り合いな太さ大きさの帆柱を押っ立てて風を孕ませる。無理無体もいいとこよ」
「そこで竜骨か」
「そういうことだ。竜骨とは、背骨だ」
水夫たちの幾人かが、背骨と復唱する。
「するってえと、甲陽丸には背骨がない?」
「ない。甲陽丸だけじゃない。弁才船すべてに背骨がない」
「南蛮船には、背骨がある?」
「強固で頑丈な背骨だ。その背骨から肋が無数に生えて船をかたちづくる」
若い水夫が体温が逃げるのもかまわずに顎を引いて、着衣の首から痩せた胸に浮いた肋骨を見やる。肋が浮いた貧相な軀つきをしてはいる。されど慥かに肋で覆われた胸部は揺るぎない。
皆は貞親が言った甲陽丸は箱であるということ、及び背骨がないということを肯うしかなかった。なにしろ船体を見ればすぐにわからされてしまう。まさに一目瞭然だ。
このころの弁才船は水切りのよい一本水舳さえなく、まさに箱であったのだ。
「外海にでるには、船自体が大きくなくてはならない。大きくて頑丈で、帆がたくさんあって──」
「まいったな。甲陽丸には、すべてがねえじゃねえか」
ぼやき声に、誰もが眼差しを伏せた。
すぐに白い息と共に開き直りからくる過剰に陽気な笑い声があがった。
船頭をのぞけばという但し書きがいるが、甲陽丸の船乗り十三人は各々に多少の欠点はあれども和気藹々として、ひとたび難しい情況に陥れば、一致団結して事に当たることができる。
いままでも危難に際しては怒鳴り散らすばかりの船頭を無視し、表の貞親を中心にまとまって沈船をまぬがれてきたのだ。
「半端の伴助、糞野郎」
船頭に対する若い水夫の憎しみのこもった呟きに、貞親が首を左右に振って諫める。
「心ん中ではどんだけ悪態をついてもかまわねえ。呪ってもいい。けど、口にするな」
「──へえ」
「なぜかってえとな、ここにいるみんなは心がひとつだが、それでも当人に伝わるかもしれんからだ」
「貞親の哥、誰かがちくるとでも?」
「気色ばむな。俺はそんなことは毛ほども思っちゃいねえさ。けどな、半端の伴助ってえのを外で口にしたら、絶対に洩れ伝わる。船頭をよく思ってねえくせに、卑屈な笑いを泛べて取り入る奴が絶対にいる」
皆が頷いた。船頭が悪罵を耳にしたら、誰彼かまわず理不尽な暴力を振るうに決まっている。最悪なのは、船頭が異様なまでの膂力をもち、荒れ狂ったら誰も抑えることができぬということだ。
親司が咳払いして、積み荷の昆布の端を折り取って口に含む。てんでんばらばらに会話がはじまり、親司は若干黴臭い昆布の旨味を愉しみ、まだ頑丈な奥歯で噛み砕いて飲みくだし、あらためて問う。
「竜骨禁止令とやらは? なぜ、甲陽丸は竜骨という背骨がねえんだ?」
皆の視線が貞親に集中する。貞親は幕府の定めを説く。
「五百石積み以上の船は、つくっちゃいけねえんだよ。竜骨のある船をつくれば航洋も楽々だ。だからこそ箱みてえな船で沿岸に縛りつけておくってわけだ」
「なぜ!」
「鎖国ってやつだろう。巨船も竜骨も俺たちの船大工がつくれねえわけじゃねえ。けど外からくるのを拒むだけじゃなくて、内から出てくのも許さねえんだ」
「つまり俺らは頼りねえ箱船で、陸地が見えるとこだけしか航海できねえってわけだ」
いまさらながらの親司の言葉に、貞親は溜息まじりに頷く。無い物ねだりをしても、如何ともしがたいという諦めを呑みこむ。
じつは五百石積み云々は、武家諸法度の決まりで弁才船など商船を縛るものではなく、諸藩の軍船に対する規定なのだが、なぜか一律に船の上限が五百石という思い込みが拡がって、弁才船までもが律儀にそれを守っていた。加えて竜骨禁止令も、船乗りたちの思い込みであった。
ちなみに千石積み二千石積みの弁才船が登場するのは先のことだ。
「頼りねえよな、俺たちの船はよ」
親司のぼやきに、若い水夫が声をあげた。
「けど貞親の哥がいますから」
世辞ではなかった。皆、頷いた。
「哥の操船は、神業だ」
貞親が率直に応える。
「いままでうまくいってたのは、運がよかっただけだよ」
甲陽丸はいつだって積めるだけ積んで喫水も守らぬことから、幾たびか難破しかけていた。もちろん甲陽丸にかぎったことではなく、冬期でも航行する弁才船のほとんどが難船の危険を紙一重でしのいでいた。
しのげなければ、沈む。
荒れ狂う真冬の海を航行するようにはできていない船で、日本列島周辺を行き来する。まさに命懸けである。
弁才船は船体をかたちづくる木材などの腐食などから二十年ほどでお役御免となる。だが二十年物の年季の入った弁才船など、まずお目にかかれない。船体に寿命がくる前に、荒天に呑まれて沈んでしまうからだ。
常日頃から、まさに紙一枚の厚み程度の差異が、生と死を分けているという実感を、水夫たちはもっていた。貞親の的確な判断がなければ、ここにいる水夫たち全員が、魚の餌になっていただろう。
貞親はあえて左の箱館山を望見するふりをして、皆に気付かれぬよう、さりげなく沖に視線を投げる。
湾に流れこむ海水が巴に似たかたちをみせるので、巴の湊と称されている。良港として名高いが、さびれた湾内は鎮まっている。
けれど吹雪の彼方、灰色に霞む津軽海峡に視線を投げれば、波頭が尖って白い剣呑な頭巾をかぶっているのがわかる。
船頭はそのときの気分で出港を命じる。湾内はよくても、そこから先は板子一枚下は地獄といったことを斟酌しない。
貞親の見るところ、もともと豪胆な性格のうえに大酒呑みの船頭は、酒精で頭をやられてしまっているのだ。
酒毒とはまったく恐ろしいものだ。性格に歪みがでて、まともに思い巡らせることさえできなくなってしまう。意見をすれば、逆張りするかのように依怙地になる。
これも酒精のなせる業なのだろうが、船頭は目もやられてしまっているようだ。湾内の様子だけを見て、荒れた津軽海峡に乗り出すなどと言いだしたら、どうすべきか。なにしろ常識などお構いなし、思慮分別と無縁の御仁である。
湾内から出る水路は、水深もからんでいてかぎられている。薄暗くなってきたこんな刻限から出帆したあげく、箱館の湾内で座礁など笑い話にもならぬ。
加えて強風が吹きすさび、吹雪で視界はほとんどない。湾内を抜けたとしても、この風向きからすると、大鼻岬や立待岬の岩礁方向に流されるのが落ちだ。
一騒動起きぬよう胸中で祈りつつ、水夫たちを怖がらせたくない一心から貞親は溜息を呑みこみ、あえて沖合から視線をそらして作り笑いを絶やさない。
ほんの少し前までは、真冬に航行することなどなかった。いまだって、ほとんどの弁才船と船頭は、冬は温和しくしている。
危険だからである。
命を棄ててかからねばならないからだ。
一攫千金とはよく言ったものだ。
こんな時期にあえて航海を強行するのは、儲かるからだ。
正月にあわせて蝦夷地で獲れる鮭や鰊、昆布や若布などを江戸や大坂に運べば、途轍もない額になる。正月の物価高騰を狙い、危難を冒して蝦夷地の珍品を大量に運べば、一財産つくれてしまうのだ。
だから船頭の三分の一くらいが、博奕打ちになってしまった。投機というやつである。
水夫たちは、少しでも荒れれば船全体が捩れて軋み音を立てる甲陽丸に不安を抱き、嫌気がさしている。背骨がしっかりしている頑丈な船に乗りたい。
さらにはたくさんの帆をもち、たとえ逆風であっても洋上を自在に疾ることのできる船に乗りたいと夢見つつ、船体に雪と氷柱をまとわりつかせた甲陽丸を、諦めの面持ちで見やる。
せめてもう少し大きな船に乗りたいものだが、幕府が五百石積み以上の船を許さぬらしいばかりか、竜骨をもった船の建造にも待ったをかけているとのことである。
水夫たちは胸中では阿房らしいと吐き棄てながらも気持ちを奮い立たせ、かじかんだ手指に息を吹きかけて荷積みを行う。
「八分どおり積んだか。完全に暮れちまう前に、残りをとっとと積んじまおう。じゃねえと凍え死んじまうぜ」
貞親がおどけ気味に言うと、皆が疑問に思っていることを、爨の若者が問う。
「哥。なんで昆布のみ?」
おそらく船頭には勝算があるのだ。そのあたりを貞親が疑うことはないが、総てが昆布というのは初めてだ。
「まったく色気がねえよな。こんな黒い木の皮みてえのを山のように、ギチギチに積みこむってんだからな」
積み荷で金になるのは、鰊である。
越後荒浜の者が内地の漁法を蝦夷地に伝えて鰊漁が最盛期を迎えたばかりか、加工場も拵えた。
それまでは主に房州で獲れた干鰯が肥料として使われてきたが、米の生産量が上がるに従って鰯の漁獲が追いつかなくなってきた。また鰊に替えると米の生育がよい。鰊が大量に用いられるようになった由縁である。
丸鰊、披鰊、身欠、数の子、白子、さらには肥料として胴鰊、笹目、油の絞りかすである〆滓と、鰊は棄てるところがなく、よい値がついた。
とはいえ鰊の重量を考えれば、昆布はいくら大量に積んだとて、喫水を超えることはない。軽荷すぎるくらいだろうが、許容範囲である。
「なあ、哥。いまから出港して江戸や大坂の正月に間に合うのか」
「よほど条件がよくねえと、間に合わんな」
「だよな」
釈然としないまま、下働きのアイヌと水夫は共同して甲陽丸に大量の昆布を積みこむ。積み終えたころには、いよいよ吹雪が猛りはじめた。皆、船中に逃げこんだ。
十三歳になったばかりの爨が頬を膨らませて火吹き竹を吹く。米の炊ける香りが漂いはじめる。
赭ら顔の船頭が、よろける足取りでもどった。船体の氷柱を落としていたアイヌを、意味もなく殴る。
「てめえら、なにを怠けてやがる」
水夫にねちねちと絡みだす。泥酔しているのである。
荷が昆布だけだとしたら、すべて積み終えた──と貞親が落ち着き払った無表情で応える。貞親も船頭とは違った意味で肚が据わっているから、視線をはずさない。
船頭も貞親には一目置いていて、曖昧に視線をそらすと口の中でなにやら呟いている。水夫たちは船頭を無視して、寒さしのぎの油紙を手早く腹に巻きつけている。
貞親が船頭に声をかけた。
「いまから出帆するとしても、西廻り、東廻り、どちらでも江戸や大坂の正月には間に合わんと皆で言い合ってたんですよ」
「かまわん」
「儲けをふいにしても?」
「ところが、儲かるんだなあ」
はあ、と要領をえない貞親であるが、船頭は熟んだ息を吐き散らしながら、目を三日月のかたちに歪ませて満面の笑みをつくる。天狗じみた真っ赤な顔色が、おぞましい。
「貞親」
「へえ」
「離岸したら、目的地を教えるよ」
江戸や大坂でないことを悟った貞親が、睨み据えるようにして船頭に迫る。
「なんで、いま教えてもらえねえんですか」
一歩前に出て、念押しをする。
「俺にも表としての心構えってもんがあるんですよ。知っておけば、あれこれ策を立てることができますからね」
船頭は芝居がかった仕種で肩をすくめ、大欠伸をすると、挟の間に転げ込んで酔いの高鼾をたてはじめた。
皆も莫迦らしくなって、屋倉の中で身を寄せあって暖をとった。係留されている甲陽丸は小刻みに、忙しなく揺れ、ときに突風に煽られて大きく上下左右に踊る。
立て付けの悪い挟から船頭の鼾が洩れ聞こえている。船頭は酔っ払って寝てしまうと、翌朝まで起きない。
貞親は窃かに安堵し、おかずはなにがあるか、爨に訊いた。沖醤蝦を醤油で煮詰めたものと岩海苔の味噌汁、大根と大根葉の漬物が用意された。
米と味噌は船頭が用意するが、おかずなどは水夫たちが手に入れなければならない為来りだ。たくさん米を啖うためにも必然的に白く粉を吹き、咽に沁みるほどに塩分がきつい物が多い。
荷役のアイヌも含めて、車座になって夕飯を食った。船頭のように箍が外れた呑み方こそしないが、若衆まで濁り酒を愉しんだ。洩れ聞こえる船頭の鼾が興醒めだが、それも酔いがまわるにつれてどうでもよくなった。
知工が舌打ちした。
「どした?」
「どうもこうも、これを見ろや」
知工が吐き棄てながら掻きむしり、親司が燭台をかざして凝視する。真っ赤な咬み痕が二つ並んでいる。
「蚤? まてよぉ、この食い痕は、南京虫じゃねえか」
「ありゃあ、暑いときだけだろ」
「けど、この二個並んだ咬み痕は、蚤や虱じゃねえだろ」
親司が皹の目立つ節榑立った指先を絡みあわせて、呟く。
「おそらくは積み荷にまぎれて生き延びてたんだろうな。こうして人いきれで暖まったから、季節外れの御登場だぜ」
投げ遣りに付け加える。
「南京虫だが、昔はいなかった」
「南京虫ってえのは、昔はいなかったんですかい」
「いなかった。蚤と虱だけだった。いつごろからだろう、南京虫」
「南京から渡来してきたのかな」
「あたぼうよ。だから、南京虫」
貞親は掻巻にくるまって濁り酒をちびちびやりながら、皆のやりとりを聞いている。波の音が奇妙なまでに忙しない。明日は出港できるだろうか。
(次回に続く)