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2025年新春特別対談 植松三十里×原口 泉――日本初の大土木事業“安積疏水開拓”とは――

江口 新年明けましておめでとうございます。集英社文庫編集部の江口です。昨2024年末に、植松三十里さんの書き下ろし新作『侍たちのよく 大久保利通最後の夢』を刊行いたしました。本書の核にあるのは、機微豊かな登場人物たちの人間ドラマですが、それと共に、「安積あさかすい」という歴史的なプロジェクトそのものでもあります。前提として、いまでいう福島県中通りに位置する安積原野の開墾事業のため、明治新政府はしん戦争以降に没落していた士族たちを「士族授産」という名目で入植させていきました。安積疏水という近代日本初の巨大土木事業は、その地へ猪苗代湖から水を引いて豊かな土地に変えていく、国家予算の3分の1の規模を誇る明治新政府の一大プロジェクトでした。構想の生みの親である大久保の死後も、1879(明治12)年からの3年間、人々が果敢に取り組みつくりあげた人工水路であり、夢の大事業です。この魅力的な物語を執筆された植松さんと、日本近世・近代史がご専門の歴史学者である原口泉さんに、ぜひ新春対談としてお話しいただければと思います。

植松 明けましておめでとうございます。原口さん、お目にかかれて光栄です。

原口 植松さん、初めまして。そして明けましておめでとうございます。こうして植松さんにお会いできて、嬉しいという言葉ではとても言い表せないほどの思いでおります。と申しますのも、私は鹿児島県に生まれましたが、父も薩摩の歴史の研究者でした。つまり親子二代にわたって薩摩の歴史を、それこそ大久保利通の足跡も含めて顕彰し続けてきたのです。鹿児島という地においては、没後100年にあたる1979(昭和54)年に銅像こそ建てられていますが、やはり西郷隆盛の人気が高く、西南戦争をめぐるわだかまりとでも言いましょうか、どうしても大久保の評価が低い状況が続いています。そうしたなかで、植松さんの今回のご著作は、「大久保利通最後の夢」という副題も併せて、大いに心を動かされました。この土木事業へ大久保をはじめとした人々が懸けた思いに、何度も目をうるうるとさせながら拝読した次第です。

植松 ありがとうございます。今回の作品は私としては珍しく、安積疏水というひとつの出来事が面白いと思ったことが、執筆の大きな動機になっています。たいていの場合は、何かしら興味深い人物を見つけ、その人について書くということが多いのです。特にどちらかといえば、歴史的な評価の低い人や、歴史に埋もれてしまった人を書くのが好きなのですね。

原口 天邪鬼なところがあるということでしょうか(笑)。

植松 もちろんそうした面もあるのですけれど、やはり歴史小説としての意外性のことをまず考えます。有名な人物については他の作家の方が既に書いていることがほとんど、という状況のなかで、「この人物は、実はこういう人だったんだよ」「あまり知られていないけれど、こんな人がいたんだよ」といった新たな提示ができることに魅力を感じます。それは読者にとっての、歴史小説を読む面白さだとも思うのです。今回は安積疏水について書くなかで、大久保利通という著名な人物に改めて出会っていくのですが、後にお話しするようにそこにもまた意外な奥深さがあって、筆に勢いがつきました。

原口 植松さんのお父さまは、造船所に納める歯車をつくる工場を経営されていたそうですね。いま、大久保利通と出会ったというお話をうかがっていて、植松さんの幼少期のご体験と、実は遠くで響き合っているのではないかと感じられました。なぜならば、大久保という人物が、日本社会が近世から近代へと変遷を遂げていくうえでの、ひとつの大きな歯車になった人であるからです。日々、多くの歯車を見ながら少女時代を過ごされた植松さんに大久保が見いだされたということは、非常に象徴的な出来事であるように思います。

江口 たしかに、運命的なものがあるかもしれません。

原口 とはいえ先ほど植松さんご自身がおっしゃられた通り、今回は大久保という人物を描く小説ではなく安積疏水という出来事が主体であるという意味では、いままでのご著作に比べて異色作であるようにも感じます。植松さんはこれまで、多くの歴史上の人物を描いてきておられますよね。たとえば『愛加那と西郷』(小学館文庫)は、薩摩藩から奄美大島へ送られてきた西郷が出会った女性が中心人物となっています。それがこの度、まずは歴史的なプロジェクトのほうへと目が向かれたというのは、安積疏水のどんな点が気になられたのでしょうか。

植松 10年ほど前に安積の地を踏んだことが、決定的なきっかけになりました。郡山市にある福島県立安積高校に、「高校生のための文化講演会」でうかがう機会があったのですが、せっかくだから土地の歴史で何か面白いことがないだろうかと下調べをしてみたのです。そのときに見つけたのが、安積疏水開削という歴史的な出来事でした。以来、書いてみたいテーマだとずっと思い続けてきて、今回ご縁があって執筆する場をいただけた、という次第です。

江口 どのようにして、安積疏水が“小説になる”と確信されたのでしょうか。たとえば生麦事件や西南戦争などであれば“ドラマになる”と誰もが思うでしょうが、本来は新潟県側に流れるべき猪苗代湖の水を郡山盆地へもってくるための用水路をつくる、という話を“小説にできる”とお考えになった所以ゆえんを、改めてうかがわせてください。

植松 安積疏水のことが面白そうだと思いはじめた時期以降に書いてきたいくつかの小説が、『侍たちの沃野』を書くうえでの足場を固めてくれたかもしれません。たとえば2013年には、『黒鉄の志士たち』(文藝春秋)を執筆しました。江戸の幕末、佐賀(鍋島)藩で反射炉を建設し、鉄製大砲を鋳造しようとした男たちの物語です。2018年には同じく佐賀藩を舞台に、藩主の鍋島直正なおまさを主人公にした『かちがらす 幕末を読みきった男』(小学館)を世に出しました。そして2019年には、建築家フランク・ロイド・ライトをはじめとした人々を描く『帝国ホテル建築物語』(PHP研究所、2023年よりPHP文芸文庫)を書きました。これらはいわば、登場人物を際立たせつつも彼らが手がけた一大プロジェクトを前に押し出していく側面をもった小説たちであり、一大土木事業であった『侍たちの沃野』を書くための力を鍛えることができたのかもしれません。

原口 日本の近代化ということを前提として踏まえれば、植松さんが安積疏水をテーマに選ばれたこと、土木事業が小説の核になるということは、理解しやすいことのような気がいたします。そのうえで副題の「大久保利通最後の夢」についてですが、本作では安積疏水の事業がこれからというときに、大久保利通が紀尾井坂の変で暗殺されてしまった1878(明治11)年5月14日の朝のことが書かれていますね。

植松 はい。その早朝に大久保と会っていた福島県令・山吉やまよし盛典もりすけは、『侍たちの沃野』の登場人物のひとりです。

原口 そのとき大久保から聞いたという話を、山吉に語らせていらっしゃいますね。大事なところですので、すこし引用してみましょう。「大久保公は明治維新以降を、三つの時期に分けて、日本の国づくりを考えておいででした。まず明治元年から十年までが第一期で、騒乱を収めつつ、政治体制を確立する時期だと仰せでした」「ようやく騒乱が収まったので、これから明治二十年までが第二期で、国を豊かにしていくための、基盤づくりの時期とのことでした。猪苗代湖からの引水と安積の大規模開拓は、日本の土木事業の規範になるので、頑張って欲しいと励まされました」──。

江口 第三期は明治20年から30年で、そこからは実りをもとにして後進を育てていく時期だ、ということでしたね。

植松 日本の基盤をつくっていく第二期において、土木事業というのはハッキリと目に見える、国づくりの根幹だったのだと思います。それまでの10年間、明治維新以降の大久保が手がけてきたのは、政治の枠組みや決まり事をつくっていくということだった。それらは大変重要ですが、目に見えたり、触ることができたりするものではない。対して安積疏水という土木事業において、たとえば岩盤を掘り進めてだいすいどうを貫通させ、そこから大量の水が流れ出していくという光景は、大変な迫力をもって人々を感化したでしょうし、文字通り地域の暮らしを潤していきました。国をつくるという第二期の事業として、とても大切なものだったのだろうと感じます。

原口 国の足元を固める事業として土木があるということに、きっと植松さんは共感されたのではないかと思います。しばらくアメリカに住んでいらしたことがあるとうかがっておりますが、実は私もハイスクール時代はアメリカにいました。いま頭に浮かぶのは、アメリカにおいて土木というのは「シビル・エンジニア」である、ということです。つまり、市民のためなる工学である。何か上から押しつけてくるという感じではない、人々の、人々による、人々のための土木事業への共感が、『侍たちの沃野』から伝わってきます。

植松 もしかしたら、そうした側面はあるかもしれません。大久保の命で内務省から派遣され、安積疏水において現場を取り仕切った南いちべいを物語の中心に置きながら、さまざまな立場でこの事業に携わった人々のことを書きました。プロジェクト自体が小説のテーマでありつつ、やはりそこで実際に手を動かし、事業を成功させていった人たちの人間模様は、描きたいところだったんです。

原口 第二期はいわば殖産興業の一環として土木事業に取り組んだ時期であるわけですが、そのときに明治の官僚が偉かったのが、外資は絶対に入れなかったということです。日本の産業は基本的に日本の人々自身が担うという社会の姿を見せることには、国際的な地位のアピールという面もありました。と同時に必要に応じて、お雇い外国人に助けてもらい、その技術は導入していった。つまりはある程度柔軟に、海外の力を取り入れるべきところは取り入れるという判断があった。そうした時代の一端が、小説のなかでも出てきますね。

植松 当時ファン・ドールンという、オランダ人の技術者が郡山にやってきました。どの分水経路をとるべきか意見がわかれていたところ、設計案を決定し、工事を開始する端緒をひらいた功労者だと思います。ただ、実は現地には6日間しかいなかったんですね。日本国内の他の地方でも土木事業の指導をしていた関係で、1週間も滞在していなかった。

江口 本作を読んでいても、重要な局面で風のように現れて、プロジェクトの決定的な岐路の判断をし、人々を感化したうえで、風のように去っていくという印象があります。

植松 そうしたファン・ドールンに対してはいまでも、大したことはやっていないという意見もあれば、いや彼こそが安積疏水の父なのだという説もあるというように、議論がわかれるところなんです。とはいえ原口さんがおっしゃられるように、まず基本的な部分は日本の側で手がけて事業の足場を築き、そのうえでファン・ドールンが重要な決定をしたのではないかと思います。

原口 この第二期という時期が、そして安積疏水という事業が、如何に明治日本の近代化において重要だったのかということは、この場で改めて強調していいように思います。植松さんの『かちがらす』の主人公・鍋島直正が導入した反射炉の技術は、母方の従兄である薩摩藩主・島津なりあきらにも、彼が手がけた近代化事業の総称である「集成館事業」の一環として引き継がれました。集成館事業は、よく知られているように造砲・造船や製鉄、紡績といった工業が中心ではありつつ、福祉などの民生的な視点をも含む、非常に広い範囲にまたがるものでした。これらの壮大な近代化の実験の数々は、やがて明治の世に入り、鍋島直正が初代長官を務めた北海道開拓使というかたちで大型化していった。そうした目途がひとまずついたところで第二期に突入していき、ますます殖産興業を本格化していかなければならないというタイミングで行われたのが、安積疏水でした。絶対に失敗が許されない土木事業であったわけですね。

植松 大久保が非業の死を遂げたこともあって、安積疏水にかかわっている人たちのなかでは、その遺志をなんとしても引き継ぐのだという思いが余計に強まったのだと思います。

原口 なにせ、計画に大反対している大隈重信という強敵もおりましたからね。『侍たちの沃野』には、大久保の死の直後、大蔵卿であった大隈重信が疏水計画を中止させようとするくだりが出てきますね。

植松 そうですね。政府には軍事費用を筆頭に、安積疏水も含めて巨額の借金があったわけですが、それは内務卿であった大久保個人が保証して銀行から借り入れていたものでした。その保証人がいなくなったいま、疏水計画を続行するいわれはない、という大隈の主張を描きました。

江口 まあ、いつの時代も財務・大蔵の人たちは国庫を富ませることしか念頭にない。国の未来のための支出、国民を富ませるための支出というものに後ろ向きになりがちですね。大隈にはもうひとつ、佐賀藩出身の人間として、薩摩の人間たちのやることが気に食わないという背景もあったのではないでしょうか。

原口 そうした中、『侍たちの沃野』では名脇役として登場し、そして実際に政府の中枢で大久保の後継者として動いたのが、松方正義まさよしでした。かつて1869(明治2)年、その松方を自身の京都の茶室「有待庵ゆうたいあん」に招き、日田ひた県令就任の命を与え、重用していったのが大久保。他方、松方が目をかけ、大久保へつないだと描かれるのが、安積疏水の現場を取り仕切った南ですね。私は初めて知った人物でして、こんな使命感に溢れた人がいたのかという驚きを覚え、また嬉しくもなりました。

植松 南一郎平は、今の大分県の生まれです。父が成し遂げきれなかった地元の水路の開削をなんとしても実現しようと、まさに明治2年に知事としてやってきた松方のもとを、計画書と図面を持ち陳情に訪れる。そこで松方が、南の才能に惚れこんだ──というのが『侍たちの沃野』のストーリーですね。いずれにしても、松方が南を東京に呼び寄せ、抜擢したというのは間違いないところです。

江口 南と松方の関係は、本作の鍵のひとつですね。

植松 一方で安積疏水というプロジェクトの決定自体は大久保がしているわけですし、そこで責任者に据えられて南の上司となったのは、大久保と同じく旧薩摩藩士の奈良原繁ですね。小説の中でも触れましたが、この奈良原が、幕末に薩摩藩士同士で壮絶な斬り合いとなった、あの寺田屋事件で仲間に手をかけた人物でもあります。奈良原はそのことをずっと胸のうちに抱えながら、明治の近代化のなかを生き、安積疏水にも向き合っていく。

原口 寺田屋事件にかんしては、純粋な情熱をもつがゆえに命に従わなかった藩士たちがいたわけですよね。彼らを斬り捨てよ、という藩命を受け、京都で同僚たちを手にかけたのが奈良原です。斬りたくない、しかし斬らねばならないという彼の内なる思いを、植松さんは本当にリアルに描いていらっしゃいます。

植松 安積疏水について、福島のほうの史料から調べていったので、やがて寺田屋事件までつながっていったときには私も大変ビックリしました。こんな業を背負った人も、安積疏水に携わっていたのだ、と。

原口 生麦事件におけるチャールズ・リチャードソンたちの殺傷にも、奈良原はかかわっていたと書かれている。目標を達成するためには己を殺して生きていくという共通の姿を、大久保と奈良原に見いだせる気もいたします。植松さんは、幕末の薩摩をめぐる壮絶な事件なども、ふんだんに小説のなかに取り込んでいらっしゃいますね。

植松 そうしたさまざまな人間たち、いろいろなキャラクターが登場し、ドラマチックな事業が進んでいく様子を書ければと思いました。

原口 もちろん小説としてドラマ仕立てにしていらっしゃるかと思いますが、基本的な史実を積み重ねながら見事にフィクション作品として書き上げておられることに、心から感服いたしました。これから楽しまれる読者の皆さんのために詳細は伏せるのですが、大久保の暗殺後、安積疏水をめぐって伊藤博文や大隈重信、岩倉ともらが話し合う会議の様子などは、まさに小説でしか描けないものであるように感じます。

植松 お褒めいただいて、ありがとうございます。やはり、きちんと史実を拾い上げていくという姿勢を基本にしつつ、「こういうことはあっただろうな」と想像ができる部分については、僭越せんえつながら、小説として膨らませています。

原口 限りなく史実を求め、近づきながら、その史実と史実の間を結び付けるということは、やはり卓抜したイマジネーションにらなければできないお仕事だと思います。小説の随所から、植松さんの想像力が、繊細に、それでいて生き生きと働いていることが感じられました。

植松 こちらこそ歴史学者の先生方が書かれたり、残された史料を緻密に分析なさった成果に、たくさん助けていただいています。そのうえで歴史小説家は、史料に書かれていない部分へと想像を広げていくのが仕事のひとつだ、と思っています。

原口 イマジネーションの豊かさ、そのスケールの大きさが重要なのでしょうね。

植松 『侍たちの沃野』を書くために調べを進めていくと、本当にいろいろな人物伝が出てくるんですよね。たとえば、安積疏水の計画段階において、水を引くべきかどうか議論がわかれていた須賀川という宿場町に、商家の大店おおだなの隠居だった小林久敬ひさたかという人がいた。小林は私財をなげうって高価な舶来の測量道具を買い求め、ひとり調査を進めていました。

江口 地元への思い、そして積年の調査への情熱ゆえ、疏水計画が自らの意に沿うものになるよう頑として譲らない、なかなか強烈なキャラクターとして本作に登場しますね。

植松 その彼の調査結果が、計画にどう影響を与えるのかもまた、この小説のポイントのひとつなのですが……。

原口 これも詳細は伏せますが、ストーリーの終盤には、小林に思わぬドラマが待ち受けています。

江口 感動のあまり、思わずじーんとするシーンでした。

植松 実は、まさに史実としては、ああいう展開に至った経緯がよくわかっていないんです。そこは私がフィクションとして立ち上げていった部分が大きいのですけれど、とはいえ小林の評伝を読んでいると、この道具を買うのに幾らかかったというような数字はちゃんと書いてある。それはおそらく本人が語ったことであり、となると自らそうしたことを口にする人ということになる。きっとユニークな人、いや、言葉を選ばずに言えば押しの強い人であったのだろうなと思い(笑)、『侍たちの沃野』ではそのような人物造形になっています。

原口 なるほど。小説内には現代のシーンも描かれていて、そこでは「評価が二分する」と書かれていますね。おそらくはそうした人となりも含めて、評価がわかれた人なのでしょう。いずれにしても私は知らない人物だったのですが、読み終わったときには胸がすっきりしたと申しますか、愛らしい人物だなと感じることができました。

江口 ここでもうひとつ、小説の背景について踏み込んでうかがってみたいことがあります。明治維新直後の段階では、全人口における士族が占める割合は約5~6%だったのに対し、鹿児島県の場合は約25%、つまりは4人に1人が士族だったというデータがありますよね。そんな士族だらけの地に育った大久保たち薩摩の要人が、なぜ安積疏水という計画へ、つまりは農業のための一大事業へと発想を巡らせることができたのかという疑問が浮かびます。私としてはおそらく、そうした発想のルーツは薩摩藩によるじょう制に拠るところが大きいのではないか、と推察しています。本城の周囲に半士半農として生きる武士たちが配されていたという歴史があるからこそ、武士が農業をするということに違和感を抱かなかったのではないか、と。他の県の士族とは、そこが違うように思います。

植松 たしかに、違いますよね。私はよく幕臣を小説に書くんですけれども、たとえば彼らは鉄砲を持つということに対して、「あれは足軽の仕事だ」というようなイメージがぬぐえなかったところがあります。武士たる者はこうあるべきだという縛りが、薩摩藩出身者は緩かった可能性はありますね。

原口 帰農という考え方じゃないんですよね。基本的に農業が生業となっていて、そのうえに武士として藩を守るという役割が置かれている。

江口 明治の世において士族授産といったときに、農業をやりましょうという発想に至ることは、鹿児島の人々にとって馴染みやすいものだったのではないかなと感じます。

植松 たしかに、そうした考え方がベースにあるからこそ薩摩人は安積原野の開拓、そして疏水というアイデアを出せるし、実際にリードしていった、というのは納得がゆく話ですね。とはいえ、鹿児島の士族が農業の担い手として実際に安積の地に入っていったわけではなくて、入植したのは、奥州の没落士族を中心に、久留米などよそからの士族たちですね。

江口 計画を主導したのが薩摩の人たちということですね。いずれにしても、大久保を中心に、これからの時代に向けた農業立国というグランドデザインを描いていて、そのための安積疏水という一大プロジェクトが展開していったのだと思います。そこで士族授産として新たな雇用もつくっていったということですから、ここまでやる政治家がいまの時代にいるだろうか、と考えさせられるところもありますね。

植松 難しいのは、安積の開拓や疏水は士族授産だったのだけれども、後に士族はみんな逃げ出してしまって、事業は結局失敗だったのではないか……というのが通説になっているところなんですね。

江口 作中にも出てくる、作家・宮本百合子さんが1916(大正5)年に書いたデビュー作『貧しき人々の群れ』に象徴される見方のことですね。宮本は、安積疏水の立役者で、『侍たちの沃野』の登場人物のひとりでもあるちゅうじょう政恒まさつねの孫の立場でありつつ、厳しい評価をしています。

植松 私としては、安積の開拓と疏水は士族授産として成功し、原野が価値ある土地として彼らのものになったからこそ、土地を売って次のステップへと移っていったのではないかと思うのですけれども……。

原口 武士、ないし士族とはもともと、そういうものではないかと私は思います。たとえば1754(宝暦4)年から1755(宝暦5)年にかけて、揖斐川、長良川、木曽川といった三川の治水事業に際して多くの薩摩藩士が病死したり自害したりしたという歴史的な出来事がありました。その経緯にはさまざまな説がありますが、彼らが薩摩武士として高い理念を抱いていたということは間違いないのではないか。濃尾平野の農民のために尽くすのが武士の本懐である、というのがくだんの宝暦治水事件のときに彼らが抱いた思いだったろうと私は思いますし、そのような高い理想や理念というものが、安積原野の開拓や疏水においても士族たちを突き動かしていたのではないでしょうか。だからこそ、目的が達せられれば次へ移った可能性がある。

植松 なるほど。今回は木曽三川の治水の話は書かなかったのですけれども、たしかにそうした側面があったのかもしれないですね。

原口 私は『侍たちの沃野』を読んでいて、そうした武士や士族たちの志の系譜のようなものを感じ取りました。

植松 もしかしたら、木曽三川の治水をめぐる出来事は、大久保のなかにも自分たちがなすべきことのイメージとしてあったのかもしれないですね。私としても、安積原野の開拓や疏水につながる、ひとつの起点だったのではないかとは考えています。

江口 こうしてお話をうかがっていると、安積疏水は尽きせぬ問いをもたらしてくれる大変興味深い事業であり、植松さんの『侍たちの沃野』はそうした事業に従事した人々のドラマをたっぷりとお書きになった、本当に面白い小説であることが改めてわかります。

原口 冒頭でも申しましたが大久保をはじめとした登場人物たちこそが、日本の近代化の、積極的な意味での歯車になった人たちなのだと思います。大久保はこれからの殖産興業、国づくりの第二期を、安積疏水の夢に懸けたのです。その夢を実現した人々の、色とりどりの人生模様に、心から共感できますね。見事な人間ドラマだと思います。

植松 重ねて、ありがとうございます。最後に再び大久保利通という人物に触れるとすれば、私利私欲に走らず、やっていることが理論的できちんとしていて、基本的には家族思いという人ですよね。清濁併せ呑むというタイプではなくて、筋が通っていて、現代人が好きな人物ではないかなと思います。

江口 先んじること半世紀ですが、安積疏水事業は明治版「ニューディール政策」。大久保が打ったその初手だった。後世から見ても、これが正解なのだという手を、まるで囲碁の石のようにビシッ、ビシッと的確に打つ人、という印象がありますね。

植松 本当に。だからこそこのあたりでいま一度、みんなで大久保利通をきちんと評価していただけないか、と。

原口 いまでも薩摩の地では嫌われているというのが、私としては捨て置けません(笑)。一方で全国的に見れば、理想の上司として挙げる人も多いという人ですよね。『侍たちの沃野』を機に、再評価してくれる人が多く現れればと、願うばかりです。何より大久保は、理想的な国のリーダーですから。多くの人に本書を読んでもらいたいと思います。

植松 おっしゃる通りですね。本当にいま望まれる、国のリーダー像だと思います。

江口 本日はお二人とも、ありがとうございました。

『侍たちの沃野 大久保利通最後の夢』

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【プロフィール】 

原口 泉

1947年鹿児島県生まれ。米国ネブラスカ州立大学付属ハイスクール、鹿児島県立甲南高等学校卒業。東京大学文学部国史学科、同大学院博士課程修了。鹿児島大学名誉教授。志學館大学人間関係学部・法学部教授。鹿児島県立図書館長。専門は日本近世・近代史。薩摩藩の歴史。NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」「琉球の風」「篤姫」「西郷どん」、NHK連続テレビ小説「あさが来た」の時代考証、映画「天外者」の歴史監修を担当。第70回日本放送協会放送文化賞・第50回MBC賞・第78回西日本文化賞受賞。文部科学省地方文化功労者表彰。著書に、「薩摩藩と明治維新」「西郷家の人びと」など多数。

植松三十里

静岡市出身。昭和52年、東京女子大学史学科卒業後、婦人画報社編集局入社。7年間の在米生活、建築都市デザイン事務所勤務などを経て、フリーランスのライターに。平成15年「桑港にて」で歴史文学賞受賞。平成21年「群青 日本海軍の礎を築いた男」で新田次郎文学賞受賞。同年「彫残二人」で中山義秀文学賞受賞。著書に「リタとマッサン」「イザベラ・バードと侍ボーイ」など多数。

江口洋

神奈川県出身。集英社文庫編集部部長代理。

構成/宮田文久 撮影/橋口実昭 於/志學館大学


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