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纏足探偵 天使は右肩で躍る/小島環 第一話・後

 阿伊莎は今も礼拝の間で嘆いていた。瑠瑠はそっと近づいて、「ただいま」と告げた。
 返事はなかった。
 無言で責められている気がする。だが、責められてもしかたがない。責めは受けなければならない。阿伊莎にもう嘆くなとは言えない。
 けれど、阿伊莎の泣き声を聞いているのがつらかった。
 瑠瑠は礼拝の間をでた。夕日が家を照らしていた。夏は日が長く、夜の訪れにはまだ時がかかりそうだ。
 もう十分、瑠瑠は疲れていた。目がまわるような、一日だった。
 瑠瑠は己をねぎらいながら、自身の房室にむかった。小さいけれど、わいらしい自分だけの房室だ。赤色の縁取りを基調に浅草緑センリョクソウ色と蝋黄ロウオウ色を使った絨毯が敷きつめられ、正面奥に天蓋つきのしょう(ベッド)が置かれ、左右には衣装や荷物をいれる長方形の箱がある。木製の円卓と椅子が二脚あり、玻璃ガラスの花瓶に薔薇がけられていた。
 瑠瑠は床に小ぶりの絨毯を敷き、その上に座った。天使との親密な時間が始まる。瑠瑠は厳かに礼拝をした。
「心配したよ」
 房室の扉を叩いて、十六歳の兄であるヒム哈爾ハルがあらわれた。
 刺繍のほどこされた四角い帽子を被り、柄のない長衣に、ゆったりとした袴をはいている。短い黒髪、父に似た優しい眉毛、母に似た輝く瞳と、形の良い鼻と唇もあいまって、昔から絵になる人だ。
 哈爾は、小父のもとで後継ぎになるよう学んでいる。
 その彼が、腕を組んで、目を鋭くしていた。様相の険しさは、瑠瑠を思ってのことだ。だから怖くはなかった。
「瑠瑠、哈爾、食事にしよう」
 小父がやってきて、声をかけてくれた。
「お母様を呼んで来るわ」
 瑠瑠は再び礼拝の間にもどって、阿伊莎の側によりそった。
「ご飯を食べよう?」
 阿伊莎の反応はないが、手を引いて食事の間にむかった。
 食卓にはすでに料理が用意されていた。故郷の手抓飯ブロフ大餃子マンテイだ。手抓飯は米に鶏肉、人参にんじん玉葱たまねぎを加えて炒めたものだ。塩と香辛料で味つけする。大餃子は小麦粉を練って作った生地に、羊肉をつめ、でて作る。
 この三日、小父が気を遣ってくれて、故郷の料理を用意してくれている。
「月華様はどういう女性なの?」
 あらためて小父に問いかけた。でかける前は教えてくれなかったけれど、今度は「答えてくれなきゃだめだから」と見つめる。
「すまない。月華様に口止めされていたんだよ。なにも知らないままよこせとね。そのほうが新鮮な反応が見られて楽しいからと言って。あのかたはひどく退屈されておられるのだ」
 お嬢様ですものね。外に関心がおありのようだけど、良家のお嬢様であれば、自由な外出は許されない。
 それは、瑠瑠の故国でも同じだった。
「それほどまでに、小父さんが言うことを聞く必要があるの?」
「名門趙家は上客様であり、当主はぐんとうりょうで、強い権力をお持ちだ。異邦人は簡単に国外退去になるので、そうされないためにも親密でいなければならない。趙家のご機嫌をとっておく必要があるんだ」
「わかりました。……ねぇ、小父さん。この国では、誰が女の子の足を小さくするの?」
「纏足かい? たいていは母親だね」
 瑠瑠は息を呑んだ。
「どうしてこの国の母親は、我が子を歩かせなくするの!」
「気になるのかい?」
 少したしなめるような瞳だ。
 瑠瑠はごくりと喉を鳴らして、小父を見上げた。
「はい。だって、あまりにも……奇妙だったから」
 下世話な好奇心から聞いているわけではない。この国で生きていくならば、知らなくてはならない文化のはずだ。
 瑠瑠の意思を感じとったのか、小父が優しい笑みをうかべた。まるで、おまえは大丈夫、関係ないからと落ち着かせるような表情だ。
「彼らにとっての決まり事だよ」
「どうして……いったい誰がそれを決めたの?」
「どうして、か。わからないな。彼らは、私たちとは違うから」
「瑠瑠は纏足の国に生まれなくて、よかったね」
 哈爾の言葉に、瑠瑠は迷わず頷いた。
 纏足は未来だと月華は言っていた。小さくて形のよい足であれば、恵まれた人生が送れると。けれど、満足に歩けもしないで、家の中にとらわれて、幸せなのだろうか。
「纏足がそんなにいいものとは思えない。小父さんも、そうなのよね?」
「そうだね。どうして健康な足を愛さないのかと思うよ」
 小父の言葉に、ほっとした。
 阿伊莎の顔を見る。意見を聞きたかった。けれど、うつろな顔をして、黙々と食事を進めている。
 瑠瑠は、問えなかった。自分のせいで傷ついている母の心を、これ以上かきみだしたくない。真っ赤に裂けた傷口に、指をいれて割り開くような真似まねはできない。
 瑠瑠は母にむかって、届かないとわかっている微笑みをむけてから、再びさじを握った。
 もしも北京に生まれていたら、お母様は私を纏足にしたかしら。

 翌日、朝食を終えると、瑠瑠は義六の馬車で頭領の家にむかった。李石の部下が増えており、彼らはざわついていた。
 なにかあったのだろうか。犯人が拘束されたわけではなさそうだが。
 母屋の二階にむかった。部下たちに囲まれて、李石がいた。瑠瑠は駆けよった。
「おはようございます。お話ししたい疑義があります」
 李石がうるさそうな顔を見せた。だが、すぐに微笑んだ。
「月華様がなにか言っていたか?」
「割れた茶器一式を組み合わせたところ、茶杯がひとつ足りないことがわかりました。茶器ひとつに茶杯が三つあるべきですが、ふたつしかなかったのです。ひとつはどこに消失したのでしょう?」
「茶杯だと? 本当か」
「間違いありません」
「わかった。留意しておく。それよりも今は、忙しい」
「あとひとつ、月華お嬢様は、死亡の因が毒ではないかとお疑いです」
「……冗談はよせ」
がいの斑点の色が気になるようで」
「それは調査させよう」
 李石が近くの部下に「役所まで行って、屍骸の再検屍をするように」と命じた。
 どんな答えが出るのだろう。月華は本当に正しいのだろうか。
「それで、李石様。今日はなにかあったのですか?」
「嫌疑人のやつが、犯罪が行われた時に現場にはいなかったという証明がとれたんだ。天雲は誰を見たんだろうな? 化粧をしていた劇団員であった可能性さえでてきた。これからは、この家の中も調べる。今から捜査再開だ。家族、使用人、劇団員と建物すべてをあらわにする!」
「私もお手伝いいたします」
「やめろ。よけいなことはするな」
「人手は増えたほうがよいのではありませんか?」
 瑠瑠の言葉に、李石が眉間に深いしわをよせた。
「それじゃあ、夏露かろについていけ。昨日、会っているはずだ。夏露!」
「はい、李石様。お呼びでしょうか」
 二十代半ばの青年が、李石の前にやってきた。辮髪をして、綿の長衫を着ている。細身だがけっして弱い印象はなく、まわりの男たちより身長が少し高い。険しい李石の前でも怯えるところはなく、声は落ち着いていて、柔和な微笑みをうかべていた。
「おまえの調査に小姑娘をつれていけ」
「わかりました。おいで、瑠瑠お嬢さん」
 名をおぼえていてくれた。瑠瑠を軽んじていないとわかって嬉しい。そういう人と仕事をこなせるのは頼もしい。
 だが、瑠瑠の期待は早々に失墜した。夏露の仕事が雑なのだ。夏露はその麾下きかに、六人の青年をひきいていた。同居の団員がいる棟で部下たちは団員を押しのけて調べるが、談笑しながら適当にやっている。
 たまりかねて瑠瑠は手をだした。
「そんなことしなくていいんだ、見ておいでよ」
「いえ、手伝わせてください!」
 夏露は優しい男のようだが、怠惰で責任を放棄しているだけだ。自分がしっかりしなくてはと、房室の気になるところをかたっぱしから調べていった。
 戸棚の抽斗ひきだしはもちろん、あらゆる箱、臥床の下、寝具のあいだ、床下や壁に隠し扉がないかまでたしかめた。
 劇団員はほとんど私物をもっていなかった。数枚の襦裙と長衫、筆記具といった身のまわりの品のみだ。
 皆の持ち物が少ないのは、劇団が倹約をしているからか。それとも、頭領から命じられているのだろうか。
 臥床の下にはほこりがなかった。使用人が隅まで手をいれているのだろう。ひからびたねずみなんかがいたらどうしようかと思っていたので、それは助かった。
 一階部分を見終えて、二階の階段にあがろうとしたとき、夏露に部下のひとりが駆けよった。
 夏露が「え!」と声をあげ、すぐに瑠瑠を呼んだ。
「頭領の死亡の因がわかった。毒殺だそうだ!」
 瑠瑠は目を見開いた。月華の推理は正しかった。月華の聡明そうめいさに舌を巻いた。
 私も、何か結果を出さなくては。
 瑠瑠は二階にあがり、並ぶ房室に、ひと部屋ずつ入った。それぞれの房室で、ていねいに探索をした。左から二番目の房室に入り、臥床の下に手をいれた。白い布に包まれた何かが置かれていた。
 なんだろうと手にとって、布包みを開けた。中には、赤い花柄の茶杯がひとつあった。
「どうした? なにかあったか?」
 夏露が問いかけてくる。
「これ! この茶杯! 頭領の房室で割られていた茶器一式と同じです。どうしてここに……この房室の持ち主は誰ですか!」
「藍暁の房室だ。李石様にご報告しよう」
 瑠瑠は茶杯を布に包みなおし、夏露と同行して母屋の二階に戻った。
 李石に茶杯を渡す。
「茶に毒を混ぜて飲ませたのか? 調べさせる。……藍暁をすぐに逮捕しろ!」
 まもなく、藍暁が縄で縛られて、李石の部下に追いたてられながら、あらわれた。表情は暗い。
 本当に犯人なのだろうか。
 瑠瑠はじっと藍暁を観察した。
「なぜ茶杯を隠していた? それとも、身に覚えがないと主張するかね? 誰かが隠していったのだと」
「俺がやりました。小さい頃から稽古と称して殴られたり蹴られたり、ひどいことを言われ続けてきました。役者として名が通るようになっても、財産の管理は頭領がしていた。劇団から独立したかったけど、否定されていたんです。自由がほしかった」
 場がざわついた。藍暁の言葉は、頭領には大事、、にされていた、とはまるで違った。
「事件は解決だな。つれていけ!」
 李石が部下に命じた。
 納得できない。
 瑠瑠は大人たちの前に出た。聞くなら、今しかない。
「申し訳ありません。ひとつ質問をさせてください。藍暁さんは、毒をどこで手にいれたのですか?」
 藍暁がぴくりと片眉をあげた。
「……つじりから買った」
「でも、それなら、似たような事件がこの街で大量に発生しているはず」
 藍暁は答えない。
 李石が驚いた顔をして、それから忌々いまいましそうに瑠瑠を見た。
「藍暁は宴席で高官や名門の子息と会っているのだ。毒をもらったのだろう」
「本当ですか? いったい、どなたから」
「いや、誰からももらってはいない。辻売りから買ったんだ」
 藍暁の断言に、瑠瑠は納得できなかった。誰かをかばっているかのような意思が感じられた。
「証拠が見つかったんだ。こいつはつれてゆく!」
「そんな!」
 昨日、藍暁は天雲と未来を語っていた。瑠瑠には、犯人とは思えない。
 警吏がいなくなった房室で立ちつくしていると、天雲に肩を叩かれた。
「もう、お帰り」
「天雲さん、私は……藍暁さんが犯人だとは思えないのです」
 瑠瑠の言葉に、天雲が優しい微笑みをうかべた。
「昨日の愛の言葉を覚えているよ。藍暁は……君の言葉で覚悟をしたのかもしれないね」
 ぽろ、と天雲が落涙した。ぽろぽろと真珠の玉のようにあふれていく。袖でぬぐう天雲の側に瑠瑠は留まり、これまでの流れをふりかえった。
 殺したいほど憎んでいたとしても、毒薬の話が不自然だ。だが、人ひとりが死んでいる。このままでは藍暁は死刑だ。
「天雲さん、私、行かなくちゃなりません」
 瑠瑠は、天雲を慰めていたかった。
 けれど、藍暁を救うためなら、行動しなくてはならない。

 義六の馬車をおりて、門番にすばやく挨拶をする。門番はちらりと瑠瑠を見て、「早く行け」と通した。
 院子にむかう。月華がひとり、椅子に腰掛けていた。
「遅い!」
「もうしわけありません!」
 瑠瑠は月華の足元に、急いで座って拝礼をした。
「それで?」
「頭領は毒殺されていました。茶杯を、藍暁さんの房室で見つけました。……藍暁さんが殺人を告白して、逮捕されました。頭領は、残酷な人だったそうです」
「やはりか。欠片かけらはそろった。『つまびらきの写鏡』が教えてくれる」
「私はどうしたらいいでしょう?」
「こちらでは、画家の典照の身上を調べさせた。若く貧しかった頃、結婚していて、童子こどももいた。けれど、妻とは死別で、童子がどうなったか明らかになっていない。貧乏すぎて育てられなかったのだろうが、童子はどこに消えたのか。……私は、劇団に童子がいるのではないかと考えている」
「たしかに。三人で会っていたというから……。天雲さんが童子でしょうか」
「それについては直接、聞いたほうが早い。まもなくあらわれるはずだ。側にひかえて聞いておれ」
 しばらくすると、小愛に案内されて四十代半ばの男がやってきた。辮髪に銀灰色の長衫を着ていた。そうで、すらりとした体形だ。形の良い眉毛をしており、優しそうな瞳と微笑みをうかべる唇があった。
「お招きにあずかり光栄です。典照と申します。お嬢様は絵を始められたいとか?」
 瑠瑠は思わず月華を見た。月華はつんとして、足をくんだ。
「その前に貴殿にお聞きしたいことがある」
「私でお答えできることであれば、なんでも」
「天雲という男に聞き覚えは?」
 月華の言葉に、典照は表情ひとつ変えない。まだ、なにを探られているか気がついていないのだ。瑠瑠は呼吸を忘れて見守った。
「あります。天雲は、北京で有名な女形ですよね」
「どういった関係だ」
 典照がわずかに顔をしかめたのを、瑠瑠は見逃さなかった。
「関係……、劇団の絵を描くことになり、頭領と談議をしました。天雲は、その際に接待してくれた青年ですよ」
「頭領が亡くなったのは知っているな?」
「存じております」
「では、犯人が藍暁である点は、どうだ?」
 典照の表情がぎょっと変わった。月華がふふと笑った。
「おまえの息子は、藍暁のほうか」
「藍暁が犯人とは、いったいどういうことでしょうか!」
 典照が月華にせまる。瑠瑠はとっさに月華とのあいだに割ってはいった。乱暴をされたら、可憐な月華はすぐに殺されてしまう。
「いい子だ、瑠瑠」
 まるで猫に言うようだが、気にしないでおく。人助けは、右肩の天使も喜んでくださるはずだ。
 典照は瑠瑠の肩越しに、月華を睨みつけている。唇がぶるぶるとふるえている。
 勇気をふりしぼって、拳をにぎった。襲ってくるようだったら、必ず戦う。人とまともに戦った経験はないが、弱い人を守るためなら、なすべきことをする。
 瑠瑠は月華の前に立ったまま、典照をじっと凝視した。
「ああっ、藍暁が犯人などありえません! なんてことだ!」
 典照が顔をかきむしった。あまりの変貌ぶりに、瑠瑠は月華をふりかえった。
「それは、そなたが犯人だからだな」
 きっぱりとした月華の物言いに、典照が膝から崩れ落ちた。
「あの頭領は獣のような男でした。劇団の童子たちは性交易ばいしゅんをさせられております。藍暁も天雲も。かねてから噂を聞いていた私はあの日、その事実をの当たりにして、
……この男を殺さねばならぬと思いました。捕まるなら、私です。なぜ公吏があらわれないのかと疑問に感じておりました」
 瑠瑠は思わず手で口を押さえた。昨日、天雲が、頭領によく撫でられたと語っていたが、それは良い思い出ではなかったのか。
「藍暁、天雲のふたりが、互いを守ろうとしたためだ。捜査を攪乱かくらんしたのさ。天雲の見送りでそなたが退出したあと、毒のはいった茶杯を持って死んでいた頭領を、藍暁が発見する。天雲がやったと思ったのだろう。首を絞めて、茶杯だけを持ち、自分の房室に隠した。次に天雲が来て、藍暁が殺したと思った。物取りの仕業だと演技して、房室の物を壊して証拠を隠蔽した」
 月華の推察が、瑠瑠には納得できた。ふたりが、互いを大事に思うあまり、守ろうとしてやったのだ。ふたりのきずなは、それほどまでに強かった。
「毒はどこで入手したのですか?」
 藍暁に問いかけた質問を、典照にもする。
 典照は顔をあげた。
「貧しかった頃、私はきん工場で働いていました。殺人を決意した時に、かつての工場に侵入して、薬を盗んできました。薬の処置が雑だと知っていましたから」
 迷うことなく述べた答えに、うそいつわりはないと思えた。
「これから、どうされるのですか?」
 瑠瑠は月華をかばいながら、典照に問いかけた。瑠瑠と月華の口を塞げば、典照は捕まらないはずだ。瑠瑠は緊張しながら、典照がどう動くか待った。
「私は自首します。藍暁を救わなくては。藍暁は、悪いことなどしていない」
 典照はれいな拝礼を作るときびすを返して、颯爽さっそうと去っていった。

 七月二日、陽射しは刺すように鋭く、体を包む風はぬるい。これからさらに暑くなってゆくのだろう。
「それでは見届けてまいります」
 瑠瑠が呼びかけると、月華は椅子に腰掛けたまま、軽く手をあげた。
 瑠瑠は立ちあがり、院子を後にしようとした。だが、足が動かず、瑠瑠は瞼を強く閉じてから、月華の名を呼んだ。
「本当に、行かなくてよいのですか? 事件を解決したのはお嬢様なのに!」
 回答は、ない。
 瑠瑠は唇をきゅっとむすんだ。月華は思うままに外を歩けない。足が不自由であるだけでなく、身分のあるお嬢様だからだ。それを今日は哀れだと思った。
 義六の馬車で、街の広場にむかう。七日前に起きた殺人事件は、月華のおかげで早期解決に至った。真犯人は自首をして、捕らえられた。
 街の広場は、今日は処刑場になっていた。広場の奥に柵が作られ、そこに公吏たちがいる。
 すでに人が集まっていて混雑していた。老いも若きも、男も女も、好奇に満ちた瞳で前に行こうとつめよせる。その中には、瑠瑠と同じ回族とおぼしき人たちもいる。だが、少数だ。広場の様子が、北京における回族を体現している。漢民族が、他民族を圧倒する。
 これでは、よく見えない。
 瑠瑠は目をこらした。公吏たちの中に、李石がいた。これ幸いだと、瑠瑠は人混みをかきわけて、柵越しに李石に声をかけた。
「先日は、捜査に参加させてくださって、ありがとうございました!」
「小姑娘か、今日も月華様の遣いか?」
 あいかわらず名前を覚えてくれないようだ。覚える価値もないと思われているのだろう。だが気にしない。瑠瑠は拝礼をした。
「はい。月華お嬢様の目に、耳に、手足になって、すべてを見届けて来いとのご命令です」
「そうか。では、中にはいれ。近くで見せてやる」
「ありがとうございます!」
「捜査も、また何度でも来たらいい。月華様と小姑娘なら歓迎だ。月華様のお父上も、月華様のご機嫌がいいことを喜んで、私に褒美をくださったからな」
 李石の指示で、柵の外にいた夏露がやってきて、人に道を開けるように命じた。
 さきほどとはうって変わって、苦もなく柵の中にはいれた。瑠瑠は思わず、苦笑いをうかべた。
「やぁ瑠瑠、君も来たんだね」
 天雲と藍暁がいた。ふたりとも今日は長衫をまとっていた。瑠瑠は挨拶の拝礼をしようとして、天雲が幅広の布の鉢巻をしていると気がついた。
 天雲は頭領の家で、かつらを被っていたのだ。
 柵のむこうからふたりの名前を呼び、関心を得ようとする大声が聞こえた。思わずふりかえると、大勢の人がいて、怖い顔をして睨まれた。
 天雲と藍暁は、衆望のある役者だ。あまりにも気さくに接してくれていたから、忘れていた。この混雑の大半は、天雲と藍暁がいるからに違いない。
「ありがとう。君のおかげで助けられた。なぁ、藍暁」
 天雲は瑠瑠にむかって穏やかに微笑んでから、視線を藍暁に移した。藍暁が瑠瑠をじっと見る。その瞳は以前よりも輝いていた。本人に自覚はないかもしれないが、藍暁は、大きな枷から解放されたのだ。
「おふたりの助けとなったのは、趙家の月華お嬢様ですよ」
「それなら、君たちに感謝だ。けれど、まさか俺におやがいるとは……」
 藍暁は心苦しそうに背後を見やった。
「出会ってすぐに、別れが来るとはね」
 天雲の言葉に、藍暁が頷く。
 藍暁は、きっと、とても悲しいだろう。
 瑠瑠の視線に気づいたのか、藍暁が複雑な顔をした。
「俺はさ、物心ついた頃には、すでに劇団にいたんだ。嬰児の頃に捨てられたと、まわりから聞いた。厳しい稽古の中で、誰か助けてくれないかと、考えなかったわけではない。たしかに、実の親をもとめた」
 藍暁は天雲を見上げてから、典照のほうに、むきなおった。
「天雲に出会ってから、俺は変わった。天雲は……」
「話していいよ」
 天雲がうながすと、藍暁は一度頷いてから、唇をひらいた。
「天雲は、実の親に売られて来た。弱そうにみえて、その実、天雲は強いんだ。いろいろあったが、ふたりでなら何事にも耐えられる、いつか羽ばたけると、そう信じられるようになった」
 刑場の中心で、典照が後ろ手に縛られ、地に膝をつけている。
 月華から聞くには、報告書には、典照は画業で身を立てられるようになってから、我が子を探すようになった、と書かれているそうだ。
 先月、絵を教えている貴族の子弟が、典照をうたげに招待した。その中で、劇団の評判と黒い噂を知った。気になって、観劇をしにゆくと、妻の面影のある藍暁を見た。花役者である藍暁は生き生きとしていた。典照は、藍暁が幸せなら過去を持ちこまぬほうがいい、と未練を断ち切ろうとしたが、噂が気になり、頭領のもとにむかった。
 そこで、暴力、、を知った──報告書は、そこで終わっている。
「典照さんは、公吏に何も告発しなかったそうですね」
 瑠瑠は小さく言った。誰にも聞かれなくても、それでよかった。
 報告書には記されていない続きがある。
 典照は、劇団の童子たちが、性交易までさせられている事実を目の当たりにした。天雲が気に入らぬなら、他を選んでかまわない、と頭領に言われ、すべてを悟った典照は、頭領の殺害を心に決めたそうだ。
 天雲が瑠瑠のほうを見て目を細め、優しい笑みをうかべた。
「正直、助かったよ」
「そう、です、よね」
「君は、真実はすべて明らかにされるべきだと思うかい?」
「私は……」
「頭領は死んだ。私たちの未来に、暗い影は必要ない」
 きっぱりと言いきる天雲の姿は凜としていた。
「おふたりが、そう望まれるのであれば、私はそれが最良だと思います」
「納得してない感じだね」
「だって、だって、あまりにも……」
「怒ってくれるのは、嬉しいよ」
 天雲が視線を典照にむけた。
 公吏が罪状を読みあげ始めた。典照はうつむいてそれを聞いている。
 悪業をしたと悔いているのか。それとも、善行をしたと誇っているのか、どちらなのだろう。
「なぜ殺したのか! 答えよ、典照!」
 公吏の尋問に、典照が顔をあげた。意志の強い瞳をしていた。
 典照はまっすぐに藍暁を見た。天雲とならぶ姿を見て柔らかい瞳になった。嬉しくてたまらないといった顔だ。それから表情をひきしめて、天を見上げ、叫んだ。
「我が子への愛だ! 後悔などしておらぬ!」
 処刑人が典照の首をねた。瑠瑠は見ていられなくて、顔をそむけた。
 それからすぐに、己の失敗に気づいた。
 月華お嬢様に、すべてを見届けてくるように言われていた。これでは、どのような最後だったか、完璧には話せない。
 情けなさにさいなまれながら、処刑された典照を見た。雑役によって、頭と胴体が持ち運ばれていく。
 天雲と藍暁がそろって頭を下げている。藍暁は顔を袖で拭っており、天雲はそんな藍暁の肩を抱いていた。
「親の愛、か」
 瑠瑠は帰路についた。義六の馬車に乗って、故郷の香りがする街へ戻る。
 阿伊莎は今日も礼拝の間で嘆いていた。
「ねぇ、お母様。私は結婚したほうが良かったかしら?」
 阿伊莎が、がばりと起きあがった。
「いいえ、まさか、そんなことないわ!」
 阿伊莎が泣き腫らした顔で、瑠瑠に手を伸ばした。瑠瑠は阿伊莎の手をとって、頬にあてる。
「お父様は、私が望まぬ結婚をことわってくれた。あいつは侮辱されたと怒ってお父様を殺してしまった。私ね、これまで、お父様が死んだのは、私のせいだとずっと思っていたの」
 撒馬爾罕の高官に、どこで見初められたかはわからない。『砂の場所』という意味を冠した美しくも巨大な広場で、父の仕事を見ているときにでもすれちがったのか。
 瑠瑠はとつぜん、見知らぬ男に求婚された。瑠瑠は十四歳で、まだ誰のものにもなりたくなかった。父のもとで語学を学び、女友達と心から語らい、神学校に通う兄の猛勉強を眺めて、彼に珈琲コーヒーをさしいれる。
 そんな日常から、まだ引き離されたくなかった。
 父は瑠瑠の心を悟ってか、高官に断りに行くと言った。そうして、でかけて、死体で帰ってきた。
「あなたのせいじゃないわ」
 阿伊莎の頬に、滴が伝う。瑠瑠をひたと見つめる。
 父の死後も、瑠瑠たち一家は撒馬爾罕の高官に目をつけられた。求婚を断るのは相手のめんをつぶすことだ。そのため瑠瑠たちは、一族のおさである祖父を頼った。もとより、首都は布哈拉ブハラに移り、撒馬爾罕の経済には陰りが落ちていた。
 祖父は撒馬爾罕から撤退するときめた。けれど、高官の魔手は布哈拉まで届きかねないと判じた。
「私のために、お母様とお兄様は天山北路を通って北京まで逃れることになったわ」
 ぜんぶ、私のせい。お父様が死んだのも、お母様とお兄様がすべてを捨て去り、北京で暮らすことになったのも。私は、みんなの人生を大きく変えてしまった。
「いいのよ。いいの……だって、あなたのお父様は」
 阿伊莎が最後まで言う前に、瑠瑠は声を重ねた。
「お父様は、私をすごく愛してくれていた。だから、私のためを思って行動したの」
 父は命を懸けて、瑠瑠に自由をくれた。家族は、あふれんばかりに瑠瑠を愛していた。
 瑠瑠の胸は暖かくなり、涙があふれてきた。
 明日からはこの纏足の国で、愛をいだき、前をむいて、誇りをもって歩もう。

次回に続く)

【第一話・前】

イスラム監修 宗教法人名古屋イスラミックセンター
名古屋モスク渉外担当理事 クレシ サラ好美
中国監修 H.K(友人)

プロフィール
小島環(こじま・たまき)
1985年、名古屋市生まれ。愛知県立大学外国語学部中国学科在学中より小説を書き始める。卒業後、工作機械メーカーに勤務するが、その後退職。建築デザインを学びながら本格的に執筆を開始。『小旋風の夢絃』で第9回小説現代長編新人賞を受賞して小説デビュー。その後、『囚われの盤』『唐国の検屍乙女』(ともに講談社)、『泣き娘』(集英社)、『星の落ちる島』(二見書房)、『災祥』(潮文庫)、ノベライズ『春待つ僕ら』、など発表。大学にて講師もしている。

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