雌鶏 第七章 2/楡 周平
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二度目の公聴会の中継画像に見入りながら、アメリカは面白い国だと貴美子(きみこ)は思った。
アメリカには、CIA(中央情報局)やNSA(アメリカ国家安全保障局)、DIA(アメリカ国防情報局)等々、国家が運営する諜報機関がいくつもある。いずれも情報収集に励む一方で、中でもCIAは合法、非合法の如何に拘(かかわ)らず、隠密裏に工作活動を行っているとされている。
時には敵対国の体制転覆を図ったり、暗殺も厭(いと)わないと聞くから、ある意味犯罪国家とも言えるのだが、衆目の前で不正行為を追及する場となると、模範的な法治国家に豹変するのだ。
公聴会は、その典型的な場と言える。
横一列に並んで座る航空機製造メーカーの役員たちに、自身の意見や感想を織り交ぜながら厳しい質問を重ねるホプキンスの姿は、上院議員というより容疑者を問い詰める検事さながらだ。
この贈収賄事件はアメリカメディアが連日大々的に報ずる大スキャンダルとなったこともあって、公聴会の様子はニュース専門チャンネルが全米中継することになった。
ここ日本でも、第一報が流れた直後から、国民の関心度は極めて高く、時差の関係から深夜であるにも拘らず、テレビ局は衛星中継による特番を組み、公聴会の様子をリアルタイムで放送することになったのだった。
アメリカ議会の公聴会が、リアルタイムで放送されるのは、異例以外の何ものでもないのだが、テレビ局がこれほどまでに熱を入れることになったのには、もちろん理由がある。
前回の公聴会で、航空機メーカー側の役員が賄賂を受け取った日本側の有力者のリストがあると言い、次回公開すると確約したからだ。
贈収賄は紛れもない犯罪行為である。
立件される以前に証拠となるものが、公の場に晒(さら)されることはあり得ない。
容疑者、当事者への追及の様子もまた同じで、衆目の前で証言を求められることはまずないと言っていいだろう。その点から言えば、公聴会は唯一の例外で、一般市民がまず見ることのできない、刑事、検察の取り調べさながらの光景が繰り広げられることになるのだ。
当然、世間の注目度も高くなるわけで、疑惑を追及する政治家にとっては、名前を売る絶好の舞台となる。まして、ホプキンスは次期大統領の座を虎視眈々(こしたんたん)と狙っているだけに、演出効果を高めようとしているのか、肝心のリストの公開をなかなか要求しない。
そして、開始から二十分ほど経(た)ったところで、
「さて、前回の公聴会では、代理店になった日本の総合商社が提出してきた、賄賂の送り先のリストがあるとおっしゃいましたね。今日は、そのリストを公開していただく約束でしたが、お持ちいただけましたか?」
満を持したように切り出した。
「はい、上院議員。ここに……」
答える役員の顔が、見上げるようになっているのは、追及する議員たちの席が、一段高いところにあるからだ。
その配置からしても、公聴会というよりも裁判。追及するホプキンスは、検事というより、裁判官である。
役員が差し出した一枚の紙を受け取ったホプキンスは、素早くそれに目を通すと、
「名前の横には、金額が書かれていませんね。『オレンジ』と書かれた脇に数字がありますが、これは賄賂の金額を表す符牒(ふちょう)なのでしょうか?」
「その通りです……。オレンジ一個が、日本円で一億円。個数を掛ければ総額になります」
会場が騒(ざわ)めく中、ホプキンスは質問を続ける。
「ざっと見て、聞き覚えのある名前が並んでいますね。たとえば『コウロギ』ですが、これは現職の総理大臣・興梠(こうろぎ)氏のことですか?」
「はい。その通りです」
アメリカから見れば敗戦国だろうが、今や世界が認める経済大国日本の総理大臣である。事の重大さを鑑みれば公言するのを躊躇(ちゅうちょ)しそうなものなのに、あっさりと認めるのだから、貴美子もこれには驚いた。
それは会場に詰めかけた聴衆たちも同じで、室内にどよめきが起きる。
「では、『アイハラ』と『カワゾエ』は――」
「それぞれ当時の与党幹事長と運輸大臣です」
「他にも、全日航の役員と思(おぼ)しき名前が複数ありますが、こちらは?」
「いずれも機種選定に深く関わった全日航の役員です……」
それでも、さすがに緊張は隠せない。
証言するメーカー役員の声は明確でありながらも低く、かつ短いセンテンスで終始する。
その時画面が切り替わり、ホプキンスの顔が大映しになった。
険しい表情、鋭い眼光は追及者特有のものだが、目元が一瞬緩んだように思えたのは気のせいではあるまい。今この瞬間、世間の注目を一身に集めることになったのを確信したからに違いない。
そして、今回の贈収賄事件のキーマンとなる人物の名前をまだ出さないでいるのは、早々にリストの公開を要求しなかったのと同様、演出効果を高めるためで、その存在が明らかになった時、日本に陰の権力者がいることを世間に知らしめ、騒動の火に油を注ぐことになることが分かっているからだ。
果たしてホプキンスは言う。
「一つだけ、このリストには知らない名前があります。『カモウエ』ですが、これは誰なんですか? 今回の贈収賄事件で、どんな働きをしたのですか? 総理大臣がオレンジ二個、二億円なのに、このカモウエなる人物には、四億円と突出して多額の金が支払われているようですが?」
「カモウエ氏は、コンサルタントとして雇うよう、代理店となった総合商社から指示された人物です」
これもまた、メーカー役員はあっさりと答える。
「コンサルタント? 具体的には、どんな働きを?」
「分かりません」
役員は首を振る。
「分かりません? おかしな答えですね。コンサルタントなら、商談を成功裏に導くための戦略を立て、関係各所に働きかけたり、クライアントと密に連絡を取り合うものでしょう。あなた自身、あるいは御社の担当者も、このカモウエなる人物と会ったことがないように聞こえますが?」
「その通りです」
「その通り? コンサルタントがどんな働きをしたのか分からないのに、飛び抜けて高い金をもらっているなんておかしいじゃないですか。そもそも、総合商社側から指示があったと言いましたが、商談を纏(まと)めるために雇うのなら、契約の当事者となるのも、報酬を支払うのもあなた方ではなく、代理店の総合商社でしょう? なぜ、御社が負担することになったのですか?」
「カモウエ氏は、日本の政財界に絶大な影響力を持つ人物だと聞かされました。旅客機、軍用機共に、新型機への切り替え需要は滅多に発生しません。採用されれば大量受注となりますし、長期間に亘(わた)って周辺機器の需要が恒常的に発生することになります。日本の場合、民間航空会社、自衛隊共に、新型機の導入となりますと、政治がらみになりますので、政界に絶大な影響力を持つと言われますと、カモウエ氏の力を借りずして受注は覚束ないと考えたのです」
ホプキンスは呆(あき)れたように、眉を顰(ひそ)めながら小首を傾(かし)げる。
もちろん演技だ。
「それじゃフィクサーじゃありませんか。そんな人間が日本にいるのですか? 途上国や独裁国家なら、さもありなんですが、日本は歴とした先進国、経済大国ですよ? 俄(にわか)には信じ難いのですが?」
始まった! ついに始まった!
鴨上(かもうえ)の存在、日本の政財界の闇が、今暴かれ始めた。
思惑通りに事が運び出したことに興奮し、貴美子は食い入るように画面を見た。
「上院議員……。ただ今も申し上げましたが、日本の航空会社は民間企業ではありますが、社長職は歴代、運輸省高級官僚の天下り先のポストなのです。官僚人事には時の政権の意向が大きく働きますので、航空会社も所轄官庁、ひいては政権トップの意向を無視することはできないのです。カモウエ氏は、政界にも隠然、かつ絶大な影響力を持ち、総理大臣といえども、彼の意向は無視することができないのだと聞かされまして……」
「それじゃ、キングメーカーでもあるわけですか?」
「私は、そう理解しております」
「理解したとおっしゃいますが、これは極めて重大な証言ですよ」
ホプキンスは、顔の前に人差し指を突き立てて念を押す。「一人の人間が、一国の政治、経済界を動かせる絶大な力、権力を持っている。しかも、国民に選ばれたわけでもないのにですよ。この意味が分かりますか? 民主主義国家であるはずの日本は、実は北朝鮮さながらの、一人の権力者に支配されているということなんですよ」
さすがに、「そうだ」とは断言できないのだろう。
役員は困惑するかのように、視線を落として押し黙る。
しかし、ホプキンスは追及の手を緩めない。
「このカモウエの存在を、日本の報道機関は知っているのでしょうか?」
「分かりません……」
役員は、マイクに顔を近づけ短く答える。
「これだけの影響力を持つフィクサーの存在を知らなかったとしたら、日本の報道機関は取材力に著しく欠けている。知っていて報じていないのなら、報道機関としての義務を果たしていない。いや、国民に対して背徳行為を働いてきたことになるんですよ」
この公聴会は、最新型旅客機の導入を巡る贈収賄疑惑を追及する場だ。
ここで、日本の報道機関のありように話を向けるのは、筋違いの気もするが、貴美子にはホプキンスの狙いが透けて見えるようだった。
賄賂の贈り先のリストは、メーカーが所持していたものだが、導入計画から始まり、採用が決定するまでには数年もの期間を要したと報道されている。その間、代理店である日本の総合商社とメーカー間で、頻繁にやり取りが交わされたのは間違いない。日米間の時差を考えれば、おそらくメインはテレックス。さらに詳細なものはレターだろうから、いずれも双方の会社が保管しているはずだ。
公聴会が開催されるに当たっては、メーカー側には免責が認められているので、これらの書類を提出することを彼らは躊躇しないだろう。さて、そうなると問題は、日本の報道機関がどこまでこの事件を掘り下げるかだ。
日米間の貿易不均衡は、アメリカの産業界が頭を悩ませている最大の問題なだけに、今回の事件に寄せる米国内の報道機関の関心度は極めて高い。
米国政府は、「非関税障壁」、「閉鎖的な市場」、「時代遅れの商習慣」等々、原因が日本側にあると解決を迫る。しかし、真の要因は製品力、品質力、信頼性の差によるもので、金を使うなら「良品をより安い値で購入したい」という消費者心理の表れに過ぎず、政府間交渉で解決できる問題ではないと分かっているのだ。
だからこそ、悩ましさは募るばかり。忸怩(じくじ)たる思いが憎しみへと変わるのだ。
その点から言っても、今回の事件は日本を叩(たた)く絶好の機会だ。アメリカのメディアもあらゆる伝手(つて)を辿(たど)って、米国政府、メーカーに取材攻勢をかけることになるに違いない。
だが、アメリカのメディアが連日この事件を報じたとしても、日本国民の大半は記事、ニュースに直接触れることはできない。
なぜならば、日米間には言語の壁があるからだ。
日常的に英字新聞やアメリカの雑誌に目を通す日本人は極めて少ない。英語圏のテレビニュースを、字幕無しで理解できる日本人もまた然(しか)りだ。アメリカの報道は、日本のメディアが翻訳しなければ、ほとんどの日本人は知ることができないのである。
だからホプキンスは、日本メディアの報道姿勢を引き合いに出したのだ。
鴨上の存在を知っていて報じてこなかったのなら、報道機関もまた彼の権力の支配下にあったということになる。知らなかったのなら、報道機関と名乗るに値しないことを自ら認めることになる。
いずれにしても読者、視聴者からの信頼が地に落ちるのは明白で、メディアにとってはまさに死活問題となりかねない。
つまり、ホプキンスは日本の報道機関の退路を断ちに出たのだ。
「フィクサー」「北朝鮮のような独裁国家」と刺激的な言葉を使ったのも、それが狙いであったに違いない。
公聴会の様子を中継するテレビ画面に見入る己の顔に、いつしか笑みが浮かんでいることに貴美子は気がついた。
先生、もうお終(しま)いね。異母兄妹同士なのを承知の上で、結婚させようなんて悍(おぞ)ましいことを目論むから、こんなことになったのよ。モグラは穴の中にいてこそ生きられるの。陽の光に晒されたら、生きてはいられないの……。
貴美子は胸の中で呟(つぶや)くと、口が裂けそうな笑いを浮かべた。
4
電話が鳴る音で目が覚めた。
ベッドサイドに置いた時計を見ると、時刻は午前九時である。
日本時間の深夜一時から始まった公聴会は、二時間半に及んだ。
独り、細(ささ)やかな祝杯を上げ、ベッドに入ったのが午前四時。鴨上の首を取ったと確信した興奮と高揚感からか、なかなか眠気は訪れず、寝入ったのが何時であったのか定かではない。
電話の相手は分かっている。
小早川(こばやかわ)としか考えられない。
貴美子はベッドから抜け出すと、受話器を持ち上げた。
「もしもし?」
「あっ、先生。朝早くに申し訳ございません。小早川でございます!」
果たして、興奮を隠せないでいる小早川の声が聞こえてきた。
「もう少し寝かせてくださいな。最後まで中継を見ていたので、少ししか寝ていないのよ」
とは言ったものの、口元に笑みが浮かんでしまうのを抑えきれない。
「いや、即刻お電話しようかとも思ったのですが、時間が時間でしたのでね。まだお休みだろうとは思ったのですが、我慢できませんで」
声の様子から、貴美子が上機嫌なのを察したらしい。小早川は、抗議めいた言葉に臆する様子もなく声を弾ませる。
「どお? 何か動きがありまして?」
訊(たず)ねた貴美子に間髪を容(い)れず、
「あったなんてもんじゃありませんよ。公聴会が終わった途端、党内は上を下への大騒動です。なんせ、興梠総理を始め、党のご重鎮たちに多額の賄賂が渡ったことが白日の下に晒されたんですからね。それも、アメリカ議会の公聴会でです。しかも、鴨上先生の名前まで出てしまったんですから、派閥の若手や当選同期の議員たちから、電話が入りまくりで、昨夜は一睡もできませんでした」
「その割には、声がお元気ですこと」
「そりゃあ、眠気なんか覚えませんよ。先生、今朝のテレビをご覧になっていないのですか?」
「寝てたって言いましたでしょ? この電話で起こされたんですもの、見られるわけないじゃありませんか」
「時間が時間でしたので、締め切りに間に合わなかったんでしょうね。朝刊には公聴会の様子を伝える記事は載っていませんけど、全国紙は号外を出したそうですし、テレビは朝一番からこの話題一色です。報じることが多過ぎて、嬉(うれ)しい悲鳴ってやつでしょうね」
「もちろん鴨上先生のことも取り上げているんでしょうね」
「興梠総理と同じくらい……いや、それ以上ですね。公聴会でフィクサーじゃないかと言われてしまったんですからね。テレビ局も、大スキャンダルに発展すること間違いなしと確信したんでしょう。早朝から政治評論家やジャーナリストをゲストに招いて、鴨上先生が何者なのかを喋(しゃべ)らせてますよ」
「それでその人たち、正体を明かしたの?」
「先生がおっしゃった通り、モグラは陽の光を浴びたら終わりなんですねえ」
受話器を通して、小早川が薄笑いを浮かべる気配が伝わってくる。「もう怖いものなしってところなんでしょうね。鬼頭(きとう)先生に仕えていた時代のことから始まって、没後先生が持っていた力を継承して、政財界に絶大な影響力を持つ陰の権力者になった。知る人ぞ知る『日本の首領(ドン)』的人物だとまで言い切る者もいましてね」
小早川は愉快でならないとばかりに言うのだが、彼らの変わり身の早さに貴美子はすっかり呆れてしまった。
「馬鹿じゃないかしら。公聴会は終わったばかりなのよ。取材する時間などありはしないのに、そこまで言い切ってしまったら、鴨上先生のことを知っていながら、口を噤(つぐ)んできたって自白しているようなもんじゃない」
「ホプキンスにあそこまで言われてしまうと、さすがに知らなかったとは言えませんよ。それに清濁併せ呑(の)むと言いますか、日本人は表もあれば裏もある。綺麗事(きれいごと)では済まないのが世の中だと考えている節がありますからね。政治の世界はその最たるもので、さもありなんと思いこそすれ、マスコミ批判に発展しないとでも考えたんじゃないですか」
「世の中、そんなに甘くはないと思いますけどね」
「いや、そんなもんかもしれませんよ」
意外にも小早川は言う。「マスコミ批判に矛先が向くよりも、この日本に首領と称されるような陰の権力者がいた。それがいかなる人物なのか。どんなことをやってきたのか。関心はそっちの方に向くと思うんです。マスコミだって、そう仕向けるでしょうし……」
「仕向ける?」
「これまでは、政財界ですら鴨上先生を知る者は限られていましたからね。一般国民に至っては皆無だったんです。これから出てくる先生についての報道は、世間が初めて接するものばかり。そんなのが次から次へと出てくれば、否応無しに世間の関心は鴨上先生に向きますよ。報道機関も全力を挙げて取材に取り組むでしょうから、我々だって初めて知るような事実が山ほど出てくるでしょう。それがまた、鴨上先生に対する世間の関心を煽(あお)ることになるんですから、報道機関の取材熱も過熱するばかり。当分ネタには困らないんですから、彼らにとっても願ったり叶(かな)ったりってことになるんじゃないですかね」
本当に、願ったり叶ったりと思うのなら、『恥知らず』もいいところだ。
しかし、ここでマスコミ論を交わしても仕方がない。
「だとしたら、ホプキンスって、なかなかの策士ね」
貴美子が言うと、
「それは、どう言うことですか?」
「興梠総理を始め、賄賂を受け取った政界のご重鎮方は、世間から轟々(ごうごう)たる非難を浴びて、政治生命を断たれるだけじゃなく、逮捕されて獄に繋(つな)がれることになるでしょう。与党のみならず政治家の権威、信頼は地に落ちて、政界は大混乱。経済界だって無事じゃ済まないわよ」
「おっしゃる通りですね。実際、前回の公聴会が終わった直後から、興梠総理は検察の動きが気になって仕方がないようでしてね。国内で発覚した贈収賄事案でさえ、検察に知られれば揉消(もみけ)すことはまず不可能なのに、今回はアメリカ発ですからね。党内では、早急に体制を立て直さないと、次回の選挙では大敗確実。我が党は下野してしまうと案ずる声が渦を巻いているのです。未明にも拘らず、公聴会終了直後から電話が殺到したのも、その新体制についての相談がほとんどでしたからね」
「だからホプキンスは鴨上先生に、世間の関心が向くように仕掛けたのよ。メディアを批判したのも、それを狙ったのよ」
「と言いますと?」
「彼は、鴨上先生は『キングメーカーじゃないか』とメーカーの役員に訊ねたのよ。そんなことを彼に訊いたって答えようがないのは百も承知。なのに、わざわざあんな言葉を使ったのは、ここで鴨上先生の首を取らないと、次期政権も先生の影響下に置かれてしまうと考えたからだと思うの。『北朝鮮のような独裁国家』と言ったのも、日本の権力構造がいかに汚れ、歪(ゆが)んだものであるかをアメリカの国民に印象づけるため。鴨上先生を排除することで、日本を真の意味で民主主義国家に再生してやったとなれば、ホプキンスの大手柄。アメリカ国内では、英雄視する向きも出てくるでしょうからね」
「それに、政済界ともに、日本は不正行為がまかり通る国だと印象づけられれば、日米間の貿易不均衡問題も、日本は汚い手を使っているからだという、アメリカ政府の主張を肯定する論調が主流になるかもしれませんしね」
「日本製品がアメリカ市場を席巻しているのは、何も自動車に限らないし、そもそも好んで買っているのはアメリカ国民ですからね。それだけ日本製品が支持されていることの証(あかし)なのだけれど、ホプキンスの地盤は製鉄産業を抱えるペンシルべニア。ヘンドリクスは自動車産業がメインのミシガン。どちらも州の基幹産業が日本企業に奪われて、酷いことになっているんですもの。これがただちに市場奪還の起爆剤になるわけではないにせよ、憎き日本に大きなダメージを与えたとなれば、二人が絶大な支持を集めることになるのは間違いないわよ」
「かくして、次期大統領を狙っているホプキンスの野心も、実現に向けて弾みがつくと言うわけですか……。なるほど、確かに先生がおっしゃるように、彼はなかなかの策士ですね」
小早川が、電話口の向こうで頷(うなず)く様子が見えるように唸(うな)る。
「ところで、鴨上先生の様子は何か聞こえてきました?」
話を転じた貴美子に、
「いいえ、今のところは何も……」
小早川は即座に答える。
「今回の公聴会で賄賂を送った先のリストが提出されることになったのに?」
まさか、自分はコンサルタントだから、賄賂の送り先のリストに載ることはない。あるいは、確かに金は受け取ったが、賄賂ではなく報酬だと言い張れば、逃れられるとでも考えたのだろうか。
いや、そんなことはない。鴨上はそんな甘い考えをする人間ではない。
釈然としない思いに駆られ、一瞬貴美子が黙ってしまったのだが、その隙をつくかのように、
「先生のところへは、連絡がなかったのですか?」
小早川が問うてきた。
「私に? どうして?」
「鴨上先生だって、リストが公開されると知ったら穏やかではいられませんよ。先に不安を覚えれば、先生に卦(け)を立ててもらおうと思うのでは?」
なるほど、これも小早川が貴美子には人智を超えた不思議な能力があると信じていればこその考えだが、占いの絡繰(からくり)を知る鴨上が頼ってくるわけがない。
「そんな気持ちになるわけありませんよ」
貴美子は思わず吹き出してしまった。「ここを訪ねてくるのは、将来にどんな運命が待ち受けているか、不安を覚えている人たちなの。賄賂が渡ったことが明かされてしまった時点で、その人たちがどうなるかは分かり切っているんだもの。それに、国内で発覚した贈収賄で、野党に証拠を掴(つか)まれたなら、予算委員会で追及される可能性もなきにしもあらずだけど、それだって公金絡みの事案ぐらいのものよ。まして今回は賄賂を送るよう、指示したのは総合商社よ。大企業から贈賄の証拠が漏洩するなんてあり得ないでしょ? だって、役員といったって、彼らはみんなサラリーマンですからね。情報漏洩、まして告発なんかしようものなら、どんな目にあわされるか、重々承知してるんだもの」
「なるほど、役員と言えども、サラリーマンか……。そこのところは、報道機関も同じですよね」
小早川は、腑(ふ)に落ちたような口ぶりで相槌(あいづち)を打つ。「一介の記者が大ネタを掴んだとしても、記事、ニュースとして報じる前には上位職責者の承認が必要です。総理はまだしも、鴨上先生は報道機関のご重鎮たちとも親交がありますからね。それこそ天の声がストップを命じれば、先生の存在には触れられなかったかもしれませんね」
「だから、ヘンドリクスに情報を提供したのよ」
貴美子は、「フフッ」と忍び笑いを漏らした。「アメリカ議会の公聴会で、鴨上先生の名前が出てしまえば、警察、検察も動かざるを得ないし、報道機関だってそれは同じ。だって、メーカーには秘匿してきた資料が、まだまだたくさんあるはずだもの。今回のスキャンダルには、アメリカの報道機関も精力的に動いているから、報道合戦はまだまだ続く。日本のメディアだって、ここまで国民の関心が高まったからには、先生に忖度(そんたく)している場合じゃないわ」
貴美子は、そこで一瞬の間を置くと、確信を籠めて言った。
「だから、卦を立てるまでもなく、先生はご自分の運命を悟っているのよ。裏で日本を牛耳ってきた権力者としての終わりの時がきたことをね……」
5
日を追うごとに、何もかもが貴美子の予想した通りの展開になった。
政治家絡みの贈収賄事件は、これまで幾つもあったが、裏の権力者の存在が発覚したのは初のケースである。
鴨上に対する世間の関心は政治家以上に高く、それに応えんとメディアは総力を挙げて彼の過去の所業を暴き始めた。しかも取材の成果がテレビは視聴率、新聞、雑誌は購読数に如実に現れるのだから、報道機関の取材合戦は過熱する一方となった。
鴨上の自宅前には、終日報道陣が屯(たむろ)し、テレビの情報番組では中継レポートが流されるのが定番となった。さらに取材が進み、鴨上は鬼頭が確立した権力の継承者で、力の根源となったのがこれも鬼頭から受け継いだ豊富な資金であり、それが第二次世界大戦中、軍需物資の調達などで蓄えられたことが報じられると、世間の関心は鬼頭へも向くようになった。
これがまた、視聴率、購読数の向上に拍車をかけることになったのだから、政権与党が覚える危機感は半端なものではない。
興梠はもちろん、リストに名を連ねた議員は全員役職を辞任。直ちに菱倉(ひしくら)を総裁に任命し、首相に据えて新内閣を立ち上げた。
この新内閣の閣僚人事では、汚れた党のイメージを払拭することを第一に、菱倉は「長老支配からの脱却」をスローガンに掲げ、重要閣僚に中堅議員を登用した。弱小とはいえ、派閥を率いていた小早川は、異例の若さで重職の一つである通産大臣に就任した。
入閣すると情報の量、質も共に変わってくると見えて、貴美子の下には、小早川から適時捜査の進捗具合がもたらされるようになった。
小早川によれば、アメリカでは州を跨(また)ぐ事件の捜査はFBIの管轄になるそうで、それは国を超える事件も同じであるらしい。さらに、日本にもFBIの職員が常駐しており、警視庁にはアメリカ側が入手した資料が適宜提供され、賄賂を受け取った議員はもちろん、鴨上の逮捕も秒読み段階に入ったと言う。
苦笑するしかなかったのは、鴨上の足掻(あが)きようである。
呆れたことに鴨上は、持病の悪化を理由に、都内の大学病院に入院したのだ。
日本の政財界を恣(ほしいまま)に操ってきたあの鴨上が、まさか入院なんてありきたりな手段で、捜査の手から逃れようとするとは……。あまりにも能がなさ過ぎる。これでは、まるで鴨上が支配してきた政治家と同じではないか。
もちろん、これも万策尽きて、いかなる手段を講じても、逮捕は免れないと悟ったことの表れなのだが、テレビに映し出された自宅から搬送される鴨上の姿は哀れなんてものではなかった。
担架に乗せられた鴨上の体には毛布がかけられ、重病であることを印象づけようとしたのか、顔は晒したままで、救急車に乗せられたのだ。
顔の下半分は白髪交じりの髭(ひげ)で覆われ、逮捕の恐怖からか頬はげっそりと痩せ細り、瞼を閉じて口を半開きにした姿に、権力を振るってきたかつての面影はありもしなかった。
権力者の末路とは、かくも哀れなものなのか……。
そう思ったのも一瞬のことで、
「ざまあみろ」
貴美子は胸の中で快哉を叫んだ。
さてそうなると、次は清彦(きよひこ)だ。
復讐の手段は、既に考えてある。
いよいよそれを実行する時が来たのだ。
貴美子は、便箋を取り出すと、手紙をしたため始めた。
拝啓
突然、お手紙をお送りする御無礼をお許しください。
あなたが私の前から消え去って、もう三十年もの歳月が経つのですね。
そう言えば私が誰か、分かりますよね。
自分たちのことを知る者がいない土地で新しい暮らしを始めよう。あの言葉を信じて、あなたが犯した罪を被り、五年の懲役刑に服した貴美子です。
憂なく新生活を送れる生活基盤を作り上げるために、必死で働いている。いつか私の前に現れるに違いない。殺人の前科を背負い、辛(つら)い獄中での日々をなんとか耐えられたのは、あなたが約束を反故(ほご)にする人ではないと信じていたからに他なりません。
随分待ちました。今日は訪ねてきてくれるか、明日はと、一日千秋の思いで待ちました。
でも、あなたは一向に現れない。そして、出所の日を迎えてしまいました。
探そうと思いました。
探し当てさえすれば、あなたは私を迎え入れてくれるはずだ。それが唯一の希望だったのです。
私には殺人の前科があることになっています。だから、まともな職につくことはできず、日々の暮らしに精一杯で、お金に余裕がなくて、探そうにも探すことができませんでした。
見つけることはできないと諦めた時の絶望は、筆舌に尽くし難いものがありました。自死の衝動にも駆られました。でも、しなかった。いや、できなかった。
なぜだと思います?
死ぬことを恐れたのではありません。
獄中で産んだ子供がいたからです。
あなたとの間にできた子供です。
子供には、あなたの名前から一文字取って、勝彦(かつひこ)と名づけました。
それだけあなたのことを愛し、親子三人、誰も私たちの過去を知る者がいない土地で、新しい生活を送る日が来ることを信じ、夢見ていたからです。
受刑者が獄中でそのまま子供を育てるのは、許されていません。親族がいれば、預けることもできますが、私も、あなたも空襲で天涯孤独の身になってしまいましたからね。
では、勝彦はどうなったと思います?
生まれてから程なくして乳児院に預けられ、私が刑期を終えるまで、ずっとそこで育ったのです。母親の乳の味をあの子はほとんど知りません。日々の成長を母親に見守られることもなく、四年もの間、他人の手で育てられたのです。
そのことについては、私も随分苦しみました。
我が子に乳を与えてやることも、日々の成長を見守ってやることも、公園を散歩したり、日光浴をさせたり、話しかけてやることも、絵本を読み聞かせてやることも、母親が当たり前にしてやれることを、何一つしてやれなかったのですから。
手元を離れてしまってからの四年間、脳裏に浮かぶのは勝彦のことばかり。胎動の感覚、出産時の苦しみ。元気な産声を聞いたときに込み上げてきた、母になった喜び……。
産んでから暫(しばら)くの間は、乳房が痛みました。
なぜだか分かりますか?
勝彦に与えるはずの母乳が行き場を失って、乳房の中に溜(た)まってしまうのです。
その度に思いましたよ。
勝彦が乳を欲しがっていると……。
切なくて、悲しくて、その度に涙を流しました。
夜間だって痛むのですよ。雑居房ですから声を押し殺して泣くんです。
房の廊下側には鉄格子が入った窓があって、そこから灯(あか)りが差し込んでくるのです。だから夜間も薄明るく、なかなか寝つけなくて、どうしても勝彦のことを思い出してしまうのです。
初乳を与えた時に、教わったわけでもないのに、乳首を吸う巧みな舌使いに驚き、感動を覚えたこと。誕生時に覚えたさまざまな感情と共に、あの時の舌の感触が、まるで今勝彦が乳を吸っているかのように蘇(よみがえ)ってくるのです。そして、誕生は、同時に別れの時であったことが、勝彦には本当に申し訳なくて、慚愧(ざんき)の念に駆られるのでした。
ですから、私は勝彦が四歳になるまでの成長の過程を一切知りません。
産みの親より育ての親とはよく言ったもので、乳児院から引き取る際には、「母だ」と言っても理解できるはずがありません。当たり前ですよね。勝彦にとっては、初めて見るに等しい女。赤の他人同然の人間なのですから。だから、先生の後ろに隠れて近寄ろうともしませんし、泣き喚き、退院するのを断固として拒むのです。
それでも、なんとか母子二人の生活が始まったのですが、馴染(なじ)んでくれるまでにはかなりの時間を要しました。
二人きりの時間を持つのが困難だったこともあります。
生活費を稼がなければならなかったからです。
勝彦は四歳。働きに出るには、託児所に預けなければなりませんでしたから、生活費に加えて、その分のお金も稼がなければなりません。
ですが前科者、それも殺人罪で懲役刑に服した女を雇ってくれる、まともな職場はありません。
身を売ることも考えましたが、ただでさえ勝彦は「前科者の子」。それも「殺人犯の子」として生きていくことを宿命づけられているのです。その上、本人に知られることはないにせよ、日々の暮らしの糧を得るためとはいえ、「母親が体を売って稼いだ金で育った子」ではあまりにも悲し過ぎます。
でも、捨てる神あれば拾う神ありと言うのは、本当のことなのですね。
ある方の紹介で、とある街のナイトクラブのホステスに採用されたのです。
必死に働きましたよ。媚(こび)も売りました。給料の大半は歩合でしたから、毎晩遅くまで、呑みたくもないお酒をたくさん呑みました。
それでも暮らしはなかなか楽にはなりません。
収入が上がっても、勝彦が成長するに従って、生活費以外にかかる出費が嵩(かさ)むようになったからです。
というのも、ハンデキャップを跳ね返し、貧困から脱出するには、学問を身につけるのが最も早い。だから勝彦には、最高の教育を受けさせなければならないと考えたのです。
勝彦は、見事に期待に応えてくれました。
私が殺人罪に問われ、刑に服したことを勝彦は知りません。あなたは私が妊(みごも)ったことを知らないうちに消息を断ってしまいましたから、戸籍の父親の欄は空白のまま。私は父親のことをこれまで一切明かしていませんから、勝彦もあなたのことは知りません。
でもね、私が明かすまでもなく、勝彦は今まで一度も父親は誰なのか、どんな人なのかを訊いたことがないのです。
乳児院で他人の顔色を窺(うかが)いながら育ったせいなのかもしれませんね。
父親のことを明かさないでいるのには、何か理由がある。触れてはいけないものなのだと、悟っていたのでしょう。
健気なんですよ。優しくて、誠実で、一生懸命勉学に励んで、高校、大学共に一流校に現役で合格して、大企業に就職して、立派に一家を構えるまでになって、今は駐在員として異国の地で暮らしています。
私も子育てが一段落したあたりで独立して、小さいながらも自分の店を構えるまでになりました。
笑い話にすることは到底できませんが、これまでの苦労も報われた。過去と決別する時が来たのだ。そういう気持ちも覚えるようになりました。
そんなところに、突然ある方から、あなたの今、そしてそこに至るまでの経緯を知ることになったのです。
驚きました。
まさか、あの日本一の消費者金融会社、ヨドの社長になられていたとは、想像もつきませんでした。
姓も井出(いで)から森沢(もりさわ)に、名も清彦から繁雄(しげお)に変わったのですから、どうりで探しても見つからないわけです。
しかも姓が変わったのは、ヨドの前身だった淀(よど)興業の創業者、森沢家の婿養子に入ったからだというではありませんか。
一高から東大法学部、海軍主計という華麗な経歴からも、あなたが優れた頭脳の持ち主なのは明白です。尼崎(あまがさき)の金貸しに過ぎなかった森沢氏には、是が非でも娘の婿に迎えたい男と映ったことでしょう。いくらお金があっても、学歴や経歴は買うことができませんからね。
あなたにしても、華麗な学歴、経歴はあっても、大金を掴むことは簡単ではありません。森沢氏から、「娘の婿に」と言われたら、それこそ一攫千金(いっかくせんきん)のチャンス到来。淀興業の資金を元手に、知恵と才覚を働かせれば、大成功を収めるのも夢ではないと考えたでしょうね。
一連の経緯を聞いて、私の前から忽然(こつぜん)と姿を消した理由がようやく理解できました。
殺人の前科を持つ女を妻にするより、お金持ちのお嬢様と結婚する方がいいに決まってますものね。大金を稼ぐにしても、自分で一から事業を立ち上げるより、すでに形ができている事業を大きくする方が早道です。
つまりあなたは、お金と私を天秤(てんびん)にかけ、お金を選んだ。いや、私なんか、天秤の皿に乗せるまでもなかったのでしょう。
あの事件は、偶発的に起きてしまったものでした。言うまでもなく、非は全て米兵にあって、私を助けなければというあなたの必死の思いが、結果的に二人の命を奪うことになってしまったのです。
あの時、あなたが助けてくれなかったら私は乱暴されて生涯、心に決して癒えることがない深い傷を負うことになったはずです。だから、あの時は、あなたに感謝の念を覚えました。危険を顧みず、暴漢の魔の手から救う行動に出たのは、私に深い愛情を抱いていることの表れなのだと思ったものでした。
だから罪を被ることにしたのです。刑に服した後の新生活を夢見たからだけではありません。それ以上に、私を護(まも)ろうとしたあなたが殺人罪に問われ、刑に服することになるのが耐えられなかったのです。だから、護られた私が、護ってくれたあなたに代わって、罪を被るべきだと決心したのです。
でもね、それもあの時交わした約束を、あなたが守ってくれたならのこと。
あなたが私の出所を待っていてくれて、短い期間でも一緒に暮らしてくれたなら、別れを切り出されても、まだ納得がいきます。永遠の愛を誓っても、離婚してしまう夫婦はたくさんありますからね。
ところがあなたは何の前触れもなく、一言の理由も告げることなく、突然私の前から姿を消した。あなたに代わって殺人の罪を被り、懲役刑を科せられた私に、よくもこんな酷い仕打ちができたものですね。
しかも、あなたは日本一の消費者金融会社の社長になっていた。
こんな理不尽な話がありますか? これでは単に、私があなたの身代わりとなって、獄に繋がれただけではありませんか。
呆れ果てました。あなたにではありませんよ。私にです。
お人好しもいいところ。いや、もう馬鹿としか言いようがありません。
でもね、私は泣き寝入りするほど馬鹿ではありません。
だから、この落とし前はきっちりつけさせていただきます。
当たり前でしょう? だって、二人の米兵を殺害したのはあなたです。罪に問われるのはあなたであって、私ではなかったのですから。
あなたのことです。こんな手紙を受け取れば、お金で解決を図ろうとするでしょう。
でもね、私の目的はお金ではありません。どれほどの大金を積まれても、許しはしませんからね。
私は、あなたが犯した罪を告発することをここに宣言します。
昭和二十四年に起きた、二名の米兵殺人事件の真犯人は、消費者金融会社ヨドの社長・森沢繁雄こと井出清彦で、当時内縁の妻だった女性が身代わりとなって一切の罪を被ったのだとね。
もちろん、事件はとうの昔に時効を迎えていますから、いまさら真実を明かしても、あなたが罪に問われることはありません。でもね、あなたの社会的地位は? あなたが築いたヨドはどうなるでしょう。奥さんも健在だし、年頃のお嬢様が一人いらっしゃると聞きました。お嬢様は、まだ嫁入り前だそうですね。ヨドの一人娘なら、縁談も山ほど持ち込まれているでしょうから、お相手は選び放題。まさに、嬉しい悲鳴といったところではありませんか?
そんなところに、この事実を世間が知ればどうなるでしょうね。
家族は? 会社は? お嬢様の縁談は?
私を捨てることで手にできた全てのことが、一瞬にして崩壊してしまうことになりませんか?
その時のあなたの姿。それからどんな人生を送ることになるのか。この目で見るのが楽しみで仕方がないの。でもね、楽しみは今暫くの間、取って置くことにします。
だって、この手紙を読んだ瞬間から、あなたはその時がいつやってくるのか、気になって気になってしかたがないはず。寝ても覚めても不安に駆られ、恐怖に怯(おび)える日々を過ごすことになるでしょうからね。私にしたらこんな愉快なことはありませんもの。
あの事件の真相を明かすのは、明日かもしれないし、半年後かもしれない。いや一年後、二年後かもしれません。でも、その日は必ずやってきます。そのことだけは約束しておきますね。
私はあなたと違って、決して約束を反故にはしませんので。
敬具
森沢繁雄こと井出清彦様
貴美子
虚実を綯(な)い交ぜ、勢いのままペンを走らせた手紙は、便箋十五枚を超える長さになった。
貴美子はペンを置き、それらを三つ折りにすると、封筒に入れた。
送付先の住所はヨドが本社を構える東京新宿区。通常、会社宛に送る私信には、『親展』と記すものだが、貴美子は敢(あ)えて控えた。
金の貸し借りにはトラブルはつきものだ。ヨドには繁雄宛に恨み辛みを連ねた手紙が、まま送られてくるはずで、『親展』と記しても秘書が事前に開封し、内容を確かめるに違いないと考えたからだ。
その時点で、決して知られてはならない過去を、知る者が出てしまったとなれば、それだけでも清彦には、大きなプレッシャーとなるはずだと考えたのだ。
封筒の裏には、差出人の住所も名前も記さなかった。
これも、清彦が読めば不愉快な内容が書かれた手紙だと思わせ、事前に秘書に開封させ、目を通させるためだ。
分厚く膨らんだ封筒に封をした貴美子は、それを手に立ち上がると、ハンドバッグの中に入れた。そして受話器を取り上げると、タクシーを呼んだ。
行き先は京都駅。最終目的地は東京である。
(次回に続く)
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