海路歴程 第五回<下>/花村萬月
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六郎は、この航海でいきなり背丈が伸びたような気分だ。
水には記憶がないが、六郎にはある。六郎の頭の中には陸地の様子だけでなく、海の色がしっかり刻まれていた。
堺湊を発って瀬戸内を抜け、下関を経て本州をぐるっと回るかたちで能登の半島を迂回するあたりまでは、海の底は浅い。かなりの距離だが、多少の色合いの違いはあれど、共通した青みが拡がっていた。
けれど能登禄剛崎沖の難所を抜けて北に進むと、海は色味を深く濃いものに変えた。じっと見つめていると、おいで、おいで──と誘うかの囁きが聞こえ、引きいれられてしまいそうな危うさを孕んできた。
さらに佐渡島から先は陸地にぴたりと沿って航行しても、あきらかに海の色は剣呑な気配をあらわにして、堺湊から能登の先までとは桁違いの深さがあることが直覚された。そればかりか陸地に沿って海の底に細かな筋が刻まれているのではないかということまで、静穏な海面の変化から推測していた。
「なんでえ、おめえは、そんなことまで見抜いてるのか」
参三は六郎を凝視する。
「俺も沈んだことはねえからわからんが、じつはな、禄剛崎から先は海の底が荒れてるって言う奴がいる」
「まことですか!」
「ああ。けど、信用するな」
「というと──」
「思い付きでものを言う奴も多い。信じると沈む。信じると死ぬ。だからって暗い目つきの厭な奴になれっていってるわけじゃねえけどな。おめえは自分で禄剛崎から先は海の底が荒れてるって悟ったわけだろう?」
「へえ。薄気味悪いほど滑らかな海ですが、これはきっと俺の先々のために海の色の様子を、そして海の底の深さを教えるためだって思ってるんです」
呆れ顔の参三に、六郎は慌てて続ける。
「いえね、俺だってそんなわけはありゃしねえってわかってんですけど、正直こんどの航海は、俺にとって水夫としての大切なことを教えてくれたんじゃねえかって」
それには応えず、参三は呟いた。
「ずいぶん上達したよ。おめえには水夫の才がある。はっきり言おうか」
「へい」
「おめえは知らねえだろうが、って知ってるはずもねえが、おめえが方正丸に乗る前に次吉に梶をいじらせたことがあんだよ」
「次兄貴も片表の修業を?」
「修業ってほどのもんじゃねえ。船頭からさりげなく命じられてな、お天気のよい日に梶を触らせて、若えもんの筋を見るわけだ」
俺は筋を計られてたのか──と、六郎は緊張した面持ちになる。
「人には得手不得手がある」
それは、その通りだ。六郎は、自分でも細かいほうだと思っている。だから米炊きなどをそれなりに巧みにこなせている。けれど、その細かさを女々しいと感じてもいる。些事にこだわらぬ雄々しい男になりたい。
「おめえの炊く米は、じつに美味え」
思っていたことを読まれたかと六郎は控えめに驚く。偶然だと悟る。
「あれこれ手を抜かねえから、見込みがあると見守ってきたさ」
参三は大きく頷く。言葉を続ける。
「おめえだって、いい加減な奴には命を託せねえだろう」
「それは、そうですけど」
「残酷なもんでな。船に乗りゃあ誰だって、まずは片表で梶をまかされ、やがては表になって舳をどっちに向けるか指図して、そしていつかはてめえの船をもつ船頭──と念ずるわけだ」
こんどは六郎が大きく頷く。
「けどな、申し訳ねえけど、向き不向きがある。向いてねえ奴に梶はまかせられねえ。向いてねえ奴に命をあずけることはできねえ。言ってることが、わかるか?」
「わかります。わかりますけど──」
「なんだ?」
「残酷なもんです」
顔を伏せてしまった六郎を見やり、参三は呆れる。
「なんだ、おめえ、泣いてるのか」
「泣いてませんよ」
「そうか──」
「だって誰だって思うでしょ。希うでしょ。俺はそこいらの奴とはちがうって。何をやらせても巧みだぜって」
六郎は声を震わせながら続ける。
「けど、こうして実際に働けば、うまくいかねえことだらけだ」
「おめえは、まあまあ、うまくやってるぞ」
参三は執りなすように付け加える。
「飯を炊かせりゃ、誰よりもうまく炊く。梶はまだまだにせよいい線いってる。この船の連中で、おめえを粗略に扱う奴はそうそういねえはずだ」
強い口調で続ける。
「てめえ、わかってねえな。米炊きのころの次吉がどんだけぶん殴られたか。足蹴にされて罵倒されたか。火吹き竹なんて、次吉の頭をかち割るために用意されたようなもんだったんだぜ」
六郎が知らなかった次吉の来し方を知らされ、その目の奥が沈んだ色に染まった。
「俺、ほんと、自分でもいやなんですよ、なんかてめえのことじゃねえのに、てめえが叱られたわけでもねえのに、気持ちが揺れて、俺はなんでその他大勢の気持ちにまでならなくちゃなんねえんだって──」
やや強めに六郎の頭を小突く。
「涙を流せる心は大切だぜ。けど、それをぐっと抑えて涼しい貌をつくれるようになることは、もっと大切だ」
六郎は甲で顔をごしごしこする。ぐいと顔をあげる。
参三が満面の笑みで迎える。
「おめえが梶前になりゃあ、その船は絶対に沈まねえさ」
生まれ落ちてからいままで、ほとんど褒められたことがない六郎は紅潮して、ふたたび目を潤ませた。
参三は六郎を黙って見守る。誰が我が子を板子一枚下は地獄に送りこむか。水夫に送りこまれるような家の小童が幸せな育ち方をしているはずがない。
それは参三も同様だった。幸い、操船の勘に恵まれてそれなりに重用され、大過なくきた。
方正丸は新造船だから、まだ殺された者はいない。けれど船中の諍いで殺されて海に投げ込まれた者など腐るほどいる。
いまのところは息をしているが、いつ沈んで魚の餌になるかはわからない。
だからこそ結束は大切にしたい。船上でもっとも大事なのは、自分は独りではないと思えることだ。
六郎は感激のあまり半泣きだ。
メソメソするんじゃねえと小突いてから、嬉し涙はメソメソとはちがうかと苦笑しつつ参三は言った。
「てめえは、涙もろいとこをなんとかせんと舐められて話になんねえぜ」
「へい。気張ります。もう泣きません。いままでだって泣かねえようにって必死で耐えてきたんです。けど参三兄貴の言葉が沁みて、ついつい──」
六郎は言葉を呑んで、梶に向き合った。
参三は水夫の体験、経験を言葉を選んで叮嚀に聞かせてやる。六郎は集中を切らせることなく参三の話に耳をかたむけ、壺を外さぬ問いかけをする。
船尾が六郎の学校であった。六郎は参三という先生に恵まれ、爨の仕事を片付けると、参三にぴたりと寄り添って、参三の操船技術を貪欲に吸収していった。
先輩風を吹かせなくなった次吉は、六郎を伝馬船に誘わなくなった。
ときに昏い眼差しであらぬ彼方を見つめている次吉に気付いてはいたが、まともに相手をしないことの理由付けに六郎は、俺が一人前の片表になれば、方正丸も沈むことがない──つまり皆の命をこの俺が握っている、という若者ならではの気負いと思い込みで次吉をはぐらかすようになった。
海は相も変わらず凪いでいる。
皆はいよいよだれている。
なにせ狭い船上に閉じこめられているとはいえ、まるで地面の上にいるがごとくだ。
地蔵菩薩の御加護。
そのひと言で片付けて、けれど船底に転がされた地蔵を覗きもしない。
入道崎をかすめ、ちょうろ──こと久六島が左手に幽かに見えるあたりまできた。
久六島と名がついているが、三つの岩礁にすぎない。魚がたくさんいるので無謀な漁師が乗り込むが、待ちうけているのは座礁ばかりで、逆に魚の餌になる者ばかりである。
「いつもだったら、まともに見えねえんだけどな。ここまで澄みわたってると、ずいぶんくっきり見えるぜ」
「不思議な航海でした」
六郎の言葉に、参三は深く頷く。十三湊まで、あと少しだ。
「ほんとうに船頭には、福の神がついてんのかもしれんな」
六郎が深く頷く。
「敦賀湊では、どーなることかと思いましたけど」
「まったくだ。災い転じて福となす。どうせなら、このまんま」
参三の言葉を、六郎が引きとる。
「蝦夷地まで」
額を付きあわせて、ニヤリとする。
六郎は自覚していた。かなり神経質になっていた。天気がよいことを気に病んでいたのだから、まさに気の病だった。
「このあたりの航行の目印は、あの久六島ですか」
「いや、あくまでも陸だ。ちょうど黄金崎のあたりだ」
そう教えて、参三は目を剥いた。
「陸が見えねえ!」
参三が冗談を言っているわけではないことに気付いた六郎は、自慢の視力で陸の方向を凝視した。
「──見えません」
漠とした水平線が前後左右に拡がって、進行方向に黒い小島が顔をだしている。海の色はいよいよ深みが照り映えたかのごとく黒みが増していた。六郎は重みのある海を、美しいと思った。
「なぜだ、流されてる!」
焦り気味の参三を、六郎はやや怪訝な眼差しで見やる。
この航海はともかく、いままでの航海で陸が見えなくなったことなど幾度もあった。
「阿呆。久六島ってえのは、この海でも最悪の岩礁だ。しかも、なんだよ、この潮の流れは! 勢いは! 速い──速すぎる」
やばい状況であると悟った六郎は、参三のありえねえ──という声を背に、大きく反りのある船縁を跳ねるように抜けた。
「俊資の哥!」
「なんでえ」
俊資は沵帆柱に足を投げだして転がっていた。
「方正丸が、方正丸が流されてます」
「北に向かってんだろ?」
六郎は船板を踏みしめた。
「表。いい加減にしてくだせえ」
「なんだ、その口のききかたは」
「仕置きならあとで受けますから。とっとと起きあがってくだせえ」
ようやく半身を起こした俊資は、黒々とした岩礁の群れと六郎を交互に見較べた。
海面から顔を突きだして白波を爆ぜさせている岩礁は、大小三つ四つほどだ。
満ち干で姿を変えるのは当然で、いまは満ち潮のはずだ。干潮で新たな岩礁が海面に突きだすかもしれないから、どれが久六島なのか六郎には判断がつかない。
あれらに激突するのも最悪だが、怖いのは不規則に尖っているであろう鑢じみた海の底だ。けれど俊資はまだ寝惚けている。
「あれは──」
「久六島です。陸から遠く離れてしまったようです。とっとと指図してください」
「面舵だ、面舵!」
即座に参三が梶を切ったが、奇妙なことに方正丸は直進していく。
梶がきかねえ!
参三の叫びに、俊資は頭上で膨らんだ帆を凝視した。
強風に押されている。尋常でない圧がかかっている。
けれど強風は帆だけをいたぶって、俊資の周辺では無風のように感じられる。
「六郎。吹いてるか」
「それが──」
六郎の周囲は、いわば風和ぎだ。風は吹いていない。途方に暮れて、帆を指し示すように手を掲げて風を感じようと集中した。
六郎の立つ船縁は無風だった。
方正丸の帆だけを狙ったかのように強風が襲ってきている。
海面に目を転じれば、帆の前後から洩れ落ちた強風が、方正丸の魁のごとく一直線に海を波立たせていた。
風の行方に気を取られているうちに、いよいよ波が乱れて白い波頭をあらわにし、方正丸を強引に押してくる。
梶もまともにきかぬ強風が、帆の一点だけを狙って吹いているのだ。
その余波とでもいうべき風が、方正丸の前方の海面に直線を引いたかのように白波を立てはじめているわけだ。
あまりに奇妙な風の振る舞いに、俊資は狼狽え気味だ。
「なんなんだよ、帆にだけ風が当たるってのはよ」
「わかりません。わかりませんが、なんとかしねえと」
「六。次といっしょに碇を入れてみろ」
俊資の命令に、なんとかしろ! という船頭の怒鳴り声がかぶさった。
いまごろ指図かよ──と船頭のズレに苛立ちながら、六郎は次吉に声がけして碇を持ちあげた。
「なんなんだよ、この船は。ケチりやがって碇捌も、いねえんだぞ! 沈んじまったら、知工のせいだからな」
「兄貴。気持ちはわかる。親司だってなんの役にも立たねえ耄碌で、おろおろしてるばかりじゃねえか」
若い二人はここぞとばかり鬱憤を晴らしながら、手始めに舳に逆向けに引っかけてある五番碇を抛り込む。
俊資が潮に濡れはじめた頭を抱える。
「だめだ、落ちねえ、どんどん速くなってやがる。一番をぶち込め」
「百貫、ぶち込んでだめだったら、どーすんですか」
「いいから一番!」
俊資が怒鳴った瞬間、海がへこんだ。
重力変化に、次吉はきんたまがすうっと宙に浮いたような気がした。
方正丸は奈落の底にいた。
いきなり甲板で巨大な魚が暴れた。
黒鮪の群れが垂直と化した海の壁から飛びだしてきたのだ。
ほとんどは方正丸の上を越えていったが、幾匹か、甲板に落ちた。
ビチビチ、バチバチ派手な音を立てて鮪どもは大暴れだったが、甲板を滑っていき、ふたたび壁の海に姿を消した。
信じ難いうねりだが、船首は波に正対している。さしあたり覆没はまぬがれるだろう。
けれど皆に安堵はない。
うねりの底で、海の水をとおして、すぐそこに、岩礁から続いている尖りに尖った浅場が見えたのだ。
ふたたび、このような巨大なうねりに攫われれば、方正丸の船底は鋭角の、黒い無数の刃に切り裂かれる。このままいけば久六島にぶつかる前に座礁する。
海の藻屑となる。
次吉と六郎は火事場の莫迦力で百貫の碇を転がして、投入した。
「だめだ──」
百貫をぶち込んでも、舳はまったく向きを変えない。海底はごく間近で、しかもギザギザに尖って剣呑なのに碇は引っかからない。六郎の嘆息に、久六島を凝視した次吉が大声をあげる。
「見ろ。船底をこすりさえしなければ、あんな島、恐るるにたらず。やたら平べってえじゃねえか」
「兄貴、なに言ってんだよ、ありゃあ波浪と強風に削られて平らくなってんだよ。あの周囲の海の底はギザギザのトゲトゲで地獄の入り口に決まってる」
若い者だけが言葉を交わしている。航海の経験が深い者ほど、この海の異様に声を喪っている。
参三は空を見あげて、鳥肌を立てた。
青空は、一気に幕を引いたがごとく消え去って、沖合から異様に低い黒雲が湧きあがって、あたりは夜のごとく薄暗い。
その瞬時の天候の変化、予兆の一切ない荒れ模様に、思わず呟いた。
「地蔵菩薩の怒り──」
この岩礁に誘いこむために、ひたすらな好天を方正丸に与えた。水夫を油断させるために、ひたすら青空を見せつけた。ひたすら波を抑えこんだ。
船頭は帆に取りついているが、青助も惣次も狼狽えるばかりで、まったく役に立たぬ。惣次が船頭の意を汲んで得意の吝嗇を発揮して水夫をとことん減らしたから、爨にまで有り得ぬ無理を強いている。
「船頭、こっから離れるためには帆を切るしかねえ。帆を切ろう!」
参三が怒鳴ると、呂久蔵は顔を歪めた。
「方正丸を漂船にする気か」
「なに言ってんですかい。帆柱をちょん切ってもいいんですぜ」
波をかぶった参三の声は一瞬途切れたが、すぐに大声で叫んだ。
「方正丸は頭でっかちすぎる。それは誰よりも船頭が承知!」
「だがなあ」
終わった──と参三は俯いた。
結局は物惜しみして、沈んでいくのだ。
まるで人生だ。
感慨に耽っている場合か。
頭をかきむしる。次に大きなうねりに引きこまれたら、お陀仏だ。
海はいよいよ乱れに乱れ、うねりの周期が短くなってきた。上がったり下がったりの重力変化と恐怖に、皆、股間をさわさわさせていた。
烈風は容赦なく方正丸を嬲る。
奇態なことに前後左右に方正丸は攪拌されているにもかかわらず、直進を保っている。
すなわち久六島に一直線だ。
参三は梶から手を離していた。
呂久蔵はなんとか操作しようと取りついていた綱の扱いをあきらめ、弛む綱がいつ切れるかわからないので、船縁を掴んだ。消沈したせいもあるが、動きの読めぬ綱に掴まっていては危ない。船縁のごとくがっちりしたところに全力で掴まっていなければ海に投げだされる。
六郎だけが冷静に教えられたことを反芻していた。
青黒い波浪は頂点で砕け散って白銀に色を変えて荒くれているが、横波は襲ってきていない。直進するだけなら、座礁しないかぎり沈むことはない。
「横波、横波、来るな、来るな、来るな!」
もはや念じることしかできない六郎だったが、傍らで次吉も手を合わせた。
「横波、横波、来るな、来るな、来るな、横波、横波、来るな、来るな、来るな、横波、横波、来るな、来るな、来るな──」
祈りが重なって、すうっと風が引いた。
帆がたるむのを見てとって、六郎は立ちあがった。
顔を見合わす。
祈りが通じた。
安堵が拡がる。
横波が襲った。
激浪であった。
次吉は海水をたらふく飲んでむせた。どうにか甲板にしがみついていた。来るなと祈ったから呼び寄せてしまったのか。
だが──。
世界は唐突に変化していた。
方正丸は静かに海面に浮いている。風も波も鎮まって、なにごともなかったかのようである。恐るおそる周囲を見まわす。
「また凪かよ」
年若に似合わぬ苦笑いを泛べ、助かったと息をついた次吉であった。
が──。
「六郎がいねえ」
次吉は慌て気味に、あちこちに視線を投げた。しょせん五百石積みにすぎない。即座に船頭以下の姿を慥かめることができた。
「六郎が、いねえ」
皆、濡れそぼって撚れて腐りはじめた水死体のようだったが、六郎以外は無事だった。
「六郎がいねえ」
視線があちこちをさまよう。
「六郎がいねえ」
目を見ひらいて怒鳴り声をあげる。
「六郎がいねえんですよ!」
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六郎、落水。
岩礁と船底を気遣いながら久六島の周辺を暗くなるまでさがしたが、六郎の遺体は見つからなかった。
方正丸は、まさに何事もなかったかのように津軽十三湊に入った。
皆、言葉を喪っていた。ようやく口をひらくことができても、必要最低限のことしか口にしない。
胸のうちでは、六郎が地蔵を底錘にしたらどうかと提案したことがこびりついていた。すべては地蔵菩薩の思し召しなのだ。
だが──。
方正丸の腹には、まだ地蔵菩薩が横たわっている。
呂久蔵は独り、夜具の上で頭を抱えて身悶えする。
地蔵菩薩、どう処するか。相手が神仏だけに、いかんともしがたい。
坊主に地蔵の扱いを相談したいところであるが、それをすれば己の醜い慾を晒さねばならぬような気がして、居たたまれぬ。
ここで冬を越すので、積み荷の米が整うまでは、底錘である地蔵を抛りだすわけにもいかない。湊とはいえ、荒れれば途方もない波が押し寄せる北の海だ。係留していても、ぷかぷか浮いているようでは転覆だ。
次吉は胸中で、あれはなんだったんだ? と力なく思う。地蔵を底錘にすることを提案した六郎を召すために仕組まれた凪であり、うねりであり、座礁寸前であったのか。たぶん、そうだろう。
それが結論だが、そうであるならば神仏のやることは、あまりに非道い。狙い澄ましたように六郎を啖った。人に神仏を理解するのは、無理だ。
次吉は方正丸を呪う眼差しで見る。もう方正丸に乗る気をなくしていた。沈んじまえ、というのが本音だった。
「あのあたり、流れが急に変わるんだ。秋が深まるころ、颱風が遠い彼方のうちから、いきなり対馬の流れがグチャグチャになることがある」
そう十三湊の者は力説するのだが、不明瞭ながら理由がわかったからといって納得できるはずもない。あまりにも漠然としているからだ。
漂流した者くらいしかロシア沿海州北部から始まる海の流れ=リマン海流の存在を知らない。リマン海流から派生する冷たい潮の流れは暖流である対馬海流の流れを複雑化し、刻々と変化して、ときに無数の触手を伸ばして気まぐれに北の海を行く船乗りをいたぶることも知らない。
呂久蔵以下、方正丸の水夫たちは暗い表情で津軽の冬を越した。
春がきた。
米が運ばれてきた。十三湊に船を入れているのは呂久蔵だけだから、即座に蝦夷地廻漕が決まった。
次吉は、心底方正丸を嫌っていた。
頭でっかちで不細工だ、と蔑むようになっていた。
それを知ってか知らずか、呂久蔵が新調した帆は十八反、やや小さいくらいだが、船の大きさに合ったものだった。愛想を言う呂久蔵に、次吉はおざなりに頷いた。惣次が呂久蔵を代辯するかのように言い訳する。
「質素倹約さ。大きな帆は値が張るからな」
なにを吐かしてやがる──と次吉は惣次を見やる。
てめえは銭勘定してろ。喋るな。
冷たい眼差しに惣次が怯みでもすれば次吉も多少は気が晴れるのだが、とにかく銭の出入り以外は鈍感で、傍らの呂久蔵が次吉の放つ棘に力なく眉を顰めるだけだった。
参三や俊資たちに向ける眼差しも、以前のものではない。あろうことか俊資など表の仕事を抛りだして横になっていたのだから。
新たに水夫を雇わねばならない。俊資はあと三人は最低でも必要だとねじ込んだが、慣れぬ津軽の地で呂久蔵には当てがない。
結局は六郎を欠いたまま廻米するしかなかった。津軽の海峡の荒々しい流れのことは、考えないことにした。
さて──。
米を積むためには地蔵を方正丸から降ろさなければならない。
海に投げ込めば一件落着だが、さすがに海に抛り込んじまえ──と声をあげる者はいない。沈黙の中、次吉が挙手した。
「積んだときと同じく、夜陰に乗じて伝馬船に乗せて少し離れた浜に安置しましょう」
大人たちも、いままでとはやや違った意味で、海が怖くてしかたがなくなっていたのだ。だが生業だ。ならば、とっとと地蔵菩薩から離れたい。
次吉の提案は即座に採用され、新月の夜、方正丸の水夫たちは闇に乗じて伝馬船に地蔵を積み替えて漕ぎだした。
伝馬船は四度、往復した。
浜に並べられた地蔵たちは、船艙にあったので傷みもあまりない。蛇足だが海運が陸運にまさるのは、積んだらそのまま動かさないのだから当然だが、荷傷みが少ないことがまずあげられる。
潮をかぶったあとが残る地蔵も多少はあったが、おおむね白塗りの貌や鮮やかな端布を縫いあわせた衣は、積んだときのままの鮮やかさだった。
呂久蔵以下、闇の中で線香を立て、手を合わせ、そして伝馬船に飛び乗るようにして浜から逃げだした。
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朝の陽射しに春が充ちている。
少女は貧しい襤褸を着ていたが、表情は明るかった。毎朝、七里長浜で朝飯のために貝を拾い、海藻を拾っていた。
浜伝いに移動してきて、目を疑った。
波打ち際に踵をめり込ませて、額のあたりに手で廂をつくって、山間から射す朝陽をさえぎって凝視した。
お地蔵さんが、たくさん並んでいた。
逆光ではあったが、白いお顔が浮きあがっていた。貌を真っ白に塗られ、赤いべべを着て、海を見つめていた。
娘は、くすんで目鼻立ちのはっきりしない黒みがかった灰色の地蔵しか知らなかった。
白く化粧されて、くっきり目や口を描かれた地蔵など見たこともなかった。
昨日まで影もかたちもなかった。
お地蔵様は忽然と姿をあらわした。
海と地蔵を交互に見て、少女は思案した。あまりに海に近い。荒れれば、お地蔵様はもろに波をかぶる。このあたりは波が砂を引きずりこむから、お地蔵様も海に引きこまれてしまうかもしれない。
村の皆で手分けして、お地蔵様を村の道筋に移し、雨風をよけるお堂をつくってあげたい。貧しい村に、こんなに色鮮やかな布地はないが、たとえ襤褸でも裸のお地蔵さんに服を着せてやりたい。
少女は浅蜊や若布をお供えして、砂に膝をついてしばらく祈った。
晴れやかな顔をして立ちあがると、一礼して、村に報せに駆けた。
娘がなにを祈ったのかは、わからない。
〈以下次号〉
(第六回に続く)