海路歴程 第一回<上>/花村萬月
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噫──。
高左衞門に気付かれぬよう溜息をついた。
妻の顔が泛ぶ。
子の顔が泛ぶ。
夏も盛りになってしまった。
櫂に海水が粘りつく。
漕いで漕いで漕いでいるうちに、無限や永遠までもが粘りついてくる。
いつまで、漕がされるのか。
気が遠くなる。
舟底に転がっている錆びた銛に視線を投げる。高左衞門の胸板に深々と銛が刺さるところを夢想する。
気を取りなおして漕ぐ。
ギシ、ギシ、ギシ、ギシ、ギシ、ギシ、舟縁が軋む。櫂がたわむ。
胸が軋んで心がたわむ。
斜めから小舟を中心に狙い定めたかのように陽光が燦めいている。
とっくに陽は西に移ったが、かなり高いところにあって、いよいよ夏の気配が濃い。
黒地の厚司織の着衣に沁みた海水がべたついたまま乾いたあげく、鈍い灰白色の塩となって浮かびあがっている。
凪の日であっても、日がな一日舟の上にあれば全身に潮を浴びる。高左衞門の髷にこびりついた海塩が、西日を受けて鋭い黄金色に光った。
また掌の肉刺がつぶれた。
幾度つぶれても、硬くならない。いや硬くなる暇がない。
ここまでひたすら漕がされていると、完全な肉刺になる余地がない。鈍痛と激痛が交互に訪れ、嬲ってくる。
血といっしょに出てくる透明な液が粘ついてて鬱陶しい。櫂の握りにしっかり沁みてしまい、もはや掌を接着しようとしているかのようだ。
苦痛に耐えて、漕ぐ。
先ほどまで付かず離れずでまとわりついていた海鳥共も、潮時とみたのか巣にもどったらしく、いつのまにやら消え去った。
とっとと今日の行程を仕舞いにしたい。野営地に適した場所を見つけようと、陸のあちこちを見やる。
海岸線からゆるやかにはじまる傾斜地に、点々と淡い紅紫が揺れている。
オシルシの視線を追い、目を細めて凝視した高左衞門が呟く。
「菩薩草のようだな」
オシルシの知らぬ花の名だ。菩薩草は斜めに傾いで海風に抗っている。
菩薩と胸の裡で反芻し、幽かに口許を歪める。オシルシには別の神がいる。菩薩はオシルシの神ではない。
けれど幼いころに和人の小者として走り使いをさせられていたせいで言葉を喋ることができ、多少書くことができるということで、コタンで皆を代表して無理やり神と仏に誓うという起請文に名を書かされた。
しかつめらしい文面と字面だったが、要約すれば以下のような内容だった。
松前藩主に対する忠誠。
公的労役従事。
蝦夷地を行く和人饗応。
和人の示す交易条件と交換比率 絶対認容。
アイヌ謀反人の密告。
この起請文によって、オシルシのコタン五戸は子供まで含めて労働力として全員が無理やり場所に移された。
すべてが和人にとって都合よく、アイヌの隷属を求めて恥じることがない。
これが起請文によって神と仏が命じることなのだ。
和人の菩薩など、おぞましい。
高左衞門が長閑な調子で言う。
「菩薩草は信州などの高い山の天辺あたりに生えているのだが、さすがは蝦夷地、海の際に生えておる」
「冷涼ですからな」
言わずもがなの合いの手を入れてしまい、オシルシは心窃かに自己嫌悪した。
自身に対する嫌気は、オシルシの心を嘖み蝕む迎合の厭な毒を含んでいた。
狙い定めたかのように高左衞門が黙りこんだ。薄く口をひらいて、漠然と陸の菩薩草を眺めている。
その無言に、オシルシは苛立った。
良質な昆布が生育している場所を探索している海上の旅である。
昆布は潮が完全に引いた波打ち際から外海に面した岩礁に生える。小舟は岸から遠く離れることはない。
地形をなぞって洋上を行くようにオシルシは命じられている。それはそのままアイヌの航海術である。
海岸線からどのくらいの距離を辿ればよいかは申しつけられていない。
いつだって高左衞門はとりわけ指示をだすこともなく、大雑把で鷹揚である。
この昆布棲息地探索は、松前藩の仕事ではないとオシルシは推測している。
武士なかには商人からの借財で身動きが取れなくなってしまった者もいて、慇懃無礼な商人にいいように使われているらしい。
商人は吝嗇だ。よい昆布が生えている場所を発見したら独占するつもりだ。
高左衞門が行っていることは松前藩を通さぬ昆布調達のための極秘の探索であり、抜荷の下調べなのではないか。
それらが洩れ伝わらぬよう最低限の人数、すなわち高左衞門とオシルシだけで舟をださせた。
本来ならば昆布をはじめとする漁場探索に類する藩の仕事で、たった二人だけで舟をだすことは有り得ない。
投げ遣りとまではいわぬものの、高左衞門の仕事ぶりが大凡のところ大雑把で鷹揚なのは、雇い主が商人であるからで、松前藩の仕事ではないからではないか。
ひたすらオシルシに漕がせて、なにやら物思いに耽っている。
それでも高左衞門は、ふと思い出したかのように肉眼で、ときに硝子の嵌まった箱で海中を覗く。オシルシからみれば、本気で昆布を探しているようには感じられない。
眉間に深い縦皺を刻み、腕組みなどして海面を睨みつけているようなときは、聢と役目を果たしているようにも見える。
けれど概ね精気を抜かれた顔つきだ。塩風に罅割れた唇が開いたままのことが多い。
やる気があるのか、ないのか。
このあたりに昆布がありそうだ──とオシルシが声をあげても、高左衞門は雑に頷くだけで、まともに海中を調べはしない。いまではオシルシもなにも言わない。
高左衞門は、まろみを帯びて霞む水平線の彼方を、あるいは静かに過ぎていく海岸線をぼんやり眺めている。
ときに陽射しを避けて背に負った長刀をおろして抱き、軀を縮こめて舟底にごろりと横になることもある。
だが眠ってはいない。
なにを思うか、なにを考えているのか。
古式武道、剣の達人であるという評判を耳にした。
横になったときは必ず軀の左側、心臓を下にして横たわっている。
それは横になるときの単なる癖ではない。和人の言う舷側板、チプラプイタにぴたりと頭の後ろを密着させて首を庇い、心の臓を庇う。
襲われたとしても、致命傷を受けぬ算段をしているのだ。
そういえばオシルシは、高左衞門が退屈のあくびや伸びをしているところを見たことがない。
だいたいにおいて唇をわずかに開いてはいるが、意識して口と鼻から同時に息を吸い吐きしているように見える。武道の呼吸法だろうか。
だらけきって薄ぼんやりしていてくれればいいのだが、高左衞門は常に一定の気を周囲に放っている。
だからオシルシは気詰まりで気が抜けないのである。総てにわたって手を抜くことができぬ圧迫がある。
もっともそれは高左衞門に対する買い被りで、感じすぎであるのかもしれない。
剣の達人であると聞いたので、過剰に構えてしまっているようだ。
和人としては、あしらいやすい方だ。
かたときの休みもなく小舟を漕ぎ続けさせられる苦痛をのぞけば、それ以外はあれこれ無理を強いるわけでもなく、至って温厚といっていい。
朝夕の食う物も、オシルシとまったく同じである。
それどころか野営地では整地も火熾しも率先してやるし、必ず兎など狩ってきて腿の美味いところをオシルシに食わせてくれるのである。
その他諸々オシルシと区別をつけることもなく、まったく同一であるといってよい。
櫂を漕ぐこと以外は──。
蝦夷地の海を知っているオシルシよりもよほど慎重で、多少波が立てば、あるいは雨風が増せば、たいしたことがなくとも陸地に舟を着けろと命じてくる。
ゆえに高左衞門との舟旅には無知な和人を伴ったときの自然天然に対する不安はない。言うなれば物のわかった和人様である。
だからこそ、腹立たしい。
オシルシの胸の中で、曰く言い難い癇声がする。不快な塊が苛立ちに不機嫌に身をよじっている。
よい和人。
オシルシと同じ場所に立って、同じところから世界を見ているかのように振る舞う和人が稀にいるのだ。
だが相手は武士で、オシルシは和人共に勝手に百姓身分とされてしまっている。
立場がまったく違う相手が同じ高さに立っているかのように振る舞う。
実際は、見おろしているくせに。
なにかあれば、よい人をかなぐり棄てて豹変するくせに。
竹筒を首からさげさせられている。
渇いて水を慾すれば、右手で漕いで左手で竹筒から飲む。とにかく漕ぐのを休むなと命じられているのである。
昆布が繁茂しているかもしれないあたりに至っても、舟を止めるということはなく、そのあたりを円を描いて回らされる。
つまり、漕がされる!
少しでも漕ぐ手を止めれば、棘のある眼差しがオシルシを貫く。
この眼差しが、怖い。
身が竦む。
高左衞門の眼は、オシルシを威嚇するためだけにあり、櫂を持つ手から血が滴りおちているのには気付かぬがごとくである。
ひたすら漕がされる日々で、オシルシの胸中には不定愁訴に似た怒りと嫌悪が澱んで渦巻いて、際限なく増幅していく。己ではいかんともしがたい熱の病に冒されているかのようだ。
されど高左衞門の目つき、目力に対する恐怖に加えて、剣の達人という先入観のせいで得体の知れぬ畏れがある。
高左衞門の気を肌に感じるたびに、血が引く。すっと体温が下がって凍える。しかも恐れを凌駕する嫌悪に虫唾が疾る。
櫂を操る足許には血と淋巴液が沁みて黒く変色している。洋上にもかかわらず、どこからきたのか金蠅がたかっている。
船を舫う夜のあいだに乾いたとしても、昼日中は、ひたすら足裏で金蠅の蛆も込みで自身の体液を捏ねまわす。
だから、いつまでたってもオシルシの立ち位置は半乾きでべたついて、腐敗臭を放っていた。
つまり、高左衞門が気付かぬはずがないのだ。
物のわかった和人様が、なぜ、ここまで無理を強いるのか?
自棄気味に、闇雲に櫂を操っていると、胡坐をかいた高左衞門がじっと見つめていた。眉間に縦皺が刻まれていた。
「なにが不満か」
問われたオシルシは、曖昧な迎合の笑みを泛べる。不満を口にすれば、とことん面倒なことになる。
「その笑いは、腹に一物ってやつだな」
オシルシは舟底の銛など存在しないかのごとく顔をあげ、否定する。
「なにも企んでおりません」
「企んでおらぬかもしれぬが、不満があるのであろう?」
あくまでも尋ねる口調だが、不満があると断定しているのだ。
企んでいないと口を滑らせたのに、それを呑みこんで、あくまでも不満、その一点を突いてくる。
高左衞門が無精髭を弄びながら言う。
「不平不満は吐きだしてこそ、だ」
薄く笑い、つっと立った。
揺れる小舟だが、均衡を乱すこともなく、舟縁に手を添えることもなく、脚力だけで立ちあがった。
その姿は硬い巖の上に屹立する石像のごとく不動である。
腕をまわして、背負った刀の柄に手をかけた。微動だにしない。
半眼でオシルシを見つめている。
不満を口にすれば、斬られる。
不満はないと言い通せば、斬られる。
どのみち斬られる。
それが和人の遣り口だ。
コタンの者たちはオシルシが帰らぬとざわめいて、すこし泣いて、涙を甲で拭って俯いて、単調な、けれどきつく際限のない重労働の日々にもどっていく。
オシルシは肚を決めた。
高左衞門を真っ直ぐ見つめかえし、抑えた口調で言った。
「不満はございませんが、ここで斬られるとしたら、それも定めということです」
「なにを御大層に悟ったようなことを吐かしやがる」
嘲笑に、いままで溜めこんでいた鬱憤が爆ぜた。
「──悟らねば生きていけぬ境遇にあるのでございますよ!」
「ほう。悟りという名のあきらめか」
オシルシは口をきつく結ぶ。
高左衞門がたたみかける。
「死ぬなら、どのような不満かぶちまけてから死ね」
オシルシは櫂から手をはずし、どかりと座りこんだ。
どうせ脅しだ。
高左衞門とオシルシの二人だけの舟だ。オシルシが死ぬなり傷つくなりすれば、櫂を操らなければならなくなるのは高左衞門だ。
斬ってみろ、と不安と恐怖と緊張を圧し隠して静かに目を瞑る。
頭上から声が降ってきた。
「櫂は三年、櫓は三月というな」
斬る気はない、という含みがある。
オシルシは自分に都合のよいように、そう判断した。肩からすこしだけ力を抜いて、答えた。
「櫂は三年というのは知りませんでしたが、慥かに櫂を扱って一人前になるには呆れるほどに時間がかかります」
櫂の習得について若干、誇張して言いながら、安堵した。
とたんに背筋を幾筋も汗が伝った。ホッとしても冷や汗をかくらしい。
あるいはあまりの緊張に汗を噴いていたことに気付かなかったのかもしれない。
高左衞門はオシルシの安堵を見てとったようだ。
「そうか。櫂の扱いは、それほどまでに難しいことなのか。ならば斬ってはまずいな」
オシルシは肩から力を抜いた。忠犬じみた眼差しを高左衞門に注ぐ。
高左衞門は、大きく頷いた。
オシルシは目を疑った。
斬ってはまずいと言いながら、オシルシの意に反して高左衞門はじりじりと背の刀を抜きはじめたのだ。
戦乱戦国の世の刀であると聞いた。
太平のいまの世となっては、誰も扱えない長さであるとも聞いた。
腰に差せば鐺が地面に擦れてしまうので、だから背に吊しているとも聞いた。
長刀の達人、佐々木巖流とやらの衣鉢をついでいるとも聞いた。
だが──。
達人にしてはなぜか抜くのに苦労しているように見えた。
どうにか高左衞門は抜いた。
見かけ倒しで、長すぎる刀の扱いに苦労しているのか。判断がつかない。
オシルシは四十肩で、腕が上のほうにあがらない。
同様に高左衞門も肩の筋が硬直してしまっていて、背のほうに腕をまわすのに苦労したのだろう。
怯えた眼差しで高左衞門の姿を見あげながら、そんな推測をした。
それにしても、達人らしくなかった。
だからといって侮ることはできなかった。単に高左衞門が刀を持っているということだけではない。
長刀を頭上に構えた高左衞門の姿に、喉の奥がぎこちなく鳴った。
殺気という気魄は、慥かにある!
身をもって知ったオシルシの下膊に、ちりちりと鳥肌が疾っていく。
抜くときは躊躇いをみせたか、あるいは四十肩のせいか手際が悪かったが、力まず上段に構えた高左衞門には一切の隙がない。
急に舟縁を擽る波音が耳につき、微風が頬髯を乱すのを意識した。
そればかりか舟底にぶつかる鰯かなにかの小魚の気配まで、オシルシは過敏に感じとっていた。
来し方が脳裏に走馬灯のごとく駆けまわりはしなかったが、オシルシは自身に訪れた、いまだかつてない明澄に驚愕した。
死ぬ間際の曇りなき世界。
観念した。
喉が詰まってしまっていて、声がでるまでに時間がかかった。
「できましたら」
「うん」
「一撃で首を落として戴けると」
精一杯、平静な声をつくったつもりだが、意に反して掠れ声だった。
高左衞門は頓着せずに返してきた。
「うん。楽に死なせてやるよ」
苦しまなくてすむと知って、礼を言いそうになった。
かろうじて言葉は呑みこんだが、迎合が習い性になってしまっていることに呆然とし、自身が、そしてアイヌが置かれている状況があらためて身に沁みて、悲哀が胸中で軋み音をたてた。
オシルシは薄目で恐怖に耐え、じっとしているしかない。
掌の中に奇妙に冷たい汗が充ちた。
反比例するかのように、口中から完全に唾が消えた。
高左衞門が抑えた声で迫る。
「さあ、なにが不満か、遺戒として陳べよ」
これから斬られるというのに、乾燥しきった口中で漂う口臭が疎ましい。なんとか助かる方策がないか。
なにも泛ばない。
世辞や追従が通じる相手ではない。
愛嬌を振りまいても無駄だ。
ましてや、道化など通用しない。
顫えを必死で抑えながら黙っていると、高左衞門は続けた。
「死ぬにあたって、先々、少しでもアイヌの処遇がましになるよう、言い残すことがあるだろうが」
アイヌの処遇がましに。
オシルシは顔をあげた。
高左衞門は笑んでいた。
その頭上で長刀が光る。
逆光に高左衞門が翳る。
刀身が西日を両断した。
切先は微動だにしない。
すなわち躊躇いがない。
斬ることに慣れている。
逆に肚が据わって問う。
「高左衞門殿にお尋ねしたい。アイヌの処遇と申されたか」
「言ったとも」
「なぜ」
「知れたことよ。俺にはなんの力もない。無力だ。ゆえにアイヌの処遇は、俺に愚痴を垂れてもなんら変わらぬということだ」
話がつながらない。
なにを言っているのか、よくわからない。ただの酔狂だったか。
投げだしたかったが、さらに訊いた。
「ならば、なぜ」
「わからん。ずっとおまえを試していた」
「試す──」
「そう。春先に舟を出し、陽のあるうちはひたすら漕がせ、一切休みを与えず、もはや夏もなかば。よく続くものだ」
他人事のような口調に思わず苦笑いのようなものが込みあげ、高左衞門を見あげた。
「なにを試されていたのですか」
高左衞門は黒眼を上に向け、小首をかしげた。オシルシは畳みかけた。
「見た目には、たいした労苦もなさそうに見えるかも知れませんが、休みなく漕ぐということは──」
一瞬、強くなった高左衞門の視線に刺し貫かれ、言葉が続かなくなった。
眼差しと裏腹に柔らかな声で高左衞門が訊いてきた。
「つらいか?」
「海が絡みついてくるのです。波が絡みつくのです。最悪です。拷問です。責め苦です」
高左衞門は肩をすくめた。
「とっとと申せばよいではないか」
「言えば折々に休ませて戴けましたか」
「いや、漕がせた」
「なぜ?」
「試すため」
「なにを?」
「さあ」
「さあ、ではございませぬ。なぜ、試されたのです?」
「うーん、わからん。困ったな」
高左衞門は長刀を頭上に掲げたまま、揺るぎない。それで、とぼけた遣り取りを続けているのである。
試すと言っているが、これは虐めるを試すと言い換えただけではないか。
理由など、ないのだ。
あるのは加虐だ。
人の好いふりをして、オシルシが苦しむのを愉しんでいたのだ。
そう結論して、憤りを込めて高左衞門を見つめる。理不尽というべきか、なんというべきか。筋が通らなさすぎる。
試すとはいかに?!
オシルシの気配を察したらしい。
またもや焦点の合わぬ、とぼけた言葉が降ってきた。
「強いていえば、オシルシが熱心に漕いでいるから、かな」
「仕事は熱心にするもの。熱心に漕ぎましょうとも。されど──」
「されど、なんだ?」
オシルシは詰まりかけたが、大きく顔を歪めて言った。
「程度というものがございましょう」
「なんの?」
オシルシは天を仰ぎたくなった。
だが視線をはずすと斬られかねないので、じっと高左衞門を見あげていた。
高左衞門は上段に構えたまま不動だ。
アイヌをいたぶって愉しいか!
いや、この男はアイヌにかぎらず、誰彼かまわず虐めて己の心を充足させる性癖なのではないか。
こういう男はアイヌにだっている。
アイヌだって人間だから好い者もいれば、厭な奴もあくどい奴も狡い奴もいる。
「人とは、度し難いものですな」
「そうだな。人は度し難い」
初めて意見が一致した。前後を端折ったままではあるが、会話がまとまった。
とたんに、抑えに抑えこんでいた苛立ちがオシルシの我慢を粉々にした。
夕陽を背に上段に構えた高左衞門を睨み据え、声をあげた。
「斬ってもらえれば、この苦行からも解放されます」
「首を落とせだのなんだの、ずいぶん投げ遣りだな。しかも大仰だ」
オシルシは、ずる剥けになった両の掌を高左衞門に突きだした。
高左衞門は露出した赤桃色の肉と黒くこびりついた血の痕を目を細めて凝視した。
「こりゃ非道い。骨が見えそうだ。よく、こんな有様で櫂を扱えたな」
「よくもそのようなことが言えたものです」
「あ、怒ってるのか?」
小莫迦にされて、オシルシは呆れ果ててしまった。我を忘れて、あらためて勢いよく高左衞門を睨み据えた。
高左衞門はその視線を真っ直ぐ受けた。
「ひとつだけ言っておこう。俺はおまえが不満をぶちまけるまでは、刀を引かぬ」
もう、不満はぶちまけたではないか! まだ、なにを言わせたいのか?
戌亥と思われる方角からの風が強まってきた。パラパラと、まばらだが大粒の雨が洋上に突き刺さる。
合わせて波も忙しなく踊り、舟も前後左右に揺れはじめた。
相も変わらず高左衞門はすっくと立って上段に構え、微動だにしない。オシルシだったら、まともに立っていられないだろう。
どのような修練を積んだのか。それとも天性か。人格はともかく、凄いものである。
「なんだ、なにを見ている?」
「いえ、たいしたものでございますな、と」
「なにが」
「だいぶ揺れてまいりましたが平衡を崩すこともなく、お立ちになられたまま、構えておられます」
「飛沫が鬱陶しいなあ」
オシルシはひどく翳ってきた空を見あげ、総てをぶちまけることにした。
「不満の第一といえば、休みなく漕がされること。これでは軀が保ちませぬ。手が壊れてしまいました。が、それよりも腹に据えかねていて、胸の底でくすぶり続けていることがございます」
「言ってみろ」
「起請文を、書かされたことでございます」
「ふむ」
「そのすべてがアイヌに不利で」
「知っておる。起請文の中身は知っておる。かたちがあるからな」
「かたち──」
「うん。決まってるんだ、起請文」
オシルシは上目遣いで問う。
「書いてしまった起請文は、破棄できぬものなのですか」
「破棄。できぬなあ。いんちきであることは慥かだがな」
「いんちき。あの起請文は謀りなのでございますか!」
「うん。あんな都合のよい代物が通用すること自体が阿房らしいことだが、オシルシよ」
「はい」
「名を記してしまったのであろう?」
「──はい」
「これにそむくときは神仏の罰をこうむる旨を記す、ってな。どのような悪条件であれ、おまえが名を記してしまった。これは引っ繰り返しようがないなあ」
「されど断ったとしても、どのみち、書かされるのでございましょう?」
「まあな。だいたい字の書けぬアイヌには、無理やり筆を握らせて背後から二人羽織のごとく手を添えて名を書かせるというな」
オシルシの顔が歪む。
「おまえだって自ら進んで名を記したわけではないわけで、されど頑なに断ればコタンというのか、村は焼き払われてたはずだ」
オシルシは下唇を咬んだ。
「まったく、おまえらはいいようにあしらわれておるなあ」
オシルシの目尻に涙がにじんだ。
高左衞門の目のまわりも濡れているが、それは弾ける高波のせいだ。
「果敢に戦ったアイヌもおったではないか。どうした、いまのおまえたちは」
「もはや戦う余力も気力も」
「ないか」
悔しくて、答えられない。
「ないよなあ。なにせ、こうして頭上に刀を構えられている。おまえたちは、常に刀を突きつけられている」
高左衞門はすっと刀を降ろし、それを杖のようにしてだらけた恰好をとった。
「おっと、重みをかけすぎると、舟底に穴があいちまう」
刀を傍らに投げだすと、オシルシの前に座りこんだ。
オシルシは刀を見るふりをして、その横に転がる銛を一瞥した。
そんなオシルシの様子など気付かぬがごとく、高左衞門が問いかけた。
「家康の黒印状を知ってるか?」
オシルシはやや呆れ気味に高左衞門の口許に視線を送った。
慥か御神君であり、東照大権現と大仰な名で呼ばれているはずだ。和人たちが神仏よりも崇め奉っているのではなかったか。その御神君様を呼び棄てた。
「知らんのか? 黒印状」
「存じ上げておりませぬ」
「そうか。知らんのか」
「それが、なにか?」
「おまえにもわかるように、砕いて教えてやろう」
波高はますます高くなり、やや不安を覚えるほどだ。
オシルシは背後に視線を投げた。沖に引き込まれると、ことだ。櫂を操らなくてよいのだろうか。
高左衞門は落ち着き払っている。オシルシの壊れかけた手を眺めながら、中空にある書状を読みあげるかのように暗誦した。
定
一、自諸国松前へ出入之者共、志摩守不相断而夷仁与直ニ商買仕候儀可為曲事事、
一、志摩守ニ無断而令渡海売買仕候者、急度可致言上事、
付、夷之儀者、何方へ往行候共可致夷次第事、
一、対夷仁非分申懸者、堅停止事、
右条々若於違背之輩者、可処厳科者也、仍如件、
慶長九年正月廿七日 (黒印)
松前志摩守とのへ
和人の言葉が達者なオシルシではあるが、ボソボソと棒読み口調の高左衞門がどのような意味のことを述べたのかは、よくわからない。
高左衞門は嚙み砕いて、オシルシに説明する。
「まずは其ノ一。諸国より松前に出入りする者は志摩守、つまり松前領主の許しなくして夷仁、すなわちアイヌ人と直接交易してはならぬ」
なにをいまさら──とオシルシは内心、吐き棄てた。
アイヌと直接交易もへったくれもない。あいだに商人が入って、暴利を貪っているではないか。
もはや御神君の黒印状など、なんら力を持ち得ないのだ。加えて松前領主の目配りも洩れだらけだ。
言うなれば御神君と領主を蔑ろにして、あるいは賄賂で籠絡して商人は商いの抜け道を求め、こうして高左衞門に良質な昆布が生えている場所を探させている。
並みの昆布ではない。抽んでて質のよい昆布が繁茂している区域が見つかれば、起請文といういんちきで縛ったアイヌを秘密の強制労働につかせる。
京や大坂ではよい昆布に途轍もない値がつくらしい。蝦夷島の昆布を船で運ぶだけの商人は濡れ手に粟である。
高左衞門はオシルシの表情を読んだが、かまわず続ける。
「其ノ二。志摩守に無断で蝦夷島に渡海して商いをした者、即座に報告すべし。すなわち松前領主に無断で商いをすることを禁ずってことだ。加えて」
なにやら含みのある高左衞門の眼差しである。オシルシは、引き込まれるように繰り返した。
「加えて?」
「加えて、アイヌはどこへ往来しようと自由である」
「アイヌはどこへ往来しようと自由!」
現実は、労働力としてアイヌは場所に固く縛りつけられ、こうして刀で脅されて、ひたすら舟を漕がされている。
高左衞門はオシルシの目の色を一瞥し、唇をすぼめた。
「まだ終わっておらぬ。よく聞け」
小さく息を継いで、続ける。
「其ノ三。夷人に対し非分を申しかけること厳禁。つまり和人のアイヌに対する非分を行うことを厳禁する」
「なんと」
「もう一度言おうか。非分とは、道理から外れた行いという意味だ。和人によるアイヌに対する理不尽な行為を厳禁するってとこか」
「黒印状に、そうあるのですか」
「ああ。さらに、この条文に違背する者、厳罰に処すってな」
「それが、なぜ──」
「あんな起請文にすり替わったか」
はい、という声がでなかった。
戦慄くオシルシの唇を見やって、高左衞門が薄く笑う。
横波に舟が大きく傾いた。
「おい、沈むぞ」
オシルシは頷き、気を取りなおして櫂を手に、横転せぬように、高波の方向に舟首をむけた。
波はいよいよ居丈高で陸地が見わたせないが、先ほどの菩薩草のゆるやかな海岸線の見当はついている。
「痛いか?」
「掌で御座いますか」
「そう」
「それは、もう。汐が沁みて、身悶えしたいくらいで御座います」
「ふーん。だが、せいぜい気配りして舟を操れ。横波を食らって投げだされると、鯱に食われかねぬ」
「鯱。おりましたか?」
「気付かなかったのか」
「気付きませんでした」
高左衞門が顔を顰めた。
「黒と白が禍々しい」
「魚体のことですな」
「群れなしていたぞ」
「大群は珍しいこと」
「いやいや、大群だ」
「跳ねていましたか」
「ああ。あの巨体が」
「波間を飛び交って」
「そういうことだが」
「焼きが回りました」
「頼りない船頭だな」
「申し訳ありません」
「いいよ。痛いしな」
「はい。心此処にあらずでした」
黒印状と起請文のあまりの乖離に、まさに心が分裂してしまったかのようだった。
東照御神君を崇めつつ、その言葉を平然と蔑ろにする。
和人という存在、わけがわからぬ。
だが、いまは一刻も早く陸に辿り着くことだ。
この荒波に抛りだされることなど、想像もしたくない。
気を取りなおし、苦痛に耐えて櫂を操る。
漕ぐ。
漕ぐ。漕ぐ。
漕ぐ。漕ぐ。漕ぐ。
鯱=アトゥイコロカムイは、オシルシの神の中でも別格だ。
海を司るアトゥイカムイが遣わしてくれたのだろう。
だが、オシルシは見ていない。
鯱を見ていない。
黒印状と起請文の文言の差違に、そして掌の苦痛に負けて、総てが目に入らなくなっていた。神さえも──。
自分を無くした。
無くしたということは、亡くしたということ。オシルシは死んでいたのだ。
カムイにふたたび振り向いてもらって力を与えてもらうためには、どうすべきか。
高左衞門は舟底にたまった海水を忙しなく搔きだしている。
自慢の長刀は投げ遣られた錆銛と同様、際限なく這入り込んでくる海の水になかば没している。
銛。
長刀。
凝視していた。
「痛いのはわかるが、漕ぐ手を止めるな。それとも俺と心中したいか?」
オシルシは高左衞門の声に我に返り、櫂を掴みなおした。
大きく汐混じりの息を吸い、骨が見えてもかまわぬといった勢いで、漕ぎはじめる。
波浪はますます背丈を伸ばす。
土用の波が蝦夷島までやってきたか。そのうねりは尋常ではない。
天候の急変は、なにやら天意のごとくオシルシには感じられた。
舟がうねりの底に至れば四囲は深い藍緑の壁と化し、その波の壁から小魚が飛びだし、舟の中に落ちて銀色の身を痙攣させる。
舟がうねりの頂点に持ちあげられれば、舟底はほとんど波と接することなく、頼りなげに方向を喪い、オシルシの櫂も虚しく宙を掻く。
うねりの頂点で底意地悪く波頭を爆ぜさせて傾れ込む海水に高左衞門は顔を歪め、膝をついて手桶で凄い勢いで掻いだす。
(次回に続く)