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ナツイチ2023試し読み! 松井玲奈『累々』

「嫌われるのが怖いから、誰かの望む人になろうとしちゃうんですよ」
女優・松井玲奈が企む「恋愛」小説集。


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同棲中の恋人からのプロポーズ、ラブホテルでセフレと過ごす雨の日、パパ活相手とのお食事デート、振り向いてくれない人への切ない片想い……。現代を生きる女性のさまざまな「顔」を描き出す連作小説集。鮮烈なデビュー作を超える「たくらみ」に満ちた、女優・松井玲奈の最新小説『累々』より、冒頭部分を紹介します。

***

累々

  1.小夜
 
「今年中に籍を入れたいと思う」
 そう告げられたのは夕飯の席だった。
 告白された時とは違う味けないプロポーズだった。今日は仕事を入れていなかったので、色あせた黄色の部屋着を身につけ、髪の毛は適当にざっくりとひとまとめにしていた。どうしてリップクリームすら塗っていないかさついたスッピンの顔に向かって、今こんな大切なことを言うのだろうと正直感じてしまった。
 だからといって彼が惰性で結婚を決めたとは思わない。する、しない、の話ではないのだろう。彼の中では。
 私との付き合いが遊びではないことは最初からわかっていた。決まり文句みたいに、結婚を前提に付き合って欲しいと言った時の、彼らしからぬ不安に揺れる視線を今でもはっきりと覚えている。その揺れる心情が私にはドラマチックに感じられた。今の彼は私と人生を共にすることに迷いがない。目の前に並んだ食事の味付けのように、全てがお互いにとって調ととのっていると信じている。
「籍を入れるにしても準備する時間が必要だと思うから」
「準備?」
のご両親にも改めてあいさつに行きたいし、僕の周りにもちゃんと話して順序よくいきたいんだ」
 今日は休みだから僕が作る、と意気込んでキッチンに立っていたのはこういうことか。食卓には私の好物がずらりと並んでいた。しいたけねぎのグリル、チンジヤオロースーにかきたまのスープ。ふんわりとしたドレスのような卵がおわんの中でひらりと踊り、米が蛍光灯に照らされ、その白さとつやが際立っている。
「今年中ねぇ……」と私は言葉を濁した。
 考えるフリをして青椒肉絲にはしを伸ばす。味付けは濃くも薄くもなく、丁度よかった。
 ようさんは今年で三十になる。彼の年齢と半どうせいを続けている状況から考えても、次のステップに進むには悪くないタイミングなのはわかるけれど。
 開け放った窓から、闇に溶けていくような犬のとおえが聞こえ、湿気まじりの濃い緑の匂いがした。今年が終わるまであと半年ある。
 
 プロポーズらしからぬプロポーズをされたと、親友のすずに打ち明けたのは一週間後のことだった。待ち合わせした場所は、彼女が行きたがっていた人気のおしゃれなカフェだった。白を基調とした店内は、若い女の子たちの浮かれた声があふれ、その間を縫うように店員さんが動き回っている。
「結婚しないの?」
「一緒にはいたいけど、結婚ってなんだろうって、こっちは煮え切らなくて」
「それにしても、返事をあいまいにしてよく切り抜けられたね。葉さん傷つかなかったの?」
「厳密に言うと切り抜けてはいなくて。ただ……今年中ねぇって濁して返した」
 それってOKしてるのと一緒じゃんと、深鈴はまゆをハの字にする。高校生の時からの深い付き合いである彼女はあきれるとすぐに眉を下げる。もともと少し垂れ眉ぎみなのに、もっと下がるものだから、哀れみの色を強く感じてしまう。それも彼女なりの優しさとわかっていながらも、トゲはチクチクと私を責めてくる。
 今年中ねぇ……と、口にした私の言葉を、彼女も葉さんと同じように肯定として捉えたようだった。ニュアンスというものは難しい。今年中ねぇ、という言葉には肯定の意味も否定の意味もにじませているつもりだった。
 深鈴の薬指を包み込んでいる銀色のリングが今日はやけに目に痛かった。あのプロポーズの後、葉さんは食卓の上に結婚指輪の入った小さな箱を差し出した。控えめなダイヤが真ん中で光っているシンプルな指輪を、私はその場で指にはめることができなかった。
 二十三歳という自分の年齢が結婚に適しているのかどうかよくわからなかった。就職していたら社会人一年目。結婚をしたって仕事に就くことはできるわけだし、そんなに悩むことでもないのかもしれない。けれど素直に喜べない自分がいる。
 深鈴のおなかはふっくらと丸みをおびてワンピースを押し上げている。妊婦らしいシルエットの彼女が待ち合わせ場所に現れた時、私はひるんでしまった。
 ライター志望の深鈴の妊娠がわかったのは数ヶ月前。夜中に電話がかかってきてひどく泣き付かれた。妊娠と結婚が同時に襲ってきた彼女のことを、その時の私は悲劇的だと感じてしまった。
 まだ若いのに。やりたいこともあるでしょう。あなたの夢はどうするの。
 お腹に宿った命に責任を持てるのか、その子の親に自分がなれるかどうか、相手はこの人でいいのか、深鈴は悩んでいた。その話を聞きながら私も万が一、葉さんとの子供ができたらと考えたけれどどうにも現実味がなかった。彼女の夫も最初は動揺していたけれど、私の知らないところで二人で腹を決め、結婚も出産もあっさりと決めてしまっていた。
 今となってはそんな彼女たちを羨ましく思う。
「二人ははたから見ても相性がいいと思うし、結婚すればいいじゃん」
「なんか……想像ができなくて」
「小夜に十分尽くしてくれるし、今だってほぼ同棲してるんでしょ? 何をそんなに躊躇ためらうの」
「……自分でもわかんないや。結婚ってなんだろうって、そればっかり考えてる」
「結婚して、子供ができて。人生の中で見つけた宝物のような家族がいるってだけで自信が持てて安心できるようになるよ」
「…………ああ」
「マリッジブルーか」
 そんな簡単な言葉にしないで欲しかった。深鈴が結婚を決めた頃から、自分が結婚に対して違和感を抱いていることに気がついていたのに目をそらし続けていた。自分の年齢はまだ結婚に適している気がしないし、相手もこちらの心の準備を待っていてくれるだろうと信じていた。でも違った。葉さんはこの穏やかで変化のない生活に一つの区切りをつけ、一生を共にしたいと手を差し出した。
 結婚をして夫婦になる。それはどんな感じなのだろう。みんな必要に迫られる状況でない限り、どういった理由で結婚に踏み込むのかわからなかった。深鈴が言うように家族という安心の〝形〟が欲しいのだろうか。
 葉さんとの関係に安心感は欲しいけれど、自分の未来にはまだ確信が持てない。
 店員さんがやっとくると、深鈴は待ってましたと言わんばかりにとしてメニューを開き、一番人気はどれかなど、あれこれ聞き始めた。お腹が大きくなってもライターの仕事はできると言って、仕事への意欲は消えていないようだった。そういえば妊娠した時も彼女は自分の夢が絶たれるという不安は一切口にしていなかった。今は以前にも増して光り輝いてまぶしいくらいだ。
 一番人気のチョコレートケーキを頼んだ後、付け加えるようにノンカフェインの紅茶ってありますか? と店員さんに聞いていた。
「私は、モンブランと、ブラックコーヒーで」
 今何ヶ月なんだっけと聞くと、もうすぐ八ヶ月になるよと深鈴はいとおしそうにお腹をさすった。
「そろそろ外に出るのは慎重になるけど、産んで落ち着いたら家に遊びにきてよ」
「ありがとう。会ってくれるのもうれしいけど、体優先でいいからね」
 そう声をかけると、あっ動いた! と深鈴はお腹に手を当て我が子の胎動を満足気に感じていた。触るかと聞かれたけれど、大きなお腹に触れることが怖くて、大丈夫、と断ってしまった。
 
 考えても考えても結婚に至る確信は見つからなかった。自分のワンルームのマンションにいると余計に現実味がなくなる。目の前には自分のものばかり溢れている。まくらの二つ置かれたベッド、ネコ脚の白いローテーブル、一人暮らしにしては大きすぎるテレビ、好みじゃないけど使ってるバッグ、しようをこぼしてシミのついたラグ。全てが自分の一部で、んでいる。
 ベッドの下の引き出しを開けると、ほとんど使われていない葉さんの着替えが仕舞われている。私は引き出しをそっと元に戻した。
 彼をこの部屋に入れたことは数える程だ。だからといって自分の空間が彼の空間と混ざり合うことが嫌なわけでもない。実際私は葉さんの部屋に転がり込む形で半同棲生活をしているし、彼の部屋は私のものや影で溢れている。葉さんはあまりにも簡単に、私という存在を受け入れてくれた。
 気分を変えたくてクローゼットの奥に仕舞い込んだ画材を出して机に広げた。B4サイズのスケッチブックに線を引く際の、画用紙の上を滑る鉛筆の感覚が懐かしかった。前は暇があればずっと紙に向かっていたというのに。明確な夢を抱き、作品を作っていた時間が一番自分と向き合い、自分を理解できていた気がする。だから、自分の本当の気持ちが知りたくて、ドレスを描いてみることにした。
 背中はざっくりと開いて、ウエストの位置はできるだけ高めに。腕をきやしやに見せるために細かなレースのそでを描き込んだ。すそが広がりすぎないストンとれいに落ちるドレスにするには布はどんな素材がいいだろうか。想像しながら鉛筆を走らせると、真っ白な背景の中で髪の毛をひとまとめにした表情のない女性が振り返りポーズを取っている。
 顔のパーツを描かないままパレットに白のアクリル絵具を絞り出した。その瞬間、手が止まった。
 純白のウエディングドレスだなんてあまりにも枠にハマったステレオタイプで、無意識に白を手にした自分にまいがした。
 鉛筆を手に取り、のっぺらぼうの顔に目鼻を描き足していく。振り返り笑っているのは私ではない。パレットに出したままの白の絵具を使いながらドレスを塗り、陰影をつけて全体を仕上げていく。
 完成したのは藤色のブーケを手にして満面の笑みを浮かべた深鈴の姿。
「深鈴が結婚式をするならこんなドレスを着て欲しいと思って描いてみたよ」
 描き上げたばかりの絵と共にメッセージを彼女に送った。
「小夜が私のために描いてくれたなんて感激だよー! 出産してからになっちゃうけど、こんな素敵なドレスが着れたら嬉しい! この絵、結婚式の時に飾りたいくらい」
 無邪気な返信を確認してから携帯を伏せて置いた。
 
 コーヒーショップでバイトをしていた時、毎日やってくる葉さんの顔とオーダーを覚えていた。首から下げている社員証を見る限り、彼は同じビルの中にある大手企業の社員だった。
「ブラックコーヒーの一番大きいサイズを熱めで、ですよね」
 彼が注文を口にする前に自分の口からオーダーが出ていた時、やってしまったと思った。人の顔と名前を覚えたり好みを覚えたりすることを得意としていたけれど、つい癖が出てしまった。
 常連のお客さんの好みやメニューを覚えるのはいいことだと教わっていたけれど、以前ここで同じことをした時に、いつも頼むものを覚えているなんて気持ちが悪いと大きな声を出されたことがあった。あの時のように嫌な顔をされ、とがめられたらどうしようと、私はうつむいて肩をこわらせていた。
「僕いつもそれですもんね」
 顔を上げると葉さんははにかんだ笑みを浮かべていた。凍ったように固まった体を、春の日差しが温めとかしていくようだった。
 シワのないスーツに綺麗に結ばれたネクタイ。細いフレームのメガネから堅い印象があった彼だけれど、メガネの奥の柔らかなブラウンのひとみとしっかり目が合った時、その視線に珍しく動揺して目をそらしてしまった。
「すみません。覚えてしまって、つい」
「恥ずかしいな。……じゃあ、〝いつもの〟、お願いします」
「いつもご利用ありがとうございます」
 彼のオーダーした紙カップの側面にごめんなさいと謝るウサギのイラストを描いて渡すと、「こんなわいいカップ初めてです。絵が上手なんですね」と、久しぶりに人に絵を褒めてもらえた。嬉しくなった私は彼が来る度に、彼のカップにだけこっそり絵とメッセージを書き込むようになった。メッセージやイラストはよく描くのかと聞かれた時、他のお客さんには内緒ですよと伝えると、ほんのさいなことなのに二人だけの秘密が生まれ、私たちはわずかな時間見つめ合って笑い合った。テイクアウト用のコーヒーカップはまるで交換日記のように私たちをつないでくれた。
 今日は午後から雨みたいです。
 素敵な柄のネクタイですね。
 髪の毛切りましたか?
 店先で交わせる言葉は多くはないけれど、カップを渡して絵を確認した後の彼の反応を楽しみにしている自分がいた。喜んでもらえる度に、自分の存在を認めてもらえている気がした。
 けれどふらふらとバイトをしている私に彼のようなな社会人は見向きもしないと思っていた。お客さんと店員。ただそれだけ。
 いつも午前中にだけやってくる彼が夕方にも顔を見せた日があった。
 珍しいですねと声をかけると、葉さんは、今日は何時に仕事が終わりますかと聞いてきた。
「もしよかったら、お互い仕事が終わってからお茶でも」
 コーヒーショップに来ておいてお茶に行きませんかと誘う彼は、意外と天然なのかもしれない。
「ごめんなさい。今日は用事があるので……でも、明日なら大丈夫です」
 葉さんの肩からふっと力が抜け、メガネをすっと押し上げた。
「……よかった。明日は何時に終わりますか?」
「明日は十八時には上がってます」
「僕の方は終わるのが十九時を過ぎてしまうので、申し訳ないですが待っていてもらってもかまいませんか?」
「はい。ここでゆっくり待ってるので、お仕事頑張ってくださいね」
「えっと、じゃあ」
「いつもの、ですか?」
 熱めのブラックコーヒーを入れるカップに、彼の似顔絵と共に明日楽しみにしていますと書き込んで渡した。
 彼は初めてのデートでコーヒーを飲みながら緊張気味に自分のことを話してくれ、としも社会的立場も全く気にせず、私という人間に興味を抱いてくれていた。まっすぐな、けれど少し不安そうな目をして、「お店で顔を合わせるだけじゃなく、きちんと話をしてあなたのことをよく知りたいと思って」と告げられた。そのまっすぐさに慣れていなかった私は、彼の視線に面食らった。ちょっと真面目すぎるけど、思ったことをストレートに伝え、駆け引きをしないところを信じてみてもいいかもしれないと思った。その日、彼からムスクの香りがすることに初めて気がついた。
 付き合い始めて程なくして私は彼の家に入り浸るようになり、バイトがない日は料理をして帰りを待った。美大生時代、自分が食べるための簡単な料理ばかり作っていたから、誰かに自分の手料理を食べてもらうことは緊張した。彼はいつもしいと食べてくれるけど、食事を作ることが当たり前になりいつかその言葉も聞けなくなるのかもしれないと思うと、私の心はわずかに乱れた。
 山登りが趣味の彼は休みの日に大学時代のサークル仲間と登山に行くこともあったけれど、土日のどちらかは必ず一緒に過ごしてくれていた。私よりも随分とちようめんなところがある彼は、登山から帰ってくると丁寧に靴の泥を落とす。ベランダから聞こえるブラシの音をBGMに彼のためにコーヒーをいれると、匂いに気分をよくした鼻歌が聞こえてくる。
 普通のカップルとして彼と共にトラブルなく生活をしている自分を顧みると、私も人らしい恋愛ができるのかと思えた。そうしているうちに気が付けば二年の月日がった。過ごしてきた時間と、彼の年齢を考えれば結婚の話が出てきてもおかしくはないのだ。
 シャツとネクタイの組み合わせ、靴を並べる順番。キッチンのタオルと、洗面所のタオルの違い。おしるの取り方に、お米の炊き加減。彼には細かなこだわりがあった。もちろん、それは私にも。一緒に過ごすうちにお互いの丁度いいがわかっていくけれど、うそとも呼べない小さな歩み寄りを繰り返しているだけ。そうするうちに自分が本当はどういう人間だったのかが曖昧になっていく。今回のことも彼の考えをみ取り、足並みをそろえることがこれから人生を共にし、添い遂げるために必要不可欠なことはわかっている。けれど「愛してる」と言ってくれる彼の差し出す手を取ることができず、その言葉を聞く度に心が立ち止まったままになる。

【続きは書籍でお楽しみください】


●著者プロフィール:
松井玲奈(まつい・れな)
役者、作家。1991年7月27日生まれ。愛知県豊橋市出身。著書に『カモフラージュ』、『累々』、エッセイ集『ひみつのたべもの』がある。

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