海路歴程 第十回<下>/花村萬月
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滋養があると思われる腸まで食った。太い骨は折り、髄を啜った。
腹に入れられるだけ入れておこうと、気合いを入れて食ったのだが、五人で食うには大きすぎた。食い切れなかった分を干し肉に仕立てた。
ところが海水に漬けて干したにもかかわらず、腐ってしまった。どろりとした腐敗が酷くて、さすがに口にするわけにはいかない。いや口にできない。無理に口に運ぶと、厭な唾が湧いて嘔吐してしまうからだ。
腐臭というものは、それを口にしたら危ないという天からの警告だ。
鼻を抓んで、泣く泣く腐って溶けかけた干し肉を海に棄てた。けれどまだ肉がこびりついた骨が残っていて、これが強烈な腐臭を放っている。
甲板で盛大に腐肉の臭いを放っている鮫の骨を見やり、蠅さえもたかりにこねえ──と貞親は胸中で吐き棄てる。
ここまで厭な臭いがするものを御叮嚀に安置しておくのもおかしな話だが、誰もが骨を海に棄てる労を考えただけで萎えてしまい、鮫だった腐敗物は放置されたままだ。
貞親は鮫から目をそらす。漠とした海の拡がりに視線を投げる。
流されていることに変わりはないが、どうも同じところをぐるぐる回っている気配だ。もちろん島影や陸が見えるわけではなく、視界のすべてが、海だ。だから確信を抱くだけの材料はないが、そんな気がする。
「貞親の勘は当たるからなあ」
「なんかいい方策が、ありゃあいいんですけど、からっきり泛ばねえ」
「貞親が思いつかねえなら、俺に思いつく道理がねえさ」
鮫の血と肉が全身にまわったはずだが、船頭も碇捌も貞親も、尋常でない怠さが抜けずに難儀していた。ただし毛穴からの出血は止まった。
元気になったのは爨だけである。若さゆえかと船頭以下、苦々しく見やる。骨を棄てろと命じても、返事だけで手をつけようとしない。
倦怠が酷くて爨を殴る気にもなれない。貞親たちは船縁に座して動けず、口を半開きにしたまま、爨が蘭引で真水をつくるのを虚ろな目で見守る。
水が飲みたい一心で爨は蘭引を船尾に据えて、船板を燃やすのだ。
いまのところ爨が水を独占することもないので、気力が削げてしまった貞親は投げ遣りに、まあいいか──と胸中で呟くばかりだ。
残念ながら親司は、ときに譫言を洩らすばかりで意識がない。
今朝の爨は板きれにうまく火がつかず、癇癪を起こしていた。その姿を反芻しながら、貞親は顔を顰めて独りごちる。
「吐きもどすくれえ飲んでみてえ」
問題は、水なのだ。水がないことだ。このままだと早晩、破綻する。
自身の軀の状態から類推すれば、十日や二十日食わずにいても簡単に死にはしないが、水がまともに飲めなければ、数日で事切れてしまうだろう。
ぢっと貞親は手を見る。ずる剥けてしまった掌はまったく治らず、それどころか膿んでしまって熱をもち、鋭く痛む。
碇捌など掌の肉が削げて骨や筋が見えるほどだが案外、気にしていないようで飄々としたものだ。船頭も素手で碇綱を扱ったので、その掌はなかなかの崩潰ぶりだ。ところが爨の掌はたいした傷もない。
鮫狩りのさなかは爨の様子など見ている余裕もなかった。けれど掌を見れば、どの程度の仕事ぶりだったか一目瞭然だ。
向かっ腹が立って仕方がないが、貞親は軀がまともに動かないので諦めの境地だ。いま爨と遣り合えば、殴り殺されるのは貞親のほうだ。爨の顔を見ないようにして喉の渇きを耐える。
傍らに座る船頭が、ぼそりと呟く。
「雨、降らねえな」
「降らねえですね」
「きついなあ」
「きついです」
「俺ってばさ」
「へえ」
「前世で、相当悪いことしたのかな」
現世でだろ、と貞親は船頭の顔を見やる。船頭は貞親の視線を感じて頬をかく。
「蘭引も能書きとちがって、まともな役に立ちもしねえ」
海水を沸かして湯気を上部で冷やして真水の水滴を附着させ、それを脇に伝わせて集めるという仕組み自体が、実用には無理があるのだ。それでも船材を薪がわりにして雫を集めるしかないのだが。
「磁石も本針と逆針を揃えてたって、あっさり潮水が入っちまって──」
「ムカつくのはよ、蘭引も磁石も外見だけは華美に拵えやがって、実際は使い物にならねえってことだ」
うわべにだまされて買い込んだ船頭も間抜けだ、と貞親は胸中で嘲笑する。
「愚痴をこぼしても仕方ねえか」
「──ですね」
手前勝手な船頭だが、暗く鬱ぎ込まないところが取り柄だ。船頭と碇捌は情況に淡々と対処する。
それに比して俺は、ちょい暗え、と貞親は自嘲した。水さえ飲めれば、いくらでも懺悔するから、雨よ降れ──。
「懺悔?」
「どした?」
「近ごろ、自分でも自分がなにを言ってるのかわからなくなることがある」
「おいおい、しっかりしてくれよ、貞親殿」
「なんか俺って、口にしてることに筋が通らなくなってるんじゃねえですか」
「べつに」
船頭は素っ気ない。もっと構ってほしいという奇妙な気持ちを貞親はもてあます。そんな貞親をじっと見つめ、船頭が呟く。
「口にすることに筋が通らねえってのは、俺のことだろ」
「わかってんですかい」
「まあな。筋を通せば道理が引っ込むっていうよな。けどよ、道理を通せば筋が引っ込むってのが正しいんだぜ」
「なるほど」
と、受けはしたが、船頭の言っていることはもっともらしいが中身はない。あるいは鋭いのかもしれないが──。
「雨乞いの禱りでもしますか」
「やなこった」
「ですよね。ますます喉が渇くだけだ」
「そーいうこと。ま、こうして無駄口叩いてるのも喉が渇くけどな」
ぼやいた直後、船頭が鋭い目つきで貞親を見据えた。
「なあ、おめえ、爺になけなしの水を吸わせてるだろ」
貞親は一呼吸おいて、頷いた。船頭が力の入らぬ声で捲したてる。
「あれっぱかしの水を得るために、どんだけ苦労してるか。爨を生かしてるのも、水を得るためだぜ。あの餓鬼がくたばったら、誰が甲陽丸をぶっ壊して蘭引の火を燃やす?」
「ああ、まあ」
「なーにが、ああ、まあだよ。もし、てめえの言ってることに筋が通らなくなってるとしたら、そりゃあ水気が不足しまくってるからだ。俺だって、えれえ朦朧としてるときがあらあな」
落雷に打たれ、波浪にいたぶられ、鮫に破壊された甲陽丸は、いまでは薪代わりにされて、見るも無惨な有様だ。
水ほしさに甲陽丸をぶっ壊していけば、沈没の心配をしなければならなくなる。いまの甲陽丸は、大きな横波がくれば、浸水して、間違いなく沈む。
貞親は船頭から視線をそらし、すっかり伸びた無精髭に無意識のうちに触れる。
毎朝、蘭引でつくりあげた微々たる水を手拭いに染ませて、親司の口にあてがってやっている。
昨日まで親司は、ちゅうちゅう水を吸っていたが、今朝の親司は、もうそれを吸う気力もなかった。それでも貞親は、手拭いがほぼ乾いてしまうまで親司の口に手拭いを宛てがい続けた。
「明日も、やんのか?」
「──親司が生きてる限りは」
「もう、やめちまえよ」
「いやだ」
「とっとと逝かせてやるのが人情ってもんじゃねえか」
それは人としてできねえ、と返したかったが、貞親は考えこんでしまった。
親司はあきらかに寿命を迎えている。死にかけている人間を存えさせるのは、正しいことなのだろうか。
だが、存えさせようとしなくなったとたんに、己の心が死ぬだろう。
貞親は血管の浮いた蟀谷に指先を当て、眦を決して思案を巡らす。無駄なのはわかりきっている。けれど、人としてせずにはいられない。
いや、そんな綺麗事ではない。
貞親だって水が飲みたい。喉から手が出るとはよくいったものだ。けれど自分の分の水を親司に吸わせているのだ。
必死だった。ほんとうのところは、意識がないままちゅうちゅう水を吸う親司を見おろしているうちに、とっとと死んじまえ! と叫びに近い呻きのような声が胸の奥でする。
それなのに、親司に水を吸わせる。
じつは、これが末期の水になるだろうという期待さえ抱いて──。
貞親は脱水で干からびた唇を指先でなぞって、深く切ない吐息をつく。
「なにやってんだ、おめえは」
船頭の遠慮会釈のない声が刺さる。
「本音を言ってやろうか」
「言ってくだせえ」
「貞親は薄気味悪いぜ」
「薄気味悪い」
「てめえの献身は、厭な臭いがするんだよ」
「厭な臭い」
「いちいち繰り返すんじゃねえ」
船頭はいったん息を継いで、薄笑いを泛べて続けた。
「結局、おめえがやってんのは、仏の道みてえなもんだろ。んなもん、余裕のあるときにぶっこきやがれ。親司を生かして、なんかいいことがあるのか? まったく物の役に立たねえじゃねえか」
「そんな物言いはねえじゃねえですか!」
「気色ばむなよ。喉が渇くぜ」
「けど──」
「俺は、こう思うんだ。親司はもう、死にてえ」
「けど、当人に訊いたんですかい?」
「訊いたって返事しねえじゃねえか。これすなわち、死にかけてんだよ」
「けど」
「けどけど五月蠅えよ。見るからに息してんのが苦しそうじゃねえか。俺が見たところ、親司は死にてえって訴えたいんだけどよ、それをする気力も体力もねえんだよ。なんだ、おめえ、善いことをしてるつもりか?」
「けど」
船頭が苦笑いした。貞親の頭をポンと叩いた。
「ま、それが、おめえの好いとこかもしれんけどよ、やっぱ薄気味悪い。あの鰐の骨よりも厭な臭いがするんだよ」
船頭は貞親を睨み据えた。
「おめえ、爨を食ってでも生き延びるつもりだっただろ。親司も爨も、同じ肉。ならば、てめえが、生き抜け」
船頭は声を落として、貞親の耳の奥に声を押しこんだ。
「それが、俺の言いてえことだ。言いてえことは、それだけだ」
貞親は放心していた。極限の飢えと渇きである。たらふく飲んで食ってるときは、人の道もいいだろう。けれどいまの情況で、真の人の道とは、いったい──。
貞親は目頭を揉んだ。
実際は、親司の死苦を引き伸ばしているだけではないか。貞親の善意に、いったいなんの意味があるのか。自分の満足にすぎないのではないか。
疑問煩悶で頭がぐるぐる回りはじめて、貞親は両膝の間に顔を突っ込んで、静かに呻吟した。
「おい、貞親」
弾かれたように顔をあげる。
「でけえ鳥が、骨に引かれて降りてきたぞ」
「──信天翁だ」
「いいなあ、信天翁は。地面に引っついていねえと生きてけねえ人ってえのは、じつは不便で不幸だぜ」
貞親は首を左右に振った。
「なんでえ、なに笑ってんだよ」
「いえね、信天翁ってやつは、羽ばたけねえんですよ」
「どういうことだ?」
「羽ばたいて舞えない。風に乗らねえと、飛べねえんですよ」
「ほんとうか!」
「飛ぶときは、あの水かきのついた脚で海面を小走りに走って向かい風を受けねえと、舞い上がれねえんですよ。棒でぶっ叩いてぶっ殺しましょう」
腐臭漂うぶっとい骨も露わな姿の鮫の成れの果てを、海鳥がつつく。巨鳥である。船頭が爨に命じる。
「とっとと梶棒、もってこい」
爨は船頭がなにをしようとしているのか悟って、意外な勢いで船尾に転がっている折れた梶棒をもってきた。
強靱な樫の棒である。船頭が近づいても、信天翁は人を知らないから怪訝そうに見やるだけで、逃げようとしない。
ふん! と気合いを入れて船頭が梶棒を振るった。滅多打ちにした。あっさり撲殺できた。船頭が息を切らせて言う。
「貞親、おめえの言うとおりだ。こいつら、ほんとに阿呆鳥だ」
「干し肉にしとかねえと」
「潮水に浸けて干せっていうけどよ、しょっぺえからなあ。あげく腐って、とろけやがった。鰐で懲りてるだろうが」
水がないときに、塩辛いのは最悪だ。貞親が顔を顰めていると、船頭は包丁で信天翁の首を落とし、血を啜りはじめた。
「てめえの分は、てめえでぶっ殺せ」
貞親の前に梶棒を投げてよこした。よろよろと立ちあがった貞親は、煮凝りのように固まった鬱憤を晴らすかのように信天翁を撲殺した。
船頭が包丁を投げてよこしたので、首を切断して血を啜った。羽毛が口の中に入って丸まって、気持ち悪かった。
船頭と貞親をじっと見守っていた碇捌が小さく咳払いすると、梶棒を振るった。
さすがに信天翁たちも、撲殺されることを悟り、おたおたと海面に逃げた。
碇捌が首の切断面に口をつけ、血を啜っている。それを凝視していた爨だったが、碇捌には声をかけられず、貞親に泣きそうな顔ですがった。
「哥、俺にも吸わしてくれ」
「てめえの分は、てめえで獲れ」
「でも、みんな海に逃げちまったよ」
「なら、耐えろ。耐えやがれ」
爨は呆けた。口を半開きにして、へたり込んだ。
船頭も貞親も碇捌も、完全に爨を無視し、雑に羽を毟り、巨大な鳥を抱え込み、引き千切る勢いでむしゃぶりついた。
虚ろな爨に目もくれず、船頭が貞親に訊いてきた。
「鳥がくるってことは、陸が近いんじゃねえかとも思うが、どうだ?」
「船頭の気持ちもわかる。俺もいっしょだ。けど、こいつらは風に舞って凄え距離を飛んできて、肉の臭いを嗅ぎつけたんじゃねえかな。信天翁ってのは、まともに羽ばたけねえかわりに、風に乗れば呆れるくらいの距離を飛ぶっていうし、なによりも人が住まぬ孤島に巣をつくるってきいた」
一気に喋って、貞親は要領を得ない内容に舌打ちしたくなった。やはり頭がまともに働かない。だから、じつは喋った直後にもかかわらず、なにを口ばしったかわからなくなってしまった。
実際はそれほど酷いものではないのだが、貞親は過剰なまでに頭が働かないという妄執に囚われていた。船頭が忖度せずに、口ばしった。
「くそ。無人島か。人なんて、住んでなくてもいいから、固い地面を踏みてえ」
無精髭に覆われて鍾馗様のような船頭の貌を貞親は力なく見つめ、歪んだ作り笑いを泛べた。
このころ甲陽丸は鮫の残骸を目指して信天翁が飛来したことからもわかるとおり、信天翁の棲息地である無人島、尖閣諸島の北方を揺蕩っていた。
南に下れば先島諸島の石垣島や西表島があり、西は台湾である。
甲陽丸は亜熱帯海洋性気候を漂っている。気温そのものよりも陽射しが強烈だ。
風も季節の変わり目に合わせて、シベリアからの大陸高気圧によって起きる乾いた北東の季節風と、海洋から育つ太平洋高気圧による湿り気のある南風が交互に吹いて甲陽丸を弄んでいた。
甲陽丸は北と南の高気圧にいたぶられているのだ。貞親が口にした、同じところをぐるぐる回っている──というのは、正確には洋上を行ったり来たりしているということで間違ってはいなかった。
信天翁は二度とやってこなかった。貞親も船頭も碇捌も巨鳥を抱え込み、折々に肉を啖い、体液を啜った。爨には一片たりとも与えなかった。
爨が近づくと、貞親は手近な船材を振るった。さらに鮫狩りのときの錆びた脇差を傍らに置いていた。
貞親の神経は変に研ぎ澄まされて、過敏になっていた。爨の気配が近づくと、脇差に手をかける。
爨はぺたんと座り込み、声をあげずに泣いた。泣き続けた。貞親は嘲笑った。
無様に泣きやがると、涙で軀ん中の水気がどんどん出ていっちまうぜ──。
数日後、まわりに散っていた真っ白い羽はとっくに風に消えて、とことんしゃぶられた骨だけが残されていた。
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貞親たちが信天翁を食い尽くすと、爨は刃物などで脅されてやっていた蘭引で水を得る作業を、言われなくとも自ら行うようになった。黙ってしゃがみ込み、蘭引の下に薪代わりの船板を組んで火をつけ、雀の涙の水を拵える。
折檻が怖いのか、爨は律儀に船頭以下に水を持ってくる。貞親たちは横柄に、ほんのわずかの貴重な水を啜る。どことなく気が引けて、爨にもちゃんと水を与えた。
一方で貞親は親司に水をやらなくなった。親司は干からびはじめて、頭蓋のつなぎ目がわかるほどの細い木の枝のような軀になってしまっていたが、まだゼイゼイと弱々しく息をしていた。
船頭が親司の様子を覗いて、まだ息してやがると吐き棄てた。どさりと貞親の横に座りこむ。親司が横たわっている方を横目で示して問う。
「なあ、貞親。死んだら、食うか?」
「まあ」
「ってことは、食うか」
「たぶん」
「なら、とっとと死なせて、多少なりとも肉が付いてるうちに、食えばよかったじゃねえか」
貞親が落ちくぼんだ目で船頭を一瞥し、囁くような掠れ声で言った。
「あんたが俺の心を、ぶち壊したんだ」
「あんた? 誰に向かって口きいてやがる。殺すぞ、てめえ」
「好きにしてくれ。もう、ぜんぶ、どうでもいい」
「けっ。殺してやったら、てめえを救っちまうことになるじゃねえか」
貞親は大きくまなこを見ひらいて、天啓を受けたかのような顔つきになった。
「船頭」
「なんだよ」
「救ってくれ」
「ったく、弱々しいなあ。爨を見てみろや」
貞親は、もうたくさんだといった気配を隠さずに吐き棄てた。
「あの餓鬼は、なんであんな元気なんだ?」
「ものを考えねえからだよ」
「ははは」
「情けねえ笑いだなあ」
「なあ、船頭。俺はちゃんと筋が通った喋りをしてるか?」
「まだ、そんなことをほざいてるのか。鬱陶しい奴だなあ」
「そうだ。俺は鬱陶しいんだ」
「まいったな。開き直りやがった」
会話はそこで止まった。貞親は薄眼を閉じた。肉が落ちたせいで異様に高く見える親司の鼻が瞼の裏に貼りついて離れない。
甲陽丸は気まぐれな風によって、台湾の北方に流されていた。さらに気まぐれな風によって西に流されれば、中国大陸は温州あたりである。
風は柔らかだが、優しさはなかった。甲陽丸は漠とした東支那海洋上をとりとめなく彷徨くばかりだ。
貞親は甲陽丸周辺の海が、その色彩から、それなりに浅いことに気付いていた。貞親は知る由もないが、世界最大といわれる黄海から連なる抽んでて宏大な大陸棚の海を、甲陽丸は行方定めず漂うばかりであった。
浅いといっても水深は平均して百九十尋(349m)超である。足が着くわけでもないし、人にできることなど、なにもない。
「くそっ」
碇捌の荒い声がとどき、貞親はゆっくり目をひらいた。力なく訊いた。
「どうした?」
「奥歯まで抜けやがった」
碇捌は血塗れの歯を拇指と中指で抓んで示した。貞親は、思う。歯の根というもの、意外に長い。しかし鮮やかな血の色だ。俺たちは死にかけだが、血だけは赤い。
「ひょっとして全部抜けた?」
「いや、右の奥歯はまだ残ってる」
「痛えか」
「痛えけど、なんか悔しい。腹立たしい」
そんなもんか、と貞親は口唇から血の泡を洩らしている碇捌を凝視する。貞親は衝動と闘っていた。
吸いたくて、たまらないのだ! 碇捌の血を吸いたい。涎まじりの血を吸いたい。
碇捌は貞親の視線に不穏なものを感じとって、よろけながらも立ちあがった。貞親から逃げだして、爨のほうに行った。ふてているのか、爨は仰向けになって眠っている。
力なく貞親は碇捌の背から視線をそらし、大きく顔を顰めた。親司のゼイゼイいう不規則な呼吸が耳について苛立たしい。
「表!」
碇捌の大声に、貞親は腹立ちを覚えて睨みつける。けれど碇捌は泡を食って表表と連呼している。
「なんだよ、喧しい」
「死んでる」
親司はゼイゼイいっている。まだ息をしてやがるではないか、と貞親は無視して目頭を揉んだ。船頭が気怠げに叱った。
「糞五月蠅えよ。たいがいにしろよ。煩わすな」
「けど、死んでんだよ! 餓鬼が死んでる」
貞親は、餓鬼──と口の中で呟き、仰向けになって転がっている爨に視線を投げる。
〈以下次号〉
(次回に続く)
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