海路歴程 第二回<下>/花村萬月
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女は昼間は潜り、夕刻には十右衛門をつれて父、政次の許に出向き、こまやかな気配りで面倒をみた。
まったく喋れぬほどに衰弱している政次だが、枯れ木と化した腕を力なく動かして癇癪を破裂させる。
怒りの理由がわからず、十右衛門にはただの理不尽にしか感じられない。我儘を通り越して、もはや悪意のかたまりである。
政次が振り払ったせいでこぼれた潮汁を始末し、女はあらためて汁を用意する。
咀嚼ができない政次が滋養をとれるようにと白身の魚をかたちがなくなるまですりつぶして混ぜるという心遣いの一杯だが、政次にはまったく通じないのだ。
膝をついて床を拭く女の姿を落ち着きなく見つめて十右衛門は言う。
「姐さん、もうこんな奴は抛りだそう」
「そうはいかん。寿命までは、世話をする」
「襁褓まで替えてやってるんだぞ。なにが不満か」
女はしばらく考えこむような貌をみせた。
「不満か。生きていることだな」
「ならば、とっとと死ね」
十右衛門の頬が爆ぜた。
「なぜ叩く!」
「生きることは、苦しいことだ。おまえにもわかるだろう?」
「わかるとも。生きるってのは最悪だ」
「だがな、死ねないんだ。人は、死ねない」
十右衛門は父を見おろす。
「偉そうにあれこれ吐かしてるんだ。自害すればよいではないか。腹を切れ」
「腹を切る。それは筋違いだろう。政次には主君もおらぬし、百姓は腹を切らぬ」
十右衛門は顔を歪めた。
「──姐さんの言ってることは、なんとなくわかるよ。どんなに苦しくたって、なかなか死ねないんだ」
「そうだ。おれだって死にたいと幾度も思った。けれど死ねない」
女は石の錘をたくさんつけて海の底深く沈んだ。静やかにその身を海底に横たえた。胸の上で両手を組んだ。
女のまわりの海藻が海流に忙しなく踊り、肌を擽る。
夜の海は魚たちが動きまわるので、意外に喧噪に充ちていた。
息を詰めたまま見あげても海面は見えず、暗黒が嘲笑うように揺れていた。
やがて息に限界がきた。
「海水をしこたま飲んださ」
烈しい耳鳴りが襲った。
「無様の極みだったな」
石の重みで軀は海底にきつく固定されて、もはや死体だった。
「胸にまで水が這入った」
きつく閉じた瞼の裏側で、銀白の光が不規則に明滅した。
「その光を見たとき、ああ、死ねる──と安堵したんだがな、気付いたら海面に浮いていたよ」
女は半眼になった。
柔らかく笑んでいた。
一瞬、菩薩に見えた。
「おれは雲から顔をだしたまん丸のお月様の蒼い光を浴びて、仰向けで波間に揺れていたな。静かだったよ。沁み入るような静けさだった」
「姐さん」
「なんだ」
「死ななくてよかった」
十右衛門は縋りついて泣きだした。女は優しくその背を撫でる。そっと囁く。
「親父を見ろ」
父も泣いていた。
その唇が、弱々しく動いた。
声にならない声を読み解いた。
殺してくれ──。
十右衛門の涙が凍りついた。
病魔は鋭利な刃物で父を切り刻んでいる。さぞや痛く、苦しいことだろう。
殺してやりたい。
楽にしてやりたい。
そうすれば十右衛門も解放される。
けれど、できない。
十右衛門には、無理だ。
「だったら、世話をするしかないだろう」
十右衛門の耳の奥に囁く。
「つきっきりで看病してるわけじゃない。非道い物言いだが、やがては──」
「そうだ。そうだな」
また来ます──と、女は政次に短く辞去の言葉を投げた。
政次は十右衛門と女を目で追い、幽かに頷き、力なく目を閉じた。とたんに政次の全身を闇が覆った。
夜道を相賀浦に下っていく。
その途中で、怺えられなくなった十右衛門は立木に抱きつくようなかたちを女にとらせて、その背後から挑んだ。
女の臀が月の光を妖しくはねかえす。
十右衛門は女の腰骨をつかんで疾駆する獣の息で烈しく暴れる。
女は十右衛門に負けぬ喘ぎと呻きのさなかに首をねじまげて十右衛門を見やる。
なにかを口走るのだが、明確な言葉にはならない。
それでも十右衛門は女がなにを言ったのかわかる。
こうしているときは、軀だけでなく、心と心がつながっているのだ。
女が鋭い泣き声で充ちたことを訴え、小刻みに痙攣する。
あわせて十右衛門は不規則に痙攣し、女の背にのしかかって動きを止める。
冬を越した首螽斯の、ぢーぢーぢーという鳴き声が、急にしっとり湿った夜気を覆いつくす。
十右衛門と女は、いつでも、どこでも番った。際限なく番った。
閨で番うときは、女が十右衛門に女がどのようにしたら快を得られるかを、事細かに教えた。
いくら番っても、慾する気持ちはおさまらなかった。
十右衛門は女の虜になっていた。
女も十右衛門の桁外れな若さに圧され気味だったが、よく応え、烈しく、切なく啜り泣いた。
女と十右衛門が際限なく生命を謳歌している秋口に政次が死んだ。
貧相な畑の脇に埋めた。
近くに転がっていた石を墓標にした。
荒れ地なので、幼いころから十右衛門が必死で取りのぞいた大きな石がたくさん転がっているのだ。
物心つく前から必死に耕してきた畑を十右衛門は凝視する。
十右衛門は決心していた。
もう、ここにはもどらない。
父からも、荒れ地からも逃れられる。
清々した気分だ。
十右衛門も女も涙を流さなかった。
ふたりは神妙な貌をつくってはいたが、心窃かに解放感に浸っていた。
それに加えて、病に苦しみぬいていた政次にとって、死は救いであるという実感を得ていた。
翌日、十右衛門は女になかば無理やり海人の親方のところに連れていかれた。
親方は夜に溶けこむような赤銅色の肌を闇に溶かして胡坐をかき、柱に寄りかかって気怠げに煙管を喫っていた。
刻み煙草の青白い煙に顔を顰め、女は上から見おろして言った。
「相変わらずしょうもない。船を操り、海に潜る男が煙管を喫って息を切らして、皆に示しがつかんだろうが」
親方は突っ慳貪な女の苦言を真顔で受け、手をのばすと煙管の雁首を戸口の框に打ちつけ、赤熱した煙草を土間に落とした。
「相変わらず藍はきついなあ」
「おれは当たり前のことを言っている」
「うん。藍には逆らえん」
女は親方の脇に平然と座る。
十右衛門は所在なく立ち尽くす。
「この小僧か。過所牒を与えてやってほしいのは」
十右衛門には話がまったくわからない。
いままでと打って変わって、女が親方の肩を揺すって哀願する。
「親方。頼む。名主にもそっぽを向かれてるんだ。通行手形は無理だ」
勢いこんで重ねる。
「この子が陸からは江戸に行くのは、難しいんだよ」
親方は女の剣幕にやや引いて、十右衛門をじろりと一瞥して言う。
「藍よ、なぜそこまで小僧に入れ込む?」
女は拳に力を込め、力んで答える。
「並みではないのだ。とんでもない男だ」
「どのような」
「──わからん」
親方は面白がるような調子で、けれど『わからん』と応えた女を苦笑気味に見やり、十右衛門に視線を据えた。
「なるほど、並みではないなあ。わからんのだからなあ」
「ああ、わからん。わからんがな、十右衛門はおれが見込んだ男だ」
「いいよ。藍が、そこまで言うならば、過所牒。与えよう。好きなところに行けるようにしてやろう」
親方の罅割れた唇が歪む。
「おい、小僧」
「──はい」
「ここから出てろ」
「なぜ」
「なぜって、おめえの過所牒に関して、内密な話があるからだよ」
不服だが、逆らうこともできない。十右衛門は聞き耳をたてながら外にでた。
「なあ、親方。おれは十右衛門をなんとか江戸にやりたいんだ」
「まるでお袋だな」
「そうだ。おれは十右衛門のお袋だ」
あとは抑えた声のやりとりになってしまって、聞こえたのは、そこまでだった。
十右衛門は手持ち無沙汰を持てあまし、波打ち際にでた。水温があがってきたせいで海蛍が青白く明滅している。
「お袋──か」
齢十三、ぽつりと呟いて、べたりと浜に座りこむ。
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十右衛門は一晩中、女と番った。
女は十右衛門を離さなかった。その体内のすべてを搾りとるかの勢いだった。
十右衛門もそれに応えたが、朝の鳥の声が聞こえるころに限界がきた。心も軀も無になって、仰向けになったまま中空にぽかんと浮いているかのようだった。
それでもどうにか意識がもどってきて、そっと首をねじまげて傍らの女を窺う。
虚脱しつくして放心した女は、目尻から幾筋か涙を流していた。射しこんだ朝の陽射しに、涙が光った。
満ち足りたからか、それとも別れが悲しいのか。十右衛門には判断が付かなかったが、胸が締めつけられた。
「なぜ、泣く」
「泣いてない」
「涙が流れているではないか」
「気のせいだ」
十右衛門は意地悪く女の目尻から耳許に流れた涙の痕に指先で触れた。
とたんに悲しくなった。
居たたまれなくなった。
女の胸に顔を押しあて、啜り泣いた。
「どうしても行かなくてはならぬか」
「ならぬもなにも、どこかに行ってしまいたいと言ったのは、十右衛門、おまえだ」
「撤回だ。姐さんと一緒にいる」
「諄いぞ、おまえも男だろう」
十右衛門は女に睨みつけられ、さえぎられてしまった。
しばらく睨みあった。
先に視線をそらしたのは、女だった。
十右衛門の胸を掻き抱くと、声をあげて泣きだした。あわせて十右衛門も手放しで泣きだした。
どちらからともなく泣き疲れて転がる。ふたり並んでぼんやり天を仰ぐ。
「おれはもう泣かぬから、十右衛門もこれから先、絶対に泣くな」
「──泣くものか」
「そうだ、その意気だ」
女は胸に十右衛門を抱きこむと、囁き声で言った。
「一人前になったら、ちゃんと飯代百両、持って帰ってくるんだぞ」
十右衛門は女の胸できつく頷いた。
女は十右衛門の頭を丹念に撫で、促した。
「さ、そろそろ出立しないと」
十右衛門は無表情に起きあがった。
女は両手をついて大儀そうに軀を起こし、十右衛門に手ずから仕立てた木綿の三枚袷を着せ、馬子にも衣装と笑った。
十右衛門は笑わなかった。
真新しい草鞋が用意されていた。女は十右衛門の前で膝をついて、緒を乳に通そうとして幾度も失敗した。
「草鞋も結べんのか」
十右衛門が心にもない憎まれ口を投げつける。女はむきになって草鞋にとりついた。
左右の草鞋がきゅっと結ばれたとたん、十右衛門は顔をあげた。
涙がぽろぽろこぼれた。
女が顔を寄せ、涙を舐めた。
丹念に、叮嚀に涙を舐めあげた。
十右衛門が泣きやむと、吐き棄てた。
「朝起きたら、顔くらい洗え」
十右衛門は女の額に頭をゴツンとぶつけ、しばらく動かなかった。
女はいつだって猫の親のごとく十右衛門の体液という体液を綺麗に舐めあげた。母を知らぬ十右衛門は、その身を完全に女にまかせて、放心の幸福を味わった。
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寝不足と心細さと愛惜を抱えて亘理荒浜の湊に向かった。
袷の胸の奥の過所牒をぐっと押さえる。潮を浴びるからと、女が油紙で包んでくれたものだ。一緒に餞別の小銭が入っている。
荷物と呼べるものはない。まさに手ぶらで女の荒ら屋からでた。
親方から話は通じているし、過所牒があるから、食うことも含めてなんの心配もするなと言い含められていた。
心細くないといったら嘘になるが、気楽といえば気楽だ。
今日は潜るからと言い張って、女は十右衛門を亘理まで送ってくれなかった。桶と貝起しをもって十右衛門といっしょに荒ら屋をでて、舫ってある舟のほうに姿を消した。
女の背を見送った十右衛門は、口が閉じなくなっていた。熱く満ち足りた女との夜が脳裏を駆けめぐる。
一人前になったら、ちゃんと飯代百両、持って帰ってくるんだぞ──と、女は最後の一滴を搾りだした十右衛門に囁いた。
十右衛門は女の胸で大仰に頷いた。
いかにも誠実そうであったが、大仰なところからもわかるとおり、心のどこかで女を棄てていた。
十右衛門はもともと別の土地に行きたいという思いが強く、重しだった父も死んだ。
さらに女に雄飛する姿を吹きこまれたこともあり、まだ見ぬ世界に対する昂ぶりに支配されていた。
それは覇気のある十代ならではの心の動きである。
亘理荒浜に係留されていた船は思いのほか小さく、帆布の汚さに十右衛門は旅立ちに水を差されたような気分になった。
「船頭殿は、どこでしょうか」
「船頭殿ときたか。俺だよ」
「相賀浦の親方から過所牒を戴いてまいりました」
どれ、と船頭は過所牒に目を通した。
唇を動かしてたどたどしく読んで、十右衛門と過所牒を交互に見た。得心のいかぬ様子で、あらためて十右衛門の顔を見なおした。
そこへ船主がやってきた。船頭から過所牒を受けとり、黒眼を上下に動かして一字一句あまさず叮嚀に読んだ。
船主が船頭に耳打ちする。
船頭は不服そうに唇を尖らせたが、気を取りなおして船に招き入れた。
どうやら過所牒には十右衛門に対して充分以上の扱いをしろと記されているらしい。
十右衛門は親方の心遣いに感激した。女はなんらかの力をもっているようで、じつに大切にされ、あわせて相賀浦の海女も、数少ない男たちも総じて十右衛門に優しかった。
女の顔が泛んだ。
目をしばたたくようにして追い払った。
舫いが解かれた。
十右衛門は風を孕む帆を見あげた。
なぜ船が望んだ方角に動くのか理屈がわからず、腕組みをして考えこんでいると、船が五ヶ所湾からでた。
いきなり横波が打ちつけた。
大きく船体が揺れ、平衡を崩した十右衛門は飛沫を浴びながら転げそうになった。
水夫が十右衛門を一瞥した。その目にはあきらかな嘲笑があった。
嘲笑われたら、逆に懐に飛びこめ。
そう女に教わっていた。
覚束ない足取りで水夫に近寄った。
「兄さんは、こんな波でも見事に立っておられる」
「こんなのは、波のうちに入らねえ」
「舟に乗るのが初めての初心な俺です。皆さん、じつに心強い。ところで東宮の集落は、どのあたりでしょうか」
水夫は顎をしゃくった。目の前の断崖からわずかに覗ける山が東宮集落らしい。
十右衛門は水夫に満面の笑みを向けて礼を言うと、東宮集落があるあたりを見あげる。
集落は山の麓にあったが、父と十右衛門はそこから追い出された。
十右衛門は委細を知らない。けれど追い出されるには理由があったに違いない。なにしろ、あの父である。
相賀浦のたいして高くない山上近くにどうにか居場所を見つけ、石塊と格闘して極貧のあげく父は死んだ。
「石塊と格闘したのは、年端もいかぬ俺だ」
独白して、船縁をつかんで転ばぬよう算段しつつ、父と暮らした小山を見あげる。
見あげすぎて首が痛くなった。
十右衛門は小山から視線をはずすと、胸中で呟いた。
──二度ともどらぬ。
もはや女の姿も脳裏にない。
生まれた土地を棄て去ることを大仰に決心して己に酔っていると、爨きが十右衛門を呼んだ。
船室で船頭と正対して、船頭が口をひらく前に、十右衛門は勢いこんで訊いた。
「江戸にはいつ、着きますか」
船頭は苦笑いようなものを片頬に泛べ、首を左右に振った。
「江戸には着かん」
「着かん!」
「この船は、豆州は下田の湊までだ」
豆州というと、伊豆のことだ。狼狽顔の十右衛門を見やって、船頭は鼻で笑った。
「案ずるな。過所牒があるんだ。下田から先はまた別の船を見つけて、江戸に着くなり房州小湊に着くなりってとこか」
十右衛門が胸を撫でおろすと、船頭は続けた。
「荒れれば、あるいは風待ちで、他の湊に入るかもしれぬ。ゆえにいついつまでにとは、なかなか言えん」
はい、と神妙に頷く十右衛門である。
船室は狭く暗く、ぎしぎし軋む。十右衛門は四方を見まわした。
「いくら見ても、見つかるのは鼠くれえのもんだ」
またもや、はいと十右衛門は真顔である。
「俺は字がたいして読めぬが、それでも、おめえのもってきた過所牒が並みのもんではないことくらい、即座にわかった」
「はい」
「おめえは、はいしか言えねえのか」
「はい」
船頭はついに吹きだしてしまったが、唐突に笑いをおさめ、尋ねてきた。
「俺には、わからん。いいか、そもそも相賀浦の親方は、阿曇に連なる海人のもっとも上に立つ御方だ」
あんな掘建小屋に暮らしていてか? とは言わない。神妙な顔をつくって船頭の話に頷き返す。
「それが、ここまで行き届いた過所牒を、おめえみてえな餓鬼に与えるとは」
餓鬼は失礼だろうと思いつつも、にこやかに言う。
「一緒に暮らしていた女が、親方に過所牒を記すよう、頼んでくれました」
「女。有り得ん」
「海女です」
「相賀浦にいる女は、みんな沖海女だわな」
「藍という名の海女です」
一呼吸おいて船頭は上ずった声をあげた。
「藍殿が頼んでくれたというのか! 藍殿とおめえが一緒に暮らしてたというのか!」
もともとギョロ目だが、驚愕に目玉が落ちそうな顔の船頭だ。十右衛門は船頭の表情を読んで訊いた。
「藍は、なにか阿曇に由縁でも?」
「由縁。遠く阿曇連の祖、大浜宿禰、さらには阿曇比羅夫様に連なる阿曇の正統だ」
あまりに古いと敬称が略されるのかと十右衛門は本題からそれたことを思いつつ、女は貴種であるということを強く肯った。
「力のある女と暮らしたことが、俺に運を授けたということですね」
船頭は軽蔑しきった眼差しを十右衛門に注いだ。
「莫迦に付ける薬はねえと言うが、餓鬼だから仕方がねえか」
「どういうことですか」
気色ばむと、船頭は十右衛門に向けて唾を吐きかけそうな気配さえ見せた。
「餓鬼だから餓鬼と言ってんだよ」
船上である。海に投げ棄てられてしまえば終いだ。十右衛門は怒りをぐっと抑えこみ、船頭を見つめる。
「親方が、タダでこの過所牒を書いたと思うか?」
どういうことだ?
十右衛門は膝で躙り寄る。
「そうだよ。おめえが思ってるとおりだよ。藍殿は、親方に身を差しだしたんだよ」
女がその軀を親方に──。
「阿曇の掟で、正統である藍殿が自ら軀を開かぬかぎり、たとえ親方であっても手を触れてはならぬことになっている。掟を破れば、海に呪われ、海に嬲り殺される」
船頭は醜い笑みで勢いこんで続ける。
「しかし親方もうまくやったもんだ。俺だってこういう僥倖があれば、喜んで書くとも。過所牒くらい、幾らでも書くわい」
十右衛門は硬直した。
餓鬼呼ばわりされて当然だ。
十右衛門は船室から飛びだした。
船縁から身を乗りだして、うねる藍色の海を凝視した。
頭の芯に鋭い針が刺さった。
烈しく痛んで、呻いた。
女が言っていた。
死を選んで海底に沈んだとき、銀白の光が不規則に明滅した──と。
同じ光を見た。
痛みはいよいよ激烈で、銀白の光輝はいやまし、頭のうしろに凝固した。
銀白が、爆ぜた。
空白。
なにかが罅割れた。
砕け散った。
女。
女の名。
なんと言ったか?
思い出せぬ。
まったく、思い出せぬ。
女の面影までもが消えていた。
すべては夢だった。
そう己に言い聞かせた。
身を乗りだして海を睨んで小刻みに顫え、骨の髄にまで沁みこんできた、きな臭い孤独に愕然とし、嘔吐しそうになった。
水夫が、そんな十右衛門に気付いた。船酔いと勘違いした。
船中りに効く薬なし──薄く笑い、背を向けた。
〈以下次号〉
(第三回につづく)