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ナツイチ2023試し読み! 中山七里『隣はシリアルキラー』

TikTokで話題! 五感から震え上がるホラーミステリー。

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ぎりっ、ぎりっ。ぐし、ぐし。ざああああっ──。深夜2:20、神足友哉は、今日もアパートの隣室から聞こえてくる不気味な物音で起こされた。ふと、隣人の徐浩然が死体を解体する姿を妄想するが、近所で遺体の一部が発見されたことで現実味を帯びる。気になった彼は、真夜中に部屋から出た徐を尾行すると、想像を絶する恐ろしい展開に。五感から震え上がるような体験を提供するホラーミステリー『隣はシリアルキラー』の冒頭部分を紹介します。

***

隣はシリアルキラー

   一 寺の隣に鬼が棲む
 
     1
 
 ざああああっ、ざああああっ、ざああああっ。
 また始めやがった――寝ていたところを起こされ、こうたりともは腹立ち紛れにタオルケットをける。
 スマートフォンで時刻を確認すると午前二時二十分。タイマーを設定していたエアコンは既に切れている。元々性能が悪かったこともあり、ワンルームだというのに冷気はほとんど残っていない。神足はじっとりとした額から汗を拭う。この時間に起こされたら、次はなかなか寝つけないのは経験済みだ。
 盆を過ぎてなお、都内は熱帯夜の連続記録を更新し続けている。熱中症患者搬送のため、夕方以降も救急車の稼働率が下がらないらしい。現に今も、セミの声に交じって、遠くからサイレンの音が聞こえる。
 撥ね除けたタオルケットはそのままに、枕に顔をうずめてみる。それでもいったん逃げてしまった睡魔はなかなか戻ってきてくれない。このまま寝つけなければ、間違いなく明日は寝不足だ。注意散漫が事故に直結する仕事なので、下手をすれば寝不足が死を招きかねない。
 ざああああっ、ざああああっ、ざああああっ。
 福利厚生の充実をうたっていながら寮は安普請で、壁が薄くて防音効果はほとんどない。そのため隣室でトイレやシャワーを使うと盛大に音れがする。深夜の入浴を禁止する規則はないが、さすがに二時過ぎというのは近所迷惑だと思う。音洩れに配慮して静かにシャワーを浴びればいいものを、全く気にしていない様子なのも腹立たしい。独身寮の気安さがマイナスの方向に働いているとしか思えない。
 隣室203号の住人とはまだ一度も顔を合わせたことがないが、どんな人物かはおおよそ判明している。一階にある集合ポストに〈徐浩然〉という名前があるからだ。
 勤め先の〈ニシムラ加工〉では、年に数人の外国人技能実習生を採用している。おそらく徐はそのうちの一人なのだろう。しかし神足には外国人名の知識が乏しいため、彼が中国人なのか韓国人なのかは分からない。分かっているのは、およそ共同生活とか近隣への配慮に欠けたはた迷惑な男に違いないということだった。
 ただし深夜の入浴は毎日ではない。始まったのは二日前からで、それまでは遅くても十一時、早い時には八時に入浴を済ませていたはずだ。この三日間は帰宅するのも遅かったので、散々夜遊びしていたのだろう。どちらにしても寮住まいであるなら、最低限のマナーは守ってほしいところだ。
 ざああああっ、ざああああっ。
 シャワーを浴びる音がひとしきり続いた後、今度は別の音が聞こえてきた。
 ぐし、ぐし、ぐし、ぐし。
 ぎりっ、ぎりっ、ぎりっ。
 何をしている音かは判然としないが、決して耳に心地いいものではない。水回り・調理・掃除といった耳慣れた生活環境音とは別の、もっと乱暴で粗雑な音だ。
 ぎりっ、ぎりっ、ぎりっ。
 どんっ。
 ざああああっ、ざああああっ。
 切り落とした物体を洗い流しでもしているのだろうか。到底リズミカルとは言いかねる物音は、聞いているうちに生々しい光景を連想させる。調理は調理でも、料理店の厨房で食材をさばいているような音だ。
 まさか風呂場で仕込みでもしているのかよ――神足は中国人が半裸になって牛刀を振り下ろしている光景を思い浮かべる。意外にそれが真相かとも勘繰ったが、よくよく考えてみれば神足と同じく一人暮らしの男性が、捌くのを必要とするような食材を買うはずもない。
 まさかな。
 一瞬、頭の隅によからぬ想像が浮かぶ。
 浴室を血の池にし、自らも返り血を浴びながら死体の解体にいそしむ男。その顔は喜悦に震え、唇の端からはちろちろと赤い舌をのぞかせている。
 馬鹿らしい――神足は妄想を振り払って、また枕に顔を埋める。暑苦しいと妄想までひどくなるものらしい。
 首筋から流れた汗がシャツににじんでいる。神足は不快感をこらえながら眠ろうと努力するが、変な妄想をしたために余計眠れなくなった。
 やがて隣人は入浴を終えたのか、浴室を出た。ややあってエアコンの起動音も聞こえてきた。どうやら隣人はひと風呂浴びた後、冷風に身体からだを委ねて熟睡しようとしているらしい。こちらは眠れずにもんもんとしているというのに。
 とにかく近所迷惑であることに変わりはない。明日以降も続くようなら、管理人に伝えて即刻やめさせてもらおう。
 仕方なく神足はもう一度エアコンのスイッチを入れる。建物と同等の年季が入ったエアコンは盛大な音を立てて動き始めた。
 
 結局、神足はまんじりともせず朝を迎えた。始業は午前八時、工場は寮から歩いて十分の場所にあるから病気以外に遅刻の理由は有り得ない。神足は眠い目をこすりながら部屋を出た。
 隣室をいちべつする。隣人は既に出社したらしく、人のいる気配がしない。
 くそ。こっちは寝不足だというのに、原因を作った本人は快眠して早々と出社したのか。
 神足は胸のうちで悪態をきながら寮の階段を下りていく。三階建てでエレベーターの必要はないと言われればそれまでだが、足を乗せる度にかんかんと鳴る鉄製の階段はまるで昭和時代の遺物のように思える。
 今日も猛暑は続く。朝八時前だというのに、はやアスファルトからはかげろうが立ち上っている。寮と工場が近いからいいようなものの、これが数キロも離れていたら出勤だけで体力が奪われるに違いない。
 勤め先の〈ニシムラ加工〉はおお区内にあった。中小の工場がひしめき合う地域で、朝から晩まで工作機械の音が途切れることがない。わいざつでありながら活気に満ちており、神足はすっかりその空気にんでいた。
 工場に到着した神足は、すぐに更衣室で作業着に着替えて朝礼に臨む。
「皆さん、おはようございます。申し送り事項は特にありませんが、今日も安全第一、確認遵守で作業してください」
 主任の訓示は毎度代わり映えしないが、これも一種のセレモニーと考えれば聞き流せる。安全第一と確認遵守は我が身に関わることなので、訓示されるまでもなく頭と身体にたたき込んでいる。
 訓示が終わると、間髪をれずに作業開始となる。帽子とマスクで顔を覆い、神足たちは作業場に足を踏み入れる。
 作業場に入った瞬間、自然に緊張感が湧き起こる。〈ニシムラ加工〉はメッキ加工を主軸とする工場だった。神足が入社したのは二年前でメッキ加工の工程はすっかり頭に叩き込んでいるものの、それでも気を抜くことはできない。
 加工といっても、金属をメッキ液にければそれでおしまいという単純なものではない。工場に納入されてくる金属製品はぼうせいや加工性向上のために油脂が塗布されている。このままメッキ加工すると密着不良の原因になるので、まず脱脂から作業が始まる。
 脱脂には薬液が使用され、今度はその薬液を他の薬液槽に持ち込まないために水洗する必要がある。この時、脱脂が不充分だと次の工程に進めないため超音波洗浄機を併用する場合もある。
 次にメッキしやすくするため金属を酸にしんじゆんさせるのだが、この工程では塩酸や硫酸が使用される。ひと口に金属といっても化学組成や炭素量、合金元素がばらばらなので熟練のメッキ職人が素材に合致した薬品を選定することになる。尚、こうした薬品でも微細な凹凸面に付着したバフカスなどは除去できないためガスの圧力で電解脱脂する。
 メッキ加工前の工程はまだ続きがある。メッキを付けやすくするため、素材を酸活性させるのだ。
 いよいよメッキ加工に移行するのだが、この段階に至るまで既に数種類の薬剤が使用されている。その多くが劇物指定されている有毒化学物質で、皮膚に付着すれば薬傷を引き起こす。いや薬傷だけにとどまらない。メッキ加工の過程では中毒・呼吸器系の障害・アレルギーを誘発する危険の他、れた床面での転倒・転落による傷害、浮遊粒子による目の損傷、感電・火災・爆発・落下物など枚挙にいとまがないのだ。
 まるで危険の巣窟のような職場環境だがぜいたくを言える身分ではない。自分のような者を雇ってくれるだけでも有難いと思わなくては。
 神足の持ち場は酸浸漬工程だった。マスクをしていても酸特有の刺激臭が繊維の隙間から侵入してくる。深く吸い込むと眩暈めまいを起こすこともあるので、ここを持ち場にしている作業員は呼吸を浅くするのが常だった。
 換気扇はあってもエアコンはない。夏場の作業場内はうだるような暑さで、三十分も立っていると額から滝のような汗が流れ出てくる。まんえんする刺激臭と熱気は集中力をぎ、注意力を奪う。
 いつもなら悪条件の中でも作業を続行できるのだが、今日は三日分の寝不足が加わっていた。
 何度か気を取り直したが、次第に眠くなってきたのだ。
 意識がもうろうとなり、ぶたが重くなっていく。
 馬鹿、眠るな。
 己をしつするが、睡魔は猛烈な勢いで迫ってくる。ちょうど目の前には酸浸漬槽があるというのに。槽内では硫酸が金属に付着していたさびや酸化皮膜を溶解して白い泡を立てている最中だ。この中に手足を突っ込んだら、とんでもない惨事を引き起こす。
 せめて離れろ、と頭の隅で警報が鳴り響く。だが中枢神経には届かず、頭がゆっくりと下がっていく。
 まずい。
 本能が慌てふためくが、理性がしている。
 次第に平衡感覚が遠ざかり、身体が傾いていく。
 駄目だ。
 近づく。
 近づく。
「何やってんだあっ」
 すんでのところで自分の身体を羽交い締めにした者がいる。振り返ると、同じ作業区で働くぐちまさだった。
「あ……ああ、すみません。ぼうっとしてました」
「ぼうっとしていたじゃない。いったい、自分がどこに立っていると思ってるんだ」
 矢口は神足を酸浸漬槽から遠ざけて、手近にあった椅子に座らせる。
「いや、ホント。大丈夫ですから」
「何が大丈夫なもんか、この馬鹿野郎っ」
 矢口は神足を強く揺さぶる。怒声と揺さぶりで、ようやく睡魔は退散してくれた。
「もう少しで硫酸のプールに上半身突っ込みそうだったんだぞ」
 真顔で迫られ、意識の覚醒とともに恐怖が遅れてやってきた。額から噴き出るのとは別の冷たい汗がわきから流れる。
「命拾いしました。ありがとうございます」
「……頼むわ」
 矢口はあんともあきれともつかないためいきを吐く。溜息の深さで、ようやくこの男に心配させていた深刻さも思い知る。
 矢口は一年先輩で、神足に作業の手順を教えてくれたトレーナーでもある。面倒見がよく、教え方も丁寧なので神足が信頼を寄せる数少ない友人の一人だった。
「いったい、どうしたってんだ。いつもは声を掛けづらいほど緊張してるヤツがよ」
 常に目を配ってくれているのだと知り、ますます申し訳なくなった。それでも最低限、言い訳だけはしたかった。
「理由にならないかもしれないけど、寝不足なんですよ」
 昨夜、隣室から聞こえる騒音で無理に起こされたことを訴える。訴えたところで矢口は別の独身寮に住んでいるので、何をどうすることもできない。言い換えればどんな責任も発生しないので気軽に打ち明けられる。
「うーん、技能実習生かあ」
 矢口はそう洩らすなり困惑顔になる。
「日本語が通じるヤツとそうでないヤツが交じっているからなあ。通じないヤツだったら抗議するにも骨が折れる」
「実感こもってるように聞こえるんですけど」
「ウチの寮にもいるんだよ。深夜のシャワーじゃないんだが、零時近くまで仲間と一緒にドンチャン騒ぎしやがるんだよ。挙句の果てにはあの狭いワンルームに五、六人が寝泊まりしている」
 わずかワンルームの空間に六人。すし詰め状態ではないか。
「それじゃあ、ほとんど民泊じゃないですか」
「ほとんどじゃなくて、まるっきりそうなんだよ。もっとひどい時にはカップルでラブホ代わりにしてる時もあってよ。ほら、寮の壁ってどこも薄いだろ? さすがにあの時は寝られなかった」
 好色な笑みもなく、矢口はひたすら迷惑そうに洩らす。独身男なら聞き耳を立てるという選択肢もあるのだが、何しろ危険と隣り合わせの上、拘束時間が長い仕事ときている。睡眠時間の確保が最優先になるので、それを妨害するものは色事であっても御免こうむりたい。
「僕よりひどいじゃないですか。管理人に言えばいいのに」
「管理人に言ってもらったところで、あいつら『日本語アマリワカリマセーン』で終いだ。会社に直訴したって、会社は会社で負い目があるから強い態度に出られない」
 説明を聞くと、神足も訳知り顔でうなずくしかなかった。〈ニシムラ加工〉が抱える負い目については現場の人間なら周知の事実だ。
 彼らは母国で契約書にサインをしてから日本に送られ、技能実習生として期限付きで雇用される。ところが〈ニシムラ加工〉では契約書に明記された残業代を支払わないばかりか、基本給さえ満足に支給していなかった。会社にとって彼らは技能実習生とは名ばかりの、ただ安価な労働力でしかなかったという訳だ。
 明白な契約違反でありながら技能実習生たちが表立って抗議しないのは、彼らには彼らなりに負い目があるからだった。本国から渡航する際、彼らは多額の借金を背負っている場合が多い。毎月の給料の中から少しずつ返済するのだが、会社に下手に逆らうと解雇処分の上、本国へ強制帰国させられてしまう。そうなれば借金が返済できず、本国での生活はますます厳しくなるという寸法だ。本来であれば監理団体が契約違反や職場内ハラスメントを監視しなければならないのだが、該当する団体は能無しなのか会社から便宜を図ってもらっているのか、いまだに動いたという話を聞いたことがない。
 技能実習生たちにも会社にもそれぞれの負い目があるので、多少は行き過ぎても見て見ぬふりをしているという図式だ。こうなると、どちらが被害者でどちらが加害者なのかも曖昧になってしまう。
「俺は耳栓を常備している」
 矢口は溜息交じりに言う。
「近所迷惑なのはその通りだが、現場で一緒に働いているとそれなりに同情心も湧くしな。知らない国にやってきて不当な条件で働かされてるんだ。大概のことには目をつぶってやろうとも思う」
「だけどこの仕事、寝不足は死活問題ですよ」
「現に今、お前は死にかけたものなあ。ただよ、管理人や会社に訴えても効果がないのは分かってる。それなら自分で何とかするしかないぞ」
 割り切れない気持ちに変わりないが、自分で解決しろというアドバイスはに落ちた。顧みれば神足も一方的に技能実習生や会社を指弾できる立場ではない。同様に負い目があるのなら、自助努力は必然ということか。
「おい、そこの二人っ」
 やぶから棒に野卑な声が飛んできた。作業主任の来生きすぎだった。
「何、勝手に休憩取ってるんだ。さぼんじゃねえ。さっさと持ち場に戻れえっ」
 こちらの都合など聞こうともせずに怒鳴る。来生というのは作業員を休ませないことが自分の使命と心得ているフシがある。同じ日本人作業員に対してはまだ口頭で済ませているが、技能実習生に対しては遠慮会釈なく手を上げている。傍で見ていて気分のいいものではないが、作業員の中には技能実習生が虐待されているのを見て日頃の鬱憤を晴らしている者もいるので、正義漢づらで止めに入ると今度は己に火の粉が降りかかってこないとも限らない。
 神足と矢口はほぼ同時に舌打ちをして、それぞれの持ち場に戻る。
 
 午前中に神足を苦しめた眠気は、昼飯をった直後に再度襲ってきた。だが二度目の襲来は、わずかな仮眠を取ることで何とか回避できた。自販機で買ったエナジードリンクを一気飲みして自分に暗示をかけ、午後の作業もうつらうつらせずに済んだ。
 問題は今夜だった。今日一日無理をしたのは身体が一番自覚している。上手くすれば横たわった途端、泥のように眠れる予感がある。しかし今夜もまた隣室の徐に起こされたらどうなるのか。明日は今日より厳しい状況に追い込まれるのが、容易に予想がつく。
 寝てやる。今夜こそ熟睡してやる。
 コンビニエンスストアで発泡酒と弁当を買い、寮に戻るや否やエアコンのスイッチを入れ、慌しく弁当をき込む。胃袋に血液が集まる前に素早くシャワーだけを浴びる。これで血の循環がいい具合になるはずだ。
 浴室から出るとエアコンの涼風が肌を刺す。今夜に限ってはタイマーも設定しないでおく。相も変わらぬ騒々しい音を立てるが、先に寝入ってしまえば気にもなるまい。
 念には念を入れるべく、最後の仕上げに発泡酒をあおる。寝不足のせいか、いつもより早く酔いが回ってきたような気がする。
 しばらくスマートフォンでネットサーフィンをしていると、上手い具合に目蓋が重くなってきた。エアコンの騒音も耳に慣れ、冷気が心地いい。
 この機を逃してなるものか――風邪をひかぬよう腹から下をタオルケットで包み、おうしていると意識は急速に遠のいていった。
 
 ざああああっ。
 夢の世界に遊んでいた神足は、またもや例のシャワー音で現実に呼び戻された。
「クソッタレ」
 つい言葉が口をついて出た。いっそ隣室に向かって怒鳴ってやろうか。
 スマートフォンで時刻を確認する。午前二時十五分。やはり昨夜と同じ時間帯だ。
 目覚めてみると酔いはすっかりめていた。エアコンはけなげに働き続けているが、外気に押されているのかさほど涼しくもなくなっていた。
 ざああああっ、ざああああっ。
 起き抜けで自制心が麻痺していた。
「おい、こんな時間にシャワーなんて非常識だろう」
 隣室に向かって声を荒らげた。だがしばらく反応をうかがってみても、シャワーの音は相変わらずだ。
「聞こえないのか、おい。聞こえてるんだろう」
 向こうのシャワーの音が洩れているのなら、こちらの声が聞こえないはずがない。
「聞こえてるんだよな。もういい加減にしてくれ」
 再度、声を上げる。それでも一向に音はまない。
「こっの野郎」
 壁際に近づいて、おそらくは浴室とおぼしき側に向かう。
「今すぐシャワー、止めろおっ」
 言葉だけではなく、壁を叩く。
 一度。
 そしてもう一度。
 だがシャワーの音は途切れることなく、続いている。
「止めろったら止めろおっ」
 知らぬ間に絶叫していた。
 途端に反対側の壁から別の声が聞こえた。
『うるさいぞお』
 どうやら反対側の住人を起こしてしまったらしい。とばっちりもいいところだ。こんなことで反対側の住人とけんになってもつまらない。不本意だったが、神足は一転声を低くした。
「近所迷惑ってのが分からないのか」
 シャワーの音に搔き消されているのか、それとも日本語が理解できないのか。やがてシャワーの音は、別の音にとって代わった。
 ぐし、ぐし、ぐし。
 ぎりっ、ぎりっ。
 さすがに今度は気味悪さが先行した。
 連日連夜、浴室で何を切断し、何を砕いているのか。抗議しても止まない物音と行為は、ひどく凶悪な性格を想起させる。
 ぎりっ、ぎりっ、ぎりっ。
 乏しい冷気の中、腋の下からつつうと冷たいものが滴り落ちる。
 これは自分の妄想に違いない。
 すぐ隣の部屋で人体を解体しているなど、有り得るはずがない。
 だが聞けば聞くほど、物音はまがまがしい印象が強くなっていく。壁に耳をつけていた神足は、ゆっくりと後ずさる。
 ごとん。
 切断された何かが床に転がる音。
 矢庭に恐怖心が降りてきた。神足は布団に戻るとタオルケットを頭からかぶり、音を遮断しようと試みた。
 だがタオルケットの薄い生地では、重ねたところで防音効果はなきに等しい。集中力が呼び起こされたせいで、隣室からの物音は前よりも克明に聞こえる始末だ。
 ざああああっ、ざああああっ。
 振り出しに戻った。あのシャワーは解体した時に噴き出る血を洗い落としているのか。それともシャワーの音に紛れて、別の禍々しい行為をしているのか。
 耳を塞いでみても結果は同じだった。それなりに音は小さくなっても、想像力が補整して脳裏に響き渡る。音だけではなく、血で血を洗う地獄絵図まで展開する。
 やめてくれ。
 後生だから、もうやめてくれ。
 虚空に向かって祈ったが願いは聞き入れられず、隣室からの物音はその後一時間続いた。
 神足は目と頭がえてしまい、その夜も安眠できなかった。

【続きは書籍でお楽しみください】

●著者プロフィール
中山七里(なかやま・しちり)
1961年、岐阜県生まれ。2009年、『さよならドビュッシー』で第8回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞し、小説家デビュー。音楽を題材にした「岬洋介」シリーズのほか、時事問題をテーマとした社会派小説まで幅広くてがける。著書に『アポロンの嘲笑』『TAS 特別師弟捜査員』『祝祭のハングマン』『殺戮の狂詩曲』など。

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