
纏足探偵 天使は右肩で躍る/小島環 第二話・前
1
康熙七(一六六八)年七月二十二日、打ち鳴らされる太鼓の音が次第に間隔をせばめ、銅鑼が鳴り響いた。
長衫を纏った藍暁が、舞台の上で大きく飛びあがった。今まさに襲いかかろうとする刃を、くるりと回って空中で華麗に避けた。そうして爪先から─まるで大鳥が音もなく大地に舞い降りるかのように─舞台に着地して、ぴたっと動きをとめて見得をきった。
「好!」のかけ声が連発されて、藍暁に賛辞が浴びせられる。
余韻に浸る瑠瑠の耳に、笛の音が届いた。
囃子方が曲調を替えると、舞台の右袖から女形の天雲が、薄絹を重ねた襦裙を身に着けて、優美な動きであらわれた。
天雲は迷わず藍暁の傍らによりそうと、目尻を袖でおおった。
泣いているのだ。それも、歓喜の涙を流している。
化粧をほどこした天雲は、そのじつ藍暁より背が高いのだが、絢爛豪華な襦裙をまとう姿は可憐で、そうは見えない。彼は、驚くべきことに纏足靴をはいていた。
衣装だけでなく、天雲の顔のかたむき、指の動き、それらたおやかな所作はどんな女性よりも女性らしい。この国の理想の女性を体現しているのだな、と恍惚としながら瑠瑠は舞台を見つめた。
天雲の唇から声高の歌がはっせられる。
鍛えられた藍暁の激しさと、気品にあふれた天雲の華麗さから、一時も眼が離せない。
舞台は余韻を残して終わり、瑠瑠は温かな湯に浸かるような心地だった。
細い手に「終わったよ」と肩を叩かれて、瑠瑠は慌てて立ちあがった。天雲と藍暁が立っていた。
「すごかったです!」
「瑠瑠にそう言ってもらえると、俺たちも演じたかいがあった」
「これがお礼になればいいけどね」
舞台の前には卓と椅子だけの席がいくつか置いてあるが、座っているのは瑠瑠だけだ。
「私だけなんて、贅沢な時間でした。本当にありがとうございます。私には、本来観られないものなのに」
「この国は、女性が劇場にはいることを許していないからね。まったく、愚かなことだよ」
どの国でも、独自の考え、法律がある。清国では、女性は劇場に入れない。女性がいると、女性を見に来る男性が増えるために、風紀が乱れるという理由らしかった。
今回は、前日の通し稽古であり、天雲たちの伝手でこっそり入れてもらえた。
「明日からの本番、必ずうまくいきますね!」
「ありがとう。初日公演は、絶対に成功させねぇと」
「応援しております」
「それとね、自分たちの劇団にしかない演目を作りたくて、脚本を書いているところなんだ。それも、瑠瑠たちが驚くようなやつをね。完成したらまた見に来てくれるかい?」
「もちろんです。嬉しいです」
先の事件から、一ヶ月ほど経っている。天雲と藍暁は一部の劇団員をひきつれて、新たな劇団をたちあげた。それは噂で聞いていた。
五日前に、瑠瑠のもとに手紙が届き、『稽古を見てほしい』と書いてあった。ふたりはこれから成功するだろうかと心配しながら稽古を見に来たのだが、よけいなお世話だったとみえる。
瑠瑠は天雲と藍暁に別れを告げ、劇場を出た。
まだ体が熱い。感動した場面を思いかえしながら、義六の馬車に乗りこんだ。
馬車は大通りを駆けた。街並みが流れていく。ちらほらと明かりが灯り始めている。まもなく夜だ。太陽はかろうじて姿を見せているが、すでに銀色の月が東の空にうかんでいる。
瑠瑠はそっと瞼を閉じる。
北京に来て三日目に眺めた風景は、故郷とあまりにも違っていた。変化は瑠瑠を心細くさせたけれど、今ではずいぶん慣れた。
それに、瞼を閉じれば、いつだって故郷を思い出せる。
撒馬爾罕のつきぬけるような青空と光の煌めき、乾いた風と香辛料の匂い、日干し煉瓦で作った家々、神学校や聖廟には、無限に続く幾何学文様と植物文様などが浮彫りされていた。行き交う人々の格好も清国とは異なっていた。明るく染められた長衣を着て、下には袴(ズボン)をはく。背丈は清国の人々より高い。男性は帽子を被り、女性は布で頭髪を覆う。瑠瑠は今でも、髪を絹布で軽く隠している。
いつか、帰れる日が来るだろうか。
思いにふけっていた時、男性の叫びが大通りに響いた。まわりの人が騒ぎはじめる。
「髪を切られた!」
男性がさらに悲痛な声をあげた。
「黄昏の亡霊だ!」
混乱はあっという間に広がった。逃げようとする人の押しあいがおこり、まわりから悲鳴と怒声が聞こえてくる。
黄昏の亡霊とは、聞き覚えのない言葉だ。義六の背を見ると、馬車は速度を緩めた。
「瑠瑠お嬢さん、これはまずい。人が集まってきた。黄昏の亡霊は危険だ。もしかしたら暴動になるかもしれねぇ。もうすぐ牛街ですから、先に帰ってくれますか? 俺は、これがあるから、小回りがきかなくて」
馬車を停めて、眉根をよせながら義六がふりかえった。その顔はあせりとともに、瑠瑠に対して申し訳ないという情がにじんでいた。
「お気をつけて。お嬢さんに何かあったら……俺は死んでお詫びをしますが、それくらいじゃ許されない」
「大げさね。義六も気をつけて。私は大丈夫だから」
瑠瑠は急いで牛街に駆けこんだ。北京での自分の街だ。回教徒(イスラム教徒)が多く暮らしている。回教の寺院である清真寺の前にたどりついて、ようやく立ちどまった。
背後をふりかえる。ぎゅっと拳を握ってから、瑠瑠は家までさらに走った。
「ただいま戻りました!」
「どうしたんだい、瑠瑠」
兄の亦不喇金・哈爾が慌てた声で出迎えた。
「大通りで、誰かの髪が切られたようなの!」
人々の動揺はすさまじく、瑠瑠を驚かせた。とつぜん髪を切られたら叫びを上げるかもしれないが、まわりの人たちは仰天というより、ひどく恐れているようだった。
小父である康思林が近づいてきて、瑠瑠の肩にそっと手をあてた。
「北京では、何者かに髪を切られる事件が起きている。一度や二度ではない。すべて黄昏時に起こるので、黄昏の亡霊と呼んでいるんだ」
「そう、なんですね……何度も起きていたら、恐ろしいですよね」
「それだけではないんだ。彼らにとって、辮髪は人生を左右するものでね」
「辮髪って、あの長い三つ編みのことですよね。髪の周囲を剃った、男の人の」
「ああ、そうだ。この国特有の髪型だよ」
「髪の形が、人生までを変える?」
小父は「どう説明すればよいのかな」と呟くと、瑠瑠に優しい目をむけた。
「李自成の乱で明は滅んだ。それに代わって満州族の清が起こったわけだが、彼らは皆が清に服従するか計るため、漢人に対しても『薙髪令』を発令したんだ」
「負けたのでしたら……髪を剃るだけ、ですよね? 人生までとは言えないのではありませんか?」
瑠瑠の指摘に小父は少し顔を歪めたが、すぐに穏やかな表情に戻った。
「頭を留めんとすれば髪を留めず、髪を留めんとすれば頭を留めず。辮髪にしなければ死刑だ。けれど、漢民族の多くが信仰する儒教の教えでは、毛髪を含む身体を傷つけることは親不孝とされて、禁忌なんだよ」
諭すように言われて、瑠瑠は頷いた。瑠瑠も髪を隠したり、食べ物に気を遣ったりする。宗教の教えによって、制限されることはあるのだ。
けれど、まだ疑問がある。
「小父様やお兄様も、免れているわけですね? 回教徒だからでしょうか?」
「そうだね、瑠瑠の言う通りだ。私たちは辮髪とは関係がない。とはいえ、刃物を持った者がうろついているわけだから、気をつけねばならないね」
小父の言葉に、瑠瑠は深く頷いた。
2
朝日が飾り窓から食事の間を照らしていた。
挽肉がたっぷり入った餡餅(パイ)を食べ終わり、薄荷茶(ミントティー)と甘いお菓子が用意された時、席を外していた小父が困り顔で房室(部屋)に戻ってきた。
「月華お嬢様のところに行ってくれないか?」
どうやら伝令が来たとみえる。小父の仕事を考えると、逆らってよい相手ではない。家族との団欒と甘いお菓子に少しだけ後ろ髪をひかれたが、瑠瑠は「もちろんです」と席をたった。
「すまないね」
「いいえ、私にできることがあるなら、させてください」
肩に日除けの羽織をかけて外に出る。途端に陽射しが降り注ぎ、瑠瑠は手をかざした。眩しいけれど、砂漠で浴びた平低鍋(フライパン)で焼かれていくような光とは違う。まだ、わずかに柔らかさがある。
御者の義六がすでに待っていた。昨日の暴動の中、無事に帰ってきたのだ。
馬車に乗り込むと、軽やかに走りだす。
暖かな風に乗って、香辛料の匂いが鼻をくすぐり、青々とした石榴と棗の木がゆっくりと揺れる。故郷の木々が作る濃い影の涼しさを思い返しながら、街の看板の阿拉伯語に目をやっていると、街路から瑠瑠に手を振ってくれる婦人たちがいた。
顔見知りも少しずつできた。清真寺の礼拝堂では、瑠瑠に話しかけてくれる同年代の女子もいる。
瑠瑠はこの街に馴染んできたことを嬉しく思いながら、牛街を出た。
「趙家のお嬢様は、今度は何をさせようと言うんですかね」
「そうね。……黄昏の亡霊かしら? ほら、昨日遭遇したでしょう?」
「それって、あぶないってことじゃないですか」
義六が馬車の速度をおとした。
瑠瑠は頬に手をあて、ため息をついてから命じる。
「行って、義六。行かなければならないのよ」
趙家の門前で馬車をおりた。あいかわらず大きな屋敷だ。門番に名を告げる。覚えられていたため、すぐに通された。
院子(庭)の木陰の椅子に、人影があった。小さく細いその人の側に、ぎゅっと拳を握ってからむかう。
「月華お嬢様、まいりました。瑠瑠です」
返事はない。ふ、と息を吐いてから瑠瑠は微笑み、月華の足元に侍った。
月華を見上げると、微かな寝息を立てていた。長いまつげが彩る瞳と、赤く形のよい唇が、今はそっと閉じられている。眠っていると、美しい人形のような少女だ。
「……何を見ている」
瞼がふるえて、月華が目を覚ました。足元にいる瑠瑠を見て、腹から吐き出すような低さで唸った。
寝起きだからか、少しも怖くない。
月華の眉間に深い皺がよる。睨んでくるが、瑠瑠は気にしない。
「お呼びと聞きました」
月華はなおも瑠瑠を睨みつけながら、つんと顎をあげた。
「おまえ、黄昏の亡霊を知っているか?」
「はい。最近、黄昏の時刻になると、亡霊に辮髪を切られるのですよね。うちの小父も刃物を持った人がうろついているのだと怯えています」
「五日前、一昨日と昨日……。被害者は日に日に増えている。切り落とされた髪が、必ずどこかの橋にかけられているところから、何らかの呪術を思わせるとか。犯人像がまったくつかめず、まるで亡霊だとか。おまえ、現場に遭遇したらしいな?」
「……はい。ですが、あの時はすでに薄暗く、犯人らしき姿は見えませんでした」
「では、私が犯人を見つけてやろう。よい暇つぶしになる」
「事件の解決が、月華様にとっては遊びのように聞こえます」
瑠瑠は、そっと月華をたしなめた。そうできる立場にないことはわかっているが、言わずにはいられなかった。
事件に関わる人たちは、多くが苦しみや悲しみを覚えている。それなのに、人の感情を無視して、暇をつぶせる楽しみだけを求めている。
月華は、瑠瑠の気持ちを察しているだろうに、歯牙にもかけず笑った。
「役所に行って、首領から情報を引き出してこい。事件が起きた他の場所と、辮髪を切られた者たちの様子が知りたい」
瑠瑠はぐっと唇をかみしめた。月華の遊びに素直に従うのは悔しい。それでも瑠瑠は、月華の命令をきいて、首領の李石のところに行くほかなかった。
役所にむかうと、李石は難しい顔をして、房室の中で部下と思しき青年たちに指示をだしていた。恰幅のよい李石の巌しい顔を見て、帰りたくなった。けれど、瑠瑠は自分を奮いたたせるために、役者になったつもりで強い自分を演じる。
部下のひとりが瑠瑠に気づいて、李石に声をかけた。
李石の表情が一転した。
「おや、月華様のお遣いか」
最初に会った時に瑠瑠と名乗ったのに、今も名を呼んでくれない。
瑠瑠は背筋を伸ばして堂々と拝礼した。
「月華様は、此度の黄昏の亡霊に、とても関心をもたれています」
「そうか、そうか」
李石は瑠瑠と視線をあわせると口角をあげて、まわりにいた部下たちに「行け」と命じた。
「被害にあったのは、裕福な坊ちゃんたちだ。色々な場所で辮髪を切られている。捜査の範囲を広げているが、人手が足りない。犯人は被害者に恨みをもっている者の犯行かと思うが、調査中だ」
「私が動いても、お邪魔ではありませんか?」
「月華様に、くれぐれも、私が献身したと伝えるように」
わかっております、と約束すると、李石は満足そうに鼻を鳴らした。
3
瑠瑠は李石から、事件が起きた場所の地図を複写してもらった。
義六の馬車に乗って、さっそく被害にあった人の家を訪ねた。李石の許可をもらった趙家の遣いと伝えると、すぐに通された。
客間でひとり待っていると、十代後半と思しき青年があらわれた。何者かに髪を切られて恐怖を覚えただろうに、それでも今は優しい微笑みで、瑠瑠を迎えてくれた。
席を立ち、瑠瑠は礼をとった。
瑠瑠が異国の娘であるのに、青年は驚いていない。取り次ぎの者が先に伝えたのだろうが、それでも寛容な人なのだ。
「事件を解決するために来てくれたのだと聞いたよ。私で役に立てるなら、何でもするつもりだ」
「ありがとうございます。……ですが、……それはどうされたのですか?」
瑠瑠は青年の頭に目をやった。青年は楕円形の帽子を被り、三つ編みを腰まで垂らしていた。その髪は人毛ではなく、よく見ると細かな紐の集まりだ。
「ああ、これか。そうか、君は知らないんだね」
「黄昏の亡霊に髪を切られたと聞きました。事件があったことは皆が知っているはず。なぜそのような作り物をかぶっておられるのですか?」
「経緯がどうであれ、短い髪のままではいられない。これは、辮髪帽子というんだよ」
青年は帽子を脱いで、瑠瑠に渡した。瑠瑠は胸のあたりで帽子を持つと、青年を見上げた。青年が頷いて、後ろをむいた。
青年の髪は首の後ろでひとつに纏められている。その切り口は不揃いで、裕福な家の子息にはふさわしくない手の入れかただ。
「短い髪は奇妙だろう?」
「あ、いえ、髪は切られた時のまま、切りそろえてはいないのですか?」
どうしてと問いかけると、青年が瑠瑠にむきなおった。ゆっくりした動きで後頭部の髪に触れる。
「これから再び髪をのばしてゆくのだ、少しでも長いほうがよい。切ってしまっては、さらに短くなってしまうからね」
青年の髪を解いたら、長さはきっと肩までしかない。少しでも三つ編みを作ろうとするなら、一年以上はかかるだろう。
「どうして、こんなことになってしまったんだ」
青年が椅子を引いて腰掛けた。肩をさげてうなだれる。
瑠瑠は唇を開きかけて、閉じた。
「なぜ黄昏の亡霊は私を狙ったのだろう? 私が何か、悪いことでもしたのだろうか?」
声をふるわせる青年は、目尻を袖で拭き、鼻をすすった。
瑠瑠は青年の姿と、辮髪帽子を交互に見た。
ここで、いずれ髪はのびますと慰めても、青年は喜ばない。青年は身分のある男性なのに、髪を不揃いのままにしておくぐらい、今すぐに自分の辮髪を取り戻したいと願っているはずだ。
辮髪をしていなければ人とは見なされず、殺されるかもしれない不安の中で生きるのは、心細く悲しいものなのだろう。
「私が探ってまいりますから。慰めにはならないかもしれませんが、頑張りますから」
青年が顔をあげた。涙で濡れた頬を、再び袖で拭う。
「切られていたことにも気づかなかったんだよ。亡霊は手強い。気をつけて」
瑠瑠は頷き、他に同じように辮髪を切られた青年たちの家を訪ねてから、月華のもとに戻った。
4
門を抜けると小愛が出迎えてくれた。あいかわらず表情が読めないでいる。拒絶しているような印象はないのだが、歓迎されているとは断言できない。瑠瑠より頭ひとつぶん大きな小愛につれられて、邸宅の中にはいる。
院子が見える房室に、月華はいた。白い茶杯を手に取り、その香りを楽しんでいる様子だった。
瑠瑠は眉をよせた。亡霊に傷つけられ、泣いている人がいる。けれど、月華にとってそれはまったく気にならない些末なことで、自分の喜びにしか興味がないのだ。
「茶を飲むまで、待て。辛抱の足らぬ猫だな」
「……は?」
瑠瑠はあんぐりと口を開けた。
月華はことさら優美に茶杯を傾ける。所作が綺麗だ。絵になる光景とは、こういうことを言うのだろう。けれど、瑠瑠は奥歯を噛んだ。
「ご覧ください!」
瑠瑠は月華に、事件がおきた場所を複写した地図を見せた。月華が「ふぅん」と瞳を輝かせて、茶杯を小愛にあずけると、地図の上をまっすぐ指さした。
「もっと人が集まる場所はある。犯行に有利な条件があるのに狙われていない。なぜだ?」
問いかける口調だが、誰かの答えを期待していないとわかる。それは、その視線が誰にもむけられていないからだ。
「あえて、裕福な者を狙ったのか。なるほど、わかってきたぞ。裕福な者にこそ、辱めを与えたいのだな」
「なぜですか?」
「貧しさからくる妬みだ。犯人は、貧民街の出である可能性が高い」
瑠瑠は月華の唇から出てくる言葉を、驚きとともに聞いた。
まだ瑠瑠はこの国のことをほとんど知らない。けれど、月華はこの国の様々なことを知っていて、一見関係のないと思える情報を集めて、答えをみちびく。
月華の推理には裏付けがあるのだろうが、瑠瑠にはそれがわからない。
「それで、髪を切られた者たちは、おまえより背が高かったか?」
「そうですね、私より少し高いくらいでした」
「そうか。髪を切られていた位置は?」
「皆、髪を下ろすと、肩くらいまでしかありません」
「なるほどな。小愛、お兄様を呼んでこい」
「かしこまりました」
月華の身内と会うのは初めてだ。どんな人だろうか。もしや、月華のような、偏屈な人だろうか。
「どうしたんだい、月華」
あらわれたのは、穏やかな表情の優しそうな青年だ。辮髪を腰まで作り、絹でできた長衫を纏っている。月華にむかって、裾を翻しながら歩んできた。動きに迷いは微塵もなく上品だ。眩い新芽のような人だ。
「やあ、愚鈍な兄よ、私が黄昏の亡霊を解決してやろう」
「『つまびらきの写鏡』で協力してくれるのかい? それは助かるよ」
月華の兄は爽やかに笑った。月華の不遜さを気にしていないようだ。器の大きい人なのかもしれない。そもそも、月華の身内などをやれているのだから、心が強くなくてはやっていられない気もする。
「犯人は貧民街の出だ。食にとぼしい生活だったが、子息たちより背が高い男だ。小愛と同じく、五尺(約一七五センチメートル)にとどくか、とどかないかだ。抵抗を考えると、大柄な男が犯行におよぶと考えるべきだからな。……五日前と、一昨日、そして昨日。同じように、連続して起きた事件があるはずだ」
「どういうことだい?」
「事件があるはずだ! 私は、そう言ったぞ」
兄が顎に手をあてて、「なるほど」と微笑んだ。
「どうだ。思い当たる節があるだろう」
「ああ、そうだね。……奸臣の動きが連動しているようだ。光瑞党のきな臭い動きと」
「なるほど、光瑞党か」
「光瑞党から注意をそらしたいのだろうね。黄昏の亡霊が出る日には、必ず光瑞党の会合があった。毎回、同時に起きている」
「なぜ気づかなかったんだ」
「僕らには、君のような慧眼がないからさ」
「ふん、光瑞党は貧民街にいた男に、『今こんなに政治が乱れて困窮しているのは、皇帝とその臣下たちが悪政を極めているせいだ』とでも囁いたのだろう。そうして男は、光瑞党の一派で過激な幇(秘密結社)に入った」
「なるほど。光瑞党が集まるとの噂を得て、我々が手入れを行おうとすると、裕福な子息が黄昏の亡霊に辮髪を切られる事件が勃発する。それも、きまって会合の場所から離れた大通りだ。子息たちを守り、黄昏の亡霊をとらえるために人員を割くことになる。そうすると、結局光瑞党への人員が手薄になって、毎回捕らえられない」
兄妹は視線を交わして、すっと目を細めた。その似通った表情は、彼らが血族であると思わせるのに充分足りるものだった。
「……月華お嬢様、光瑞党とは?」
月華が、ああ、いたのか、と言わんばかりに鼻を鳴らした。
もちろんいたんですよと、瑠瑠は笑顔を貼りつけながら密かに拳を握った。
「反清復明を唱える宗教組織だ。明王朝の復活を願い、今の清王朝には反対している。清朝の重要な拠点を襲ったかと思えば、有力者を暗殺する。いずれも、光瑞党の名を記して」
小父の言葉がよみがえる。清朝を建てた人たちは、漢人に服従の証として辮髪をするようせまった。せまられた側は多くが受け入れたが、拒絶する者もいた。
「なる、ほど。けれど、月華お嬢様、……光瑞党に囁かれただけで、たとえ貧民街にいて陛下に不満を抱いている人でも、それほどだいそれたことをするのでしょうか? 捕まったら、ただではすみませんよね」
「大金でも与えると約束されたかな?」
兄が答えた。
瑠瑠は月華に視線をむける。
「本人を捕らえてみればわかるさ。まずは罠を仕掛けるぞ。次の手入れはいつだ?」
「公にはなっていないのだけれど……」
「内部に情報を流しているやつがいるぞ。いまさらためらってどうする」
「困ったね」
「いいから、教えろ」
月華が急かすと、兄は肩をすくめた。しかし、表情はどこか楽しそうだ。
「明日の夕刻だよ。けれど、君に危ないまねは絶対にさせられない」
5
もう帰っていいと月華に言われて、瑠瑠は帰路についた。義六の馬車に乗って、昼前の街を眺める。
黄昏時と違って、陽は高く、強い光が街を照らしている。昨日の夕暮れでは、人の輪郭が溶けているようだった。しかし、顔がよくわからなくても、体格は判断できるのではないか。
月華は、犯人を、体格の良い男だと断言した。それを、月華の兄も疑わなかった。けれど、瑠瑠はなんだか違和を覚える。
たとえば、月華は、「抵抗を考えると、五尺くらいの大柄な男が犯行におよぶと考えたほうが自然だ」と言っていた。
だが、瑠瑠は先の騒動をこの目で見ていた。
あの時、大柄な人物がいたら、逆に目立ったはずだ。
被害者が抵抗すると考えるのであれば、まわりの人たちも気がついて、ともに取り押さえようとするのではないか。大柄だとしても、大勢の力を撥ねつけるのは難しいはずだ。人々は亡霊を恐れながらも、たいへん憤っているのだから。
ならば、大柄な男ではなく、瑠瑠より背が低く、小柄な男性が犯人ではないか。人に紛れられる身長のほうが、獲物に気づかれずに辮髪を切ることもできる。それだけでなく、まわりに溶けこんでしまえば見つからずに逃げられる。
瑠瑠は趙家の方角をふりかえった。
月華の力である『つまびらきの写鏡』の凄さを、瑠瑠は間近で見ている。瑠瑠の推理のほうが正しくて、月華が間違えているなど、信じがたいが─もやもやした感情を抱きながら、瑠瑠は自宅に戻った。すぐに自分の房室にむかって、床に小ぶりの絨毯を敷き、聖地の方角にむかって礼拝する。
創造主との親密な時間が始まる。
瑠瑠にとって礼拝は、しなければ落ち着かないし、すると安心するものだ。物心ついた時にはすでに、瑠瑠と礼拝の関係はあたりまえに存在した。
創造主に対して、人は体も心も弱く、すぐにあやまちを犯す。弱いからこそ、絶対はない。
創造主と人との仲を結ぶのは天使だ。右肩の天使が善行を、左肩の天使が悪行を記録として書きとめる。その記録が、最後の審判の日に、創造主の前で天秤にかけられる。砂粒ひとつのような重さであっても、天秤は公平で、不当にあつかわれることはない。
瑠瑠は善行をつみたい。美しく、喜びにあふれる天国へ行き、そこで永遠に暮らしたい。
瑠瑠は静かに息を吐き、立ちあがった。
兄の哈爾が扉から顔をのぞかせて、「昼食の用意ができたよ」と声をかけてきた。瑠瑠は頷き、哈爾と外に出る。哈爾の姿は光のもと、はっきりとわかる。薄暗い黄昏時だとしても、大柄では、やはり目立つ。犯人は小柄のはずだ。けれど、それをどう証明すればよいのだろうか。
昼食は、挽肉と刻んだ包心菜を挟んだ麺包だった。その後、糖蜜をたっぷりかけた堅果入りの餡餅を食べながら、瑠瑠は紅茶をぼんやりと飲んだ。
「さっきから、うかない顔だね。どうしたんだい?」
とうとう、という様子で、小父の康思林が声をかけてきた。
瑠瑠は苦笑いをうかべた。
「ごめんなさい。黄昏の亡霊について考えていたの」
ふむ、と小父が茶器を置き、哈爾も同様にした。母の亦不喇金・阿伊莎は静かに見守っている。
小父が顎に手をあてた。
「月華様に手を焼いているのか。すまないね、手伝えることはなんでもするから」
瑠瑠は小父の顔をじっと見つめた。この小父は、母と兄を大事にしてくれて、瑠瑠のことも気遣い、守ろうとしてくれる。
それがわかるから、小父のために動き、期待に応えたい。
漢人よりも彫りの深い顔は、瑠瑠の父と違うが、それでも懐かしさをおぼえる。もし、この小父が、辮髪にしていたら、どんな感じになるのだろう。想像してみて、瑠瑠は顔をしかめた。
その時、瑠瑠は、はっとした。この想像は、瑠瑠を導いてくれるかもしれない。
「小父様! 辮髪帽子をご存知ですか?」
「ああ、知っている。辮髪を結えない漢人の男性が、こっそり使う帽子だね」
「いくつか用意してもらえませんか?」
「それはいいが、どうするんだい?」
「私、月華お嬢様のような『つまびらきの写鏡』は使えませんから、地道に色々と確かめていくことにします」
小父は頷いて、
「すぐに手配しよう」
と立ちあがった。
「ありがとうございます!」
しばらく待っていると、使用人が息をきらせながら辮髪帽子を抱えてやってきた。それを小父が机の上に置かせて、瑠瑠に「どうだい?」と辮髪帽子をひとつ手渡した。
「小父様、辮髪を切られた人より、背が高い人と、低い人が必要です。お兄様、辮髪帽子をかぶってくださる?」
「お願いよ」と見つめると、哈爾は真剣な顔で辮髪帽子を手にした。
「もちろん、かまわないよ。瑠瑠の役にたてるなら」
いつだって哈爾は瑠瑠に優しい。
小父のすすめで、まず瑠瑠と哈爾の身長を測った。瑠瑠は四尺三寸(約一五〇センチメートル)で、哈爾は四尺六寸(約一六二センチメートル)だ。子息たちは瑠瑠より背がわずかに高かったが、皆、兄よりは低い。
椅子に腰掛けた母が見守るなか、瑠瑠は哈爾の辮髪帽子から垂れる黒紐の束を手に取った。清朝男性の辮髪は、背中の中央から腰までと長さが様々あるようだが、小父の用意した辮髪帽子の黒紐は、たいてい二尺(七〇センチメートル)だった。
「まず、私が切る真似をしますね」
「いや、試すなら、実際に切ってみよう」
小父が使用人に小刀を持ってこさせた。哈爾よりも背が高い小父を見るときは、少しばかり視線があがる。
小父は刀の柄を握って、哈爾の辮髪をそっと掴むと、手際よく切った。瑠瑠はその光景を、じっと見つめた。
それから、哈爾はふたたび新しい辮髪帽子を被った。哈爾より拳ひとつほど背の低い瑠瑠が、小刀で辮髪を切ろうとした。
その時、瑠瑠は違いに気がついた。
「あっ、手の動き! 小父様は下から上にむかって斜めに切るけれど、私は上から下にむかって斜めに刃物を動かします!」
「なるほど……そうすると……」
小父が顎に右手をあて、左手を辮髪の切り口にからめた。
「そうです、切り口が違ってくるはず! 私、早く彼らのもとに急がないと!」
(次回に続く)
イスラム監修 宗教法人名古屋イスラミックセンター
名古屋モスク渉外担当理事 クレシ サラ好美
中国監修 H.K(友人)
プロフィール
小島環(こじま・たまき)
1985年、名古屋市生まれ。愛知県立大学外国語学部中国学科在学中より小説を書き始める。卒業後、工作機械メーカーに勤務するが、その後退職。建築デザインを学びながら本格的に執筆を開始。『小旋風の夢絃』で第9回小説現代長編新人賞を受賞して小説デビュー。その後、『囚われの盤』『唐国の検屍乙女』(ともに講談社)、『泣き娘』(集英社)、『星の落ちる島』(二見書房)、『災祥』(潮文庫)、ノベライズ『春待つ僕ら』、など発表。大学にて講師もしている。
『泣き娘』集英社文庫より好評発売中
