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下町やぶさか診療所 5 第五章 UFOを見た・前/池永陽

【前回】

 今夜の献立は野菜炒めだ。
 キャベツやニンジン、ピーマンなどに豚肉を加えて中華風の調味料で炒めたもので、麻世まよにしたら手慣れた料理のはずだったが今夜は……。
 正直いって、りんろうも首をかしげる出来だった。味が濃すぎて塩辛かったし、油の使いすぎでベタベタ状態だった。またじゅんいちがアレをいい出さなければいいがと思っていると、
「あの、麻世ちゃん」
 やっぱり口を開いた。
「これって味が濃すぎるっていうか、油っこいというか」
 多少は学習したのか、遠慮気味に潤一がいった。
「あっ」と麻世は小さく声をあげ、
「ごめん。ちょっと考え事をしてて、だから、つい」
 なんと、素直に謝りの言葉を口にした。
「あっ、いや、別に責めてるわけじゃなくて、何というか、ちょっとそんな気がしたっていうか。でも、けっこう個性のある味というか、これはこれでけっこうな味というか」
 とたんに潤一が、しどろもどろになって言葉を並べたてた。
「うん。でも、とにかくごめん。次からはちゃんとした物をつくるから」
 殊勝な声でいって、麻世はぺこりと頭を下げた。こんな麻世も初めてだ。驚きながらその隣に目をやると、潤一がぽかんとした顔で麻世を眺めていた。おそらく潤一の頭のなかでは「可愛すぎる!」という言葉が乱舞しているに違いない。
 しかし、そんな潤一の様子よりも麟太郎は麻世のほうが気になった。調理中に考え事をしていたという、その中身だ。よほど何かを真剣に考えていたに違いない。
「ところで、麻世。余計なお節介のようだが、料理のさなかにしていたという考え事っていったい何なのだ。俺にはかなり、重要な事柄のような気がするんだが」
 麻世の目をまっぐ見ていった。
「それは……」
 喉につまった声を出した。
「お母さんのことだよ。あの、私に看護師になったらっていった、あの件だよ」
 疳高かんだかい声でいった。
「あの件か――それで、お前はどうしようと思っているんだ。お母さんのいったように看護師になるつもりなのか、それとも他の道を選ぶのか」
 静かにいった。
「それはまだ……だから、一生懸命考えてるんじゃないか」
 押し殺した声だった。
「そもそも、お前は何か他にやりたいことがあるのか。どうなんだ」
 落ちついた声でいう麟太郎に、
「それはちょっと……」
 麻世は視線を落して細い声をあげた。
 麟太郎の胸がちくりと痛んだ。
「まあ、できる限り早いうちにな。何たって、大切なお前の将来のことだからな。充分によく考えてな」
 麟太郎はこういってから笑顔を浮べ、
「よし、この話はこれで終り――ところで今日、変った患者がきてな」
 と話題をがらりと変えた。
「変った患者といっても、大体親父目当ての患者は、ほとんど変っているからな。で、今回はどんな変った患者だったんだ」
 すぐに潤一が身を乗り出した。
「一言でいうと、UFOだな」
 この言葉に麻世と潤一の顔にあっにとられた表情が浮ぶ。
「UFOって、あのUFOなのか」
 麻世が驚いた口調で声をあげる。
「そうだな、あの未確認飛行物体のUFOというやつだな」
 厳かな声で麟太郎はいい放つ。
 今日の午後一番の患者だった。
 診察室の扉を開けて入ってきたのは、年老いた小柄な人物だった。
 麟太郎は老人をイスに座らせ、初診票に目を落す。名前は本山もとやましょうぞう、年齢は昭和十六年生まれの八十三歳で一人暮し。住まいは言問通ことといどおり裏のアパートになっていた。症状は偏頭痛だ。
「お願いします」
 と頭を下げる省造の頭はみごとに禿げあがり、顔の表情は沈んでいた。
「偏頭痛ということですが、それはどれほど前からで、どんな症状なんですか」
 と早速頭痛の状態をくと、
「出てきたのは一年ほど前からで、頭痛というよりは頭の芯がぼうっとするといいますか、頭全体が緩いかんじになるといいますか」
 妙なことを口にした。
「緩いかんじというのは、どんな……」
 首を少し傾げながらいうと、
「わしは学がないので、なかなか言葉にはしにくいんですけんど。強いていいますと、頭のなかの重しが軽くなり、柔らかな綿がつまったようなといいますか」
 省造は神妙な顔で答えた。
「重しが軽くなって、柔らかな綿がつまったようなかんじですか、それは何とも……」
 と口にしながら、この老人はひょっとしたら認知症を発症しているのではという疑念が麟太郎の頭をかすめる。
「省造さん。大変失礼なんですが、今まで認知症の検査を受けたことはありますか」
 出来る限り優しく訊く麟太郎に、省造は大きく首を振る。
「それなら、これも失礼なんですが、少しいろいろな質問をさせてもらってもいいでしょうか。もし、ご不快でなければ」
 丁寧に言葉を出すと、
「はあ、もちろんいいです。どんなことでも訊いてください」
 と省造は素直に答えた。
 それで麟太郎は認知症の基本ともいえる記憶障害等の様々なスクリーニングを省造に試してみたのだが……省造はその質問にほとんどすべて正しく解答した。つまり省造は認知症ではない。そういう結果になった。そうなると、この症状はいったい。麟太郎は宙をにらみつける。
「おそらく、精神的なものだと思いますので、これから紹介状を書きますから、そちらのほうへ――」
 ようやく、こういったところで、
おお先生、原因はわかっているんです」
 省造はりんとした声をあげた。
「あっ、原因がわかってるんですか。それなら、それを教えてもらえますか」
「実は――」
 真直ぐ麟太郎の顔を見てきた。
「さっき症状が出てきたのは一年ほど前だといいましたが、わしはその直前にある物を見ているんです。症状が出てきたのは、その直後からなんです」
「ある物って」
 思わず身を乗り出す麟太郎に、
「UFOです」
 はっきりした口調で省造はいった。
「UFOというのは、あのUFOですか」
 麟太郎の体から力が抜けた。
「あのUFOです。空を飛んでいる、あのUFOです。それが始まりなんです」
 今度は申しわけなさそうな口調だった。
 一年ほど前の暑い夏の夜中。
 あまりの寝苦しさに、省造は寝床から起き、開け放した窓から西の空を見ていた。省造の住むアパートは築五十年を越えた古い物でエアコンはなく、扇風機だけの生活を送っていた。
 何気なく空を見ていた省造の目が、異様に光り輝くひとつの点をとらえた。目を凝らして見ていると、その光の点はゆっくりと動いているようだった。はて、何だろうと更に目を凝らすと、その光の点は徐々に省造のほうに近づいてくるように見えた。
 と思った瞬間、その光の点は猛烈な速さに変化して省造の百メートルほど先まで近づいて、ぴたりと静止した。そのあとすぐに方向を変えて、あっという間に省造の前から姿を消したという。
 ぜんとする話だった。
「それから、その妙な頭痛もどきが始まった。そういうことですか」
 驚きながらも、優しく訊いた。
「そうです。それから頭のなかの重しが軽くなり、柔らかな綿がつまっているようになったんです。これは事実です」
 すがるような目を向けてきた。
「そうなんでしょうね、事実なんでしょうね」
 いたわるような言葉を出してから、
「で、UFOを見たのは、その夜だけなんですか」
 これも真面目な顔で訊いた。
「いえ、それが最初で。それからは大体月に一度はわしの前に現れるように」
 真剣な表情でいう省造に、
「ほうっ、月に一度ですか。状況は最初のときと同じですか」
 麟太郎も真剣な面持ちで訊く。
「それが、現れる度に段々わしに近づいてきて、今では――」
 UFOとの距離は二十メートルほどまでに縮まったと省造はいった。光り輝いているので形状は定かではないが、ほぼ真円に近く光の色は白、それ一色だとも。
「そして、UFOがわしに近づくにつれ、何かわしに伝えたいことがあるように感じられて仕方がないように」
 驚くようなことを口にした。
「伝えたいことって、それは」
「それはまだわかりませんが、いずれわかるような気が――」
 そう省造がいったところで、
「大先生、そろそろ次の患者さんに入ってもらわないと」
 傍らに立っていた八重子やえこが催促じみた声をあげた。
「ああ、そうだな。ところで省造さんはなぜ、俺のところへ」
 気になったことを訊いてみた。
「ここの大先生は、どんな莫迦ばかげたことでも真面目に聞いてくれる、仏様のような人だというのをうわさで耳にして。ですから、あの、偏頭痛は方便のようなものというか……」
 恥ずかしそうに省造はいった。
「ああ、なるほど方便のようなもの――。それなら省造さん。今度くるときは、午後の診療の一番最後にするといい。そうすれば、ゆっくりと話ができますから」
「あっ、またきてもいいんですか。ゆっくり話を聞いてくれるんですか。ありがとうございます、本当にありがとうございます。誰もこんな話、信じてくれませんもんで」
 省造は何度も頭を下げて立ちあがり、痩せた背中を見せて診察室を出ていった。
「いいんですか、大先生。あんなことをいって。あの妄想おじいさん、しょっちゅうくるようになりますよ」
 八重子があきれた表情でいった。
「いいさ。俺を選んでこの診療所にきてくれるんなら、こっちもその気持ちに寄りそって真摯に対応しないとな。これも立派な町医者の仕事だよ」
 諭すようにいう麟太郎に、八重子は「そうかもしれませんね」といって頭を下げた。

 この話を聞いた麻世が、勢いよく声をあげた。
「それじゃあ、まるで、っさんと同じじゃないか」
 安っさんとは、半グレにからまれて痛めつけられているところを麻世と麟太郎に助けられ、その縁で足繫くこの診療所にくるようになったホームレスの老人だった。
「そうだね、安市やすいちさんと同じだね。一人暮しというからには安市さん同様、身寄りもなく話し相手もいないだろうし……それで、そういう人たちはここにきて親父と雑談をかわして平静を保つ。で、親父はその省造さんというじいさんのUFOの話を信じてるのか」
 面白そうに潤一がいった。
「信じちゃいねえさ。だけどよ、ひょっとしたらということもあるし、頭のなかの重しが軽くなって、柔らかな綿がつまっているようなという状態に興味もあるしよ」
「ひょっとしたらか──しかし、世の中のUFOと人間との遭遇はそのほとんどが、フェイクか妄想。または、ごくごくまれな自然現象だと位置づけられているんだぜ」
 得意げに潤一はいう。
「そうかもしれねえが、そこはやっぱり人情としてよ。実際に見たというんだから、たとえそれが妄想であったとしても、そこは信じてやらねえとよ」
 弁解するようにいう麟太郎に、
「何だよ。親父はUFO肯定派なのか。科学者としては異端じゃないのか──大体UFO現象というのは一大産業になっていて、それで飯を食っている人間が世界中には、わんさかいるんだぜ。そういう連中が世の中をあおって金をもうけているんだ。そこんところもよく考えてみないとな」
 潤一は隣をちらっと見るが、麻世はいつも通りの知らん顔だ。
「そうはいってもな」
 麟太郎は困った表情を浮べ、
「麻世、お前はどう思う」
 助けを求めるようにいう。
「私は、ひょっとしたらというほうに賛成だよ。世の中には、まだまだ不思議なことがいっぱいあると思うから」
 きっぱりした調子でいった。
「えっ、麻世ちゃんは、UFO肯定派なのか」
 素頓狂な声を潤一があげた。
「肯定派とか、そういうのじゃなくて、世の中には不思議なことがけっこうあるということだよ。たとえば実際の殴り合いの場に身をおけば、殺気や気配などは当然感じるし、武術でいう起こりの察知や気の力──特にとんと突くだけで相手をふっ飛ばす気の力なんか、そのエネルギーはいったいどこから供給されているのかまったくわからないし」
 麻世は多少ながらも、この気というのを操ることができた。
「それは、そうなんだけどさ……」
 情けない声を潤一があげた。
 潤一は、とことん麻世には弱い。
「それに胸騒ぎとか、虫の知らせというのもあるな」
 大人げないとは思ったが、麟太郎も胸を張っていう。
「わかったよ、よくわかったよ。世の中には不思議なことが充満しているのは認めるよ」
 かすれた声で潤一はいい、「だけどUFOだけは……」と何やら口のなかだけでぶつぶつつぶやいている。
「さて、そうなってくると、今度も私の出番ということになるね」
 ふわっと笑って麻世がいう。
「麻世ちゃんの出番って、今回は安っさんのときと違って荒っぽいことは何もおきないと思うけど」
 呆気にとられた表情でいう潤一に、
「何も私は、荒っぽいことだけが得意な人間じゃないから。安っさんのときでもそうだったけど、お年寄りや女性といった、弱い立場の人の心に寄りそうこともできそうだと思ってるから。ある意味、私も弱者そのものだから」
 ぴしゃりといった。
「そうだ、麻世。お前の本質は殴り合いじゃなくて優しさなんだ。俺もそう思うぞ。で、麻世としたら、どう行動をおこすつもりなんだ」
 うれしそうにいう麟太郎に、
「とりあえず、今度その省造さんという人がきて私が家にいたら、待合室で、そのおじいさんの隣に座って話をいろいろしてみようと思っているよ」
 何でもない口調で麻世はいう。
「そうか、隣に座って話をしてくれるか──それで、その次はどうなるんだ」
 急かせるようにいう麟太郎に、
「話のなりゆきによっては、そのおじいさんのアパートに行って話し相手になってもいいし」
「偉いな、麻世は。やっぱり麻世は看護師向きだ。俺は心からそう思うぞ」
「えっ、それはまた別の話というか」
 口のなかで呟くように麻世はいう。
 そんな二人のやりとりを、置いてけ堀にされたような情けない表情で潤一が見ていた。

 省造がきたのは、それから三日後だった。
「きてますよ、大先生。例の省造さん。待合室で麻世さんが、お相手をしてますよ。省造さん、嬉しそうですよ」
 そりゃあ、そうだろう。若くてれいな麻世が親身になって話し相手になってくれれば、だいたいの男は喜ぶ。
 そうこうしているうちに最後の省造の番になり、ノックの音が聞こえて「こんにちは」の言葉と同時に省造が入ってきた。
 麟太郎の前に座る省造の顔は、前と違って緩んでいた。温和な表情になっていた。さすがに麻世の力は絶大だ。麟太郎は胸の奥で、ううんとうなる。
「今まで、ここで厄介になっている麻世さんという人と話をしていたんですけんど、あの娘さんは優しいですね。それに飛びっきりの別嬪べっぴんさんだ。いやあ、久しぶりに楽しい思いをさせてもらいました」
 顔を緩めていう省造を見て、改めて麻世を欲しがるなつの気持がわかる気がした。
「それで麻世とは、どんな話を」
 と興味津々の思いで訊くと、
「単なる普通の世間話ですけんど、それで充分に楽しかったですよ。わしらのような細々とした年金暮しの、しなびた年寄りの話し相手をしてくれる女の人はそうはいませんからね。本当に有難いことです」
 何度もうなずきながら、省造はいう。
 どうやら麻世は初対面の礼儀を守って、突っ込んだ話は避けたようだ。そして、
「それから省造さん。今日からここにきても、診療代は払わなくてもいいから」
 省造の暮しを察して、さらっと麟太郎が口にすると、
「えっ、お金を払わなくてもいいって。大助かりですけんど、そんなことで大丈夫ですかね」
 省造は叫ぶような声を出した。
「ここでの話は治療じゃなくて雑談だ。それに俺と省造さんは医師と患者じゃなく、今日からは友達同士。友達との雑談に金を取るわけにはいかねえからよ」
 麟太郎の言葉が、べらんめい調に変った。
「だから、お互い、なるべく、ざっくばらんによ。どうも俺は丁寧語が苦手でよ。だから、省造さんも、ざっくばらんによ」
「はあ、そういわれても急には。そうですか、友達同士ですか、友達同士……」
 省造の口調に湿ったものが混じった。
「そういうわけで、気楽にいきましょうや。じゃあ、まず、省造さんの人となりを知るために、ざっとでいいので身の上話を聞かせてくれるかな」
 穏やかな口調で麟太郎は訊いた。
 実をいえば、これも医療の一環だった。相手を知らなければ、心の奥底はわからない。
 省造は東北、青森の生まれだった。
 昭和三十年頃、日本はまだ貧しく省造は中学を卒業して、集団就職で東京にきた。このころの中学卒業者はのちに金の卵といわれ、全国の小さな会社から引張り凧の状態だった。
 省造は上野にある、従業員十人ほどの金属加工の町工場に入り、旋盤工見習いとなった。まだまだ徒弟制度の厳しい時代であり、ヘマをすれば容赦なく拳骨げんこつが飛んだ。
 そんな荒っぽい指導を受けながら十年ほどが過ぎ、省造は一人前の旋盤職人に成長し、複雑な部品の削り出しも任されるようになった。
 身を固めたのも丁度そのころだった。相手は同業社の事務員でじりれいという同い年の女性で、見合い結婚だった。
 礼子は顔立ちは普通だったが性格はおとなしく、省造にはあくまで従順で、逆らうことがなかった。このころからの十年間ぐらいが省造にとって絶頂といってもいいときだった。
 たったひとつの難は、二人の間に子供ができなかったことだが、こればかりは神様次第なので仕方がなかった。それでも省造は充分に幸せだった。礼子は省造にとって初めての女性で何ものにも代え難い存在だった。
 このころの省造は、
「俺の腕なら、豆腐の上っ面でも削れる」
 と豪語していたが、その鼻っ柱は時代が進んで自動旋盤機の登場によって折られることになる。よほど複雑な製品でなければ、大抵の仕事は熟練工でなくてもこなすことができるようになった。
 更に不況がきた。仕事は激減し、倒産する工場も出てきた。省造の工場は何とか倒産だけはまぬがれたものの、給料は上がらず苦しい時代がつづいた。そんなときに礼子が脳出血で呆気なくこの世を去った。二十年ほど前のことだった。省造は独りぼっちになった。独りぼっちで定年退職を迎えた。
 これが省造の大雑把な、これまでだった。
 悲しい時代はあったものの、特に精神的におかしくなるようなことは見当たらなかった。
「いろいろ苦労したんですね、省造さんも。昭和という時代は明暗が極端に入り交じったときだったから。しかし、無事定年まで勤めあげた省造さんは立派の一言につきる。頭が下がりますよ」
 こうねぎらったあと、麟太郎と省造は同時に溜息ためいきをついた。
「ところで、どうなのかな」
 麟太郎は話題をがらっと変えた。
「UFOはまだ、現れませんか」
 明るすぎるほどの声で訊いた。
「それが、先日ここを訪れた夜、現れたんですよ。それもわしの眼前、十メートルほど前にまで近づいて……そろそろ現れるんじゃないかという予感がして、わしは夜中の二時頃まで起きてたんですがね」
 いつものように窓を開けて西の空を見ていた省造の視線の先に、明るい一点が現れた。その光の点は見る見るうちに省造の十メートルほど先にまで近づき、このときは三分ほど静止して動かなかったという。
「そして、さっと消え去ったんですけんど、そのときわしの頭の芯に『あと、わずか……』そんな声が響きわたったんですよ」
 とんでもないことを口にした。
「あとわずかって、それはどういう意味なんだ」
 思わず口走る麟太郎に、
「わからない、まったくわからない」
 呟くようにいって、省造はうつむきながら何度も首を横に振った。

               (つづく)

【第一章】

【第二章】

【第三章】

【第四章】

プロフィール
池永 陽(いけなが・よう)
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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