『クィア・アイ in Japan!』配信記念!タン・フランス『僕は僕のままで』第1章全文公開(後編)
『僕は僕のままで』第1章試し読み、後半を公開します!
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『僕は僕のままで』
タン・フランス/著 安達眞弓/訳
2100円+税 集英社刊
第1章「サルワール・カミーズ」(後編)
自分の性的指向がバレそうな仕草を隠すテクニックを徐々に身につけることにしたのは、人種差別の問題を人生の一大事にしないよう努めるだけで、もう手一杯だったから。ゲイとレイシズムというダブルの差別で人生を台無しにされるなんて、冗談じゃない。浅黒い肌に生まれただけでも大変なのに、男性と女性のどっちと結婚するかでも悩むなんて。幼いころから、学校だけでは飽き足らず、町の人からも手ひどい人種差別を受けた。肌の色で差別されないようにとかなりの時間を費やしていたから、ゲイに見えないよう気を遣う労力にまで頭が回らなかった。
僕たちはいわゆる"Nワード"の南アジア版、"パキ"と呼ばれて差別されていた。パキスタン人を罵る卑怯な言葉で、言われるたびにひどく傷ついた。登校してから下校するまでイヤな思いひとつせず済む日はまずなかった。僕の生まれた町には、南アジア系に差別的な言葉を投げる連中がいたんだ。同じ年にも、年上にもいた。あっちは集団で行動し、僕やきょうだいを見つけると追いかけてきて、物を投げ、"パキ"とはやし立てる。きょうだいが一緒なら数で勝てるけど、あいつらは僕たちがひとりでいるときを狙ってくる。ひとりで歩いていて、いきなりあいつらと出くわしてごらん。きっとくやしくてたまらない体験をするだろうね。
僕にはパキスタン系イギリス人の友だちがふたりいて、その子たちと徒歩で一緒に通学していた。地元のいじめっ子たちはよく僕たちをからかったり、卑劣な言葉で罵ったりした。暴力に訴えるほどではなかったけど、いじめがはじまると、僕たちは対抗するようになった。殴られるほどではないにせよ、軽いいじめに遭い、私物を取られたら、強がって平気なふりをするのはけっこうつらかった。
こういうことがあったので、僕たちきょうだいは通学以外に外出すると気が重くなった。当たり前だけど、両親はわが家にふりかかった人種差別の火の粉にひどく怯えた。わが家から通りを挟んだ向かいに小さなコンビニがあった。イギリスではコンビニを〈コーナーショップ〉という。僕たちはその〈コーナーショップ〉にすら行けなくなった。店では缶ビールを売っていて、つるむのが好きないじめっ子たちが、店の外でビールを飲んでいたからだ。
買い物で外に出ても、すぐ帰ってくる僕を窓から見守っていた両親の姿は、今も鮮明に覚えている。肌が浅黒いからという理由で殴られないよう、通りを横切るわが子をじっと見ていたのかと思うと、とてもやりきれなくなる。兄さんや姉さんが怯えている素振りを見せなかったので、僕も怖くないふりをしていた。今、思い出しても腹が立つし、こんな思いをする家族がいなくなることを望んでいる。
僕はとても小柄で、クラスでも、どんなグループでも、決まって一番小さかった。成長期を迎えるまで時間がかかった。身長だけじゃない、僕はかなりやせていたので、いじめの標的になった。でも走るのは誰よりも速かった――100メートル走はぶっちぎりの一位だった。人種差別は卑怯だけど、そのせいでいじめっ子よりも速く走ってやるという負けん気が生まれた。この章で唯一輝かしい、思い出だ。
ある日、僕はきょうだいで一番年の近い、2歳上の兄と一緒に歩いて下校していた。兄さんは当時13歳、僕より背が高く、すでに165センチあった。兄さんはちょっとぽっちゃりしていて、ちりちりの髪の毛をショートに刈っていた。あと2分で家に着くというところで、例のいじめっ子グループが僕たちの行く手をふさいだ。あいつらは6、7人いて、年は16から18歳、全員が僕たちよりずっと背が高かった。みんな白人で、ちゃんとお手入れをしていない服を着て、歯のお手入れは、服よりもずっとサボっていた。町でも治安の悪い界隈に住み、全員が僕たちと顔見知りだった。手のつけられない悪ガキとして知られ、違法行為でトラブルを起こすこともしょっちゅうあった。
学校から家まで帰るには決まった道を通らなきゃいけなくて、あいつらは必ずそこにいた。僕は兄さんと顔を見合わせた。家に帰る? それとも走って学校に戻る? 結局、歩いて学校に戻った。僕らは少し時間をつぶしてから、さっきの道に入った。あいつらはまだ同じところにいた。1時間は過ぎていたのに。
どっちにしたって家には帰らなきゃいけない。そこで僕たちは「ちょっかいを出されないよう祈りながら通ろう」ということになった。僕と兄さんはほんとに祈った。子どものころの僕は、マズいことがあっても祈れば何とかなると本気で信じていた。たぶんあの日、祈っても決してうまくいかないという現実を受け入れたのだと思う。いじめっ子たちがちょっかいを出してきたら勝てっこないのはわかっていたから。ずっと、ちくしょう、ちくしょうって思いながら、あいつらに向かって歩くのはとても怖かった。僕はおもらししそうになり、脚から力がへなへなと抜けていく。強くて度胸がありそうなやつの前に立ったが、内心では、タン、ぜったいにもらすなよ。学校に穿いて行くズボンはこれ以外に替えがないんだからねと、自分に言い聞かせた。
子どもの目では18歳って大人に見える。あいつらは16から18歳の、大人に片足を突っ込んだ連中、僕たち兄弟は、11歳と13歳だった。相手は少なくとも6人、僕たちはふたり。僕はブックメーカーじゃないけど、僕たちが勝つ可能性はまずなく、もう負けたも同然。
あいつらとの距離が縮むと、兄さんが(やった!)うまい手を教えてくれた。「お前は逃げろ。俺が相手をしてやる」僕たちだけで勝てるわけがないし、この場を切り抜けるには、僕が全速力で家に帰って、助けを呼ぶのが唯一の作戦だった。僕は逃げないで、全力を尽くして兄さんと一緒に戦うか、せめて兄さんを逃がして僕が戦えばよかったかもしれない。ただ、兄さんは僕より足が速くなかったし、僕らイスラム教徒の文化では、兄は必ず弟を守るものと決まっている。
僕たちは、角を曲がったら家まであと50メートルのところまで逃げた。間抜けないじめっ子たちを引きつけてから、僕はやつらを振り切って対向車の隙間に入りこみ、身をかわしたり、人の波をいったん縫うようにして、相手をまいた。心臓をバクバクさせながら家に戻った僕は、ドアを開けて中に入るなり叫んだ。「助けて! 助けて! あいつらが兄ちゃんを殺そうとしている!」
パパは今まで見せたことのない表情になった。恐怖と怒りがない交ぜになった表情だった。僕がそれ以上言わなくても、すべてを察していた。親として、一番恐れていたことが起こった。もうすぐ人の親になる予定の僕も、こんな恐怖だけは体験したくない。
パパは椅子から立つと通りに飛び出した。パキスタン人は家では靴を脱いでいるので、パパは裸足で表に走っていった。イギリスは一年中ひんやりとした雨が降り、道が濡れていたけど、親なら当然のことだけど、パパは自分のことなど1ミリも気にせず、息子を守りたい一心で飛び出した。一緒に行こうとした僕をママが止めた。パパは悪ガキどもに駆け寄ると怒鳴り散らし、やつらはとっとと逃げたらしい。でも兄さんは、すでにひどく殴られていた。浅黒い肌をした僕らは、ただ家に帰りたかっただけなのに。
小さいときはよく考えた。いつか大人になって、強くなったら、大きな車を借りて、いじめっ子たち全員を乗せる。そして浅黒い肌の人たちを呼んで、順繰りに気が済むまでやつらを殴ってもらうんだ――と。子どものころの一番の願いがこれって、バイオレンスもいい加減にしろって感じだよね。僕は暴力を好むタイプじゃない。こんなことを考えたのは、有色人種として生きることの大変さが実際の行動に表れた証だ。差別をした連中に仕返しするっていうのが最大の夢だったなんて、子ども心にかなり傷ついていたってわけ。この話を、やはり浅黒い肌の友人にしたんだけど、彼はこう言った。「僕も同じこと考えてた! いじめてたやつら全員呼び出して、僕にしたことを全部味わわせてやるって」
子ども時代にはもうひとつ夢があって、今思い出しても腹が立つ。だけどこの夢を、いろんな有色人種の友だちに話したら、みんな同じことを考えていた。目が覚めたら、白人になっていますように、という夢。最初に思ったのは、物心がついたかつかないかのころ、家から外に出ていじめられたらどうしようと悩んでいたとき。かなわない夢とわかっていても、僕は夜遅くまで空想にふけった。弱虫だと思われたくなかったから、きょうだいには誰にも打ち明けなかった。兄さんや姉さんは、自分たちがほかの人とは違うと悩んでいるようには見えなかったし、言わないでおくのが一番だと考えたんだ。兄さんが病気で学校を休んだ日、僕ひとりで登校しなきゃと思うと気が重くなったときのことを思い出す。こういう日は、肌の色のことで意地悪を言うヒマも与えないぐらいのスピードで学校まで突っ走った。裏通りは避け、ひとりで歩いていると思われないよう、女性や家族連れのそばを歩くこともよくやった。逃げたり隠れたりするたび「自分はどうしてこんな肌の色に生まれたんだろう?」と考えた。白人に生まれればもっと生きやすかったはず。自分が白人になったときのことを、よく空想したーー人種をネタにいじめられないし、自尊心を傷つけられたり、落ち込んだり、引っ込み思案になるようなことからも解放されるんだろうな、と。
それでも心のバランスが保てたのは、学校では誰も人種の話を持ち出さなかったから。クラスメイトが「あのパキ野郎」と、あからさまな人種差別をむき出しにしたあと、「お前じゃないよ。お前のことは好きだ。でもほかのパキはカスだ」と僕に言ったことは何度かあった。そのときは「だって僕をパキって言ったんじゃないもん!」って、その子を許した。思春期のタンにもし会えるなら、そのクラスメイトの愚かさや無知と向き合うんだ、「君は間違っている」って言うんだ─と教えてやりたい。「あの子たちは僕をよく知っているから、差別的なことを言ってもいい」その考えがどんなに的外れか。僕と同じパキスタン系の人々とちゃんと向き合い、自分たちと同じ人間だってわかれば、どんなによかったか。
とはいえ、肌が浅黒いね、とはっきり口に出して指摘されないかぎり、僕は自分の肌の色なんて忘れてるけどね。パキって呼ばれても「あ、そうか! 忘れてた。ちょっとぼけっとしてて、自分がパキだっていうのをすっかり忘れてたよ」と返す。たしかに僕は、「君たちは僕たちとは違う」とか、「一緒にされると不愉快だ」とか、とても失礼な言い方で肌の色をとやかく言われるまで、ほんとうに頭からきれいさっぱり消し去っている。
人にはいつもていねいで、礼儀をわきまえ、親切であろうと心がけていた。自分は肌の色を指摘されて怒る有色人種とは違う。僕は君たち白人と同じ。愛想がよくて、機転が利いて、誠実(ホワイト)だと。
差別に対する考え方がこのように変わると、下に見られることのくやしさを声に出して主張するべきなのに、自分が受けた仕打ちを理不尽だとしか思えなくなった。でも有色人種は、ひとりが声を上げれば、その声は自分のコミュニティー全体の声と思われるのを、これまでの経験で知っている。ひとりの白人が怒鳴り、蹴飛ばし、金切り声を上げれば、同じ白人同士でも「だからジャックが嫌いなんだよ」とは言っても、「だから白人は嫌いなんだよ」とは言わない。逆に僕が白人と同じことをしたら「だから南アジア系はイヤなんだ。あいつらはいつも怒りっぽくてさ。自分の国に帰ればいいのに」と批判されるだろう。
自分の国に帰ればいいなんておかしな話。ここは僕の国なのに。僕はイングランドで生まれ、イングランドで育った。僕の一族の祖国は大英帝国の植民地となり、僕の先祖は定住資格を得てイギリスに渡り、この国で子どもを儲けた。イギリス人を名乗る連中が南アジア(そして、数えきれないほどたくさんの土地)に来て統治権を宣言していいなら、僕にだってイングランドを祖国と呼ぶ権利があるし、この国から出て行く気はさらっさらない。なぜならここが祖国だと教わったから……同胞はみな、僕と同じ気持ちでいる。
こちらにケンカをふっかけてくる相手とどう向き合うか、当時の僕はそればかり考えていた。彼らと戦っても得るものは何もないし、罵っても何の足しにもならないのは、そのときからわかっていた。生きやすくなりそうな唯一の手は、相手と人間として同じレベルに立ち、説得を試みることかもしれない。「君たちは僕の肌が浅黒いからって忌み嫌っているけど、僕らは同じ人間なんだよ。そう、肌の色や食べる物が違って見えるかもしれないけど、僕のことをもっとよく知れば、自分とまったく同じ人間だとわかるさ」そのあとでこう尋ねる。「なぜ国に帰れって言うの? 君には僕に恨みを持つ理由もなければ、根拠もない。僕がイギリス国民ではないという結論にいたった理由を話し合おうよ。で、教えて。そもそもさ、白人はなぜ社会的に認められてるわけ?」
幼いころの僕はとにかく孤独だったという記憶が鮮明に残っている。うちの家族は自分の内なる思いを語り合うような関係じゃなかった。腹が立つことがあれば言い争いはしたけど、自分の孤独を家族に打ち明けることはなかった。感情を口に出すのは南アジア系の人らしくなく、家族や友人と、自分が抱える孤独について気安く語り合うことはできなかった。メディアで南アジア系の人が孤独を訴える姿を見たこともない。
主流派の文化に影響されたという意識はないけど、世論を基準にして、自分はまともだ、認められている、評価されていると感じる人はたくさんいる。僕だってそうだ。どこを見ても白人だらけだと、白人ってすごいんだと思い込む。テレビも、雑誌も、屋外広告も、白人が幅を利かせている。黒人の活躍をメディアで見かければ「うんうん、時代はいい方に向かっている」と考える。レズビアンを見かければ「よかった、注目を浴びるようになったね」と考える。「どういうこと? 南アジア系のゲイがテレビに出たのを見たことがない」と、僕は押し殺すことができない怒りを覚えた。あの日のことは、決して忘れられない。
僕がゲイだとカムアウトすることは─長い間、一生隠し通すつもりでいたから――昔なら大問題で、周囲の人たちにショックを与えただろう。
かつて、イギリスで西欧の白人向けドラマ『クィア・アズ・フォーク』が放送された。『ふたりは友達? ウィル&グレイス』や、オリジナル版『クィア・アイ』が放送されたころのこと。「よかった、僕みたいな人もいるんだ。ゲイがテレビに出ている」と思ったのを覚えている。でもドラマには描かれていない、人種の高い壁があった。テレビや映画を通じて、たくさんの南アジア系や中東系の同性愛者がいるのを確認したかったのに、かなわぬ夢に終わってしまった。インドやパキスタン、中東系の同性愛者を扱ったお話はないの? 僕たちを題材にしたお話はないの? 僕たちはいなかったことにされているの? 浅黒い肌をしたゲイの主張に耳を傾けようという視聴者はいないの?
こうした意識改革には長い時間を要し、2018年、僕がその運動の先頭に立ったというのには驚いたけど、世間がようやく動き出したのをうれしく思った。
ショービジネスの世界にはじめて足を踏み入れようとしたとき、僕が南アジア系コミュニティーを代表するんだと思ったら、言いようのない不安に襲われた。LGBT+と、南アジア系の両方のコミュニティーの代弁者になるのかと考えると、ますます足がすくんだ。僕の行動や発言が南アジア系移民コミュニティーの総意と思われることが怖かったんだ。僕が失言すると、パキスタン人への印象が思った以上に悪いものになるのでは。僕が不祥事を起こすと、パキスタン人はみな、あんな思想の持ち主だという悪評が立つのでは。そんな不安があった。
僕の発言が僕だけの発言で終わらないことは、十分すぎるほどわかっている。広報担当は繰り返し僕に言う─忘れないで、タンの発言はすべて、ゲイコミュニティーか、南アジア系、中東系を代表する声として受け取られるんだよ。
宗教とどう付き合うかについても思い悩んでいる。どう動いたって、タン・フランスという一個人ではおさまらないことぐらいわかっている。マスコミはこれまで、タン・フランスはゲイで、イギリス人で、イスラム教徒というプロフィールで紹介しようとする。『クィア・アイ』で、フード・ワインを担当しているアントニには、ゲイで、ポーランド人で、クリスチャンというプロフィールを使わないのに。ぜったい使わないのに。アントニとして紹介するのに。
宗教の問題はこれまで触れたくなかったし、これからも触れるつもりはない。プライベートに踏み込んだことなのに、取材や記者会見があるたび、マスコミはこの話題を持ち出してくる。インタビューでは宗教の話題には触れないでと先方に強くお願いしてあるのに、それでも取材で必ず話題に上る。だから、僕だって怒ってもいいよね。南アジア系を代表することは望外の喜びだけど、宗教を話題にするのは個人の領域に立ち入りすぎてはいないかな。僕はイスラム教やイスラム教徒の生活様式を語るつもりはない。
いばらの道を通ることになるのはわかっているから、先駆者になるのも気が進まない。僕の口を封じ、僕たちのコミュニティーにはゲイはいないことにしようとする一部の人たちから、盛大に叩かれるのは覚悟している。僕がやっているのは、このライフスタイルを"世間に広め、応援すること"だ、と。
違うって! 僕は大好きな仕事をしているの。僕がハッピーになり、今までなかった視点を持つことができた仕事を。社会的な主張なんてしていない。政治や文化を声高に叫んでなんかいない。僕は僕、見たとおり、誰にもはばかることなく、正真正銘の僕だってことを。
この本を通じて、テレビで一度も見せたことのない僕の一面が伝わり、今、悩んでいる子たちの力になるなら、うれしい。その子たちが「タンはいろいろ乗り越えて今のタンになり、今の自分に満足し、堂々と世間に表明している。僕もそうありたい」と思ってくれるとうれしい。
自分と同じ境遇の子たちが希望を抱いてくれると、うれしい。
(第1章おわり)