恩田陸の最新長編『スキマワラシ』、第一章を全文公開!③
恩田陸さんの最新長編『スキマワラシ』が先日発売されました。
白いワンピースに、麦わら帽子。
廃ビルに現れる都市伝説の“少女”とは――?
本作は、古道具屋を営む兄と、物に触れると過去が見える能力を持つ弟が、不思議な少女をめぐる謎に巻き込まれていく、ファンタジック系ミステリー小説です。
本書の魅力を広く伝えるべく、第一章を一日おきに全文公開していきます。
夏の読書のきっかけに、ぜひご一読ください!
恩田陸『スキマワラシ』(集英社)
定価:1800円+税
ISBN:978-4-08-771689-4
装丁:川名潤 装画:丹地陽子
<前回 試し読み②はこちら>
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女のきょうだい。
その一言に、僕は動揺していた。何か触れてはいけないものに触れたような気がしたのだ。
もしかして、当時つきあってたガールフレンドのことを、そう言ってごまかしたのかもな。
彼がそれ以上深追いはせず、そうフォローしてくれたので、僕はなんとなくホッとした。
もちろん、僕には、当時そんなガールフレンドなんかいなかった(いくらなんでも、つきあっていた子のことはさすがに全員覚えている)ことは確かだったのだけれど。
ねえ、ひょっとして、僕と兄ちゃんのあいだに、女のきょうだいがいたりしなかった?
同窓会のあと、僕は例によって引手を磨いている兄に、洗いものをしながら(僕は、我が家では食事担当なのだ)さりげなく聞いてみた。
すると、兄は「いたりしなかった」と即答した。
その即答ぶりを怪しく思わないでもなかったが、兄はいつものように、どこかすっとぼけた声で淡々と続けた。
そりゃ、俺だって綺麗なお姉さんや可愛い妹が欲しい、と思ったことがあることは否定しない。しかし、隣の芝生は常に青いものだ。弟よ、俺にはおまえという弟がいるだけでじゅうぶんだ。
なんだか、丸めこまれたような、煙に巻かれたような、返事になっていない返事である。
だよね。
僕は気のない返事をする。兄が僕の質問に正面から答えないのはいつものことだ。
でもさ、同窓会で言われたんだ。おまえ、女のきょうだいいたよねって。そいつ、僕が髪の長い女の子と歩いてて、僕に「誰だ」って聞いたら、僕が「血縁関係者だ」って答えたっていうんだよ。僕は全然覚えてなかったんだけど。
なんだって?
その時の兄の声の調子に、思わずびくっとして、グラスを流しに落としてしまった。
振り向いた僕は、兄とまともに目が合った。
そんな表情を見たのは初めてのことだった。
兄はかすかに青ざめ――そして、ひどく真剣な目で僕を見ていた。
兄は黒目がちで、いつもかすかな笑みを浮かべているので、前から柴犬みたいな目をしているなとは思っていたが、なかなかちゃんと見たことはなかった。ひょろっとして僕よりも十センチ以上背が高いので、いつも見上げる感じだったというのもある。
しかし、この時の兄は、椅子に座っていたので、逆に僕のことを見上げる角度になっていた。
その目は、やたらと黒目が大きく見え、しかもほんの少し青みがかっているのに気付いた。
ブラックホールみたい。
ブラックホールを見たこともないくせに、そう思った。
吸い込まれそうだ。
僕はそう思い、反射的に身体を引いていた。
それ、いつごろの話だって言ってた?
兄は、自分の表情が弟を動揺させたことに気付いたらしく、小さく咳払いをした。そして、少し目を逸らすようにしてそう尋ねた。
僕はブラックホールから引き戻され、同時に、デジャ・ビュを見たような気がした。兄が、僕がそいつに尋ねたのと同じ質問を口にしたからだ。
えっと、中学に上がる前じゃないかって言ってた。
そう答えると、兄は、視線を宙に向けた。
その子、何歳くらいだったって?
またしても、デジャ・ビュ。
僕と同い年くらいに見えたって。
ふうん。
兄は目を泳がせた。
その表情は、兄が何かを思い出している時の顔だ。映像記憶を持つ兄が、記憶の隅から何かの「絵」を引っ張り出している時の顔。
そして、その時の兄は、確かに何かを思い出したのだ。
僕は知っている。兄が何かを探り当て、思い出した時には、一瞬目が見開かれて「かちり」という音が聞こえたような気がするからだ。
そのことを確信したけれど、もちろん兄はその内容を僕に教えてくれることはない。
分かってはいたが、それでも僕は尋ねずにはいられなかった。
なあに、何か思い当たることでもあるの?
兄は、つかのまぼんやりしていて、声を掛けられたことにも気付いていないみたいだった。
が、少し遅れて、予想通りの返事をした。
いいや、別に。
兄は、かすかに笑みを含んだいつもの表情に戻って、ゆるゆると左右に首を振った。
でもねえ。
グラスに視線を戻した僕に、また少し遅れて兄がぽつんと呟いた。
「スキマワラシ」かもしれないね。
試し読み④へ続く
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