私は日記を書いている。私は自分のすべてを知りたい。把握しておきたい。
5月26日に発売した小説家・奥田亜希子さん初のエッセイ集『愉快な青春が最高の復讐!』から、10章あるうちのおよそ6章分を、noteにて順次公開していきます。
※どの回からでもお読みいただけます。
本作は、「大人になってからの青春」を綴った一冊です。そこには、パーティーや、BBQ、フェスといった要素は皆無、何なら学生ですらありません。それでも、奥田さんが体験したある種の熱狂は、紛うことなき「青春」と呼べるものです。
登場するのは、奥田さんと、奥田さんが会社員時代に出会った、同期五人。平日は毎晩のように誰かの部屋に集まり、一台のベッドにぎゅうぎゅう詰めで眠る――会社のロッカーに共用の風呂道具を入れて、仕事帰りにみんなで銭湯に通う――北は北海道から南は長崎まで、弾丸旅行へ行きまくる――。
謎のバイタリティに溢れた6人を見ていると、自然とこちらも元気が出るはず…です。
小学生の頃から日記を取り続けてきた、記録魔である奥田さんだからこそ鮮明に振り返ることのできる、あまりにもさっぱりとした自虐エッセイです。
どうか笑ってあげてください!
奥田亜希子『愉快な青春が最高の復讐!』
装丁:川名 潤 装画:池辺 葵
4 頭を下にした潰れたカエルのような
とびっきり鮮やかな記憶は、いつまでも色褪せずに頭の中にあり続けるものだと思っていた。
私は記録魔で、中学生以降の日々は、断続的ながらいろんなところに残されている。いろんなところ、というのは、私が高校一年生のときに、家にインターネットが開通。それからは、タグを打ち込んで作成した個人サイトにブログ、SNSと、そのときどきの流行の地で、読みものふうの日記をしたためていたからだ。そういえば、ほんの一瞬、恋愛ブログもやっていたよね、と、今、天から声が降ってきたけれど、これについては嘘を吐きたい。やっていません。大学時代にはほぼ毎日ブログを更新しながら、胡麻よりも小さな字で、手帳に自分のためだけの日記もつけていた。
手書きの日記を読み返すことは、本当に、滅多にない。その日になにがあったのか、自分がなにをしていたのか、永遠に分からなくなるのが怖いという理由だけで、私は日記を書いている。私は自分のすべてを知りたい。把握しておきたい。そんなことは不可能だと頭では分かっていて、けれども自分が自分の理解や制御を超えていくことに、どうしても恐怖心を覚えた。
このエッセイを書くとき、パソコンの傍らには十冊以上の手帳が積み上がっている。それらを引いたり、ブログやSNSのログを漁ったりしながら、私は同期との思い出を振り返る。でも、今の私が本当に知りたいことは、意外とどこにも残っていない。記憶に触れようとすればするほど、風化した土壁のように、細部がぼろぼろとこぼれ落ちていくのを感じる。
どんなに楽しかったことでも。
二〇〇七年の夏、つなぎが流行った。工事現場などで働く方々をターゲットに作られた衣料品の存在に同期が気づき、みんなで着たら面白いのでは? という話になったのだ。この半年前に会社を辞めていた私は、メールで唐突に希望の色を訊かれて、ブームの始まりを知った。私のつなぎは黄葉する直前の、いちょうの葉の色に決まった。あとの四人は、橋本がカーキで山口がグレー、矢田と和田がネイビーだ。宮崎の清野にも赤を送ったらしい。専門店のつなぎはサイズと色の展開がとにかく豊富で、しかも安い。当時は一着二千百円だった。トイレに行きにくいという欠点はあるけれど、ポケットの多さと、どんなに動いてもお腹や背中が出ない利便性はすばらしい。全人類に薦めたい。
このつなぎを着て、千葉県北西部にある我が家から、東京都葛飾区の金町まで、真夜中に歩いたことがある。なぜか。分からない。徒歩で東京に行ってみたいというのが動機だったような気がするけれど、となると、今度はなぜ徒歩で東京に行きたかったのか、という疑問が残る。過去の自分にはつなぎの値段より、このあたりを詳細に記しておいて欲しかったと思う。
十一月二日の金曜の夜、四人は仕事を終えて私の家にやって来た。たこ焼きパーティで胃を満たしたあと、つなぎに着替えて、午前二時に奥田家を出発。流山市までは約一時間半と順調で、元気に歩いていた覚えがある。空気は一足早く真冬に突入したみたいに冷たくて、すぐ脇の国道は、車のヘッドライトで光の川のようだった。揃いのつなぎで歩く女五人に、コンビニの店員も、夜間工事をしている人も、みんなが戸惑っていた。彼らが二度見どころか、三度見、四度見することも、私たちの気分を盛り上げた。
ところが、次の松戸市が辛かった。松戸は頭を下にした潰れたカエルのような形をしていて、北部から入って南下しようとすると、とにかく長い。歩けども歩けども松戸。ネバーエンディング松戸。地球上から松戸以外の街が消滅したんじゃないかと思った。私たちのあいだからは徐々に会話が消えて、それでも足を止めたら、この苦行は終わらない。松戸の後半から都内の街並みを目視できるようになるまでは、雰囲気も若干すさんでいた。なんのために、と、私も千五百回くらい思った。「東京 ○キロ」の看板の数字が小さくなっていくことだけが心の支えだった。
午前六時二十六分。約十六キロの道のりを完歩して、私たちはついに金町に足を踏み入れた。そのまま休める場所を求めて駅前のファストフード店になだれ込み、そこでどろりと液体になった。もう一歩も動けない。私は夫に連絡を取り、車で迎えに来てもらった。山口と矢田をそれぞれ家に送り届けたのち、私も帰宅。なんとか風呂に入り、夫が作ってくれたオニオングラタンスープと洋風茶碗蒸しを食べて、十九時間眠った。
車に乗らなかった橋本と和田は、その足で都内の大学の学園祭ライブに向かったそうだ。私は同期に対して、敬意が八、混乱二くらいの割合で、どうかしてるな、と思うことがある。あの液状化した身体と魂でライブを観に行った二人には、超特大の、どうかしてる、の念を抱いた。結局、疲労と睡眠不足から、オールスタンディングだったにもかかわらず、ライブ中にうとうとしたらしい。そりゃあそうなるよ。子どもでも分かるよ。
揃いのつなぎで出掛けたことが、あと二回ある。
夜間歩行から半年が経った二〇〇八年の五月、多摩動物公園で写生大会をすることになった。なぜか。やっぱり分からない。手帳にもブログにも、どこにも理由が残っていないのだ。天気予報は雨で、「どうする?」と尋ねた私に、「そんなことでは私たちはくじけない!」と四人は答えた。
深夜〇時に集合して、新宿のカラオケ店で朝五時まで歌った。けれども、多摩動物公園が開くのは九時半だ。時間を持て余した私たちは、とりあえず目についた漫画喫茶に入り、店内で一度解散することにした。九時まで個室で過ごして朝食を済ませたのち、ようやく出発。幸い雨には降られなかったけれど、動物を見ながら園内を歩き回るうちに時間は流れて、薄々予想していたことながら、誰も絵を描かなかった。画材はただの荷物になった。
もう一回は、そのさらに半年後。橋本の家から千葉の舞浜にある有名テーマパークまで、矢田を除いた四人で歩いた。なぜか。本当に分からない。しかも、今度は往復だ。それでも私の家から金町までほどの距離はなくて、昼過ぎにスタートし、夕方にはゴールできた。ああ、そうだ。橋本の家に戻ってからは、彼女の誕生日会を催した。あの舞浜ウォーキングには、年をひとつ重ねる同期を祝福する意味があったのだろうか。たぶん、ない。
つなぎとは無関係に、今振り返ると理解不能な企画といえば、池袋アイスパーティだ。二〇〇八年八月、矢田が入手したアイスクリームチェーン店の無料券を使うために、みんなで深夜に集まった。このときも、朝の五時までカラオケをした。もはや誰も信じてくれないと思うけれど、私たち五人のうち、カラオケを特別に好む者は一人もいない。夜通し遊ぶ方法をほかに知らないのだ。朝食を摂り、店がオープンするまでの余った数時間を、今度は山手線で過ごした。「ぐるっと一回りすればちょうどいいね」と話していたはずが、全員で眠りこけて、気がついたときには二周していた。車窓越しの朝日が、暴力的なまでに眩しかった。
池袋のドミトリーに、矢田を除いた四人で一泊したこともある。二〇一〇年の十月の出来事だ。私たち以外の宿泊客は、ほとんど外国人だった。ドミトリーといえば、ほかのゲストと相部屋になるかもしれないところに特徴があるけれど、二段ベッドが二台入った部屋を割り当てられたこともあり、特別な交流は生まれなかった。私たちはひとつのベッドに並んで座り、夜遅くまで喋った。ウサギ耳のカチューシャを装着して、人参を片手に写真も撮った。これは、理由がはっきりしている。年賀状のためだ。翌年が卯年だったのだ。
でも、なぜわざわざドミトリーに泊まったのかは、どうしても分からない。
同期との思い出を小説の題材にしないのかと、ときどき訊かれる。やってみようかな、と思う瞬間はあるけれど、実際に書こうとしたことは一度もなくて、それはたぶん、記憶があまりに穴だらけだからだ。小説はフィクションだから、事実に沿う必要はまったくない。でも、つなぎで歩いているあいだに起きるハプニングは考え出せても、なんの疑問もなく五人でつなぎを着ることになった経緯のようなものは、到底思いつかないだろう。むしろ頭を捻るほどに、面白さから遠ざかってしまう気がする。意味や理屈を介さずに物語を作ることは、私にはとても難しい。
全部書き留めておけばよかった、と後悔しなくもないけれど、結局、記録しておきたくなるほどの動機ではなかったから、日記にも記憶にも残っていないのだと思う。ごくごく自然な流れで私たちはつなぎを着て、真夜中に歩いて、写生大会を計画した。崩れ落ちて穴になった部分にこそ旨みがあったように思うのは、過去の美化だ。そう考えないと、記録魔としてはいささかやりきれない。
アルバイトをしていたころには、その日のシフトのメンバーに店の売り上げ、給料、貯金残高を書きつけていた。なににいくら使ったかということや、自分の服装をメモしていた時期もある。体重、運動量、小説の進み具合から、読んだ本や観た映画のタイトルまで、私の手帳には、本当にいろんなことが残されている。年に一冊、着実に増えるこの禁断の書を、私は一体いつ処分すればいいのだろう。この世を去る前に自らの手で、とは思っているけれど、手放したあとに読み返したくなることを想像すると怖くて、ずっとタイミングに悩んでいる。
世の記録魔たちは、この問題とどう向き合っているのだろう。いつか同志に会ったら訊いてみたい。
<これまで>
■青春という言葉に気持ちが明るくなる方にも、絶望に似たなにかが湧き上がる方にも。(まえがき)
■青春を味わうには資格が必要だと思っていた。 (第1回)
■「会社の人とは友だちになれないよ。ある意味でライバルなんだから」(第2回)
■休日とは、文字どおりに心と身体を休ませるためのものだと思っていた。(第3回)
<番外編>
■「モテない」語りの最終兵器は奥田亜希子が撃つ! (花田菜々子さんによる書評)
■山本さほさんによる漫画(書評)
奥田亜希子(おくだ・あきこ)
1983年(昭和58年)愛知県生まれ。愛知大学文学部哲学科卒業。2013年、『左目に映る星』で第37回すばる文学賞を受賞。著書に『透明人間は204号室の夢を見る』『ファミリー・レス』『五つ星をつけてよ』『リバース&リバース』『青春のジョーカー』『魔法がとけたあとも』『愛の色いろ』がある。本作は著者初のエッセイとなる。
単行本には、同期旅の模様など、写真を多数収録!