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ボクたちの冒険6/ダニエルスミスは世界堂で買おう

ニューヨークの画材屋でボクは日本経済の完敗を目撃した。日本のGDPは下落の一途を辿っているが,それに先立って現状すでに日本は経済先進国とは言えない。ボクは一画家としてこの30年間の日本政府による経済政策の失策を告発したい。

旅先の町で「自分土産」に何をお求めになりましょうか。アクセサリーや雑貨,お菓子,それともお洋服?誰かを想いながらのお土産探しも楽しいものだが自分土産もまた心愉しい。ボクの自分土産は画材。ニューヨークには20数年前にのべ3ヵ月ほど滞在したので,カナルストリートにある画材店パールペイントによく通った。以来,数年に一度ニューヨークを訪ねるたびにパールペイントに行くのを楽しみにしていた。

前回は,ほら,白い柄がオシャレなアメリカ製油彩筆を買った。

ところが今回,ボクの最後のニューヨーク旅を待たずにパールペイントニューヨーク店は潰れてしまっていた。ニューヨークの絵描きにとっては例えば上野の文房堂とか世界堂新宿本店が潰れたのに近い衝撃だろう。画材すらもネットで購入する時代なのだろうか。

寂しいことだがマップアプリでミッドタウンに代わりの専門店を見つけた。この日のニューヨーク散歩の主人公はボクでメイン目的地は画材店である。さあ,地下鉄に乗って出発。

7th&23STで地下鉄1番を下りるとミシェル画材店はすぐに見つかった。

今回は買い物が決まっている。水彩画を描かれない方には専門的な話で恐縮だが,最近,「分離色」という透明水彩絵の具が流行している。十分な水で色を置くと自然に色が分かれていく。アメリカのダニエルスミス社が元祖と言われるので試してみたいのだがなかなか高価である。そこでせっかくアメリカに来るのだからダニエルスミスを個人輸入(笑)しようというわけである。
手もみをしながら年配の店員が寄ってきた。「ダニエルスミスの水彩絵具を買いに来た」と告げたが要領を得ない。日本の画材屋ならあり得ない。アルバイトの女学生でも専門知識に誇りを持って働いている。画材に限らずニューヨークではよくあることだ。

自力で水彩用具の売り場にたどり着くと,見慣れないブランドの水彩絵の具が吊るされている。「Koi」?…日本語じゃん(;^_^Aよく見ると日本では小中学校でもよく使われるサクラ(大阪)の24色セットである。問題はその価格である。

55ドル?ざっと8,250円。日本で売っている値段の4倍である。

見慣れたホルベイン(大阪)の透明水彩絵具は6色で38ドル!!日本なら24色セットを買ってお釣りがくる。

ボクが主力で使っているウインザー&ニュートン(イギリス)の価格は2.5倍ほど。もはや全く手の出る値段ではない。学生らしき若い女性が無造作に何色かを紙やパネルの詰まったカゴに放り込んでレジに向かった。彼女はセレブの娘なのだろうか。

少なくとも25年前にはボクは同じニューヨークで彼女と同じように画材を買い漁った。新宿で買うより3割以上安かったからだ。円は90円台,ミッドタウンのビルは次々と日本企業が買収し,ロックフェラーセンタービルの前には大きな紀伊国屋書店があった。ボクのように貧乏な旅行者でも日本の経済力の恩恵に預かっていた。ドレミは日本ではボクの大きいサイズの衣料品を探すのに苦慮していた。ボクが帰国するときには,ドレミがA.E.やオールドネイビーで買った大きいサイズの衣類をトランク一杯ぎゅうぎゅうに持たされた。爆買いというヤツであった。

日本の物価は安いと言われるが,仮にウインザー&ニュートンの絵具で比較すればニューヨークと東京の相対物価はこの25年間で,2.5÷0.7≒3.6倍の差をつけられたことになる。物価の差は1.5倍ほどと言われ,日本の株価は好調だなどと楽観視する向きもあるが,それは富裕層まで含めての経済指標である。貧富の差は拡大し,世界視点から見れば,富裕層を除く日本のほぼ全国民が貧困に陥っていると言っていい。それが証拠に一般庶民がニューヨークの町を旅行してみるといい。地下鉄のパス,美術館の料金,レストランの値段,衣料品のショッピング…そのどれもがとても手の出る額ではない。インバウンドなどと言って海外セレブの富裕ぶりを面白がっている場合ではない。もはや普通の日本人が貧乏なのである。

ベテランと思しき店員を捕まえ,スマホでダニエルスミスのウエブサイトや商品を見せたが首を傾げている。ダニエルスミスはアメリカで1,2を争う画材のブランドである。それを店員が知らないのはおかしい。どうやらミシェルは画材専門店ではなく,手芸用品店が片手間に画材も扱っているディスカウントショップのようだ。先の女学生は値段の安さにつられて専門店ではないこの店に来たものと思われる。

品質のよい中国製の筆は日本でもそこそこの値段がするがそれでも2倍くらいの値段だと推測される。話のタネに日本では見たことのない水彩筆を2本購入することにした。

心なしか笑顔に元気がない。さすがにこんなにつまらないショッピングの経験はあまりない。

カフェで休憩する。もちろんこれもいい値段だがコーヒーを一杯と菓子パンひとつをシェアするのは節約してのことではない。専ら年令による許容量の問題であって,日本でミスドやドトールに行ってもボクらはたいていそんな感じである。

さてダニエルスミスがありそうな画材専門店が近くにもう一軒あるにはあるのだが,さすがにまた画材屋に付き合ってもらうのはドレミに悪い気がして言い出しきれずにいた。ところがドレミはドレミで,この近くにある大きなバーンズ&ノーブルに行きたかったらしい。バーンズ&ノーブルは書籍のチェーン店で雑貨や文房具のセンスもドレミに合っている。ニューヨークに住んでいたときは何時間もバーンズ&ノーブルで過ごすことも少なくなかったお気に入りの場所である。
「ちょっとだけ寄ってもいい?」
おずおずと切り出した。渡りに舟とはこのことである。ボクは腰痛を患って以来,書店で本を物色するのが苦痛である。ドレミはそれを慮っていたのである。
「よし!二手に分かれよう」
二人ともこの辺りの地理には明るい。地図がなくても単独行動ができる。
「12時半にユニオンスクエアの端で待ち合わせよう。」
「Okey♪」

こうしてドレミはひとりで懐かしいバーンズ&ノーブルに行った。

バーンズ&ノーブルの中は変わらない。店内にスタバがあって,立ち読みならぬ座り読みが可能である。しつけのよい大型犬はノーリードで主人の後ろに侍り,他の客や店員が通るたびに尻尾をパタパタと振りながら愛嬌をふりまく。

本好きのドレミには天国のような場所であるが,ここにもまた画材屋と同じく価格の壁がたちはだかった。だがそこはそれ,ドレミのことである。しっかりと予算内でお気に入りの品物を見つけた。

2月現在にしてすでにボロボロになるほど使い込んでいるB5判スケジュール帳である。

一方,別の画材店に行ったボクはようやくダニエルスミスに出会った。

ニューヨークの専門店らしく,棚のウインドウにはすべて鍵がかけられている。ボクは鍵を開けようとする店員を制した。
「どの色にするか暫く見てからあなたを呼びます。」
果たして事前に世界堂でリサーチしておいた値段の2倍を超えていた。分離色はプリマテックと言って,日本では最近ようやく手に入るようになったアメリカ製品である。それを現地のアメリカで買う方がはるかに高いというのはどうしたことだろう。関税とかそういうのはどうなっているのだろう。全くわからないがただひとつ言えることがある。

「ダニエルスミスは世界堂で買おう」

…と言うことである。アメリカ人が世界堂のサイトでダニエルスミスを買うという噂も真実味を帯びてくる。ボクがもしニューヨーカーなら東京旅行のときにダニエルスミスを抱えるほど爆買いして帰るだろう。

アメリカ製品の日本での値段は貧困国向けに配慮されて設定されている可能性が高い。外国人観光客が日本に殺到しているのは文化や歴史の魅力を発信したのが功を奏していると政府も地方自治体も胸を張っているが,それは全く的外れであろう。観光客にとって最大の魅力は何もかも安いことなのである。

ボクは売り場に案内してくれた店員に見つからないようこそこそと店を出た。もはやつまらないを通り越して屈辱である。

ボクたちがニューヨークに来ることはたぶんもうない。ユニオンスクエアに来るのもこれが最後だろう。

ボクの用は絵の具を買わなければあっという間に済んだが,ドレミはバーンズ&ノーブル以外にもあちらこちらと時間いっぱい懐かしい場所を歩いて来たらしい。ボクは待ち合わせ場所で15分ほども待たされた。

この国に辛うじて残る日本経済の痕跡は車とカメラだけである。かつて世界を席巻したメイドインジャパンの電子機器や白物家電は専門店や量販店に行っても一つもない。そう「一つ」もないのである。テレビも冷蔵庫も電子機器も音響機器も中国製か韓国製,もしくはNIEs製品である。

日本経済はこの25年間に連戦連敗,こてんぱんに負け続けて完敗した。その責任は失策と言うよりほぼ無策だった歴代政府に帰する。どこの国でも富裕層は富裕である。一般人が豊かさを享受し実感できなければ国は豊かとは言えない。庶民が外国の町で楽しくショッピングできるかどうかはその端的なバロメーターである。

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