今日はないものねだりについて考えた。

最近になって

相手が本当に好きかどうか判別するキッカケがわかった。

それは「ないものねだり」してるかどうかで

口では「好き」といっても

「〜れば好き」と会話において「〜たら、〜れば」を使う人は

本物の「好き」ではなく

「〜があるけど好き」という人は本当に

「好き」

なのではないかと思う。

例えば「自分たちの芸風」においても

「〜れば、もっと良くなる」など言うパターンは

「今の自分達のスタイルに満足してない。」

事を示していると思う。

ところが、「自分たちの芸風」が本当に好きなら

「〜けど、なんで売れないだろう?」とか

「〜けど、数年後には間違いなく光る。」

という言い方になるのではないかと思う。

また「ないものねだり」に関して思うのは

キン肉マンのラーメンマンの名言

「ないもの以外全てある」

という言葉。

人によってはこれは幸せと関連している事を紹介していて

幸福な人はあるもので満たされる。

不幸な人はないもので嘆いている。

と幸福と不幸の対比を示している。

ただ、これに関して思うのが

「幸せ」の部分を「好き」で言い換えても成り立つのではないか?

「幸せ」を「好き」に言い換えると

本当に好きな人はその人あるもので満たされる

本当に好きではない人はその人のないものに嘆いている。

と言い換えられるのではないかなと思った。

だから、ないものでねだる位なら

やはりその「好意」は「嘘」で別の目的があるのではないかとか

その人の性格ではなくてその人の「金」目的で近づいてきたのではとか

まあ、疑ったほうがいいなと思った。

それくらい「ないものねだり」というのは自分にとって「哀れ」なもの。

けど、自分もそんな時代があった。

「М-1」の功績さえあれば認められるのに。

ちがう。ちかう。

元々、漫才の才能がなかった。

ようやくそれがこの年になって気づいたので

次のステップこそ何かしら今あるもので満たされるように頑張ろう。

臼倉の挑戦はまだまだ続く。

芸事だけで少しでも食べていきたいです。