知的生産では「常にポジションをとる」
一月ほど前に知的生産における「一次情報をインプットすることの重要性」について書きましたね。
今回は知的生産における「インプット」の次のプロセスである「プロセッシング」に関して、その心構えについて書いておきたいと思います。
文脈に沿った「意味合い」を引き出す
そもそも「プロセッシング」とはなにをやることなのでしょうか?一言でいえば、プロセッシングとは、
集めた情報から、何が言えそうかを考える
ことです。集められた情報から「意味合い」や「示唆」や「洞察」を引き出す。ここで重要になるのが、「文脈に沿っている」ということです。集められた情報から示唆や意味合いを出すというのは、乱暴に言えば無限に出来ることですが、知的生産のプロセッシングにおいて重要なのは、
その局面において重要な意味合いや示唆だけを引き出す
ということです。これは国際政治や軍事における諜報活動を考えてみるとわかりやすい。例えば、太平洋戦争の開戦を間近に控えたアメリカは、日本に送り込んだ諜報員に、日本の連合艦隊の艦船にどんな衣服が積み込んでいるか、という情報を調べさせています。
なぜアメリカはそんな情報を調べさせたのでしょうか?彼らは、冬服と夏服のどちらを積み込んでいるかを調べることで、日本の連合艦隊がどの方面に向かおうとしているかを推察しようとしていたのです。すなわち、もし冬服が多ければ、作戦行動は北の方面ということになり、一方で、夏服が多ければ、作戦行動は南の方面ということになる、ということです。
余談ですが、アメリカ海軍は、日本の連合艦隊に積み込まれている服が冬服であったことから、彼らの作戦行動は北方だろうと予測したようです。ご存知の通り、実際には連合艦隊はハワイを奇襲したのですから奇妙に思われるかも知れません。
種明かしをすれば、アメリカ海軍がスパイを使って積み込む衣服を調べ、そこから作戦行動に関する示唆を得ようとしていることに気づいていた日本側は、わざと冬服を積み込み、さらに出航当初は北方に進路をとることで、米国側の諜報活動をかく乱しようとしていたのです。
それはともかく、ここでは、収集された情報と示唆の関係がシンプルに表されています。積み込んでいる衣服の内容というのは収集された一次情報であり、積み込んでいる衣服によって「北方方面での作戦行動を予定しているのではないか」というのが一次情報から得られた示唆です。
同じ構造をビジネスの世界に適用して考えてみましょう。例えばわかりやすいのが採用に関する情報です。ある企業が、ある領域の専門家の採用を加速しているということが公開情報からわかれば、関連領域の事業についてのコミットメントをその企業が高めていくことが容易に想定されます。
この場合、採用を加速しているというのは収集された一次情報であり、対象領域へのコミットメントを高めているということは一次情報から得られた示唆ということになります。
もう少し高度になると、二つの質の異なる情報から示唆を得ることもできるでしょう。例えば、ある企業が大型の工場設備投資を実施した場合、その工場の生産能力と減価償却の金額規模がわかれば、どの程度の価格で市場に参入してくるかについてのおおよその目安を得ることができます。
生産規模が大きく、減価償却の金額が大きければ、おそらく普及価格の戦略をとってくることが想定されますし、生産規模が小さく、減価償却の金額が小さければ、いわゆるスキミング価格を設定して短期間のうちに投資の回収をはかってくるのではないか、という示唆が得られます。このように、得られた情報から、文脈に沿った意味合い・示唆・洞察を紡ぎだしていくというのが、プロセッシングという作業になります。
つねに「行動を提案する」という意識を持つ
知的生産に従事する立場にある人であれば、「つねに行動を提案する」という意識をもってください。「行動を提案する」というのはつまり「ではどうするべきか?」という問いに対して解答を出す、ということです。
そもそも、ビジネスの世界を限らず、我々が知的成果として世に訴えられる情報は基本的に三種類しかありません。それは「事実」「洞察」「行動」です。
世の中に生み出された過去の知的成果のすべては、これらの三つのどれかに分類することができます。例えばマルクスの「共産党宣言」には、これら三つの要素が全て含まれていますよね。
プロレタリアート=労働者階級とブルジョア=資本家の暮らしぶりを比較するという「事実」にもとづいて、そのような悲惨な格差が発生している要因を、疎外をはじめとしたモデルとして説明できる「洞察」として提示し、最後に、労働者の団結を訴えるという「行動」の提案によって締めくくっています(同様の観点から、同著者による「資本論」は、「事実」と「洞察」については、共産党宣言よりずっと豊かな情報量を含んでいるのに、「打ち手」についての情報がまったくない。これは非常に興味深い対比だと思います)。
また近年の好例としてはアル・ゴア元米国副大統領による「不都合な真実」が挙げられるでしょう。この映画(書籍もほぼ同じ内容ですが)では最初に、大気中の二酸化炭素濃度が上昇していること、氷河や南極の氷床が縮小し続けていること、ツンドラ地帯の永久凍土が解け始めていることを「事実」として示し、次にこれらの「事実」から、地球が長期的な温暖化傾向にあるという「洞察」を示し、最後に、視聴者に対してとって欲しい「行動」を提案するという構造になっています。
知的生産というのは、「行動の提案」まで踏み込むことで初めて価値を生み出すのだということを意識しましょう。たまに「あの人は評論家だ」といった悪口を聞くことがありますが、評論家というのは「洞察」までしかアウトプットできない人ということです。
これは、ある意味で大変本質をついた評価で、というのも「事実を整理する」ことと、そこから「洞察」を生み出すことと、最後に「打ち手を生みだす」ということでは、知的筋力には非連続な力量が求められるからです。
つまり、知的生産というのは、「では、どうするの?」という問いに対して応えを出すことで初めて完結する、ということです。膨大な情報を集め、緻密な分析を積み上げ、そこから得られた様々な示唆をどや顔で説明することは出来るのに、「ではどうすればいいのですか?」とたずねると、そこから先に進めない人がとても多い。
もう一歩、あと一歩で頂上というところまで来ているのに、そこで歩みを止めてしまう。その「もう一歩」というのはつまり、「では、どうするのか?」という問いに対して応えを出す、ということなのです。
翻って考えてみれば、この問いは古代ギリシアの時代以来、すべての哲学者が追い求めてきた問いといっていいかもしれません。機会があったら是非意識して読んでみてほしいのですが、少なくともプラトン以降、地球上のすべての哲学者が向き合ってきた問いは二つしかないのではないでしょうか。
それは「世界とはどのように成り立っているのか?」と「その中で、我々はどのように生をまっとうするべきなのか?」という問いです。そして、この後者の問いがあるからこそ、前者の問いに対する応えもシンプルなものにせざるを得ず、だからこそ過去の哲学者はどこまでも強く、深く考え続けたのです。
知的生産の技術と聞いて多くの人は、情報を集めて整理する技術、あるいはそれを分析して示唆や洞察を得る技術を想定されるかも知れませんが、極論すればそんな技術はどうでもいいのです。最後の最後、では、いま、ここにいる私は、どのように生をまっとうするべきなのか?この点こそが最も重大な問いであり、それに何らかの応えを出していないようであれば、そのような知的生産は極論すれば無価値だと思います。
何からのかたちで知的生産に従事する際には、つねに、最後は「では、どうすればいいのか?」という問いに対して応えを出し尽くすのだ、という気概をもって臨んでほしいと思います。
常にポジションを取る
常に行動を提案することが求められる、ということは、逆にいえば、一次情報の単なる分析や整理というのは途中経過の産物であって知的成果物ではない、ということです。従って、一次情報の分析や整理を行う際には、最終的に行動の提案につながるような意味合いを抽出していくことが求められます。ここで重要になってくるのが、
常にポジションを明確にとる
という点です。ポジションを取る、というのは論点に対する回答について肯定または否定の立場を明確にする、ということです。たとえばここに、「日本の自動車市場において燃料電池車の市場規模は今後拡大するか?」という論点があったとして、ポジションを明確化するということは、この論点に対して「拡大する」または「拡大しない」という回答を明確にもつということです。
逆に言えば、この場合「現時点ではどちらとも言えない」とか「更なる詳細な分析が必要だ」といった回答は「ポジションをとっていない」ということになります。
常にポジションを明確に取ることが必要だという指摘をすると、「知的生産の最終段階に入ったところでポジションを明確化するということですか?」と質問されることがままあるのですが、筆者が指摘しているのはそういうことではありません。知的生産の初期段階において、たとえ情報が不足しているように感じられたとしても、
現時点でのベストエフォートとして明確なポジションをとることが求められる
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