「三大幸福論」こそ最高のマニュアルである

そのスジの人にとって「三大幸福論」といえば、「ああ、あれね」とわかってもらえる三冊の本があります。すなわちラッセルの『幸福論』、ヒルティの『幸福論』、アランの『幸福論』がそれです。

私は、これら三大幸福論というのは「最強のマニュアル本」ではないかと思っています。マニュアル本という言葉には、一般的にネガティブな含みがありますね。時間をかけて本質てきな深みに入り込むことはせずに、手っ取り早く効果を得るための手引書というニュアンスがありますし、そういた本を手にとって、やはり手っ取り早く果実を得たいという人に対する揶揄が込められています。

世の中には自己啓発書やスキル本が溢れています。ビジネス書のコーナーに行けば、拙著も含めて様々なマニュアル本が棚に並んでいるのを目にするでしょう。株で成功する方法、デキるビジネスマンになる方法、不動産投資で成功する方法、等々。

しかし、ここで少し立ち止まって考えてみて欲しいのですが、多くの人はこう言ったマニュアル本をなぜ読んでいるのでしょうか?お金持ちになりたいから?仕事で活躍して出世したいから?安定した資産を築きたいから?確かに、その通りかも知れませんね。

しかし、問いをそこで止めずに、さらに踏み込んで考えてみましょう。なぜ、お金持ちになりたいのでしょうか?なぜ、出世したいのでしょうか?なぜ、安定した資産を欲しがるのでしょうか?多くの人は、だんだんと答えに窮しながらも、最後にはこのような答えに至るはずです。

「なぜなら幸福になりたいから」

と。

目標と手段は絶対的なものではなく、常に相対的なものです。ある手段によって達成しようとしている何らかの目的があったとして、その目的はより上位の目的の手段になる。「ジョギングする」という行為は、「痩せる」という目的のための手段だとすると、「痩せる」という行為は「モテる」という目的のためだったりします。では「モテる」という手段は、何を目的にしているのか?

全ての方法論について、その目標を奥へ奥へと突き詰めて問うていけば、必ずこの「幸福になるために」という答えに行き着くはずなのです。ではさらに質問しましょう。

幸福になる、というのが最終的な目標であり、そのために「お金持ちになるため」「仕事で活躍するため」「資産を増やすため」のマニュアルを読むのは何故なのでしょうか?幸福になる、ということが最終的、究極的な目的なのであれば、一度、「幸福になるため」のマニュアルを読んでみてはいかがでしょうか?

ある意味で「幸福を目指す」というのは最強の人生戦略といえます。なぜならば、どんなに裕福な人であっても、どんなに優秀な人であっても、どんなに高名な人であっても、ある「私はとても幸せです」といえる人には、絶対に勝てないからです。

僕のクルマはフェラーリだけど、君は軽自動車なの?
うん。それでも僕はこれで十分に幸せなんだ。

僕は昨年、執行役員に昇進したけど、君はまだヒラなの?
うん。それでも僕はこれで十分に幸せなんだ。

僕の本が先日ベストセラーになったよ。君も何か発信したら?
うん。それでも僕はこれで十分に幸せなんだ。

やっかみからでも負け惜しみからでもなく、堂々と「僕はとても幸せ」といえる人には、世界中の誰もが「この人には敵わない」と思うはずです。なぜなら、私たちは「幸せになる」という究極のゲームを戦っているからです。

「幸せになる」という究極のゲームの中に、サブゲームとして「年収を上げる」とか「昇進する」とか「名のある企業に勤める」という競争があるだけで、そう言ったサブゲームでいくらいいスコアをあげても、メインである「幸福」のゲームで十分に満足した成績を上げている人には、結局勝てないのです。

繰り返しましょう。僕らにとっても最も重要なのは「幸福になる」というゲームにおいて勝利することです。この究極のゲームには、サブゲームとして「収入」や「地位」や「名誉」といったものがありますが、これらのサブゲームの成績がそのまま「幸福」につながるわけではありませんし、場合によっては逆効果ということもありでしょう。

映画『ホームアローン』の主演子役として世界中の人気者となったマコーレー・カルキンですが、映画がヒットして得た莫大な収入を奪い合うために家族は分裂、両親同士は泥沼の訴訟合戦を繰り広げ、当のカルキン氏自身は十代半ばで重度のアルコール中毒患者になってしまいました。若くして億万長者になった氏の転落ぶりは、「年収を上げる」「名声を得る」というサブゲームが、「幸福になる」というメインゲームとはほとんど関係しないのだということを私たちに示しています。

多くの人は気づいているはずです。私たちは、別にお金持ちになっても、会社で活躍してエースと呼ばれても、安定した資産を築いても、別に幸福になれるわけではない、ということを。内心ではそのように気づいていながら、なぜ多くの人はその気づきをとりあえず横に置いておいて、必ずしも幸せに直結しない営みに多くの時間をかけて人生を無駄使いしているのでしょうか?

断言しましょう。あなたの年収が今の5倍になっても、あなたが会社でエースと呼ばれるようになっても、億単位の資産を築いたとして、あなたは一時的に高揚感を覚えるかも知れません。しかし、幸福にはなれません。

なぜなら人間には「不幸のDNA」があるからです。年収三千万円の人は年収一億円の人に劣等感を覚え、会社でエースと呼ばれる人は出世競争のプレッシャーに苛まれることになります。

私たちは人間には「自分を他者と比較してしまう」という致命的な癖を遺伝子として持っています。三大幸福論の筆者の一人であるバートランド・ラッセルは、この自分を他者と比較してしまう、という傾向について、幸福になる上において「致命的である」といっています。

しかし、私たちはどうしても、自分を他者と比較して、自分の劣っているところについて考えてしまいます。そういう意味では、私たちは、不幸になることについては天才的なのです。

この「不幸になる才能」を封印して、幸福になるためには、やはり努力が必要だろうと思います。三大幸福論の別の著者、アランは「悲観は感情だが、楽観は意志である」と指摘しています。私たちは放っておけば必ず不幸になってしまう。幸福になるには「意志と努力」が必要だということです。

ということで一度、三大幸福論について読んでみてはいかがでしょうか?

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