#078 なぜ経営リーダーにはリベラルアーツが求められるのか?
今日はリベラルアーツと経営と言うのも関係について少し書いてみたいと思います。まずは根源的な問い、「そもそも、なぜリベラルアーツが経営リーダーに求められるのか?」について考えてみたいと思います。
一つ目の答えは「それが難しい意思決定を行う上での最後の砦になるから」というものです。次の図を見てください。
意思決定の四つの立脚点
これは、ビジネスパーソンが、ある局面において意思決定を行う際の立脚点を並べたものです。順に考察していきましょう。
意思決定の際に、経営者が何に立脚して物事を判断しているか。筆頭に挙げられるのが「経験」です。これは過去において何がうまくいったか、何がうまくいかなかったか、という自身の経験に踏まえて意思決定をするということです。
次に挙げられるのが「論理=ロジック」です。データとファクトをもとに論理的に考えれば適切な意思決定ができるはずだ、という考え方です。この領域を外部の支援者としてサポートしているのが古典的な戦略コンサルティングだということになります。
次に挙げられるのが「事例」です。どの会社は成功している、あるいはどの会社は失敗している、といった情報を帰納することで一種の成功・失敗のパターンを抽出して意思決定するということです。これは一番最初に挙げた「経験」の亜種とも言える立脚点で、言い方を変えれば要するに「他者の経験に基づいて決める」ということです。
そして四ッ目が「予測」ですね。これから世の中こういう風になる、こういう風に変化するといった予測を立脚店にして判断をするということで、これはこれで非常にわかりやすい。少
ということで、ここまで「意思決定における四つの立脚点」について確認してきたわけですが、実はこの四つにはそれぞれ弱点があります。
環境変化が起きると意思決定の立脚点は無効化する
まず一つ目、経験は未経験の事態に適用すると判断大きく誤る可能性があります。この点について、私には忘れられない思い出があります。私は電通時代にソフトバンクを担当しておりました。まだ神保町の雑居ビルに本社が入っていた時代で、打ち合わせの時に人手が足りないと孫正義さん自身がお茶を入れてくれる、そんな時代の話です。
ある日、孫さんから次のような話をされました。
流石の洞察力です。当時、25歳だった私はこの話を受け、当時の電通の役員陣へ上げる稟議書類を作成してプレゼンしたわけですが、結局、電通はこの申し出を断りました。えええ!?何故??
ソフトバンク担当営業として経営会議に臨んだ私は、インターネットというものがどういうものなのか?その中における検索エンジンというのはどういうビジネスなのか?について簡単なプレゼンテーションを行い、最終的に議論は「孫さんの依頼を電通として受けるかどうか」に移っていったわけですが、当時の成田社長の一言で、この議論はすぐに終わってしまいました。成田さんのコメントは次のようなものでした。
俺、知ってるよ、コレ。ニューメディアってヤツだろ?
それまで電通はニューメディアに関連したプロジェクトで成功したことが一度もなかったんですね。これも同様の案件だろうということで電通は断ったわけですけれども、結果としては非常に大きなチャンスロスになったわけです。この事例は「経験」というものが、いかにその局面における判断を歪める作用をするかをわかりやすく示していると思います。
まさにインターネットという、これまで人類が経験したことのない未曾有のテクノロジーが出てきたときに、過去の経験に基づいて判断してしまったために、大きな意思決定の誤りを犯してしまった、ということで非常にわかりやすい。
論理はスピードを犠牲にする
では論理に頼ればいいのか?いや、これも大きな問題が二つあります。
一つ目の問題は「時間がかかる」ということです。現在は非常にデータを集めやすくなっていますが、データが多くなりすぎると解析に時間がかかるようになります。そして、現在のように変化の激しい時代においてスピードは常に競争上の重要な用件になりますから、「速く動けないということはそれだけで大きなハンディになります。
特に、データが示す統計的な意味合いをはっきりさせようとすればするほど、時間がかかるようになります。データから世の中の変化が示唆されるとき、それが単なるエラーデータなのか、あるいは一時的なはずれ値なのか、それとも世の中の大きな変化を示すまっとうなデータなのかは、統計的に信頼できる量のデータが集まるまでは判断できません。先述した通り、現在は「時間」が非常に重要な競争資源になっていますから、これは大きなハンディを背負うことを意味します。
さて、論理に頼ることの二つ目の問題は「他者と同じ結論になる」、つまり差別化が非常に難しくなるということです。時間も遅くなる上に他者と同じ結論というのは、競争としては全くダメだということになります。
次に「事例」について考えてみましょう。先述した通り、「事例」とは「他者を通じた経験」のことですから、「経験」にまつわる難点は全て「事例」にも当てはまります。
それはすなわち「新しい領域の意思決定には適用できない」ということですが、仮に適用できたとしてもそれで問題が解決するわけではありません。先行した成功事例は常に他者の模倣するところとなりますから、事例に倣って意思決定をしているかぎり、必ず「他者と同じ結論になりがち」で「差別化が難しい」という問題が発生します。
最後に、予測についての問題は言うまでもありません。「当たらない」ということです。これはすでに拙著「ニュータイプの時代」にも書いたことですが、予測というのは「手なりの未来とは違う未来がやってくる」「現状の延長線上にはない未来がやってくる」時にこそ必要になるわけですが「手なりの未来ではない未来」「現状の延長線上ではない未来」を予測するのは不可能で、そのような状況では予測は必ず外れます。つまり「一番必要な時に一番役に立たない」のが予測ということで、これもダメだということですね。
意思決定における最後の立脚点がリベラルアーツ
このようにして並べてみると、経営において意思決定の際に立脚される四つの柱、すなわち「経験」、「論理」、「事例」、「予測」というのは、すべて大きな環境変化が起きているときには非常にミスリーディングになるということがわかると思います。そして、まさに今という時代こそ「大きな環境変化が次々に起こっている時代」なわけですから、これら四つの「意思決定の立脚点」というのはむしろ経営を大きくミスリードする要因になっている可能性がある、ということです。
このような状況下でリーダーが頼ることのできる最後の砦、意思決定の最後の立脚点がリベラルアーツだ、ということになると私は思っています。リベラルアーツにはいろんな定義がありますけれども、私自身は、
領域横断的に蓄積された人間・組織・社会についての総合的な知識や洞察
と定義しています。過去の知識・経験・データが役に立たない環境下において、リベラルアーツが最後の「意思決定の立脚点」になるということです。
マネジメントサイエンスだけでは足りない
次に別の側面から考えてみましょう
上図は、経営リーダーの役割別にマネジメントサイエンスとリベラルアーツがそれぞれどのような知的貢献を果たしているのかを説明しているものです。
マネジメントサイエンスはわかりやすいですね。ビジネススクールで習う個別の科目のそれぞれが、左側に並んでいる経営リーダーの活動を支えています。しかし、これだけでは、複雑かつ難易度の高い問題について考察することは難しいだろうと思います。そこで必要になってくるのが右側に並んでいるリベラルアーツの知識ですね。本当は全部説明できればいいのですが、ここでは一つだけ取り上げて具体例を出してみましょう。
取り上げるのは「組織・制度を整える」のステップにおける「宗教」の貢献です。「組織・制度を整える」ということを考えれば、マネジメントサイエンスの項目でいえば「組織行動論」や「人事・組織論」が該当することになります。しかし、ではこれだけで今日の複雑な組織のマネジメントができるかというとこれはなかなか難しい。
ビジネススクールでは基本的な概念を教えてはくれますが、実際の企業組織は一回性や個別性が非常に高い・・・つまり「いま、ここ、この会社」だけの問題を扱わざるを得ないので、教科書に書かれているような「中央値の答え」では役に立たないのです。
そこで必要になるのが、リベラルアーツに裏打ちされた知識だということになるわけですが、ここでは例としてグローバル組織の構築・運営という問題について考えてみたいと思います。
確かに「グローバル組織の構築」についてはガルブレイスをはじめとした多くの論者がおり、彼らの書いた教科書を読めば基本的な作法はわかります。しかし、例えば「どうやって地理的な拡大と求心力の強化という、相反する二つのことを同時に推進できるか?」という、現在のビジネスパーソンを悩ませているような問題を考えてみると、そういった定番の教科書には通り一遍のことしか書かれていません。ちなみに手元の「グローバル経営」という教科書を見てみると、まさに「求心力の維持と地理的拡大のバランスが重要」と、木で鼻を括ったようなことしか書かれていない。
ということでリベラルアーツ側から考えてみましょう。ここで問題になっているのはグローバル化、グローバル組織の構築、ということですが、では歴史上、最もグローバル化に成功した組織はどこだったか?と考えてみる。
ローマ・カトリック教会は「最大のグローバル組織」
答えは色々と考えられると思いますが、まずは筆頭に挙げられるのはローマカトリック教会だと思います。ローマ・カトリックは現在、信徒が全世界で12億人いるとされています。
そしてエリアに関して言うと、ヨーロッパはおろかユーラシア大陸の全域、アフリカ大陸、アジア、北米・南米・・・つまり世界中の津々浦々に至って存在している。つまり人数の規模、あるいは地理的な広がりということを考えても、これ以上に大きなグローバル組織というのは歴史上存在しなかった、ということです。
人数・地理という軸にさらに時間軸を考えてみれば、ほとんど通信手段のなかった時代からずっとこれを続けているということにも気づきます。21世紀初頭を生きる私たちにはいろんな通信手段がありますから、世界中に散らばった人々を一つの組織として束ねるということは、それほど無理のある話ではないように思われるかもしれませんが、ローマ・カトリック教会が世界中へ宣教を進めたのは大航海時代以降の話、つまり15世紀以降の話です。つまり15世紀から19世紀までの四百年、通信手段がほとんどなかった時代においてずっと広がっていったわけです。
で、ここで何がポイントだったかというと、そのような通信手段のほとんどなかった時代において「現地化しなかった」ということです。
通信手段がほとんどない時代において、ある宗教がどんどん地理的に広がっていくと、必ず現地化する、現地のものに変容するということが起きます。もともとのオリジナルの宗教とはかなり違ったものになってしまうわけです。実際にそうなってしまった宗教はたくさんあって、例えばインドで発祥した仏教は、中国や東南アジアや日本へ伝わっていく過程で大きく変容していったわけですけれども、キリスト教、なかでもローマ・カトリック教会の場合にはそういったことがあまり起こらない・・・つまり、もともとの宗教の核になるコンセプトというのはちゃんと守られたわけです。
なぜ「潜伏キリシタン」は現地化しなかったのか?
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