逸脱者によるアップデートは可能か?

クリティカル・ビジネスを日本から生み出していく上での、最大の論点が

逸脱者によって多数派の規範がアップデートされる「開かれた社会」を築くことができるか?

だと思っています。

この点については、すでに拙著「クリティカル・ビジネス・パラダイム」で説明していますが、社会は多数派ではなく、むしろ少数派の主張によってこそ変革されていきます。

社会の支配的価値観や規範に対して逸脱者、少数派が反旗を翻すことで、安定した環境に揺さぶりがかけられ、システムは不安定な状態に置かれます。

少数派と多数派とのあいだに生まれる対立から次の安定状態が生まれ、社会は変遷していく。私がここで言っている「開かれた社会」とはそういう意味です。

もし既存の規範を全員が遵守し、誰も反抗しなければ社会は極めて安定的で秩序のあるものにはなるかもしれませんが、変化は起きず、歴史はそこで停止します。いつまでも同じ価値観が規範として強い権威を持つ社会では、犯罪は生まれないかもしれませんが創造もまた生まれません。

創造と犯罪は真逆の行為のように思えるかもしれませんが、それは社会による後付けの整理であり、両者には表裏一体の側面があります。犯罪の発生する率が最も高くなる年齢層は10代の後半ですが、これは創造性や問題解決能力の基礎となる流動性知能が最も亢進する時期でもあります。両者が一致しているのは偶然ではありません。

日本は現在の世界において「安全・快適・便利」という価値をもっとも高次元で実現した社会を築きましたが、その安定性の高さはまた「わずかな逸脱をも許容できない」という大きなコストを生み出しています。ここに日本が向き合わなければならない大きなパラドックスがあります。 

逸脱に不寛容な日本

逸脱が許容できない社会とはどのようなものなのでしょうか?社会学者のエミール・デュルケームは『社会学的方法の基準』において次のような趣旨の指摘をしています。

犯罪は不本意ではあるが、社会の健全さを証すバロメーターでもある。逸脱の程度を減らそうとする集団の意識が強くなればなるほど、逸脱に関する集団意識は敏感になり、気難しい社会となる。他の社会であれば大きな逸脱に対してしか現れないような激しい反発が、小さな逸脱に対してさえも起きる。

エミール・デュルケーム『社会学的方法の基準』

 デュルケームの言う通り、逸脱した個人を許容できない社会では、犯罪は抑止されることになりますが、創造もまた停滞することになります。少数派の逸脱者によって多数派の規範がアップデートされることで社会が変化するのであれば、私たちは逸脱者に対して寛容でなければならない、ということになります。

しかし、過去の事例を見る限り、日本では逸脱者に大きな社会的制裁が加えられることが少なくありません。

日本映画で初めてヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した黒澤明監督の「羅生門」は日本映画界から散々にこき下ろされ、太平洋をヨットで単独無寄港横断した堀江謙一は「ビザをとっていなかった」という理由で日本のマスコミから総攻撃を受けました。

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