「越境」のススメ
今日は「越境のススメ」というテーマです。
なぜ企業は無くならないのか?
ソヴィエト連邦の崩壊とそれに続く東欧社会主義諸国の瓦解によって、社会主義は事実上死滅したと一般には考えられています。しかし、日本や米国などのいわゆる「西側先進諸国」において、死滅したと考えられている社会主義が唯一生き残り、巨大な影響を私たちに与えている場所があります。どこだかわかりますか?
企業です。
企業の中で私たちは、仲間と仕事を分け合い、会議室やコピー機などの資産を共有し、稼いだお金を皆で共有して分配します。全く「社会主義のシステム」で企業は動いているのです。
1937年に書かれた画期的な経済論文「企業の本質」において、作者のロナルド・コースは極めて本質的な問いを発しています。その問いとはすなわち、市場がそれほどまでに素晴らしいものであるならば、なぜ、これほどまでに多くの経済活動が、市場ではなく、企業組織の中で、それも社会主義のような統制と管理によって取引されているのか、というものです。
市場が社会における適切なリソースの配分を実現してくれるのであれば、誰もがフリーランスとして働き、必要に応じてプロジェクトを組んで協働し、プロジェクトの終了後は解散するというやり方で良いはずなのに、なぜ多くの人は大規模で官僚的な組織に所属し、その中で経済活動を行なっているのだろうか、という疑問です。
確かに、現在では多くの働き手は企業組織に所属しており、フリーエージェントとして働く人は少数派です。コースの言葉を借りれば、もし市場シェアがなんらかの仕組みの成功度を測る指標となるのであれば、労働市場そのものが失敗しているということになりそうです。
もちろん、商法などの法律が整備されておらず、契約の履行が保証されないような社会であれば、労働市場がうまく機能せず、多くの人が官僚的な組織に所属して働くことになったとしてもおかしくはありません。
しかし、日本をはじめとして、多くの先進国では20世紀の半ばには法的な整備が進んでおり、このような要因が理由だと考えることはできません。
コースによるこの問いへの回答は、費用最小化の問題ということになります。当然のことながら、健全に機能している市場では、高コストの組織は競争で敗北することになります。
したがって、市場で生き残った「労働形態」である大きくて官僚的な企業組織は、コスト面から有利だったために自然淘汰されずに生き残った、というのがコースの考え方です。しかし、本来であれば市場は他のどんなシステムよりも効率的なはずです。
なぜ、自由な労働市場が、官僚的な大企業に効率面で劣るのでしょうか。コースによれば、市場にはいくつかの領域で非効率な点があります。
検索費用:市場で適切な価格水準を探り、取引相手を探す費用と時間
交渉費用:取引相手と交渉し、合意に至るまでの費用と時間
契約費用:取引相手との合意内容を確認し、有効な契約にするための費用と時間
監視費用:取引相手が契約を履行するかどうか、監視するための費用と時間
さて、コースが指摘した「労働市場の持つ非効率性」についての指摘を読んでみて、何か感じることはないでしょうか?そう、これらは全て「情報」に関わる問題であり、現在急速に普及しているデジタル技術と極めて相性の良い問題だということです。
経済活動に必然的に伴う取引に関する費用の合計を市場より小さくできたからこそ、企業は市場より優位に立つことができたわけですが、一連のデジタル技術はその関係を逆転させ、企業組織に対する労働市場の優位性を押し上げる可能性があります。
寡占化と分散化の二極化が進行
このような主張に対して違和感を覚える方もおられるかも知れません。というのも、各種の統計が報じるところでは、企業による寡占化の度合いはむしろ高まっており、いわゆる「大企業」の存在感は、むしろ強くなっているからです。
例えば経済誌エコノミストが米国の様々な産業から893社を調査したところ、上位4社のシェア(売上高ベース)の加重平均は、1997年の26%から、2012年の32%は増加しています[1]。
あるいは身近な例として、日本の携帯電話端末の販売シェアについては、2000年〜2005年にかけては概ね50%前後であった上位4社の合計シェアは、2018年の時点で80%前後まで上昇しており、明確な寡占化の傾向が見られます。
時間軸をさらに広げれば、同様の傾向は自動車、家電、金融、通信、流通などの業界でも観察されることから、「市場に対する企業の優位性」が低下しているという主張とは齟齬をきたします。
確かに、大企業による寡占化の進行という現象と、一つの企業組織に依存せず、複数の組織に関わりながら活躍する個人の台頭という筆者の指摘は、矛盾するように感じられるかも知れません。
しかし、そんなことはありません。大企業による寡占化と企業に依存しない個人の台頭というトレンドは、現在進行している二極化の双極と考えるべき現象です。
その証拠に、各種の統計は、企業に所属せずに働く人、いわゆるフリーエージェントが増加傾向にあることを示しています。例えば、厚生労働省が発表しているフリーランス白書によれば、現在日本には一千万人あまりのフリーエージェントが存在し、その数は増加傾向にあることが報告されています。
また米国はさらに進んでおり、現在5千万人あまりのフリーエージェントがおり、近い将来総労働力の半数がフリーエージェントになるだろうという予測もあります[2]。
つまり、大企業による寡占化というトレンドと、フリーエージェントに代表されるスモールプレイヤーの台頭というトレンドは、同時に起きていると考えるべきだということです。
さらに指摘すれば、そもそも「大企業による寡占化」というトレンドと、フリーエージェントという働き方の増加は矛盾していません。例えばアップル・グーグル・アマゾンなどの「支配的企業」が提供するプラットフォームによって、組織に所属しないフリーエージェントがなんらかのビジネスを成立させることができるようになったのであれば、これは巨大企業による寡占化とフリーエージェントの勃興が同時に起こったことになります。
たとえば本記事執筆時点である2024年現在、ユーチューバーは小学生が憧れる職業の上位ランキングの定番となりつつありますが、この職業もまたYouTubeという巨大プラットフォームゆえに成り立っているという側面があります。むしろ今後、大きな問題になるのは「大きいわけでもないし、かといって小さいわけでもない」という、どっちつかずの「中途半端に大きい」というポジションにある組織でしょう。
深くなる「V字の谷」
この問題を考えるにあたっては、いわゆる「利益率と規模のV字の谷」を考えてみるとわかりやすい。縦軸に利益率、横軸に売上高をとって企業をプロットすると、多くの業界において、V字の谷が現れることは、もともとよく知られています。
さて、このV字の谷という現象に、メガトレンドがどのように働くかを考えてみましょう。
もともと規模が大きくスケールメリットで戦っていた会社は、グローバル化の影響を受け、規模の大きい企業同士による最終戦争=ハルマゲドンを戦い、ごく少数の勝者と大量の敗残者に別れることになります。
スケールで戦うということは地理的な拡大を必然的に求めることになるので、この戦いから逃れることはできません。スケールで戦う企業にとってグローバル競争のハルマゲドンは避けられない宿命の戦いということになります。必然的な結果として、中途半端なスケールの企業は、この戦いの波に飲見込まれていくことになります。
一方の小規模プレイヤーはどうでしょうか?小規模プレイヤーについては、すでに考察した通り、スケール面でのデメリットが今後ますます小さくなることで、より広い範囲で深く共感できる顧客を見つけることができるようになるため、ますますフォーカスを絞って切っ先を尖らせながら、より広範囲の顧客を見つけることができるようになります。
この変化のプロセスで、強い共感を獲得できない「切っ先のあまい」中途半端なプレイヤーは、やはり同様に淘汰されていくことになります。
つまり、様々な業界においてもとより指摘されていたV字の谷は、グローバル化やテクノロジープラットフォームの進化によって、より深いV字へと変化していくことになると考えられるのです。
この現象を片側から見れば、スケールプレイヤーがますますスケールを巨大化することになるため、一面的には「寡占化の進行」と解釈されることになります。これが先述した、様々な業界で起きている上位寡占の理由です。
その一方で、ニッチプレイヤーはますます先鋭化して多様化していくことになり、市場は「巨大組織」と「フリーランスを中心としたプロジェクト的な組織」の二極によって形成されることになります。
両方に足をかけるのがニュータイプ
20世紀半ばから現代までの何十年ものあいだ、日本の経済社会を象徴していたのは「一つの組織に所属し、組織のために粉骨砕身して働く人=オーガニゼーションマン」でした。
「オーガニゼーションマン」とはもともと、フォーチュン誌の編集者だったウィリアム・ホワイトが、彼の著書「組織の中の人間 オーガニゼーションマン」(1956年)のなかで初めて用いた言葉です。ホワイトのオーガニゼーションマンは、ある意味で「多様性」の対極にあります。
それはスーツを着た男性を意味し、所属している組織は安定した収入と雇用を保証し、個人はその代償として生涯にわたる忠誠と勤労を約束しました。この本は当時、多くの予想を裏切って大ベストセラーとなり、数十年たったいまでも組織論を学ぶ人にとって定番書籍となっています。
ホワイトの指摘でユニークなのは、このオーガニゼーションマンの思考様式が、当時の人々にとって一種の倫理になっていたという点です。ホワイトによれば、オーガニゼーションマンは、個人主義や強欲を嫌い、高望みせず、そこそこの給料とまずまずの年金を糧にして、自分と限りなく似た人たちと地域コミュニティをつくって生きていくということに一種の信仰に近い価値感覚を持っていたようです。
これがもし一種の信仰だとすれば、その教義は「組織への献身の代わりに、組織は安定を与える」ということになるわけですが、しかし皆さんもご存知の通り、この関係はまず組織の側から裏切られることになります。90年代以降、それまで忠誠を誓ってきた従業員を、多くの企業がリストラという名のもとに解雇し、オーガニゼーションマンの信仰は終わることになります。この流れは不可逆で押しとどめることができません。
オーガニゼーションマンが信仰の拠り所とするのは大きな組織ですが、これらの「大組織」の多くは先述した通り、グローバル競争による最終戦争=ハルマゲドンに突入しつつあり、ごく少数の勝ち組を除いて、多くは市場から退出することを余儀なくされます。つまり、オーガニゼーションマンが生息できるサンクチュアリはおそらく近い将来、とても狭くなってしまうということです。
さて、このように指摘すれば、オーガニゼーションマンとして一つの企業にこだわり、最終戦争を勝ち抜くために頑張り続けるのがオールドタイプであり、フリーランスとして自由にやりたいことをやっていくのがニュータイプなのだ、と筆者が主張していると思われるかもしれません。
しかし、それは異なります。これら二つの働き方にはそれぞれ一長一短がありますし、リスク許容度は個人によって大きな差がありますから、どちらが良い生き方なのかを短兵急に決めることはなかなかできません。
家族も持たず、固定費の少ない生活を送っているという人と、育ち盛りの子供と重い住宅ローンを抱えているという人とでは、取れるリスクの大きさが全く異なります。ということで、ここでは「オーガニゼーションマンとして組織と心中する」という生き方と「フリーエージェントとして完全に一人になって頑張る」という生き方の「どちらが良いか」という論点ではなく、むしろ「両方のいいとこ取りはできないか」という論点を考えてみましょう。
キャリアのバーベル戦略
これは「ブラックスワン」や「反脆弱性」といった世界的ベストセラーの著者、ナシーム・タレブが命名するところの「バーベル戦略」です。
ここから先は
Amazonギフトカード5,000円分が当たる
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?