ルールと美意識

ニュータイプ:自らの道徳観・世界観に従って判断し、行動する
オールドタイプ:決められたルールに従って判断し、行動する 

現代において、トランスサイエンスのような定義、つまり科学万能主義に対するオルタナティブを見つける必要性が、60年代よりも強まっていると思います。科学でなければ、何が答えを準備してくれるかを明言することは難しいですが、その答えのひとつとしてあるのは「倫理」でしょう。人間が何をすべきか、何をなすべきでないかの線引きは、科学では用意できません。

村上陽一郎[1]

私たちは一般に「決められたルールに従う」ということを無条件に良いことだと考え、何かを判断しなければならないというとき、まずルールを確認し、確認したルールに立脚して判断しようとします。

このような行動規範は当然のことで特に批判されるべきものではありませんが、一方で、これがあまりに強く働きすぎると、逆の命題が肯定されるという副作用を生み出すことになります。

それはつまり「立脚点になるようなルールが存在しないのであれば、何をやってもいいのだ」という考え方です。しかし、このような考え方は今日、典型的なオールドタイプの思考様式になりつつあり、破滅的な結果を当事者にも社会にももたらすことになりかねません。

なぜ、これまで規範として有効に機能した「ルールさえ守っていればいい」という考え方が破滅的な結果を招くことになるのでしょうか。理由は、様々な社会やテクノロジーやビジネスモデルの変化に対して、ルールの制定が追いついていないから、ということになります。

技術の進化にルールの制定が追いつかない時代

こうやって書けば「ああ、なるほどね」と読み流してしまう内容ですが、これはトンデモない時代がやってきたということなんです。

というのも、現在の社会で大きく変化しているもの、たとえば遺伝子操作や人工知能の活用といった領域こそ、扱い方を一歩間違えれば私たちの社会に途轍もないネガティブインパクトをもたらす可能性があるからです。

進歩が早いということはまた、ルールや倫理基準の設定が後追いそして、そういう領域ほどルールが未整備なのです。扱い方を一歩間違えれば破壊的なネガティブインパクトをもたらす科学やテクノロジーほど、それを扱うためのルールが未整備だというのが現在の世界なのです。これは一種のパラドックスです。

このような世界においては、制定されたルールのみに頼らず、道徳や倫理といった内在的な規範に基づいてモノゴトを判断していく必要があります。

この点については、すでに前著「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか」で詳しく取り上げましたが、ここではおさらいを兼ねて経緯を確認しておきましょう。題材になるのは一連のネット系ベンチャーによる不祥事です。

なお、ここでは考察の具体性という問題から、個別企業としてDeNAを取り上げますが、筆者個人にはDeNAを批判あるいは揶揄する意図は全くありません。

むしろ、このような形で批判がましく取り上げるのは忸怩たる思いがありますが、不確実性の時代における意思決定の難しさを示すわかりやすい事例として用いさせてもらいます。

日本のネットベンチャーはなぜ度々不祥事を起こすのか?

さて、改めて確認しておけば、DeNAは、ここ数年のあいだに、結果的に業績の大幅な低下を招く不祥事を、大きく二つ起こしています。

一つは、2012年に発生した、いわゆる「コンプガチャ問題」です。

コンプガチャというのはゲームにおける課金の仕組みです。カプセルトイ=いわゆる「ガチャガチャ」のようにランダムに入手できるアイテムのうち、特定の複数アイテムをすべて揃える(=コンプリートする)ことで稀少なアイテムを入手できるという仕組みを大まかに総称してこのように呼びます。

ちなみに、このコンプガチャという「ボロ儲けの仕組み」は、DeNAだけでなく、グリーやサイバーエージェントなどの新興ネットベンチャーの多くに採用されていました。

さて、このコンプガチャですが、一時的には極めて収益性の高い事業になったものの、やがて希少なアイテムを手に入れるために高額の費用をゲームに注ぎ込んで破綻する若者が続出して社会問題となり、最終的には消費者庁から「景品表示法違反の疑いがある」と指摘され、全ての企業がサービスを停止することになりました。

二つ目が、2016年に発生したキュレーションメディアの問題です。DeNA社が運営していたWELQをはじめとした複数の媒体において、誤情報の記載や著作権をクリアしていない他媒体の記事の無断転用といったことが横行し、社会問題となりました。特に問題になったのは、WELQが医療情報を提供するウェブサイトだったことです。

言うまでもなく医療情報は人の生命に関わるものであり、その信頼性には十全の配慮が求められます。ところが、DeNA社は同メディアの閲覧に関して「提供情報については、その真偽や正確性について、当社は責任を負わない」と、明確に責任を回避していました。

ちなみに「コンプガチャ」の時と同様、同じようにキュレーションメディアの事業を展開していたリクルートやサイバーエージェントも、特に医療関連の情報については削除の上、サービスを停止しています。

さて、ここまで、DeNA社を典型事例として取り上げながら、「コンプガチャ」と「キュレーションメディア」が巻き起こした社会問題について、おさらいしてきました。

ここで読者のみなさんと一緒に考えたいのは、なぜDeNAやサイバーエージェントといった新興ネットベンチャーは、こういった問題を繰り返して起こすのか?という問題です。

DeNAが巻き起こしたような社会的問題が、個社の、それも単発的な事件であれば、もちろんその理由は個社、あるいは場合によっては固有の部門や個人に帰せられるわけですが、ことがこれほど継続的かつ広範囲に及ぶのであれば、これを個社の問題として整理することは難しく、日本のネットベンチャーを取り巻く社会的、文化的な要因として、このような事件を継続的かつ必然的に起こさせるような構造的要因が働いていると考える方が妥当でしょう。

ここで、DeNAをはじめとしたネットベンチャーが、コンプガチャやキュレーションメディアといった社会問題を発生させる経緯について確認してみましょう。多くの方が感じられたことだと思いますが、この二つの事件は、事業内容が全く異なるにも関わらず、事件に至る経緯は基本的に同じで、整理すれば次のようになります。

  1. まず、シロ=合法とクロ=違法のあいだに横たわるグレーゾーンで荒稼ぎするビジネスモデルを考案する。

  2. そのうち、最初は限りなくシロに近い領域だったのが、利益を追求するうちに限りなくクロに近い領域へドリフトしていく。

  3. やがて、モラル上の問題をマスコミや社会から指摘されると、「叱られたので止めます」と謝罪して事業の修正・更生を図る。

ここでポイントになるのが、事業を始めるときは経済性、止めるときは社会的圧力がきっかけになっており、始めるにしても、止めるにしても、そこに内発的な規範が関わっていない、ということです。

特に事業開始の意思決定にあたっては、「法律で禁止されていない以上、別に問題はないだろう」というのが、彼らの判断基準になっています。

2004年、堀江貴文氏に率いられていた旧ライブドアが、時間外取引によりニッポン放送の株式を大量に取得して世間を騒がせましたが、これも「脱法的ではあるが、違法ではない」という金融庁幹部の木で鼻を括ったようなコメントに象徴されるように、法律が未整備な領域=グレーゾーンを活用したものでした。

実定法主義と自然法主義

さて、明文化されたルールだけを根拠として、判断の正当性そのものの考察には踏み込まない、その判断が「真・善・美」に則るものであるかどうかは問わないという考え方は、法学でいう実定法主義に該当します。

当然のことながら、実定法主義のもとでは、「法そのもの」の是非は問われません。つまり実定法主義というのは「悪法もまた法である」という考え方です。

一方、このような考え方に対して、自然や人間の本性に合致するかどうか、その決定が「真・善・美」に則るものであるかどうかを重んじる法哲学を自然法主義と呼びます。実定法主義とは異なり、自然法主義のもとでは、法そのものの是非が批判的検討の対象となります。

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