#034 言葉がダメになると組織がダメになる

これまでずっと「組織における空気」について考察を重ねてきて色々なことを考えさせられたのですが、実は非常に大事なのに、あまり意識されていないことの一つに「空気と言葉」という問題があります。

というのも、言葉の使い方によって空気が大きく変わるからです。

例えばわかりやすい例が旧日本軍です。第二次世界大戦当時の作戦要領を見返すと、用いている言葉の抽象度の高さ、不可解さ、独特さに度肝を抜かれます。

本来であれば氷のように冷徹な合理性が求められる個々の作戦の要旨を読むと「戦機まさに熟せり」、「決死任務を遂行し、聖旨に添うべし」、「天佑神助あり」、「神明の加護のもと」、「能否を超越し国運を賭して断行」といった意味不明の空文虚字が行間狭しと踊り狂っています。

こういった空威張りの様な掛け声が当時の日本軍の中に冒すべからざる空気、つまりネガティブなこと、ホントのことを言ってはいけない、という雰囲気を作りだしていたことが容易に想像されます。

日本海海戦の海軍参謀だった秋山真之は、参謀本部への打電において「本日天気晴朗なれども波高し」との蛇足を着けて逆に名声を高めましたが、作戦上の報告文としては殆ど意味不明といっていいこの打電を、これまた大変な美文であると評価して喜んでしまうというところが、やはり日本人なのかも知れません。

いずれにせよ、これらの抽象的で極めて曖昧な言葉にもとづく「宣誓(の様なもの?)」が戦略策定の段階でやりとりされていたということは、日本軍という組織の中に論理的に厳密な議論を積み重ねて意思決定を行うという風土が殆どなかったということを示唆しています。

なぜなら「言葉」とは「論理」だからです。

評論家の山本七平は著書「下級将校が見た帝国陸軍」の中で、日本軍の最大の失敗を「兵士から言葉を奪ったこと」であると指摘しています。言葉を奪われた人間は思考することが出来ません。

古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスは、世界を構成する基本原理をロゴスと名付けました。新約聖書ヨハネ福音書の冒頭は「初めに言があった。言は神と共にあった。」という文章から始まっていますが、この「言」(=ことば)はオリジナルテキストのギリシア語ではロゴスとなっています。ちなみに、よく勘違いされていますが新約聖書のオリジナルテキストはヘブライ語ではなくギリシア語で書かれています。

そう、もうお気づきでしょう、このロゴスとは今日の我々が使う「ロジック」のことです。言葉を奪われた人間は論理的に思考することを放棄し、ただひたすら「空気」に流されて漂流することに成ります。

これを逆に言えば、言葉をかえることで組織の空気も大きく変えられる可能性がある、ということです。例えば戦艦大和の沖縄特攻では「一億総玉砕」や「魁」という、極めて不可解で抽象的な言葉が、作戦の合理性に納得しない長官に腹をくくらせる「決め手の一言」となってしまいました。

玉砕とはもともと、第二次大戦末期において大本営が、本来は「全滅」と発表すべきところを、あまりにも表現が「そのまま過ぎる」ということでこれを美化するために使われ始めた言葉です。しかし、実態としては初めて公式発表に使われたアッツ島のケースを始めとして、殆どが戦略的効果を期待出来ない無為な突撃とその結果としての全滅を意味していましたから、有り体に言えば「犬死に」と言っていいでしょう。

従って、もし言葉を変えると

参謀:「一億玉砕の魁となってほしいのだ」
長官:「何をか言わんや。よく了解した」

となった会話も、

参謀:「一番最初に犬死にしてほしいんだよね」
長官:「イヤだよ、ふざけんな」

となっていたかも知れません。

冗談に思えるかもしれませんが、この「言い換え」というは非常に重要な知的生産のテクニックで、コンサルタントとして活躍している人はよく、クライアントに対して「それを別の言葉で言い換えてください」とか「それは○○という言葉と同じという理解で良いですか?」といった質問をします。これはつまり、やんわりと「皆さんが使われている言葉は定義がふわふわしていてヤバイですよ。ここで認識のずれを修正するために定義を明確化させましょう」ということを言っているわけです。

厳密な言葉を丁寧に使って議論を積み重ねることではじめて、我々は組織における「空気」の蔓延を防ぐことが出来るのだということをゆめゆめ忘れてはならない、ということですね。

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