安易に「わかった」と思うことの危険性
いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある[1]。
新しい「わからない方」
私たちは日常的に「わかった」とか「わからない」といった言葉を用いますが、では「わかる」とはどういうことでしょうか?
この質問はとてもシンプルですが、皆さんならどう答えますか?
一橋大学の学長も務めた歴史家の阿部謹也は、同じく歴史家だった上原専禄のゼミに参加していた際に、ゼミ生の発表を聴いた上原が、しばしば
それで、何がわかったんですか?
という質問をするのを聞いていて、だんだん「わかる」ということがわからなくなってきます。
この上原の質問は、考えてみれば不思議ですよね。ゼミ生はもちろん「わかったこと」を発表します。
それは例えば、中世ドイツの人はこんな朝食を食べていたとか、中世ドイツのある街ではこういう権力構成になっていたとか、そういったことですが、それを聞いた上で、上原専禄は先の質問を出しているのです。
結局、「わかる」ということがよくわからなくなった阿部謹也は、率直に指導教官である上原に「わかるということはどういうことでしょうか?」という質問をします。
この質問に対して、上原専禄は
わかるということは、それによって自分が変わるということでしょうね
と答えたそうです。
これは、阿部謹也の・・・・おそらくは「歴史家の自画像」という本の中で紹介されていたエピソードだと思いますが、僕にとっては非常に大きな・・・それこそ、この言葉によって自分が変わってしまうような言葉だったのです。
私たちは「わかる」ということを日々求めているわけですが、上原専禄によれば「わかる」というのはそう容易いことではないのです。むしろ、「わかる」ことを拙速を求めることは、安易に「わかったつもり」になることにもなりかねず、危険が大きいと言えるでしょう。
複雑化する世界における「わからなさ」の重要性
世界がどんどん曖昧で複雑で予測不可能になることで、私たちの「わかる」という感覚もまた大きく揺さぶられています。私たちは過去の経験に基づいて形成されたパターン認識能力によって目の前の現実を整理し、理解しようとします。
しかし、ますます「VUCA化していく社会」において、短兵急にモノゴトを単純化して理解しようとすれば、すでに変化してしまった現実に対して、過去に形成されたパターンを当てはめて、本来は「わからない」はずの問題を、さも「わかった」ように感じてしまい、現実に対して的外れな対応をしてしまう可能性があります。
特に現在では、モノゴトを手っ取り早く単純化し、要領よく対処するような行動様式が「有能さ」と勘違いされている風潮が強いので、いわゆる「デキる」とされる人であればあるほど、このようなミスを犯すことになります。
これは典型的なオールドタイプの行動様式と言えます。なぜオールドタイプが、すぐに「わかった」と言いたがるかというと、そうすることによって評価されるということを経験的に知っているからです。
前述した通り、現在の社会では「飲み込みが早い」とか「物分かりがいい」といったことを無批判に礼賛する傾向があり、オールドタイプはまさにこの傾向を一種のバイアスとして利用しているわけです。
すぐに「わかった」と言いたがる人々
特にこういうタイプがたくさん生息しているのが、筆者が長らく関わってきたコンサルティングの世界です。
この業界の人々には特有の口癖がいくつかありますが、なかでも「要するに○○ってことでしょ」という口癖はその筆頭といえるものです。
コンサルタントは、物事を一般化してパターン認識することで「かしこいね」と褒められるのが大好きな人種ですから、人の話を聞いて、最後にこのように「まとめたい欲」を抑えることができません。
しかし、相手の話の要点を抽出し、一般化してまとめようというオールドタイプの行動様式は、現在のように環境変化の早い状況では、二つの観点で問題があります。
まず、対話という場面において、話し手が一生懸命にいろいろな説明を交えて説明したのちに、最後に相手から単純化されて「要は○○ってことでしょ」と言われれば、たとえそれが要領は得たものであったとしても、何か消化不良のような、あるいは何か大事なものがこぼれ落ちてしまったように感じるものです。
私たちが日常的に用いている「言語」はとても目の粗いコミュニケーションツールです。したがって、私たちは、自分の知っていることを100%言語化して他者に伝えることが原理的にできません。
全てを言葉にすることはできない
つまり「言葉」によるコミュニケーションでは、つねに「大事ななにか」がダラダラとこぼれ落ちている可能性がある、ということです。
20世紀に活躍したハンガリー出身の物理学者・社会学者であるマイケル・ポランニー[3]は「我々は、自分が語れること以上にずっと多くのことを知っている」と言い表していますね。
今日では、この「語れること以上の知識」を私たちは「暗黙知」という概念で日常的に用いていますが、言葉によるコミュニケーションではつねに、この「こぼれ落ち」が発生していることを忘れてはなりません。
さて、話を元に戻せば、この「要するに〇〇ってことでしょ」という聞き方には当の聞き手にとっても問題があります。なぜなら、過去に形成されたパターンに当てはめて短兵急に理解したつもりになってしまうことで、新たなものの見方を獲得したり、世界観を拡大したりする機会を制限してしまうことになるからです。
上原専禄の言葉を借りれば、まさに「自分が変わる機会」を機会費用として払ってしまうことになる、ということです。
変化の激しい今日のような時代にあって、このような行動様式は学習を阻害するものであり、まさにオールドタイプのパラダイムと断じるしかありません。
自分のメンタルモデルから自由になる
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