なぜ「イノベーションの方法論」は常に不毛なのか
イノベーション停滞の真因は「問題の希少化」
私はいろんなところで「問題の希少化」と「構想力の衰退」が起きている、と指摘してきましたが、この問題こそ「イノベーションの停滞」という状況を生み出している核心的な理由だと思います。
昨今、日本企業の多くがイノベーションを筆頭の経営課題に掲げ、様々な取り組みを行っています。
しかし、いろんなところで指摘している通り、筆者はそれらの取り組みのほとんどが茶番だと思っています。なぜかというと、それらの取り組みにおいて解決したい課題=アジェンダが設定されていないからです。
当事者に対して「課題は何ですか?」と尋ねると「まさにイノベーションの実現が課題だ」と言われることが多いのですが、これはイノベーションを本質的に誤解しているオールドタイプの典型的な回答です。
イノベーションは課題にはなり得ません。なぜなら課題を解決するための手段がイノベーションだからです。手段であるイノベーションを目的にして設定すれば、その上で行われる営みは本番たり得ず、したがって茶番というしかありません。
イノベーションという手段が目的にすり替わってしまっているというのは今日のビジネスを取り巻く不毛と混乱を象徴しています。
本来、ビジネスもまた何らかの豊かさを生み出す、あるいはなんらかの社会的問題を解決するための「手段」でしかなかったはずです。その対価として報酬が支払われていたわけですが、今日、本義として有していたはずの「企業が生み出す豊かさ」や「企業が解決する問題」はビジネスの文脈から抜けて落ちてしまい、多くの企業が「売上」や「収益」などによって計測される「生産性」だけを目的にして活動し、そこに関わる人のモチベーションを粉砕しています。本来的な目的や意義を失ったままに生産性のみを目的にして駆動するのは典型的なオールドタイプのパラダイムです。
筆者は前著「世界で最もイノベーティブな組織の作り方」を著した際に、いわゆるイノベーターとして高く評価されている世界中の人々にインタビューを行いましたが、これらのインタビューを通じてわかったのは「そもそもイノベーションを起こそうとしてイノベーションを起こした人はいない」という喜劇的な事実でした。
彼らは決してイノベーションを起こそうとして仕事をしたわけではありませんでした。常に「こういう問題が解決できたら素晴らしい」「こういうことが可能になったら痛快だ」という具体的な「解決したい問題」が明確にあり、それを解決するための手段がたまたま画期的なものであったために、周囲から「イノベーション」と賞賛されているだけで、元から「イノベーションそのもの」を目指していたわけではないのです。
一方で、世間の流行に振り回された挙句、手段にしか過ぎなかった「イノベーション」を目的と勘違いして追求しているのがオールドタイプということになります。
しかしなぜ、オールドタイプは手段にしかすぎないイノベーションを追求するのでしょうか?理由は非常にシンプルで、そうすることで「イノベーター」という称号と尊敬が得られるからです。世の中に存在する課題を解決することを目指した結果、たまたまイノベーションを起こしてしまった「本物のイノベーター」が、「世の中の課題を解決すること」を目標にして仕事に取り組んでいるのに対して、手段に過ぎないイノベーションを最初から目指す「偽物のイノベーター」は、「自分の価値を高めること」を目標にして仕事に取り組んでいる、ということです。両者では「価値創出」の方向が真逆なんですね。
「イノベーションの方法論」はなぜ常に不毛なのか
クレイトン・クリステンセンの「イノベーションのジレンマ」が世界的なベストセラーとなったのは2000年代の初頭です。以来、多くの研究者や実務家によって「イノベーションを実現させるための方法論」が研究・開発されてきました。
スタンフォード大学に端を発する、いわゆる「デザイン思考」はその典型と言えるモノですが、今日では少なくない数のデザインファームやコンサルティング会社やビジネススクールが、同様に「イノベーションを実現するための方法論を開発した」と豪語し、多くのカンファレンスやセミナーを実施しています。
しかし、そのような状況が二十年も続いているにも関わらず、日本企業から世界を席巻するようなイノベーションが生まれたとはついぞ耳にすることがありません。これはいったい、どういうことなのでしょうか?
各社から喧伝されている「イノベーションの方法論」がなぜ、かくも不毛な成果しか生み出せないのか?前節で指摘した「問題の希少化」という点に加えて、ここで是非とも考察しておきたいのが「そもそもイノベーションは目的なのか、方法なのか」という論点です。
イノベーションの定義は極めて混乱した状況にあり、率直に言って明確な定義は存在しないと言って構わないと思いますが、多くの経営学者や実務家による定義の最大公約数となる要件を抽出すれば「方法論としての革新性」と「生み出した価値の大きさ」という二点に収斂することになります。
これら二つの要件を、野球のスタジアムの左右両翼に当てはめて考えてみると、イノベーションというのは、ビジネスというフィールドにおける「バックスクリーン直撃のホームラン」だということがわかります。
方法論がどんなに革新的であっても、生み出した経済価値が小さい取り組みには「イノベーション」の称号は与えられません。
逆に、生み出した経済価値がいくら大きくても、方法論としての革新性がなければ、やはり「イノベーションの称号」は与えられることがありません。イノベーションとして結果的に「認識」されるかどうかは、この二つの要件が揃わなければならないわけですが、ここには二つの問題があります。
一つ目の問題は、両翼の一つである「経済価値の大きさ」が、事前に確定的に予知できない、極めて不確実性の高い要件だということです。
もちろん、事業を手がける以上は誰であれ、大きく育って欲しいと考えるものですが、実際のところ、事業が生み出す経済価値の大きさは景気や競争状況などの外部要因によって影響される要素が大きく、事前に確定的に予測することはできません。
つまり制御不可能な要因であり、いくら精緻な方法論を構築したとしても原理的にコントロールできないのです。
一方で、過去のイノベーションを振り返ってみれば、多くの場合、スケールは「結果的」に獲得されたにすぎず、最初から確実に見込まれていたことはほとんどありません。
例えばソニーのウォークマンについては「未曾有の商品で販売数量が見込めない」という理由で営業本部長が最後まで頑なに製品化に反対していたことがよく知られています。
あるいは1987年に創業した米国の製薬会社、ギリアド・サイエンシズは今日、売上高で世界トップ10に入る巨大製薬会社となっていますが、彼らはもともと、誰もが「儲かるわけがない」と言って手をつけようとしなかった抗ウィルス剤にフォーカスを絞ったことで大成功しています[3]。
これがパラドックスになっていることがわかるでしょうか?イノベーションの要件に「経済価値の大きさ」が盛り込まれているのであれば、スケールの見通しが不透明なプロジェクトは忌避されることになります。
しかし、イノベーションという営みには宿命的に高度の不確実性が伴うので、スケールを要件にしてしまうと「大化け」する可能性のあるアイデアを捨ててしまうことになります。
二つ目の問題は、両翼の一つである「方法論としての革新性」が、そもそもの定義からして「手法」に関する評価指標であり、これを目的にすること自体が本末転倒だということです。
これは「私たちはなぜ働くのか」という根源的な問いにも関わる問題です。私たちが事業を行って社会に働きかけるのは、何らかの本質的な豊かさを生み出したい、あるいは社会的な課題を解決したいと考えているからです。
それらの目的が達成されるのであれば、方法論が革新的かどうかはさしたる問題にはなりません。極論すれば。もしその目的が実現するのであれば、方法は別に魔法でも忍術でも構わないわけです[4]。
ところが「イノベーション」という定義には、方法論に関する要件が含まれてしまっています。これはつまり「イノベーション」という手段を目的に設定してしまうと、手法についても縛りが生まれてしまうということを意味します。
これがなぜ問題になるかというと「方法論の選択肢」を狭めることになるからです。経営において「オプションの自由度」は死活的に重要な問題となります。
だからこそファイナンス理論では「オプションの自由度」には経済的な価値、いわゆるオプションバリューがあると考える。しかし「イノベーションの方法論」は、その語義からして価値提供のための方法論に縛りを与えることになってしまいます。これが二つ目の問題です。
つまり、イノベーションというのは「結果として形成される認識」であって、初めからそこを目指して頑張るようなものではない、ということです。先述した野球のアナロジーで考えてみれば、バッターが打席に入った際に狙うのは、まず何よりも「ヒットを打って塁に出る」ということ、数学的な表現を借りれば「得点の期待値を上げる」ということでしかありません。
もちろんヒットの数が増えれば、ヒットの数と相関して場外ホームランの数も増えるわけですが、最初からそこを狙ってバッターボックスに入っているようでは、まともなヒットすら打てるはずがありません。
オープンイノベーションはなぜうまくいかないのか
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