なぜリーダーにリベラルアーツが求めらるのか?
私は『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』において、オールドタイプが依拠するサイエンス偏重のマネジメントが、モラルの低下や差別性の喪失といったさまざまな問題を生み出す元凶となっていることを指摘し、これから活躍するニュータイプは美意識や直感といったアート的な側面を重視すると指摘しました。
幸いなことに、この指摘に対しては特に経営者を中心とした方々から大きな反響をいただき、「経営におけるサイエンスとアートのリバランス」という問題はさまざまな場所で議論されるテーマとなりました。
今日に至るサイエンス偏重のきっかけとなったのが、2008年にウォール・ストリート・ジャーナルが報じたペイスケール社による国際的な報酬調査の結果でした(*2)。
この記事では、いわゆるSTEM(Science =科学、Technology =技術、Engineering =工学、Mathematics =数学)として括られる理数系学位を得た学生は、総じて給与水準の高い職に恵まれていることがわかった、と報じています。
たとえば新卒入社の「給与中央値」で見ると、トップはマサチューセッツ工科大学(MIT)とカリフォルニア工科大学の2校で、報酬の中央値は7万2000ドルでした。ちなみにこの2校は、中途採用時の初任給中央値でもそれぞれ3位と6位にランクインしています。
この記事がきっかけとなり、さらには近年の人工知能やらビッグデータの騒動も重なったことで「これから食いっぱぐれないのはSTEMだ」という意見が強まったのがここ数年の風潮だったわけですが、さて、ここまでお読みになられた読者のなかには、最頻値も分散も参照せずに中央値だけを比較して「高い報酬を得たいのならSTEM」と結論づけるのはちょっと乱暴だなあ、と感じられた人もいるのではないでしょうか。
その通りで、実はペイスケール社のデータを違う論点から確認してみるとまったく異なる風景が浮かび上がってきます。たとえば、全米で中途採用された人のうち、中央値ではなく「最も高年収で採用された上位10%(同調査では30万ドル以上と設定)」の集団に絞れば、MITはやっと11位になって顔を出すに過ぎず、1位から10位までは教養系学部に強みを持つエール大学やダートマス大学といった学校が並んでいることに気づきます。
このような「学校別」のデータに加えて、専攻別についても同様の傾向が見られます。中途採用者の専攻別の給与ランキングの平均値では、確かに全般的にコンピューターサイエンスや化学工学が上位にランクされており、上位20科目にリベラルアーツ系の科目はなかなか見当たりません。
ところが、全米で最も成功している人物、つまり年収の上位10%に当たる人々の専攻科目を見てみると、政治学、哲学、演劇、歴史といったリベラルアーツ系科目が突出して目立つようになります。
以上をまとめると次のようなことが言えます。STEMの学位を得れば、就職時に「人並み以上」の収入を得ることができる公算は確かに強いと言えそうです。就職時、つまり組織でいうところの「スタッフ」として採用されるタイミングであれば、他の「スタッフ」よりも高い報酬を得られる可能性は高いということです。
一方で、突出した高収入者、つまり経営を取り仕切る、あるいは独自の知的・創作活動によって社会にインパクトを与えるような「リーダー」は、リベラルアーツ系の学位を持っている傾向が強いということです。
(注)
*1 トーマス・マン『魔の山』より
*2 http://online.wsj.com/public/resources/documents/info-Degrees_that_Pay_you_Back-sort.html
リーダーの役割は「問題を設定する」こと
ここで「問題の設定」と「問題の解消」という2つの役割を組織に当てはめて考えてみましょう。
すぐにわかることですが、組織の上層部になればなるほど、仕事の重心は「問題の設定」へと傾斜し、組織の下層部になればなるほど、その比重は「問題の解消」へと傾斜することになります。なぜなら、経営の課題=アジェンダを設定するのは経営者の仕事であり、経営者が定めたアジェンダを現実に解消していくのは中堅以下スタッフの仕事だからです。
さて、このように考えてみれば、組織の上層部に求められるリテラシーと、組織の下層部に求められるリテラシーにはどのような違いがあるかが理解できます。それはつまり「問題の設定」に大きな比重が置かれる「組織の上層部」にいる人々には、課題を設定するためのリテラシーとしてのリベラルアーツが求められることになる。
その一方で、「問題の解消」に大きな比重が置かれる「組織の下層部」にいる人々には、課題を解消するためのリテラシーとしてのサイエンスが求められる、ということです。
そして、そのような要請に応えて実際に人材が配置されているのであれば、先述したペイスケール社の統計の結果、すなわち「スタッフ層で相対的に高い報酬を得られているのはSTEM系学位の保有者だが、最も高給な人々(=組織や社会のリーダー層)にはリベラルアーツ系学位の保有者が多い」という結果が得られるのは当然だ、ということになります。
しかし、近年に至って、多くの企業では、必ずしもそのような役割分担が機能しなくなっているという実感があります。特にMBAに代表されるような「数値分析」を重視する傾向の強まったここ10年ほどのあいだ、この役割分担が逆転し、「未来を構想する」という最も重大な仕事をほっぽらかしにしたまま、経営者が「問題の解消」にかかりきりになっているというトンチンカンな茶番が多くの企業で演じられているように思います。
このような傾向は、つまるところ人文科学的素養の少ない無教養な経営者と、彼らの手足となって数値分析を回し車のハムスターのように行うMBA卒業生や統計リテラシーを持つ理数系出身者の相思相愛によって発生したものだと考えられます。
これまで受験勉強に代表されるような「正解探し」をずっと続けて出世してきたような経営者は自らの五感をフルに働かせて社会や未来を全体的に把握しようとする知的格闘を恐れ、目の前の事象を単純化したモデルとしてゲームのように捉え、抽象化された断片的なデータを用いて意思決定することで「経営しているような気になってしまう」傾向があります。
このような状態に陥ると本人の世界観は孤立し、社会や顧客や従業員との接点が失われてしまうため、問題や事象を捉えるために他者から与えられた単純な分析データに頼ろうとする傾向が強く現れます。
そこに待ってましたとばかりに現れるのが戦略系コンサルティングファームに代表されるサイエンス重視の人々です。彼らは、数値と分析によって世界は把握可能であると説き、データ分析の報告レポートと高額な請求書を孤立した経営者に対して提出します。
かくして、無教養な経営者とサイエンス重視の参謀スタッフによる「構想なき生産性の向上」への終わりなき行軍が組織に求められ、従業員のモラルとモチベーションを破壊し、コンプライアンス違反が頻発しているというのが現在の日本の大企業の状況です。
しかし、先述した通り「正解のコモディティ化」が進み、「役に立つ」市場における最終戦争が間近に控えている現在、サイエンスだけに頼って経営の舵取りをするオールドタイプのスタイルは完全に時代遅れになりつつあります。
武器としてのリベラルアーツ=目の前の枠組みを疑う技術
さてここまで、オールドタイプがサイエンスに依拠して「目に見える問題の解消」だけに関わろうとするのに対して、ニュータイプはリベラルアーツに軸足を置いて未来を構想する、ということを説明してきたわけですが、なかには「なぜリベラルアーツが未来を構想するのに役に立つのか」と訝しく思う方がいるかもしれません。
結論から言えば、リベラルアーツというのは、私たちが「当たり前だ」と感じていることを相対化し、問題を浮き上がらせるためにとても役に立つのです。
この問題を考えるにあたって、一つ読者の皆さんに質問をしましょう。それは「なぜ金利はプラスなのか?」という問いです。おそらく多くの人は「お金の借り手は、貸し手が失った機会分の費用を負担しなければならない」とお答えになるでしょう。確かに、現代を生きる私たちにとって「金利はプラスである」ということは常識となっています。
しかし、これは現代にしか通用しない常識です。たとえば、中世ヨーロッパや古代エジプトではマイナス金利の経済システムが採用されていた時期が長く続きました。マイナス金利の社会では現金を持っていることは損になり、なるべく早期に、できるだけ長く価値を生むことになるモノと交換するのがいい、ということになります。
では、最も長い期間にわたって価値を生み出し続けるものはなんでしょうか?
そう、宗教施設と公共インフラです。このような考え方のもとに推進されたのがナイル川の灌漑事業であり、中世ヨーロッパでの大聖堂の建築でした。
この投資が、前者は肥沃なナイル川一帯の耕作につながってエジプト文明の発展を支え、後者は世界中からの巡礼者を集めて欧州全体の経済活性化や道路インフラの整備につながっていったわけです。
私たちが当たり前の前提として置いている常識の数々は、実は常識でもなんでもない、「今、ここ」でしか通用しない局所的・局時的な習慣に過ぎないのだ、ということを忘れてはなりません。
リベラルアーツを、社会人として身につけるべき教養、といった薄っぺらいニュアンスで捉えている人がいますが、これはとてももったいないことです。リベラルアーツのリベラルとは自由という意味であり、アートとは技術のことです。したがってリベラルアーツとは「自由になるための技術」ということになります。
では、ここでいう「自由」とはなんのことでしょうか? もともとの語源は新約聖書のヨハネ福音書の8章31節にあるイエスの言葉、「真理はあなたを自由にする」から来ています。
「真理」とは読んで字の通り、「真の理(=ことわり)」です。時間を経ても、場所が変わっても変わらない、普遍的で永続的な理(=ことわり)が「真理」であり、それを知ることによって人々は、そのとき、その場所だけで支配的な物事を見る枠組みから自由になれる、と言っているのです。そのとき、その場所だけで支配的な物事を見る枠組み、それはたとえば「金利はプラスである」という思い込みです。
つまり、目の前の世界において常識として通用して誰もが疑問を感じることなく信じ切っている前提や枠組みを、一度引いた立場で相対化してみる、つまり「問う・疑う」ための技術がリベラルアーツの真髄ということになります。
しかし一方で、すべての「当たり前」について疑っていたら日常生活は成り立ちません。どうして信号は青がススメで赤がトマレなのか、どうしてサヨナラのときには頭ではなく手を振るのか……いちいちこんなことを考えていれば日常生活は破綻してしまうでしょう。ここに、よく言われる「常識を疑え」という陳腐なメッセージのアサハカさがあります。
つまり、常識を疑うのはとてもコストがかかる、ということです。一方で、目の前の常識について問い、疑うことをやめてしまえば未来を構想することはできません。
結論から言えば、このパラドックスを解くカギは一つしかありません。つまり、重要なのは、よく言われるような、のべつまくなしに「常識を疑う」という態度ではなく、「見送っていい常識」と「疑うべき常識」を見極める選球眼を持つ、ということです。そしてこの選球眼を与えてくれるのがまさにリベラルアーツということになります。
リベラルアーツというレンズを通して目の前の世界を眺めることで、世界を相対化し、普遍性がより低いところを浮き上がらせる。
スティーブ・ジョブズは、カリグラフィーの美しさを知っていたからこそ「なぜ、コンピューターフォントはこんなにも醜いのか?」という問いを持つことができました。あるいはチェ・ゲバラはプラトンが示す理想国家を知っていたからこそ「なぜキューバの状況はこれほどまでに悲惨なのか」という問いを持つことができました。
目の前の世界を「そういうものだから仕方がない」と受け止めてあきらめるのではなく、比較相対化する。そうすることで浮かび上がってくる「普遍性のなさ」にこそ疑うべき常識があり、リベラルアーツはそれを映し出すレンズとして最もシャープな解像度をもっているということです。
分断する社会で「領域横断の武器」となる
リベラルアーツはまた、専門領域の分断化が進む現代社会のなかで、それらの領域をつないで全体性を回復させるための武器ともなります。
テクノロジーはどうしても必然的に専門化を要請します。(中略)もし教養という概念を科学的知識のスペシャリゼーションというものと対立的に考えれば、勝負は見えていると思う。それは教養の側の敗北でしかない。しかし教養というものは、専門領域の間を動くときに、つまり境界をクロスオーバーするときに、自由で柔軟な運動、精神の運動を可能にします。専門化が進めば進むほど、専門の境界を越えて動くことのできる精神の能力が大事になってくる。その能力を与える唯一のものが、教養なのです。だからこそ科学的な知識と技術・教育が進めば進むほど、教養が必要になってくるわけです。
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