オプション・バリュー 「選択できる」ということの価値

オプション・バリューとは、ファイナンスの概念で「選択肢=オプションを持っていることの経済的価値」を意味します。企業経営の世界では、主に金融取引に関連して、株式などの金融資産を一定の価格で買う権利(=コールオプション)や、逆に売る権利(=プットオプション)がリスクヘッジのために取引されます。具体例を示して説明します。

たとえば、現在50ドルのA社の株式がこのあとで上がると考えるのであれば、まずはA社の株式を購入するということが考えられるわけですが、たまたま持ち合わせが10ドルしかないという場合、「将来、A社の株式を行使価格50ドルで買う権利」を、例えば5ドルで購入するというのがコールオプションになります。

コールオプションの購入後、実際に株価が上昇して、例えば70ドルになったとすると、この人は50ドルの借金をしてコール・オプションを行使し、A社の株式を50ドルで購入した後、すぐに株式市場で売却すれば20ドルの差益を得ることができます(オプションの購入に5ドルかけているので、トータルの差益は15ドル)。

この場合、想定通りにいかず、A社の株式が仮に下がったとしても、コール・オプションを放棄すれば良いだけですから、損失はオプションの購入費用=5ドルだけで済むことになります。このように、オプションを利用することで、株式がはらんでいる大きな変動性を飲み込んでリスクを小さくすることができるのです。

抽象的でわかりにくいと感じるかもしれませんが、私たちの日常生活にも、さまざまなオプション・バリューが存在しています。

たとえば不動産における「手付金」などは典型です。ある物件を気に入ったとして、その物件が他の人に買われてしまうと困るという時、私たちはまずは「手付金」を支払って、その物件を押さえます。

この時、いきなり物件の総額を支払うのではなく、幾ばくかのお金を支払うことで「購入する権利」を購入しているわけです。もちろんこの場合、仔細にその物件を検討した結果、いくつか気になる点が出てきたという時は、手付金を放棄することで物件を手放すこともできます。

なぜ、不動産の購入のときにオプションが活用されるのでしょうか?理由は大きく二つあります。

一つ目の理由は、不動産取引は金額が大きく、失敗した時のインパクトが非常に大きいからです。

二つ目の理由は、取引の意思決定について検討しなければならない点が多く、意思決定に時間がかかるからです。

この「時間」というのがポイントです。オプションバリューは、特定の行動を取るかどうかの決定を遅らせることで、将来的な情報を考慮に入れてより良い判断ができるようにするという考え方です。したがって、オプションの本質的な価値というのは「意思決定の時間を遅らせること」にある、ということもできるでしょう。

人生の意思決定にオプション・バリューの考え方を活かす

金融の世界におけるオプションの考え方を、企業経営におけるさまざまな意思決定に応用しようという考え方を総称して「リアル・オプション」と呼びます。今日、企業の意思決定には、大型のIT投資など、さまざまな領域でリアル・オプションが用いられています。

企業経営には高度の不確実性が伴うため、どのようなことが起きても、その状況に対して、方針転換や撤退等の複数のオプションが取れる、ということは死活的に重要なポイントとなります。

これを逆にいえば「オプションが減る」という打ち手は、それがたとえ、その時点で何らかの具体的な損失を意味しないとしても、想定外のことが起きた時に転身・停止・撤退のオプションが取れないことで、下手をすると命取りにつながる可能性があるため、常に悪手であるということを念頭においておくことが必要です。

別の言葉で言い換えるならば、不確実性の高い環境下において「拙速なコミットメント」は常に危険だということです。

この考え方を、現実世界における実践のお手本として示しているのがイギリスの外交の歴史です。

外交は、複数の国の政治的・経済的な思惑が相互に影響しあって動く典型的な複雑系のシステムであり、その振る舞いを予測することは非常に困難です。そしてまた、意思決定の誤りは即座に非常に大きなペナルティとなって国益を毀損することになります。したがって、ここにオプション的な考え方、つまり「意思決定の時間を確保するためにコストを支払う」という考え方が出てきます。

このアイデアを最も洗練させた形で実装し、外交の力で覇権を打ち立てたのが近代のイギリスでした。京都大学名誉教授の国際政治学者、中西輝政先生は、19世紀から20世紀前半にかけての「パックスブリタニカ(=英国支配による平和)」を可能にした外交手腕の基本原則を、次のように簡潔に表しています。

早く見つけ、遅く行動し、粘り強く主張し、潔く譲歩する

これは非常に面白い指摘だと思います。というのも、これらは「早く、遅く」と「粘り強く、潔く」という、二つの矛盾した行動の組み合わせで成り立っているからです。巧者というのは常に矛盾した二つの要素を破綻することなくうまく使い分けるものですが、イギリスの外交ポリシーもまたそのような一例だと考えることができるかもしれません。

さて、オプション・バリューという観点からこのポリシーについて考えてみると、特に前者の「早く見つけ、遅く行動し」がポイントになると思います。

これは何を言っているかというと「意思決定になるべく長い時間をかけて拙速なコミットメントを避けろ」という原則なのです。

国際政治のように高度に不確実な状況では、想定外のことも起こりうるわけですから、行動の遅れよりも拙速なコミットメントの方が危険は大きい。だからこそ、できるだけ早く情報を把握しておいて、拙速には動かずに慎重に状況を見極めて、ギリギリのところまで行動を遅らせよということを言っているわけです。ちなみに、この「早く見つけ」ということを実践するために生まれたのが、英国が世界に誇る諜報機関、MI6とその職員、ジェームズ・ボンドでした。 

あの有名起業家も「撤退オプション」を持っていた

拙速なコミットメントは命取りになる、という私の指摘について、もしかしたら「でも、成功した人はどこかでリスクを取ってコミットしているのではないか?」と思われた方もおられるかもしれません。

おそらくは、多分に「成功者はリスクをとる」というイメージが先行しているため、そのような疑問を抱かれるのだと思いますが、ここは注意が必要なポイントです。ある意味では統計の話と言えばそれまでなのですが、確かに成功者はリスクを取っていることが多いのですが、それ以上に、失敗者はそれ以上にリスクを取って失敗しているのです。

私たちは失敗者の伝記を読みません。読むのは成功者の伝記だけです。そこに「リスクを取って起業した」とあれば「なるほど、成功者はやはりリスクをとっている」と考えてしまうわけですが、これは統計学でいう「慌て者の誤り」の典型です

実際のところはむしろ逆で、成功者ほど、オプションバリューを保ちながら、リスクをコントロールして起業しているのに対して、失敗者ほど大胆にリスクを取ることがわかっています。

例えば、マイクロ・ソフトを起業したビル・ゲイツは、ハーバード大学在学中にマイクロソフトを起業し、そのまま事業を継続して世界一の大富豪になりました。これは非常に有名な話で、ともすれば「一流大学のハーバードに入ったのに、起業のために学歴を捨てるなんて、やっぱりリスクをとってコミットしているじゃないか」と思われるかもしれませんが、実は仔細に状況を調べてみると、話は変わってきます。

実はビル・ゲイツは、マイクロソフトの起業に当たって、ハーバード大学を「退学」したわけではなく「休学」しています。つまり、起業がうまくいかなかった場合は、すぐに大学に戻れる選択肢、つまりオプション・バリューを持っていたのです。

同様のことがGoogle創業者のセルゲイ・ブリントラリー・ペイジについても言えます。Googleの検索エンジンのアルゴリズムであるページ・ランクシステムが、彼ら二人の博士課程の研究プロジェクトから生まれたことはよく知られています。二人は、グーグルを創業する際に、やはりスタンフォード大学を退学するのではなく、休学し、事業がうまくいかなかった場合は、すぐに大学の研究生活に戻れるオプション・バリューを保持していました。

アップルの共同創業者のスティーブ・ウォズニアックも、アップルの創業時はまだヒューレット・パッカードのエンジニアであり、アップルの創業がうまく行かなければ、そのままヒューレットパッカードのエンジニアとして安定した生活を送るつもりでした。

彼らは、いわば本業を持ちながら、リスクをコントロールしながらサイドプロジェクトとして起業し、その起業が成功したことで、徐々に本業から足抜けしていったのです。

こういう時代は「臆病」は競争優位になる

一般的なイメージと違い、「臆病」というのは、実は非常に重要なコンピテンシーなのです。これは大規模な調査研究からも明らかにされています。例えば経営学者のジョセフ・ラフィーとジー・フェンは、5千人以上の起業家に対して 

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